53. 悪役令嬢の讃歌 8
ホレイシオは混乱していた。戸惑いを隠せないまま暫くプレイステッド卿の言葉を反芻する。プレイステッド卿は忍耐強く、ホレイシオが口を開くまで待っていた。
幼い頃から変わらない二人の姿だ。プレイステッド卿の言葉を聞いたホレイシオは驚き感嘆し驚愕する。ホレイシオの感情の幅は、プレイステッド卿に比べるとかなり大きい。感情を他人に読ませないよう教育される高位貴族の中に在れば、弱味を握られるのではないかと心配になるほど繊細だ。
成長するにつれてだいぶ感情の制御はできるようになったが、それでも本質は変わらないらしいと、プレイステッド卿はホレイシオの顔を眺めながら心中で呟いた。
「隣国――?」
掠れた声で、ホレイシオが言う。そこでようやく自分に掛けられた疑惑のあらましが理解できたのか、彼は叫んだ。
「まさか! そもそもチェノウェス侯爵家に破魔の剣があったなど知る由もない!」
「なるほど」
プレイステッド卿は何の感情も読めない口調で相槌を打つ。今の反応で、やはりホレイシオに掛けられた疑惑は嘘だったとプレイステッド卿は確信した。
ホレイシオには弱いところがあると、プレイステッド卿は知っている。そのため、自ら隣国と手を結ぶようなことはしないはずだと理解していた。だが、弱いからこそ周囲に強制されたり脅されたりした時は逆らえない。そのため、万が一があるとすれば、何者かに脅されるなり諭されるなりして皇国と密通した可能性しかないと踏んでいた。
だが、その最悪の可能性も今、ホレイシオの反応で否定された。内心で強く安堵しながらも、プレイステッド卿は表情一つ変えなかった。
「だが生憎と、その証言を大公派が持って来たんですよ。証人となった者も数人見つけることができましたので、話も聞きに行かせました。陛下の名は直接的には出て来ませんでしたが、ジェフという名を聞いたという証言は出ています」
プレイステッド卿の言葉に、ホレイシオの顔色はますます悪くなる。力なくソファーに腰掛けたまま、顔を覆った。
「――つまり、私があの時祖国を裏切り隣国と繋がっていた上、英雄の遺した破魔の剣を隣国へと渡したと思われているのだね」
「その通りです」
ホレイシオの口角が皮肉に歪められた。顔を覆った手をずらして口元を抑えるが、その双眸には暗い光が浮かんでいる。
「それが詳らかにされてしまえば、王宮に私の居場所はない。当然、裏切り者の子もその地位を追われ命を奪われることになるだろう」
プレイステッド卿は答えなかった。ホレイシオは政に関しては頭も回らないし、精神も脆弱だ。だが決して理解力が劣っているという訳ではない。状況をある程度正しく理解できる能力もある。ただし、時機を酷く逸していたり、取る手段があまりにお粗末だというだけだ。
ホレイシオの手は、小刻みに震えている。ライリーがオースティンと共に行方を晦まし大公派の手から逃れたと聞かされてはいても、居場所も分からず無事で居るのかも分からない今、不安しかないのだろう。その気持ちは理解できながらも、ただ恐怖と喪失感に震えているだけでは事態は改善しないと熟知しているプレイステッド卿は、静かに幼馴染へと声を掛けた。
「だからこそ殿下が行方を晦まされたことは良い知らせだったと思いますよ。どこに行かれたのかも問題ですが、恐らくオースティンも一緒でしょうから直ちに御身に危険が迫るということはないでしょう」
「――そう、だね。それだけが唯一の救いだ」
ホレイシオは嘆息と共に言葉を漏らす。プレイステッド卿はそれ以上、ライリーについて今の段階で言及するつもりはなかった。ホレイシオにとってライリーはアデラインと同じく大切な存在だ。物事を受け止めると必ず、一時は感情的になるせいで、アデラインの死後も立ち直れず、そして立ち直るより先に呪術によって身の自由を奪われた。そのため殆どライリーと接することもできず、ホレイシオがライリーを想う気持ちとライリーがホレイシオに抱いている気持ちは全く釣り合っていない。
仮にホレイシオとライリーの立場が逆でも、ライリーはホレイシオほど右往左往はしないだろう。だが、ホレイシオは違う。ライリーに身の危険が迫っている可能性を示唆すれば、間違いなくホレイシオは動転する。そうなると話は進まない。今重要なことは、ホレイシオの知っている事実を少しでも構わないから聞き取ることだった。
「今の状況を打開するためにも、情報が必要なのはお分かりいただけますね」
「あ、ああ、勿論だとも」
一人物思いに耽り始めていたホレイシオは、プレイステッド卿の言葉を聞いて弾かれたように顔を上げた。プレイステッド卿はゆっくりと、ホレイシオの心が揺らがないよう言葉を選ぶ。
「まず一つに、もし当時――政変の時に隣国と通じていた者がいるとするなら、誰だと思いますか」
「――つまり、チェノウェス侯爵家に無実の罪を着せたということか?」
「無実の罪かもしれませんし、本当のことかもしれません」
ホレイシオは少し考える。記憶を辿るように目線を遠くへやり、顎を指先で撫でた。
「そう――だね。チェノウェス侯爵家に関しては私も分からないが、隣国と通じていた者は少なからずいたんじゃないかと思うよ。そうでもなければ、あれだけの武器をあれほど早く集めるのは無理だったんじゃないかな」
プレイステッド卿は目を丸くした。何かしらの情報が出て来れば御の字だとは思っていたものの、それほど期待はしていなかった。しかし、ホレイシオが口にした内容はプレイステッド卿の予想を超えて有益なものに思えた。
「隣国に通じていた者は、国王派でしたか? それとも」
「うーん――私には分からないよ。恐らく、知っている人も死んでしまった」
ホレイシオは曖昧に言葉を濁す。プレイステッド卿は眉根を寄せて、ホレイシオを凝視した。
「知っている人? 陛下は誰かからその話をお聞きになったのですか」
「訊いた――というより、知ってしまったというか」
追及されたホレイシオは、少し困ったように眉根を寄せて頭を掻く。そして、彼はぽつりと告げた。
「悪いが、あまり詳細については話せる内容がないんだよ。君が解いてくれたけれど、呪いのせいか過去の記憶は曖昧なところも多くてね」
言い訳のようにホレイシオは告げる。しかし、確かに長年呪術に侵された体は様々なところで不調を生じる。過去の記憶が薄くなっている可能性は間違いなく存在した。
しかしプレイステッド卿は諦めない。大公派が王宮を占拠した原因の一つが、政変の時の証言だ。既に過去になったとはいえ、あの政変が今なお色濃く影響を残していることは確かだった。
「覚えていることだけで結構です。何か思い出せることはありませんか」
真剣な表情のプレイステッド卿に押されるようにして、ホレイシオは眉根を寄せた。
深く考え込むホレイシオは、やがてゆっくりと口を開く。
「隣国に通じていた人間は、恐らく両方の陣営に居たと思う。正直、それよりも父がチェノウェス侯爵家を煩わしく思っていたことの方が記憶にある」
プレイステッド卿は目を見開いた。内心を他人に読ませないよう表情を作ることに長けている彼にしては、酷く珍しい表情だった。
チェノウェス侯爵家は先代国王の愛妾の生家だ。フランクリン・スリベグラード大公の母方の祖父母の家でもある。フランクリン・スリベグラード大公のことは一切気に止めていなかった先代国王だが、愛妾のことは可愛がっていたはずだ。そのため、チェノウェス侯爵家取り潰しの際に愛妾も死んだと噂を流し、実際は離宮に匿っていたという情報を掴んでいる。
「チェノウェス侯爵家とは、それなりに上手く付き合っているのだとばかり思っていましたが」
正直な感想をプレイステッド卿は口にしたが、ホレイシオは苦笑を浮かべるだけだった。どうやらホレイシオには確信があるらしいと、プレイステッド卿は二重に驚く。しかしその驚愕は辛うじて表層に出さずに済んだ。
ホレイシオは腕を組んでソファーに深く腰かけ直す。
「それなりに付き合っても、人間の欲望は際限ないものだよ。チェノウェス侯爵家には欲望の神ベギアデが取り憑いているに違いないと、父が零しているのを聞いたことがある。私から見れば、父も大差なかった」
先代国王もチェノウェス侯爵家も、結局は権力と財力の欲望に負けたのだろうと、なんとも言えない顔でホレイシオは呟くように付け加える。プレイステッド卿は賢明にもその点に言及することはなく、真剣な表情で「それでは」と本筋に戻した。
「先の政変は、先代国王がチェノウェス侯爵家の勢力を削ぐために行った側面があるということですか」
「それはあると思うよ。まあほら、君も良く知っているとおり、私はそれほど政に関しては使い物にならない人間だ。だから父がチェノウェス侯爵家を煩わしく思っていたから政変を引き起こしたのか、それとも他の理由が主だったのかは、今でも分からない」
それが分かるのは国王とチェノウェス侯爵家くらいだろうと、ホレイシオは言う。それを聞いたプレイステッド卿も、わずかに苦い表情になった。
政変の頃、仮に前エアルドレッド公爵ベルナルドが使い物になっていれば、間違いなく詳細な情報は今頃エアルドレッド公爵家とプレイステッド卿が握っていただろう。だが、当時のベルナルドは一人目の妻が亡くなったことで意気消沈し、政界とは距離を置いていた。
そのため、政変の頃の情報はエアルドレッド公爵領を始めとしたアルカシア派と関係した事象しか手元にない。結果的に、今回の大公派の動きに対しても後手に回った。その後悔が、プレイステッド卿にはあった。
「チェノウェス侯爵家に宝剣があったと知っていた可能性がある者に心当たりは?」
「そもそも私がその存在を知らなかったのに?」
自嘲に似た苦笑を浮かべ、ホレイシオはプレイステッド卿に視線を向ける。プレイステッド卿は多少気まずそうな色を浮かべたが、それでも質問は控えなかった。
「私は知らないよ。父は知っていたと思うし、チェノウェス侯爵家の傍系も知っていたと思うが――それも数人ではないかな。チェノウェス侯爵家の当主は元々、秘密主義だっ――」
ホレイシオは不自然に言葉を区切る。不審そうに眉根を寄せてホレイシオを眺めるプレイステッド卿の視線には気が付かないまま、ホレイシオは目を宙に彷徨わせた。
「いや」
呆然と、彼は呟く。プレイステッド卿は辛抱強く、ホレイシオが深い思索の海から戻って来るのを待った。やがて、ホレイシオの焦点がプレイステッド卿に合う。
そして、彼は妙に熱をはらんだ目で、プレイステッド卿に告げた。
「そう、もしかしたら――クラーク公爵家のエイブラムは、知っていたかもしれない」
「エイブラム・クラーク、ですか」
プレイステッド卿はその人の名を繰り返し、目を細める。正直なところ、プレイステッド卿にとっては予想外の名前だった。
当時、エイブラムは父からクラーク公爵を引き継いだばかりだった。それまではベルナルド・チャド・エアルドレッドが貴族たちの間では一番有名であり、その能力を高く評価されていた。それが覆ったのが、時の政変だ。その政変で見事な手腕を見せたエイブラムは国王に認められ、宰相の座に就いた。それまで宰相の座はチェノウェス侯爵家の者が勤めていたから、必然的に空いた座席をエイブラムが受けた形だ。
考え込み始めたプレイステッド卿に、ホレイシオは希望を託すように言葉を付け加えた。その声は、わずかに震えている。
「それ以上のことは分からないし、私には言えない。不必要なことを言って、国に禍を齎したくはないのだ」
しかし、プレイステッド卿はホレイシオの言葉に反応しなかった。どこか上の空で頷いている。ホレイシオの双眸に僅かながら失望と諦念の色が浮かんだことにも気が付かず、プレイステッド卿は妙な符合に気を取られていた。
「もう一つ、お尋ねしたいことがあります、陛下」
「――なにかな」
チェノウェス侯爵家に宝剣があると知っていた人物は、エイブラム・クラーク。そして今回、大公派が王宮を占拠した事件でライリーを追い詰めた原因だろう人物は、その娘リリアナだった。
「クラーク公爵家のご令嬢であるリリアナ嬢が大公派に寝返ったと報せがあったのですが、その点についてはご納得いただけるのでしょうか」
今度は、ホレイシオが目を瞠る番だった。ホレイシオはまじまじとプレイステッド卿を見つめる。そして、乾いた笑い声を立てた。
「まさか」
「本当のことです」
プレイステッド卿は、淡々と知らされた事実を述べる。
即ち、リリアナが大公派に裏切っていたこと、そしてそのためにライリーとオースティンが余裕を持って逃げられなかったこと、ベン・ドラコとベラスタ・ドラコが捕えられ牢に入れられたこと。
詳細についてはユリシーズが帰宅してから尋ねる他ないが、それでも事前に齎された知らせは十分な情報量があった。
しかし、ホレイシオは信じられない。ただ呆然として首を振る。
「――――馬鹿な」
その声は掠れていて、少しの物音で掻き消えてしまいそうなほどだった。
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