53. 悪役令嬢の讃歌 5
王立騎士団副団長マイルズ・スペンサーは、ダンヒル・カルヴァート率いる二番隊と共に王立騎士団の兵舎へ戻った。
国王が行方を晦まし、王太子ライリーが大公派の魔の手から逃れた。彼らは顧問会議の内容を知らない。だが、何か不味いことが起こったということは理解していた。
スペンサーの顔色は悪い。しかし、彼は毅然としてこれから先のことを考えていた。脳裏には、メラーズ伯爵の脅迫じみた言葉がこだましている。
「――ダンヒル」
「は」
兵舎に入るより前に、スペンサーはダンヒルにだけ聞こえるよう声を潜めた。
「いいか。本心はどうであれ、表面上はしばらく静かにしておくんだ」
ダンヒルがスペンサーの本心を探るように鋭い一瞥を投げかけて来る。スペンサーはダンヒルを見ることなく、真っ直ぐに前方を睥睨していた。
「殿下と団長は、恐らくこのことを予想なさっていた」
スペンサーの言葉に、ダンヒルが愕然とした気配がする。そのことに気が付きながらも、スペンサーは黙らなかった。もう時間がないことだけが、確かな事実だった。
「恐らく、既に大公派は王宮と魔導省、そして王立騎士団を掌握したのだろう。今団長が戻られて捕らわれてしまえば、俺たちに勝ち目はない」
先ほどの執務室には、八番隊の面々が勢揃いしていた。八番隊の全員ではないが、殆どが大公派の手先になっていると考えて良いだろう。
「我々に今できることは、奴らに気が付かれないよう穴をあけておくことだ」
「――なるほど。八番隊の十八番ですね」
「そうだ」
八番隊は間諜や刺客の犯罪を取り締まる。そのため、敵の陣中に入り込み、素知らぬ顔で内側から敵を切り崩すことを得意としていた。騎士としての矜持が高い他の騎士たちには難しい。しかし、他に方法は思い付かなかった。
「恐らく団長は戻られない。だが案ずるな。時は必ず、熟す」
低められた声に、ダンヒルは頷く。スペンサーの双眸に、迷いはなかった。
できるだけ早急に、北へ報せを飛ばさなければならない。そうすれば、彼らの団長トーマス・ヘガティは、最善の策を選び取ってくれるはずだった。
*****
大公派が王宮と魔導省、そして王立騎士団を掌握したという報せはあっという間に王国内の主要貴族に駆け巡った。それは顧問会議に出席している貴族と既知の相手であったり、協力者であったりした。王太子派の貴族は臍を嚙み、大公派の貴族は我が世の春が来たと喜ぶ。傍観の姿勢を保っていた貴族の中には、大公派に入ろうと画策し、主要人物であるスコーン侯爵やメラーズ伯爵に取り入ろうとする者が出て来た。
そして王太子派の中でも有力者であるケニス辺境伯は、エアルドレッド公爵ユリシーズから差し出された手紙を読んで眉根を寄せていた。
「リリアナ・アレクサンドラ・クラーク嬢が離反――?」
顧問会議の場に居たユリシーズ曰く、どうやら大公派が王宮を掌握した一因にライリーの婚約者の存在があるらしい。彼女は幼い頃からライリーの婚約者だったが、今回大公派に寝返ったそうだ。
ライリーは直前までリリアナの二心を疑っていなかったに違いない。そのため、あと少しで大公派に捕らわれるところだった。だが、逃亡に成功したライリーとオースティンの行方は杳として知れない。大公派は魔導省長官となったソーン・グリードに命じて、ライリーたちが使ったと思しき転移陣の解析をさせているらしいが、調査は思うように進んでいない様子だった。
「リリアナ嬢が裏切ったがために魔導省は敵の手に落ちたか」
重苦しい溜息が漏れる。
エアルドレッド公爵ユリシーズは、リリアナに対し腹を立てている様子だった。手紙は終始礼節を保ち冷静さを装っているが、所々から怒りが零れ出ているように見える。しかし妙なことに、ユリシーズ率いるエアルドレッド公爵家を始めとしたアルカシア派は現状、表立って大公派を糾弾する気はないようだ。
その理由は明確に記載されていないが、恐らくケニス辺境伯が知る以上の何かがあるのだということは予想がついた。
「そもそも陛下が隣国と密通などという高度な技ができるわけがなかろう。もし政変の時に密通していたなら、あっという間に先代陛下がお気付きになられたはずだ」
そしてあっという間にホレイシオは実父に粛清されていたに違いない。先代国王は実利を取って隣国とはそれなりに上手く付き合っていたものの、その実は苛烈な性格ゆえに隣国を毛嫌いしていた。その彼が、隣国と手を組んでいると知っても尚生かしておくとは思えない。
「だが、ユリシーズ殿もプレイステッド卿も大公派の発言にある程度の信憑性を感じているようだが――何かあるな」
ケニス辺境伯にも子飼いの間諜が居る。彼らには敵勢力だけではなく、現時点では味方である者たちにも探りを入れていた。だが、残念なことに、エアルドレッド公爵家が大公派を表立って糾弾しない理由は分からなかった
「さて、どうするか」
一度、ユリシーズたちを訪れるべきかもしれないとケニス辺境伯は思案する。だが今国境の状態は危うい。辺境伯自ら行くとなると、国境の守りが手薄になる。
「ルシアンが戻ってきたら、エアルドレッド公爵領に行かせるか」
ケニス辺境伯長男のルシアンは、今王都から急ぎ戻って来ていた。王都を発つ前に伝書鳩で簡単に状況を知らせて来たが、その内容はユリシーズから来た手紙の内容を少々薄くしたものだった。リリアナの離反をケニス辺境伯が知ったのは、ユリシーズの手紙だ。
同じ顧問会議に出ていても情報の格差があるのか、もしくはルシアンが詳細は口頭で説明するつもりだったのかは分からない。いずれにせよ、今後の動向も含めてルシアンと相談しなければならないと、ケニス辺境伯は喉の奥で低く唸った。
ケニス辺境伯は、ユリシーズから送られて来た手紙を机の引き出しに仕舞う。そして椅子の背もたれに体重を掛けると、深く息を吐いた。
「――しかし」
やはりどうにも釈然としないと、彼は眉根を寄せた。
エアルドレッド公爵を筆頭としたアルカシア派が大公派の暴挙を静観していること自体が前代未聞だし、大公派の動きがあまりにも順調すぎるように思える。それに何より、ライリーの婚約者であるリリアナが寝返ったという情報も俄かには信じ難い。
ユリシーズを始めとした高位貴族たちと違い、ケニス辺境伯は実際にリリアナと顔を合わせ会話したこともある。
初対面の時、リリアナはまだ七歳だった。その時の彼女は大人顔負けの度胸と頭脳を持っていて、ケニス辺境伯自身内心で舌を巻いたものだ。当時は辺境伯も底の知れないリリアナを警戒していた。年端の行かない少女と侮って足元を掬われるなど、辺境伯としてあってはならないことだ。
だが、あれから九年経ち、その間にケニス辺境伯は意図しないところでもリリアナと付かず離れずの付き合いを保っていた。直接会うことはなかったが、辺境伯領に隣国が攻め込んで来た時は、リリアナが派遣してくれたジルドという男がケニス辺境伯領の危機を救うのに一役買ってくれたのだ。
一連の行動を考えてみると、リリアナが目先の利益しか追わない大公派に与したのも、何か裏があるのではないかと思えてならなかった。
「ユリシーズ殿は、そもそも彼女との接点がほぼないからな」
ユリシーズの父ベルナルドであれば、リリアナのことも良く把握し理解していただろう。もしベルナルドが生きていれば、嘗てライリーを支持するよう説得した時のように、そしてリリアナをライリーの婚約者とすべきだと主張した時のように、リリアナが何を企み行動しているのか、耳打ちしてくれたかもしれない。だが、もうベルナルドはこの世の人ではない。
「……何年経っても、彼が居ないことが信じられん」
ケニス辺境伯はその生涯の大半を戦に費やしてきた。だからこそ、親しくした相手や可愛がって来た部下を何人も喪っている。その度に哀しみ嘆いたが、いつまでもその感情を引きずることはなかった。
だが、ベルナルド・チャド・エアルドレッドだけは別だった。彼はあまりにも別格で、今でも折につけその存在の偉大さと喪失感を思い出す。忠誠を誓っていた先代国王ですらその存在を惜しむことは滅多にないというのに、女々しいことだと辺境伯は自嘲した。
そんな伯爵の思索を遮るように、扉が叩かれる。返事をすると、執事が扉を開けて姿を現した。
「旦那さま、面会を望む者が来ております」
「面会だと? そんな予定は入っていたか」
ケニス辺境伯が眉根を寄せると、執事は首を振った。辺境伯の記憶違いではなく、今日は確かに来客の予定はない。一般的な高位貴族の家では先触れのない訪問客は執事が断ってしまうが、ケニス辺境伯においては極力断らない方針だった。そのため、あまりにも怪しい人物でない限りは執事も一度、判断を仰ぎに来る。
普段であれば、辺境伯も来訪者に警戒心は抱かない。しかし、今は時期が悪かった。大公派が王宮と魔導省、騎士団を掌握したという報せが入ったばかりなのだ。来訪者が知る由もない情報ではあるが、大公派が何らかの意図を持って人を寄越した可能性も捨てきれない。
しかし、そんな辺境伯の懸念を否定したのは執事だった。多少の困惑を滲ませ「それが」と告げる。
「以前、ベン・ドラコ様がお連れになった傭兵なのですが」
その言葉に、ケニス辺境伯は目を瞠る。たいていのことでは動じない彼が、思わず耳を疑った。
「ジルドか!」
「はい」
その名を、ケニス辺境伯は忘れてはいなかった。“北の移民”であり、有事の時に力を貸してくれた。彼はリリアナの護衛として雇われていたはずだ。
辺境伯は一瞬も迷わなかった。もしリリアナが本当に大公派に寝返ったのであれば、今ここでジルドを送り込むとは思えない。ジルドは腹芸が出来ない男だとケニス辺境伯は看破していた。彼が何かしらの情報を持っている可能性があると考えれば、リリアナは不用意に王太子派のケニス辺境伯とジルドを接触させるはずがない。
「分かった、会おう」
「承知いたしました」
ケニス辺境伯の答えを聞いた執事が頷く。そしてケニス辺境伯は、ジルドと久方ぶりの対面を果たすことになった。
だが、辺境伯はジルドの顔を見た途端に違和感を覚える。以前会ったジルドは、いつの時もふてぶてしい態度に食えない笑みを浮かべていた。相手がどれほど高位の貴族であろうと一切構わないその態度は不遜だと非難されても仕方のないほどだった。
だが、今はそのジルドの表情が暗い。一体何事かと眉根を寄せたケニス辺境伯は、一旦ジルドの話を聞くことにした。
「久しぶりだな。どうだ、息災にしていたか」
「――変わらねえよ」
やはり返答も精彩を欠いている。ケニス辺境伯は、時間を無駄にするようなことはしなかった。
ケニス騎士団には荒れくれ者も多数所属している。ジルドのような男は数多く見て来たため、その扱いは心得ていた。
「それで、何の用があって来た。わざわざここまで来て私との面会を望んだということは、何かあるのだろう」
ジルドは眉間に皺を寄せる。口をへの字にしていたが、やがて彼は嘆息した。俯いて頭を掻きむしる。そして暫くその形で固まっていたが、おもむろに顔を上げると、何かを決意した表情で真っ直ぐにケニス辺境伯を見つめた。その視線の強さに、辺境伯は内心で瞠目する。
そんな辺境伯には気付くことなく、ジルドは淡々と用件だけを単刀直入に告げた。
「俺をあんたのところの騎士団で雇ってくれ」
普段であれば、ケニス辺境伯はたいていの問いにすぐ反応する。しかし、今回ばかりは様々な思考が入り乱れ、反応が遅れた。
しかしジルドは辺境伯を急かすようなことはしない。辺境伯は少し無言でいたが、やがて考える表情のまま問いを口にした。
「確か、クラーク公爵の妹君の護衛をしていたと思ったが、そちらは辞めたのかね」
「――馘首になったんだよ」
「馘首された?」
ジルドの返答は、ケニス辺境伯にとって予想外のことだった。目を瞬かせる辺境伯の前で、ジルドは苦々しい表情を隠さない。しかし、今回は辺境伯も直ぐに疑問を投げかけた。
「いつ、何故護衛を辞めさせられた?」
「さあ、理由は分かんねえ。一年毎に契約は勝手に更新されてたんだけどよ、突然更新はなしだって言われたんだよ。二度と顔見せんなってよ。俺は何もしてねえぞ。普段通り、ちゃあんと護衛の仕事やってただけだ」
「――なるほど」
辺境伯は曖昧に頷く。そしてジルドが教えてくれた解雇通告の日は、大公派が王宮を占拠する切っ掛けとなった顧問会議の数日前だ。リリアナが住んでいる屋敷は王都近郊であり、辺境伯までの距離を考えると、ジルドは解雇を言い渡されたその日に屋敷を出て、真っ直ぐ辺境伯に向かったのだろう。
それでも思うところがあったのか、日数を考えるとかなりの強行軍だ。
「お前ほどの腕があれば、ケニス騎士団ではなくとも幾らでも勤め先はあるだろう。何故ここに来たんだ」
ケニス辺境伯の問いは彼にとっては当然のものだった。だが、ジルドは口籠る。言い辛そうにしていたが、しばらくして深々と溜息を吐いた。
「わかった。全部言う。そんで、あんたの意見を聞かせてくれ」
「意見?」
「ああ」
ジルドは頷いた。そして彼は両肘を足の上に置くと、わずかに身を乗り出した。
「俺は元々、頭使うなんて苦手なんだよ。だから嬢ちゃんに馘首だって言われた時は頭に血が上ったが、ここに来るまでに、だいぶ頭が冷えてよ。色々考えてみたんだが、頭がこんがらがっちまった」
だが、ケニス辺境伯ならば頭を使うなど朝飯前のはずだ。そう言って、ジルドはニヤリと笑う。
辺境伯に対してここまで傲岸不遜な態度を取る人間に、ケニス辺境伯は殆ど会ったことがない。荒れくれ者たちもケニス辺境伯の強さを知っているため、どこか畏怖を込めて接する。だが、ジルドはそうではない。彼にとっては身分など砂粒ほどの価値もないのだろう。
そして辺境伯は、決してそんなジルドが嫌いではなかった。
「良かろう」
ケニス辺境伯は鷹揚に頷く。そして、彼は傭兵に告げた。
「すべてを話してみろ」
もしジルドの話を聞けば、ユリシーズ・エアルドレッドから送られて来た書簡の情報に抱いた違和感の正体が明らかになるかもしれない。
ケニス辺境伯は、真面目な表情の裏でそんなことを考えていた。
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