53. 悪役令嬢の讃歌 4
遠くから、足音が近づいて来る。だがまだ距離は遠い。その証拠に、気配に敏感なライリーやオースティンも気が付いていない。まだ多少の時間はあるが急ぐべきだと、リリアナは口角を上げたまま指を鳴らした。途端に、室内の気配が増える。
静寂に満ちた室内に響いた声は、その場には居ないはずの人物のものだった。
「あれ?」
目を瞬かせてきょとんと立ち尽くしているのは、魔導省に居るはずのベラスタ・ドラコだった。研究中だったのか、片手には魔道具を持っている。もう一方の手には手紙を握りしめていた。彼はソファーに腰掛けたままのライリーと傍らのオースティンを見ると、思い切り目を見開いた。
一方、元々室内に居た者たちも愕然と目を瞠っている。掠れた声を出したのは、オースティンだった。
「え、嘘――だろ?」
「あれ、え? ここ、え、嘘、執務室?」
何が起こったのか理解できない様子のベラスタは、呆然としていた。
「何故ここにベラスタが居るんだ?」
オースティンが漏らした言葉は、当然抱いて然るべき感想だった。ベラスタも理解できないようで、戸惑ったまま「さ、さあ……?」と首を傾げている。
「なんか唐突に魔術の気配がしたのは覚えてるんだけど」
だが、どのようにして魔術省からライリーの執務室に移動して来たのかはベラスタ本人も理解できていなかった。
ライリーも驚いてベラスタを凝視していたが、やがてゆっくりとリリアナに視線を写した。指を鳴らした直後にベラスタが姿を現したのだから、十中八九リリアナが仕組んだことに違いない。
そしてそれまで動けないながらも静観の構えを取っていたベン・ドラコも、さすがに黙ってはいられなくなったようだ。表情を険しくしてリリアナを睨み据える。
「ベラスタまで連れて来て、どうするつもりだ」
リリアナはベン・ドラコを見て笑みを深めるが、答えなかった。だがベン・ドラコもライリーも、薄々察する。
大公派の息が掛かった騎士たちがこの部屋に居た時、間違いなく彼らはライリーとオースティンを捕らえようとする。その時、ベン・ドラコが居ればライリーやオースティンが逃げられる確率は高くなる。だがベラスタの身柄を確保しておけば、兄であるベンは不用意なことはできない。つまり、ベラスタは人質だった。
その証拠に、リリアナが「拘束」と口にした瞬間、突然現れた蔓でベラスタの体が拘束される。ベラスタの両手からは魔道具と手紙が零れ落ちたが、リリアナは頓着しなかった。
初めてリリアナの魔術を間近で見たオースティンは驚愕に目を瞠る。何もない場所から拘束のための蔓を出現させ、優秀な魔導士であるベラスタに抵抗する暇も与えず拘束するには非常に熟練した魔術の腕が必要だ。しかしリリアナはいとも簡単に、非常に短い詠唱でベラスタを拘束してみせた。
それが意味することは単純だ。オースティンの顔から表情が消える。リリアナを、油断できない敵と見做した瞬間だった。
「そろそろかしら?」
呟いたリリアナは薄く笑みを浮かべたまま「解除」と言う。その瞬間、ライリーやオースティン、ベン・ドラコの動作を制限していた術が消えた。体を自由に動かせると気が付いた瞬間、ライリーはすぐさまソファーから離れると執務室の壁に掛けられた愛剣を手にする。オースティンもまた、腰に提げた剣を手にした。ベン・ドラコは警戒も露わに立ち上がり、リリアナの出方を窺う。
オースティンはリリアナを警戒したまま、ライリーを背後に庇うようにして薄く笑みを浮かべた。
「拘束を解いて後悔するなよ」
「まあ、流行りの喜劇にでもありそうなお言葉ですこと」
リリアナの言葉には僅かに嘲弄が滲む。オースティンの眉間には深い皺が刻まれた。愛剣を持ったライリーはリリアナの動きに注意を払いながらも、驚きが去った今どこか戸惑いを隠せていない。
「ずっと気になってましたのよ。オースティン様もウィル――いえ、殿下もお強いと伺っておりますけれど」
そして更に、ここには天才魔導士の名を欲しいままにしているベン・ドラコもいる。
「あなた方に騎士団の八番隊と闘って頂いたら、どちらが勝利を収めるのでしょう」
王立騎士団八番隊は刺客、間諜など含めた謀反に関連する犯罪を取り締まる。しかし彼らは取り締まるだけでなく、一人一人が優れた刺客に準じる能力を持っていた。取り締まるためには、罪を犯す側の能力や思考回路を理解していなければならない。その理想を突き詰めた時、八番隊の騎士たちは騎士というよりも寧ろ間諜や刺客と言った方が相応しい技術や能力を習得することになった。
オースティンは目を細める。リリアナが自分たちを挑発していることは分かっている。腸が煮えくり返るような怒りを抑えることは難しかったが、敢えてゆっくりと呼吸をすることで短絡的な行動に出ないよう心掛けた。
近衛騎士として、オースティンが今最優先すべきはライリーを裏切ったリリアナへの報復ではない。もうすぐ来るだろう大公派勢力から、無事にライリーを逃すことだ。
理想はオースティンもベラスタもライリー共々逃げることだが、最悪の場合はライリーだけでも安全な場所に逃したい。
徐々に荒い足音が近づいて来ている。間違いなく騎士たちだ。大公派の手先だろう彼らはライリーを逃すわけにはいかないと思っているのか、小走りで廊下を突き進んでいるようだった。
「ベン・ドラコ、貴方が手出しをした瞬間にベラスタの命はないものと思いなさい」
気高く、リリアナが告げる。それと同時に執務室の扉は乱暴に開け放たれる。そこには、王立騎士団八番隊隊長ブルーノ・スコーンが部下数名を引き連れ仁王立ちしていた。人数は少ないが、そもそも八番隊は強者揃いである。
「殿下、陛下が隣国と密通した疑惑に関して伺いたく、今すぐ顧問会議にご出席賜りたい。まずは剣を手放して頂きましょうか」
最早ブルーノの口調は不遜でしかない。辛うじて敬語の体裁を保っているが、普通に考えれば決して王太子に使ってはならない言い回しだった。
ライリーは眉根を寄せたが、一方のオースティンは内心で痛烈な舌打ちを漏らす。
まさかブルーノ・スコーン自らが出て来るとは思ってもいなかった。確かにブルーノは大公派の重鎮であるスコーン侯爵の次男だ。だから今日の大公派の企みに関わっていないはずはない。しかし、実働部隊は部下に任せるものだと思っていた。
リリアナもブルーノもオースティンとライリーの正面に居るが、オースティンとライリーにとっては厄介な相手だ。魔導剣を使っても魔術はリリアナに相殺される可能性があるし、物理攻撃に対しては八番隊の騎士が対応できる。
一般的に強いと有名な隊は、魔導騎士を集めた二番隊と実力主義の七番隊だが、八番隊も引けを取らない。ただ八番隊はその性質上、表立って強さを示す機会に恵まれないだけだった。
だが、オースティンは絶望はしていなかった。どのような場面であっても、諦めなければ道は必ず開けると信じていた。そしてそれはライリーも同じはずだと、オースティンは確信している。
「――殿下、どうなさいますか」
口調を対外用のものに変え、オースティンは斜め後ろに居るライリーに尋ねた。ライリーは剣を手にしたまま、小首を傾げてみせた。
「言っていることが良く分からないな。父が隣国と密通しているなど笑止千万だ。冗談のつもりなら出直して来た方が良いよ。それに、ここは帯剣したままでは入ることが許されていないはずだ――王族と近衛騎士を除いてね」
決して、魔道具を使って顧問会議の内容を盗聴していたとは言わない。何も知らない体で、ライリーはブルーノたちの不作法を咎めた。ブルーノの眉がぴくりと動く。
ライリーは、更に言葉を続ける。ブルーノ率いる八番隊を裏で操っているだろう大公派の思い通りにさせる気は、更々なかった。
「寧ろ、顧問会議での喚問は貴殿等が受けるべきではないかな」
ブルーノの額に青筋が立つ。彼が口を開こうとした時、その後ろからフランクリン・スリベグラード大公とメラーズ伯爵が姿を現した。
国王を呼び立てようとした時のように、顧問会議の部屋で待つことはできなかったようだ。もしかしたらライリーたちの逃亡を恐れたのかもしれない。
リリアナは部屋の隅に立ち、変わらない微笑を浮かべたままライリーや大公たちの様子を眺めていたが、その彼女には一瞥をくれることもなく、大公が部屋に一歩踏み入れた。明らかに馬鹿にするような視線をライリーに向けて口角を上げる。
明らかに戦力は大公派の方が多い。ライリーたちの発言は無駄な足掻きだと確信している様子だった。
「ライリー、これは俺の命令だ。お前に抗う権利はない」
「――叔父上、生憎と王太子は私ですよ」
「その権利が本当に、正当なものならな」
大公は皮肉に満ちた口調で言い放った。ライリーは表情を変えないが、オースティンは強く大公を睨みつけた。視線だけで相手を殺せそうな勢いだ。大公は一瞬怯んだが、自分の背後に居る戦力を思い出したらしい。軽く咳ばらいをすると、気を取り直したように一歩横へずれた。
「捕えろ」
「――はっ」
八番隊の騎士たちが短く答える。そして彼らは、ライリーたちを捕らえようと一歩踏み出した。だが、その時彼らの更に背後から新手の勢力が現れる。筆頭に立っているのは副団長マイルズ・スペンサーであり、彼に続いているのは二番隊の面々とライリーたちの見知らぬ騎士たちだ。
背後を一瞥したブルーノは、小さく舌打ちを漏らした。
「足止めをさせていたというのに――使えんな」
吐き捨てたブルーノの声は、誰にも届かない。それも当然で、ほぼ同時に大公が「さっさとしろ!」と叫んだからだった。
ブルーノと数名の騎士たちが各々の武器を手にライリーとオースティンを捕えようと動く。間諜や刺客に近い仕事をしているため正面切って戦うのは、彼らの得意とするところではない。しかしそれでも、十分に勝機はある――はず、だった。
騎士二人がオースティンに斬り掛かり、宙に跳躍したブルーノがライリーの背後を取ろうとする。その瞬間、部屋の中に閃光が走った。
一瞬にして騎士たちの視界が奪われる。
「なっ――!?」
誰が叫んだのかは、もはや定かではない。戦闘に不慣れな大公は勿論のこと、メラーズ伯爵や百戦錬磨の八番隊たちも何が起きたのか分からなかった。
眩い光は、すぐに治まる。ゆっくりと視界を取り戻した時、彼らの視界からライリーとオースティンの姿が消えていた。
「待て、どこに消えた!?」
「隠し通路――でしょうか」
焦ったように叫ぶ大公に、メラーズ伯爵は苦々しく答える。八番隊の騎士たちも戸惑いを隠せずその場に立ち尽くしていた。
ライリーたちを助けようと駆け付けた副団長スペンサーたちも、守るべき対象が消えたことに絶句している。
大公は顔を不機嫌に染めて、苛立たし気に叫んだ。
「煩わしい! 部屋を破壊しても構わん、俺が許す! さっさと隠し通路を見つけろ!!」
メラーズ伯爵は一瞬胡乱な目を大公に向ける。大公は王族だ。王位継承権も持っている。だから王宮内部の隠し通路も知っているはずだった。だが、今の発言を聞く限り彼は隠し通路の場所を認識していない。確かに、大公は国王が行方を晦ましたと聞いた時も、隠し通路の場所を教えようとはしなかった。
伯爵は追及したい気持ちに駆られたが、今ここで問うべきではないことも理解していた。それに大公の自尊心は高い。王族の癖に隠し通路の場所も知らないのかと、皮肉を言われたと受け取られてしまえば機嫌を損ねることは間違いがない。
八番隊の騎士たちが動こうとする。さすがに副団長スペンサーが止めようと動くが、それよりも先にリリアナが口を開いた。
「お待ちくださいな。あれをご覧になって」
反応したのはメラーズ伯爵だった。自分よりも遥かに年下の少女に口を挟まれた大公は、不機嫌に顔を顰める。しかし大公が声を荒げるより早く、メラーズ伯爵はリリアナの示す場所に目をやり驚きの声を上げた。
「――転移陣?」
「ええ。そう見えますわね。恐らく、殿下方は転移陣を使われたのではなくて?」
メラーズ伯爵は真剣な表情で考え込む。確かに、隠し通路を使ったと考えるよりも転移陣を使ったと理解する方が自然だった。隠し通路は、入るまでにも時間が掛かるのが定石だ。簡単に入れるようであれば、もはや隠し通路の意味を為さない。
だが、そうなると問題は転移陣を誰が用意したのかということだった。
転移陣は魔導省に登録されるものである。王太子といえど、簡単に用意できるものではない。
そう考えると、メラーズ伯爵の視線は自然とこの場にいるベン・ドラコに引き寄せられた。メラーズ伯爵の視線を受けたベン・ドラコは、一瞬目を見開く。
だが、今この場にベン・ドラコの味方をする者はいなかった。リリアナは大公派に寝返ったと判明したばかりだし、ベラスタはリリアナに拘束されたまま、口を開けないようにされている。そしてマイルズ・スペンサーでさえ、八番隊の騎士たちに入室を阻まれていた。
メラーズ伯爵は、ベン・ドラコに向き直ると、威厳たっぷりに言い放つ。
「ベン・ドラコ。お前が転移陣を持ち込み、殿下とオースティン・エアルドレッドを逃がしたのだろう」
「まさか」
「言い逃れする気か?」
国王に逃れられ、そしてライリーすら逃したメラーズ伯爵の機嫌は、表情にこそ出てはいなかったが酷く悪かった。
「状況からしてお前が手引きしたことは明らかだ。以前もお前には転移陣に細工をしたという疑惑が持ち上がっていた。確定的な証拠もないまま、復帰を許すことになってしまったが――」
わざとらしく溜息を吐いたメラーズ伯爵は、告げた。
「今この時をもって、ベン・ドラコを懲戒しその役職および魔導士位階を剥奪する。大公閣下、御裁可を」
それは、ベン・ドラコを魔導省から追放するという宣言だった。だが宰相とはいえ、メラーズ伯爵の独断では決定できない。そのため、伯爵は直ぐ隣に立っているフランクリン・スリベグラード大公に許可を求めた。
大公は不機嫌なままだったが、メラーズ伯爵の意図するところは理解したらしい。腕を組んだまま、鷹揚に頷いた。
「構わん」
その一言で、全ては決定する。頷いたメラーズ伯爵は、八番隊の騎士に命じてベン・ドラコを拘束させた。転移陣を不当に使った罪で、取り調べを行い罪に問う必要があった。
そして王太子の逃走という衝撃から立ち直ったメラーズ伯爵は、改めて宣言する。その宣言はまだ実効力を持たないが、マイルズ・スペンサーや二番隊の騎士たちに聞かせる必要があった。
「陛下ならびに殿下が在らせられない今、大公閣下を国王代理として立てることになります。閣下、今一度顧問会議に戻り現状のご報告を」
「分かった。それで、ライリーはどうする」
「転移陣の解析を急がせます」
メラーズ伯爵は、魔導省の長官ベン・ドラコの追放が決定した今、新たな長官にはソーン・グリードを指名するつもりだった。ソーン・グリードは大公派の重鎮グリード伯爵の息子だ。つまり、この時をもって魔導省は大公派の傘下に入った。
だが、以前のようにベン・ドラコが返り咲くのも面倒だ。そう考えたメラーズ伯爵は、視界の端に映っていた少年に改めて目を向けた。
「その者は?」
メラーズ伯爵が尋ねたのは、リリアナだった。リリアナは伯爵の視線を辿り、小さく「ああ」と言った。
「ベラスタ・ドラコと申す者ですわ」
「――なるほど」
伯爵は頷く。間近で会ったのはこれが初めてだったが、ベラスタがベン・ドラコの弟であることは情報として知っていた。
「この者が転移陣に関して何かを知っている可能性もあるということだな」
不穏な空気を感じたのか、大人しく成り行きを見守っていたベン・ドラコが叫ぶ。
「やめろ、そいつは何も知らない」
だが、メラーズ伯爵は片眉を上げた。
「人は嘘を吐くものだ、ベン・ドラコ。お前のようにな」
そして伯爵は近場に居た騎士に命じる。
「――ベラスタ・ドラコも連れていけ。ただしベン・ドラコとは引き離すように」
その言葉に、騎士は無言で従った。ベラスタは既にリリアナに拘束されているから、新たに縛る必要はない。騎士がベラスタを引きずるようにして連れて行く。ベン・ドラコは顔を歪めてその姿を見送っていたが、メラーズ伯爵や大公は感知しなかった。
そして誰も、ベラスタの足元に落ちていたはずの魔道具と手紙が消えていることに気が付いていない。
メラーズ伯爵たちは、ベン・ドラコが連れて行かれたのを確認してから部屋を出る。その時、メラーズ伯爵は直ぐ傍を通った副団長スペンサーにだけ聞こえるように、声を潜めて囁いた。
「同じ目に遭いたくなければ、大人しく従っておくんだな」
スペンサーの顔色が僅かに悪くなる。
もしスペンサーや二番隊の騎士たちが八番隊と剣を交えていれば、そのことを取り上げてスペンサーたちから騎士の称号を取り上げたに違いない。もしくは良くても謹慎だ。
メラーズ伯爵としては悔しかったのかもしれないが、スペンサーたちは首の皮一枚が繋がった気分だった。それでも自分たちの無力さに、唇を噛みしめる。
その姿を、八番隊隊長ブルーノ・スコーンが嘲笑と共に見つめていた。
そしてリリアナ・アレクサンドラ・クラークは、彼らの様子を少し離れた場所で、観察していた。









