52. 反逆の狼煙 3
リリアナは、穏やかな微笑みを浮かべたままオブシディアンからの報告を受けていた。
「てことで、エアルドレッド公爵家はチェノウェス侯爵家に勤めてた元近衛騎士を見つけた。だいぶ年は食っちゃいるが、そこまでボケてねえってことで証言の信憑性は認められるって受け止めたみたいだぜ」
「そうですの。ありがとう、助かりますわ」
「それから、メラーズ伯爵の監視を強めることにしたらしい」
礼を言うリリアナは、詳細をオブシディアンに告げることはない。
オブシディアンも百戦錬磨の密偵だ。リリアナが何事かを企んでいるのは良く分かっているだろう。それでも詳しい説明を求めて来なかったのは、興味がないからというよりも、問うたところでリリアナが答えないと分かっているからだった。
それでもやはり気にはなるのか、探るような視線をリリアナに向けている。リリアナは悠然としたまま静かにオブシディアンの目を受け止めた。
「――あんた一体何を企んでるんだ――って訊いても、答える気はなさそうだな」
「大したことではございませんのよ」
オブシディアンの問いに、リリアナは微笑を浮かべる。一切の内心を悟らせまいとする表情に、オブシディアンは小さく嘆息した。予想はしていたが納得はし辛いのだろう。本当か、と言うように疑わし気な視線をリリアナに向けている。しかしリリアナは表情を変えない。
やがてオブシディアンは諦めたようにあっさりと肩を竦めた。
「まあ、良いけどよ」
これ以上問い詰めたところでリリアナが素直に白状するとは思えない。そう判断したのか、オブシディアンはそれ以上リリアナの本意を尋ねるようなことはしなかった。
「他に仕事は?」
「そうですわねえ。メラーズ伯爵の元に行って頂けるかしら。顔は隠して、夜に潜入して頂けると嬉しいわ」
「潜入?」
リリアナの言い方に、オブシディアンは違和感を覚えたらしい。密偵ではないのかと首を傾げている。リリアナは「ええ」と頷いてみせた。
「明言はなさらなくて結構よ。ただ、アルカシア派が味方に付くと思わせて頂けたら十分」
「――へえ」
目を瞬かせたオブシディアンは、しかし反論も何もしなかった。その程度であれば、オブシディアンにとっては簡単な仕事である。そして同時に、リリアナが詳しく話す気はないことも承知していた。だが、オブシディアンはにやりと笑う。
「何を企んでるのかは知らないけどさ、面白いことになりそうだな」
リリアナは曖昧に微笑む。オブシディアンが“楽しいこと”を好んでいることはリリアナも既に承知している。だがその基準は彼独特で、他の誰も判断できない。
オブシディアンはリリアナが何も言わなかったことに機嫌を損ねることなく、面白がるような光を双眸に浮かべて「良いぜ」と言った。
「楽しそうだからな、やってやるよ」
他に依頼はないと確認したオブシディアンは、短く告げるとそのまま窓から外へと姿を消す。
オブシディアンは最近個人的な仕事も請け負っているらしく、以前よりも多忙になっている様子だった。
元々オブシディアンとリリアナは正式な契約を交わしているわけではない。オブシディアンはリリアナに興味を抱き、付き合っているだけのつもりだ。そしてリリアナもそれを悪いとは思わない。
協力してくれている限りならば共闘できる可能性はあると思っているが、オブシディアンはいつ敵方に寝返るかも分からない存在ではあった。
リリアナはオブシディアンの気配が完全に屋敷の敷地内から消えたことを確認して、鍵のかかる机の引き出しに入れた封筒を取り出す。それは、メラーズ伯爵から届けられた今後の予定を簡単に記したものだった。
「アルカシア派からの連絡があれば動く――その為に王立騎士団を北部領主の小規模な反乱鎮圧に向かわせる、となりますと、猶予はありませんわね」
リリアナは呟く。北部領主の小規模な反乱は、大公派が事を為すために用意した罠だ。当初は大公派の誰もがリリアナのことを重要視せず、計画も共有する気がなかったらしい。だが、今後の計画を順調に遂行するためには王太子に警戒されていないリリアナの存在が重要だと思い直したようだ。そのため、ある程度は状況を共有してくれるようになった。お陰でリリアナもだいぶ動きやすくなっている。元々の予定では、大公派の誰にも気が付かれないよう、影から情報で操る予定だった。その点を考えると、ある程度自分で動くことのできる状況は制御が効きやすい。
「伯爵はエアルドレッド公爵家の動向を詳細には把握していらっしゃいませんでしょう。でも、わたくしが知らせると警戒心を抱かせる可能性もございますわねえ――」
現状を考えれば大公派が計画を完了するのと、エアルドレッド公爵家が真相を掴むのと、どちらが先になるか分からない。そう考えると、リリアナものんびりしている暇はなかった。
「一つ、わたくしもお役に立てることをお伝えしておきましょう」
小さな声で歌うように呟いたリリアナは、筆記具を手に取る。書き始めた手紙は、メラーズ伯爵に宛てたものだった。
*****
深夜、メラーズ伯爵は私室で受け取った手紙に目を通していた。最初は胡乱気だった表情も、やがて興味深そうな色を浮かべ始める。
「――なるほど、確かにこれは有難い」
彼が読んでいる手紙は、つい先日大公派に鞍替えしたいと申し出て来たリリアナ・アレクサンドラ・クラークからのものだった。
その手紙は簡単な内容だが、性質上読み終わった後は火にくべて欲しいと書いてある。だが、伯爵はその手紙を保管しておくつもりだった。
貴族の世界では一体何が弱味になるか分からない。まだ年若いリリアナは理解していないようだが、海千山千の経験を踏んで来たメラーズ伯爵にとってリリアナは小指で捻り潰せるような存在だった。その証拠に、送られて来た文も――確かに年齢の割には落ち着き理路整然とはしているが――どこか若さゆえの無鉄砲な部分が垣間見える。
手紙には、リリアナが簡単な魔術であれば使えることが記載されていた。魔導士になれるほどの魔力ではないが、手紙を鳥の形に変えて送ることができるらしい。この魔術は初級の風魔術であり、メラーズ伯爵が事前に把握していたリリアナの得意魔術を考えると、何らおかしいものではなかった。
だが、リリアナは手紙でとても得意気に魔術が使えることを語っている。ただ、風魔術に適性があり多少訓練した者であれば、手紙を鳥の形に変えて送ることはそれほど難しいことではなかった。そのことが余計に、リリアナの見識の狭さを強調しているようで苦笑が漏れる。
「魔導士にもなれぬ程度の魔術を自慢するとはな。だが確かに、術の有効範囲は広い――か。事を為す際の連絡手段を悩んでいたが、そこには役立ちそうだ」
魔導士になるためには、潤沢な魔力量と魔力を使いこなす技術が必要になる。手紙を鳥の形に変えて送る魔術は初級の風魔術だが、飛距離を伸ばす――即ち術の有効範囲を広げるためには、潤沢な魔力量が必要だった。
そのため、手紙を飛ばす魔術を使えたとしても魔導士になれない水準の者は王都の端から端へと飛ばすほどの魔力量はない。その点を考えると、リリアナには魔導士になるほどの技術がなく、ただし飛距離を伸ばすだけの魔力量はあるのだと理解できる。
メラーズ伯爵は、一つ頷くと二重底になっている机の引き出しを開け、一番下に手紙を入れた。
リリアナは証拠を隠滅したいのか燃やして欲しいと記載していたが、生憎メラーズ伯爵はそこまで親切ではない。万が一の場合にリリアナが裏切ることを考えれば、自分たちに与したという証拠は確保しておきたかった。
「さて――」
呟いたところで、ふとメラーズ伯爵は眉根を寄せた。
妙だ、と違和感を自覚する。
彼の私室には人を寄せ付けていない。隣室に護衛は控えているが、彼らが動いていないということは侵入者でもないはずだ。だが、窓も扉も開いていない室内には間違いなく僅かな風が吹き込んでいた。
「一体なにごとだ」
思わず独り言を漏らし、メラーズ伯爵は壁にかけていた愛剣を手に取る。いつでも敵に斬りつけられるよう構えて周囲を窺うと、その耳に低く押し殺した笑い声が聞こえて来た。
「何奴!」
叫ぶが、声の主は現れない。伯爵は剣を抜き放ち構える。伯爵は鋭く周囲の様子を窺った。少し考えて、伯爵は隣室の護衛に声を掛けようと扉の方に足を向ける。警戒しながらもゆっくりと動き、扉に手を掛けようとした。
「――っ!?」
メラーズ伯爵は息を飲む。愕然としたまま、彼は不審者に対する警戒も忘れて足元を見やる。伯爵自身は魔術を使えない。それでも、屋敷には魔術や呪術が発動できないように陣は張ってある。それほど高度なものではないが、ある程度の術は防ぐだけの効果がある。そのために、伯爵は大枚を叩いて優秀な魔導士を雇った。
それにも関わらず、彼の両足は床に縫い留められたように動かない。それどころか、人を呼ぼうにも大声を出すことが出来なかった。
「閣下と二人でお話をさせて頂きたいのでね、人を呼ばれては困るのですよ」
年齢も性別も判別できないような声が伯爵の鼓膜を震わせる。辛うじて動く首を巡らせて声のする方を見れば、そこには先ほどまでは姿の見えなかった人影がある。背格好は伯爵より華奢に見えるが、輪郭はぼやけていて記憶に残りにくい雰囲気だった。その上、ローブを纏っているため顔も見えない。
伯爵は眉根を寄せて闖入者を睥睨した。
「何者だ」
大声は出ないが、普通の声音であれば出る。どうにか問えば、ローブの男は楽し気に答えた。
「名乗るほどの者ではございませんよ。ただ私は主から、閣下に伝えて欲しいと依頼がありまして伺っただけです」
「主、だと?」
一体誰がお前の主だと、伯爵は眉間に皺を寄せる。だが、闖入者は答えない。それどころか、全く伯爵の心境を斟酌しないまま彼は淡々と言葉を続けた。
「ええ、私の主ですよ。以前、閣下とお話をしたとのことで。是非受けたいとのことでしたので、そのご報告に」
伯爵は眉根を寄せて考え込む。以前話をしたと言われて思い当たる人物はそれほど多くない。だが、長らく関わっている大公派の面々はわざわざこのような面倒な手段で連絡をして来ることはない。それならば、伯爵にある心当たりはたった一人だけだった。
「――そうか。それでは、そちらの手勢も貸して頂けるのだろうな?」
「そうですね、御満足頂ける程度には我が主も協力するでしょう」
「なるほど」
たったそれだけの言葉に、伯爵は満足気な笑みを浮かべる。
明らかに自分よりも目下の者を寄越したことに腹は立つが、闖入者の主の立場を考えれば理解できないことはない。そのため、腹を立てるよりも闖入者が告げた言葉の方が重要だった。
「それならば事を進めるとしよう。お前の主に宜しく伝えてくれ」
その言葉を告げた瞬間、闖入者の姿が掻き消える。明らかに術者は魔術を使っていた。その魔術技術は、メラーズ伯爵が雇った最高級の魔導士の腕前を軽々と超えている。
闖入者が何者か分からない当初は、ただ不安と怒り、多少の恐怖が綯い交ぜになっていた。万全を期したつもりであったにも関わらず、侵入を許したということは魔導士が手を抜いた可能性がある。その可能性を考えれば腹が立ったが、侵入者の主を考えれば、自分が雇った魔導士以上の力を持っていたに違いない。それならば、沸き起こって来た怒りも消え去るような気がした。
「アルカシア派が大公派に与するのであれば、もう十分に機は熟したか」
闖入者は、自身の主を明言しなかった。しかし、伯爵には確信がある。
最近会った人物で、かつ証拠を残さないように配下を差し向ける者。そしてその配下は、高度な魔術を使える。それに該当する人物は、エアルドレッド公爵だけだった。
そしてエアルドレッド公爵がメラーズ伯爵の申し出を支持するのであれば、伯爵の計画は非常に進みやすくなるだろう。アルカシア派の大部分もエアルドレッド公爵に追従し、伯爵の計画の助けになるはずだ。
これまでずっと伯爵は好機を伺っていたが、エアルドレッド公爵が味方に付いたのであれば最早躊躇う必要はない。
「そろそろ具体的な話を詰めるとしよう」
いつの間にか動くようになっていた足を動かし、伯爵は愛剣を元の場所に戻す。そして椅子に腰かけた。
誰にどの役割を任せるのか、おおよそは決めている。しかしクラーク公爵家のリリアナが味方に付いた今、少し変更を加える気だった。既に立てている計画はほぼ成功すると確信しているが、確率が高まるのであれば令嬢であろうが躊躇わずに動いて貰う。問題は、リリアナがどの程度の魔術を使えるのかということだった。
「まあ、魔術が期待以下であっても王太子と国王の元に案内くらいはできるだろう」
メラーズ伯爵は小さく呟く。そして彼は計画に変更を加えるため、ペンと紙を手に取った。









