8. 都鄙の難 3
絶体絶命だと、思った。ここまでの命だと、覚悟した。
周囲は正しく地獄絵図だった。今までも地獄を見て来たと思ったが、比べるべくもなかった。
「最、期が、貴様の顔、と、は――さ、悪だ」
「――ほざ、俺の、」
オルガが息も絶え絶えに苦言を呈せば、ジルドも憎々し気に答える。しかし碌に言葉も紡げない。二人の周囲には二百体近い魔物の死体が氷山となっていた。体から血が流れ傷の痛みに苛まれても、瘴気がなければまだ戦えた。だが、街を包む瘴気は彼らの体力も精神力も著しく消耗させた。
――死ぬのであれば、いっそ。
一体でも多く道連れにしてやると、歯を食い縛った二人が心中で誓った、その時。
――目もくらむような閃光が、周囲を包んだ。
「な――っ!?」
ジルドが絶句する。その光を、彼らは一度だけ見たことがあった。その時、彼らの近くには三人の聖魔導士が居た。彼らは最高位の光魔術を使い、生きた魔物を消滅させた。魔物の死骸であれば、どの街にも居る聖職者の祈祷や魔導士の術、最悪でも火を放てば浄化できる。だが、生きた魔物を消滅させることは、一般人では不可能だ。圧倒的な魔力を見たのは、その時が初めてだった。だが、この近辺に聖魔導士はいないはずだった。
【――ァァァァァァアアアアッッッッ!!】
聖なる光に灼かれた魔物たちの断末魔が響く。それは臓腑から人々を恐怖に浸らせる不協和音だった。光から辛うじて逃れた魔物たちが咆哮を上げ、一点を睨み牙を剥く。ある魔物は触れるもの全てを溶かす唾液を零し、ある魔物は硫黄の漂う黒紫の炎を噴き上げ、ある魔物は全てを消滅させる死の霧を吐き散らす。咄嗟にオルガは己とジルドの周囲に氷の結界を張る。黒紫の炎は二人に到達する前に進行方向を変える。
一瞬、光が弱まった。魔物はその隙に、睨みつけていた一点に向け走り出す。途端に破壊されつくした地面が隆起する。体勢を崩した魔物を踏みつけ、異形の魔物が骨の髄まで凍るような咆哮を上げる。
「――仲間、呼びやがっ――――っ!」
ジルドが叫ぶ。どこからかともなく、魔物が増える。竜巻のように空へと伸びた瘴気が、円を描く。空洞になった中央付近から新たに姿を現した魔物は、更に体が大きかった。禍々しく紫色に鈍く光る血管のような脈動が、体に纏わりついている。
――光が、消える。
姿を現した魔物がニヤリと、笑ったように、見えた。ジルドとオルガの頬を、脂汗が伝う。これまでに現れたどの魔物よりも強い――肌で感じる覇気が、圧倒的だ。
瘴気の中心に開いていた孔が閉じる。魔物はこれ以上、増えない。だが、魔物を浄化する光はもう存在しない。魔物襲撃が始まってから幾度となく覚えた絶望を凌駕する生の断念。一度覚えた期待が失望に変わった時の絶望は、筆舌に尽くし難い。
もう無理だと、しかし己の命を奪う敵の姿は最期まで見届けてやると、二人の傭兵は眼前を睨み据える――。
――――次の、瞬間。
魔物たちの周囲の、破壊しつくされた地面が壺状に隆起する。足場を崩された魔物たちは、バランスを崩し中央――壺の底の部分に押し寄せられる。圧倒的かつ精密な魔術に、オルガは目を瞠る。隆起した地面が直ぐに崩れ、平面になる。しかし、魔物たちは動けない。足元の土が魔物たちの足を固定している。魔物たちはのたうち回るが、足を取られたまま無様に転がる。空を飛ぶ魔物は、その場から動けず発狂する。
そして、消えたはずの光が復活する。身動きの取れない魔物たちを取り囲み、更に強力な光を放つ。視界が白く染まる。眩しさのあまり、ジルドとオルガは目を覆う。目を瞑っても視界が白い。
一体何が起こったのかと息を飲む二人の視界が、徐々に晴れる。光が収まりようやく視力を取り戻した時、オルガは息を飲んだ。
「魔物が、消えた――?」
二人の周囲に残されているのは、魔物に食い殺された数多の死体、崩れた建物の瓦礫と荒れ果てた石畳、そして血の海だけだった。魔物は全て――動いていた魔物も、死んで転がっていた魔物も、全てが消え失せている。
二人は自分たちの目が信じられなかった。嘗て一度だけ見た聖魔導士たちの放った術を圧倒するほどの力だった。光魔術だけでなく、魔物を効率的に浄化するため用いられた魔術も突出していた。
「何故、」
「おい、アレ見ろよ」
絶句するオルガにジルドが声を掛ける。彼が示す方を見た時、オルガは先ほどまでは居なかったはずの少女の姿を捕えた。少女は簡素ではあるものの上等な衣服を纏い、美しくやわらかな銀髪を血の海に散らして。瓦礫に埋もれるように倒れ込んでいた。
痛む体を叱咤して、オルガは少女に駆け寄る。一歩遅れてジルドも近づいて来た。
「死んでンのか?」
外傷はねェみてェだが、とジルドが呟く。オルガは首筋に手を当て脈拍を確かめると、首を振った。
「いや、生きている。寝ているというより、失神しているようだな」
「マジか。ていうかこの嬢ちゃん、どこから来たんだ」
「さあ。少なくとも、あの光が発せられる直前まで居なかったことは確かだ」
どうする、と互いに目で会話する。一つ前の仕事で初めて出会った。実際に会っている期間も短く性格も合わないが、互いの力量は信用している。そして何より、今は非常事態だった。
「放置するという選択肢は、ない」
「――一旦、教会かねェ」
「それが無難だな」
頷いたオルガは「お前が抱えろ」とにべもなく言い放つ。ジルドは顔を顰めたが、文句は言わずに倒れた少女を抱え上げた。多少ふら付くが、瘴気が失せたせいか先ほどよりも体が軽い。
二人は血にまみれ瓦礫に埋もれた道を歩き、街の中心部にある教会に向かった。
*****
少年は森の中でも一番大きな木に登って、のんびりと林檎を齧っていた。その黒い双眸は星のように煌めき、ここではない何処かを見つめている。瘴気が漂う森の中でも、彼は全く体調を崩した様子がなかった。
「この様子じゃあ、あっという間に終わっちまうかァ? それはそれで詰まんねェな」
だが、少年は手出しを許されていない。彼の仕事は全てを見届けることだった。
「全く、人使いが荒ェったらありゃしねェ。手っ取り早く殺っちまえば良いものを、なに遠回りな真似してんだか。お偉いさんの考えることは良く分かんねェわ」
食べ終えた林檎の芯を放り投げると、バサバサと羽音を立てて鳥の形をした魔物が林檎の芯を取り合う。普通であれば腰が抜けるほど不気味な気配を感じながらも、少年は平気な様子で街の様子を眺めていた。
つい数十分前までは平穏な時間が流れていた街も、膨大な数の魔物に襲撃されたら一溜りもない。訓練された騎士団の精鋭たちが居るわけでもなく、魔物退治に特化した魔導士たちが居るわけでもない街が壊滅状態に陥るのはあっという間だった。
瘴気に怯えた馬は使えなくなりあっという間に魔物に食い殺される。
人の足では決して魔物から逃れられない。
転移の術が使える人間がいれば数人は逃げられるが、そもそも転移の術を使える人間は限られている。
剣を持ち戦おうにも、魔物の数が多すぎる。
「呆気ねェ仕事。芸がねェよ、芸が」
少年にとって、今回の仕事は全くもって美学に反していた。圧倒的な力で蹂躙するのは彼の好みではない。多少の知恵を以って相手を潰すことこそ、面白みがあるというものだ。だが、贅沢を言える身分でないことも彼は重々承知していた。
飽いたようにぼやく少年は、しかし次の瞬間目を瞬かせた。
「ンあ?」
なんだありゃ、と呟く。少年の視界が一瞬白く染まったと思えば、視界を取り戻した途端に魔物が消滅している。森の中に漂っていた瘴気も多少緩和されていた。
「聖魔導士でも居たか? ――ンな訳ねェよな、居ねェタイミング見計らったって言ってたよな。そんな初歩的なミス犯すような腑抜けでもねェし」
それは疑うべくもない。少年はその事実を良く理解していた。
即ち、今の街には想定していなかった異分子が存在しているのだ。だが、光が発せられた前後に不審な影は見当たらなかった。逃げる人々と追う魔物、そしてあっという間に肉塊となった犠牲者たちだけだ。
だが、実際に聖魔導士のみに許された術が発動し、魔物は消えた。そしてすぐに、街の反対側でも同様の現象が起きる。
「オイオイ、マジかよ」
少年は珍しく頬を引き攣らせる。視界を切り替えて確認すると、光が放たれた周辺では魔物の姿が消え去っていた。生きた魔物も死んだ魔物も最初から存在していないかのように、肉片の一つすら残されていない。地面に流れる血は恐らく、人が流したものだけだろう。
更に視界を切り替える。
魔物の死骸のみが転がっている場所もあったが、そこは光が発せられた場所から距離がある。浄化の力が及ばなかったのだろう。
「一体誰がやりやがった」
さすがに、この状況を説明するためには下手人の存在を突き止める必要がある。特定できなくともある程度の情報がなければ、落伍者の烙印を押されてしまう。
二度目の光が発せられた場所に視界を切り替える。三つの人影があった。
満身創痍の傭兵が二人、そして気を失った少女が一人――――少年の口角が、にやりと上がった。
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