51. 悪役令嬢の甘い蜜 4
リリアナ・アレクサンドラ・クラークは、ほっとした表情で三つの人影を見送っていた。一人はリリアナも直接面識があるが、もう一人は他人を介してしか接触したことがなく、最後の一人に至っては会ったこともない。一人目は元腕利きの刺客で、リリアナに身を護る術を教えてくれたカマキリという男だった。二人目は裏社会の情報屋を営んでいるという。最後の一人は、隣国に売られそうになっているところを情報屋が助け出したらしい。
「これで、皇国に対して打てる手はある程度駒を進められたと考えて宜しいでしょうね」
ぽつりと呟いたリリアナは、魔術を終了させる。すると、リリアナの視界に映っていた三人は消え去り、見慣れた私室が目に映った。
乙女ゲームでは、終盤に差し掛かるところで隣国との戦争が勃発する。その時既にリリアナの父は亡くなっていて、エミリアや攻略対象者たちは封印具捜索の旅から慌てて王都へと戻らなければならない。しかし正規の道である国境の街道は戦のせいで封鎖され、エミリアたちはそれ以外の道を選ばなければならなくなった。幾つかある候補のうちどれを選ぶかによってもその後の物語に影響があるという、なかなか難しい局面だったことを覚えている。
「ただ、現実ではゲームよりも事件発生が早まっているようですし、早目に手を打っておいた方が安心ですわね」
その内の一つが、テンレックを隣国のゲルルフ――ほぼ間違いなくアルヴァルディの子孫だろう彼の部下として潜入させることだった。
リリアナには、ジルドやオブシディアンが齎してくれた情報がある。一つ一つの情報は無意味なものに見えても、それらをすべて統合し考えれば幾つかの可能性が示唆される。
その中でリリアナが気が付いたのは、ジルドやオブシディアンが接触しているらしい裏社会の情報屋もアルヴァルディの子孫ではないか、ということだった。そしてどうやらその推測は当たっていたらしく、事はリリアナの予想通りに進んでいる。
「アルヴァルディの子孫は、たとえ異国の地であろうと、そして面識がなくとも、同胞の危機と知れば助け出さなければならない――知っていて良かったわ」
リリアナは小さく呟く。今リリアナが生きている世界でも、情報は非常に重要だ。情報一つで簡単に状況をひっくり返すこともできる。敵を知り己を知れば百戦危うからずとは良く言ったものだ。
実際に、リリアナはジルドの言動やオブシディアンが齎したテンレックに関するごく僅かな情報を元に、アルヴァルディの子孫を助けるためという理屈でテンレックを動かせるのではないかと予想した。そしてその予想は見事に当たったのだ。
「皇国、大公派、そして魔王――この三つをどうにかしなければ」
前世の記憶にある乙女ゲームでは、全面に押し出されていたのは魔王のことだった。皇国はゲーム内でも王国に戦を仕掛けて来たし、国境近辺では激しい戦闘も行われた。しかし物語の主軸はヒロインと攻略対象者たちによる魔王の封印であり、戦闘に関しては簡単に触れられた程度だ。
そして現実の状況は乙女ゲームの世界とは徐々に異なって来ている。リリアナが十三歳になるまで具体的な違いは分からなかったが、その時は既にゲームに存在しない人物が生存し、そしてゲームに存在していた人物が死亡していた。今後の展開が大きく乙女ゲームと異なる可能性を考えれば、最悪の可能性を想定して対策を練り、全ての人員を配置し、そして動かさねばならない。
「最悪の展開は、その三つが同時に事を起こすことですけれど」
皇国と大公派に関しては、リリアナもそれほど不安には思っていない。所詮は人間が為すことだ。人が考えることであれば、油断さえしなければどうとでもなる。だが、魔王の復活だけは別だった。
「人智を越えた力ですし、それに――わたくしが死ぬ原因ですわ」
リリアナは苦々しく呟いた。
乙女ゲームの悪役令嬢は、ヒロインがどの攻略対象者を選ぼうと破滅の道を辿ることになる。死なない終焉も用意されてはいたが、その場合は魔力封じの枷を付けられて幽閉されたり国外追放となる。それでも一番多い最期は処刑だった。
いずれの場合も、容疑は王太子殺害未遂と国家転覆だ。そのために闇魔術に手を染めたということは、共通して語られる。その闇魔術は間違いなく、魔王復活を目論んだリリアナの父が仕組んだ呪術によってリリアナの体内に蓄積し続けている魔王の力だ。
そして、仮にリリアナが乙女ゲームと同じ運命を辿らず処刑されなかったとしても、魔王が完全に復活した時点でリリアナの体は奪われ自我を失う。リリアナの体が壊れることなく、魔王の強大な力と魂を受け入れられるかどうかは分からない。しかし、成功しても失敗してもリリアナの心は潰えてしまうに違いない。そうなると、魔王の手によりリリアナの肉体が生かされたとしても、リリアナ自身は死んだことと同義だ。
「魔王の封印については前世の知識に頼っている部分が大きいですし、そもそもその内容自体が誤っている可能性が高いことが問題ですけれど、致し方ありませんものね」
だが、ある程度調査を進めても確定的な情報を得られなかった。これ以上調査をしても碌に分からないだろうと諦めたリリアナは、さっさと駒を進めることにした。
これまでは盤上のどこに何の駒が置いてあるのか、そもそも対戦相手が誰なのか、リリアナには分からなかった。だが父親の手記を見つけたことで、乙女ゲームの知識も併せておおよその状況を把握できているはずだ。何かを見逃している可能性もあるから慢心してはならないが、それでも今後の方策は立てられた。
「とりあえず、皇国の対策としては一旦ここで手打ちとしましょう。次の第二幕は――」
リリアナは、微笑を浮かべる。机に向かうと、手元に数冊の詩集を置いた。そして一通の手紙を認める。その手紙には、宛名人が一度読めば、一定時間の経過後、消失する魔術が掛けられていた。
*****
プレイステッド卿は、手元に届いた手紙に目を通しながら眉根を寄せていた。彼の隣にはオースティンの兄でありエアルドレッド公爵家の当主でもあるユリシーズが居る。彼もまた、予想外の人物からの手紙に困惑を隠せないでいた。
「一体、どういうことでしょうか。メラーズ伯爵は大公派だったはず。王太子殿下を支持しているアルカシア派の筆頭であるエアルドレッド公爵家に連絡を取るなど、普通に考えればあり得ないことだと思うのですが」
「胡散臭いな」
ユリシーズの言葉に、プレイステッド卿も苦い表情を崩さない。
エアルドレッド公爵家を筆頭としたアルカシア派は、先代当主の時代から王太子ライリーを支持することで団結している。その事は大公派の有力者であるメラーズ伯爵も承知しているはずだった。
自分の頭で考えることをしないフランクリン・スリベグラード大公や、何もかもが自分の思い通りになると思い込んでいるようなスコーン侯爵であればともかく、目端の利くメラーズ伯爵が何の勝算もなくエアルドレッド公爵家当主に面会の申請をして来るはずがない。
「卿も、伯爵が何を企んでいるのか情報は掴めていないのですね」
「生憎だが、な。スコーン侯爵や大公と違って、メラーズ伯爵は警戒心が強い」
プレイステッド卿が苦々しく言えば、ユリシーズもその通りだと頷いた。ただ一つ幸いなのは、メラーズ伯爵がエアルドレッド公爵家の邸宅に訪問したいと言っている点だった。これが仮に伯爵邸への訪問を願うものであれば、プレイステッド卿もユリシーズも酷く警戒したに違いない。だが、自宅へ招くのであれば万全の体制で迎えることができる。勝手の分からない敵陣には乗り込まず、自分の領土で事を交えることは、戦略の一つとして有効だ。
「向こうの手の内が分からないからには、一度会ってみた方が良いだろう」
暫く考え込んでいたプレイステッド卿は呟く。ユリシーズは小さく頷いた。そんなユリシーズを横目で一瞥し、プレイステッド卿はほんのわずかに笑みを浮かべる。
先代のエアルドレッド公爵ベルナルドは、非常に優秀な男だった。魔王を封じた三傑の一人、賢者の再来だと噂されていたものだ。だが、プレイステッド卿にすれば、ベルナルドは賢者と言うには心が弱かった。とは言っても、ベルナルドの半生を思えば彼が心を閉ざすのも致し方ないことだった。
そのベルナルドが若くして暗殺され、ユリシーズは突然家督を継ぐことになった。ベルナルドが病に倒れたのであれば、まだ心の準備もできただろう。だが、ベルナルドの死はあまりにも唐突だった。プレイステッド卿でさえ、予測していなかった。
そして突然三大公爵家の当主という重責を負ったせいか、当初のユリシーズはどことなく自信がない様子だった。人前では毅然とした様子を見せるが、その裏ではプレイステッド卿に相談を持ち掛ける。その頻度は初めにプレイステッド卿が想定していたよりも頻繁で不安にも思ったものだったが、今ではユリシーズは随分と当主としての気概が身に付いた。
プレイステッド卿に頼ることは以前と比べると格段に減り、その中でも自分の意見を口にすることが増えている。この調子であれば、当主として独り立ちする日も近いだろう。
プレイステッド卿は、薄く笑みを零す。
そんな彼に気が付く様子もなく、ユリシーズは決意を秘めた表情で手元の手紙を再び封書に戻した。
「それでは、承諾のお返事を差し上げようと思います。お手数ですが、卿には別室に待機して頂き、伯爵と私の会話を聞いていただければと思います」
「ああ、それは無論だ」
ユリシーズがプレイステッド卿に隣室での待機を依頼したのは、恐怖心や自信のなさの表れではない。万が一人払いを命じられた時にユリシーズの身の安全を確保するため、そして第三者としての証人を確保するためだった。プレイステッド卿はエアルドレッド公爵家との関係性が非常に強いが、その地位故に身内の証言だと軽んじられることはない。仮に裁判になったとしても、プレイステッド卿が宣誓した証言にはある程度の信憑性が認められる。
プレイステッド卿の返事に笑みを浮かべたユリシーズは、手紙を認めると言って一度席を立った。
「――そろそろ、プレイステッド卿についても明かす時が来たのかもしれんな」
目を細めたプレイステッド卿は、小さく呟く。しかし、その場から立ち去っていたユリシーズにはその言葉は聞こえていなかった。
*****
ユリシーズ・エアルドレッドとプレイステッド卿がメラーズ伯爵からの手紙を読んでいる頃、王都のとある屋敷では不機嫌そうな男と愉悦を滲ませる男、そして無表情の男が顔を突き合わせていた。彼らの前に立つのは、嫣然とした態度のメラーズ伯爵である。
「メラーズ伯爵、それは本当か。下手をすれば娘のような年だぞ」
「ですから、男女の関係を結ぶ必要はございませんと申し上げました。本人もそれは良くご存知です」
「それで、その娘は一体何を所望しているのだ? 俺の情けを欲しいと言うのではないのか」
不機嫌に文句を口にするのはフランクリン・スリベグラード大公だった。元々、彼は自分よりも年上の未亡人や人妻を好んで愛人にしている。移り気な性質で一人の女性に固執することはほぼないが、それでもフィンチ侯爵夫人とは非常に長く続いていた。
だからこそ、メラーズ伯爵の持ち込んで来た提案には難色を示すのだ。それを分かっていながら、愉悦を滲ませる男――スコーン侯爵はしたり顔で口を開いた。
「確かに、リリアナ嬢は未通女ですから、閣下のお気には召しませんでしょう。しかし、貴族や庶民はそうは思いますまい。美丈夫に美少女が立ち並ぶ、これは確かに衆目を集めることになるでしょうな」
その通りだとメラーズ伯爵は頷く。しかしフランクリン大公は不機嫌な表情のままだった。
「権力を欲する女には碌な奴はいない。足りない頭を絞って良く考えた後に出る言葉は聞くに堪えん事ばかりだ」
「――その点は、問題ないでしょう」
口を挟んだのは、メラーズ伯爵ではなくグリード伯爵だった。三人の視線がグリード伯爵に向けられるが、彼は一切の表情を変えない。そして懐から出して来たのは、可愛らしい便箋に認められた恋文だった。
「どうやら件の令嬢は、王太子の他に懸想している相手がいらっしゃるらしいですな。案外、王太子殿下の心変わりは彼女にとって幸いだったのかもしれんぞ」
「なるほど。確かにライリー殿下とご結婚なされば、愛人を持つにも時間が掛かるでしょうな」
メラーズ伯爵が呟く。伯爵にとっても、グリード伯爵の説明の方が納得しやすいものだった。
リリアナはメラーズ伯爵と会った時に、ライリーの心変わりによって思うように権力を使えないことが嫌だと言っていた。話の内容に筋は通っていたが、元々伯爵は女が政に興味関心を持つことはないと思っている。そのため、グリード伯爵の言う通り、結婚当初から好いた男を愛人に持ちたいと考えたからだと理解する方が納得しやすかった。
そしてそれは、フランクリン・スリベグラード大公やスコーン侯爵にとっても同じだったらしい。二人ともグリード伯爵が手に入れたというリリアナの恋文を手にして文面に目を通し、失笑しながらもどこか納得したような表情を浮かべた。
「ふん、女子供が好きそうな言葉ばかりだ――『貴方の太陽の如き瞳を、貴方の暖炉の火の如く暖かな言葉を、わたくしは求めて止まないのです』とはな」
まだ少女であっても所詮は女だ、とスコーン侯爵は呆れ顔で吐き捨てる。その点には言及せず、メラーズ伯爵は手紙のあて名を見て再度納得したように呟いた。
「秘密の恋の相手は、どうやら大公派の嫡男のようですね。北の伯爵家の者――ふむ、確かに出自を考えると、ライリー殿下と成婚してしまえば愛人にすることは難しいでしょう。グリード伯爵、この手紙は私が保管しておいても?」
「勿論構いませんよ、メラーズ伯爵。貴方であれば適切な時機に、最適な形でご活用くださるでしょう」
メラーズ伯爵の申し出に、グリード伯爵は一も二もなく頷いた。直接的な言葉ではないものの、グリード伯爵が意味している内容は明らかだった。即ち、リリアナを脅迫する材料に使える――ということだ。
そして、フランクリン・スリベグラード大公もようやくここで溜飲を下げた様子だった。
「なるほどな。最初から白い結婚ということか。跡継ぎには俺の子が居れば良いのだから、適当に愛人に産ませるか。フィンチ侯爵夫人なら血も元々王家に近い、問題はないだろう」
「それが宜しいかと。アルカシア派を取り込む手筈は整っておりますから、後は最後の駒を進めれば閣下には王宮に入って頂くこととなりましょう」
どこかほっとしたように、メラーズ伯爵が頷く。そして彼は、リリアナ・アレクサンドラ・クラークの恋文を懐に仕舞った。
「そう考えると、ある程度は彼女にも計画を共有して動いて頂いた方が良いでしょうね。我々は王太子殿下に警戒されていますが、さすがに婚約者を疑うことはないでしょう」
「そうだな。精々、役立ってもらうこととしようか」
メラーズ伯爵の言葉に、スコーン侯爵は嫌らしく口角を歪める。彼にとって、リリアナはどうでも良い存在だった。だが、年若く恋に現を抜かす娘なのだから御しやすいことは間違いないだろうと見当を付ける。もし不要になれば病にでもなって貰えば良いのだと、その場にいる誰もが考えていた。
リリアナが北の伯爵家の恋人に宛てた手紙は、密会を終えた伯爵が帰宅した後、厳重に屋敷の金庫へ保管された。その金庫には外部からの魔術や呪術の影響を受けないよう細工が施してある。しかし、内部で魔術や呪術が発動することは想定されていなかった。
だから恋文が金庫に入れられた半刻後、すっかり消失したことに気が付く者は誰もいなかった。
9-1
23-7
49-1









