50. 繭の糸 4
最初に口を開いたのは、第一皇女だった。
会議の前提を根本から覆すようなローランドの台詞を、皇女は許せなかったらしい。
「貴様――言うに事欠いて、まさか王国に阿るつもりではないだろうな?」
「まさか」
しかしローランドは動じない。あっさりと肩を竦めて、ぐるりとその場にいる面々を見渡した。最初に動揺から立ち直ったのはキュンツェル宮廷伯だが、そもそもローランドの側近であるバトラーは動じてすらいない。他にも数人の貴族が順に立ち直りを見せるが、その誰もが未だ与する派閥を決めていない第一皇子の元側近だった。
彼らは第一皇女よりも先に冷静さを取り戻していたようだが、皇族同士の議論に口を挟む真似はしない。しばらく傍観を決め込むつもりのようだった。
「だが、実際にそう考えねば辻褄は合うまい。国宝黒水晶が保管されている宝物庫には、皇族しか入れぬと決まっている。しかもそこに辿り着くためには宮廷の特殊な通路から向かわねばならず、その通路を知る者は皇族の中でも限られた者だけだ。王国の人間が、どうしてそのような宝物庫に入ることができる?」
ローランドの指摘は尤もだった。宝物庫に入れる者が一部の皇族だけであるという事実だけで、仮に王国が黒水晶を狙っているとしても、皇族の関与が濃厚だ。そのため、ローランドはその噂を聞きつけた時に第一皇女か第三皇子の目論見ではないかと考えた。そしてもう一つの可能性は、皇帝が次代を指名するための試金石とした可能性だ。
たとえ噂を本気にした第一皇女や第三皇子が何らかの手を下したとしても、動くのは彼らの手勢であり、カルヴィン配下の皇国軍は動かない。辺境の領主たちが第一皇女や第三皇子の呼びかけに呼応としたとしても、カルヴィンとしては領主たちの首を挿げ替えれば良いだけだ。実際にカルヴィンはここ最近繰り返された辺境での小競り合いに際し、王国から苦情が届けられる度、辺境領主の独断だったとして領主たちの首を落とした。彼らの動きを知らぬはずはないが、敢えて止めることもせず成り行きを見守る。広大な領土と民を統べる皇国だからこそ許される態度だが、カルヴィンは己の治世において一切その姿勢を変えてはいなかった。
第一皇女が唇を噛みしめ黙り込む。第三皇子マティアスも不機嫌に顔を顰めたが、反論を見つけられなかったのか無言を貫いた。
やがて喉から絞り出すように、唸り声のような言葉を発したのは第一皇女だった。今にもローランドに飛び掛からんとする気迫だ。
「つまり貴様は、皇族の中に王国と密通する不届き者がいると?」
ローランドは静かに第一皇女の睥睨を受け止める。一見したところは平静だが、内心では“毒殺の前に闇討ちを警戒すべきかな”とあらぬ心配をしていた。
「さあ。王国と知り協力を申し出たのか、もしくはそうとは知らずに諭されたのか、それこそ俺の知ったことではない」
内心とは全く関係ない台詞をローランドはにべもなく吐き捨てる。第一皇女の額に青筋が立つが、ローランドは一切構わなかった。どれほど短気であろうと、さすがの第一皇女も皇帝の前で第二皇子に斬り掛かるようなことはできない。
それを承知で、ローランドは更に言葉を重ねた――目的は、第一皇女か第三皇子どちらかの牙城に罅を入れることだ。第一皇子亡き今、第一皇女と第三皇子に一時的であろうと手を組まれては面倒なことこの上ない。だが、組まれた時のことを考えれば、双方の陣営からそれなりに使える人材を離反させておきたかった。
「それでは貴様の考えを訊かせて貰おうか。そのまま放置し国宝が奪われるのを見逃すとでも抜かすか?」
恫喝するような声音で第一皇女が尋ねる。まるで破落戸だと思いながらも、ローランドは「いや」と首を振った。
「国宝が奪われるなどあってはならないことだ。当然警戒はすべきだろう。だが、宝物庫に入れる皇族は多い。片っ端から皇族を捕らえその背後関係を調べる? まさか、時間も金も無駄にかかるだけだ」
ローランドの言葉に、納得したように頷いてみせたのは第三皇子だった。マティアスは無言でローランドと第一皇女の会話を聞き、ここはローランドの発言に乗った方が良いと踏んだのだろう。そういう空気を読む術には、マティアスは長けていた。
「確かに兄上の仰る通りですね。既に宮廷から遠く離れ、地方の領地で静養されている方も、離宮で悠々自適の生活を送っている方もいますから。彼らにまで調査の手を伸ばす必要はないでしょう。仮に彼らが宮廷に現われたら、その時点で怪しんでくれと言っているようなものですから」
にんまりと笑むその表情は全く油断ならない。案の定、第三皇子は白々しく「ああ、となると」とまるで今思い付いたかのように決定的な言葉を投げつけた。
「今ここにいる三人が、被疑者としては最有力候補になりそうですねえ。勿論私は違うと断言できますが――、宮廷に寄りついていても誰も不審に思いませんよ」
「何を馬鹿なことを。マティアス、貴様が一番疑わしいだろう。昔から妙なことには頭が回るからな」
第一皇女か第二皇子が怪しいと、第三皇子は断言する。すると、それまで辛うじて聞き手に回っていた第一皇女が苛立たし気に吐き捨てた。しかし第三皇子は平然としたまま動じない。視線をちらりと皇女に向け、皮肉気に口角を上げた。
「ご謙遜を。姉上は長期的計略が致命的に不得手ですが、その分短期決戦であればそれなりに上手い案を思い付くこともあると、私は存じていますよ」
にんまりと言い放つマティアスの言葉には敬意の欠片もない。一瞬第一皇女は眉根を寄せたが、マティアスの言外の意味を理解した途端、がたりと音をさせて椅子から腰を浮かせた。
部屋に入る前に武器は全て預けているが、もし腰に愛剣を提げていれば既に抜刀しマティアスに斬り掛かっていただろう。しかしさすがに殴り掛かるのも不味いと分かっているのか、第一皇女の側近が主の体を抑えた。
「野蛮な」
マティアスがぽつりと呟く。しかし幸いなことに、その言葉は第一皇女の耳には届かなかった。
二人の会話を見守っていたローランドの視線の先で、どうにか落ち着きを取り戻した第一皇女は苛立ちを机にぶつける。拳で机を叩けば、叩いた箇所に罅が入った。しかし皇女の手には傷もつかない。当然気にする素振りすらなく、第一皇女は口の減らない弟を睨みつけた。
「貴様は知らんが、少なくとも私ではないことは確かだ。それにこの場に居ない皇族だって可能性はあるだろう。そうとも、イーディスなどはどうだ。あの娘は皇帝陛下の命だと言われれば、疑うこともなく素直に従うだろうよ」
第一皇女の台詞に、ローランドの眉がほんのわずかに動いた。だがその変化に気が付く者はいない。
元々第一皇女はイーディスのことを嫌っていた。戦闘狂とも言われるほどの女だからこそ、守られることが似合う深窓の姫そのままのイーディスが気に食わないのだろう。その上、イーディスは目立った功績を挙げていないにも関わらず、皇帝の掌中の珠と噂されるほど皇帝に気に入られている。それが余計彼女の苛立ちを煽っていることは、ローランドにも察しがついた。
だが、第一皇女の指摘は妥当ではない。ローランドは宝物庫にある黒水晶を見ている。黒水晶は非常に大きく、イーディスでは宝物庫から外に持ち出せない。仮に途中まで協力者を同行させたとしても、宝物庫にはイーディスだけしか入れない。そして黒水晶を協力者に渡そうと考えても、床に設置してある装置を破壊し黒水晶を抱え上げ、宝物庫の外に出さなければならないのだ。現実的に考えて、イーディスにそのような体力はない。
しかし、ローランドは今そのことを口にするわけにはいかなかった。ここ最近宝物庫に足を運んだと知れてしまえば、一体何をしに行ったのかを問われることになってしまう。ローランドは黒水晶に何を尋ねたのか、誰にも告げてはならない。
「まさか」
ローランドは第一皇女の発言を鼻で笑い飛ばした。確かに昔のイーディスならば、第一皇女が指摘した通り、周囲の甘言に惑わされ謀反の片棒を担がされた可能性はある。実際に幼い頃の彼女は、スリベグランディア王国の王太子ライリーと結婚するのだと信じて疑っていなかった。
だが今のイーディスは違う。政敵どころか皇帝にも知られぬよう秘密裏にブロムベルク公爵夫人ヘンリエッタ指導の下教育を受け、自らの頭で考えられるようになった。皇位継承争いに名乗りを上げるには不十分だが、貴婦人としては十二分すぎるほどの思慮深さを見せることもある。
――無知は大きな弱点だ。だが、無知を装うことは時として身を護る術ともなる。
その事を、ヘンリエッタ・ブロムベルクもイーディスも、そしてローランドも良く知っていた。
しかし、ローランドが口を開く前にマティアスが言葉を挟んだ。その表情には僅かに焦りが見える。このままローランドの独壇場にさせるわけにはいかないと思ったに違いない。
「あり得ませんよ。そもそも黒水晶をあの華奢な体で運ぶことなどできるわけがありません。それは私も同じです。姉上のように、令嬢の作法も放り出し体を鍛えている者なら壊して運べるかもしれませんね。そうなると話は別ですが」
「私が犯人だとでも抜かすか、マティアス!」
第一皇女が怒鳴りつける。しかし第三皇子は動じない。そしてローランドは、違和感に目を細めた。
宝物庫には、皇族もまず足を踏み入れない。ローランドが見た黒水晶はかなり大きく、ローランドであろうと一人で持ち出すのは難しいと思ったほどだ。時間をかけて器具を使えば大丈夫かもしれないが、そうなると露見する危険性が高くなる。
だが、その事実を知っているのはそもそも宝物庫に足を踏み入れ、黒水晶を自分の目で見た者だけだ。
それを考えると、第一皇女は黒水晶を見たことがないに違いない。存在は知っているが、黒水晶がどの程度の大きさなのか分からないから、被疑者にイーディスの名を挙げた。しかしマティアスは明らかに、黒水晶がかなり大きいと知っている。
つまり、黒水晶を使って王国との対立を深めようと考えた可能性が高いのは第一皇女ではなく第三皇子だ。皇帝の可能性も捨てきれないが、少なくとも黒水晶を利用しようと考えるのであれば、普段からその存在を意識していなければならない。第一皇女の側近を見ても、そもそも黒水晶の存在を知っている者などいなかった。
「無意味な争いだな。俺は黒水晶がどの程度の大きさかは知らんが、マティアスの言う通りならば誰も持ち出せんだろう。さすがに宝物庫で黒水晶を破壊すれば、たちどころに知れる」
それに、とローランドは話を元に戻した。今ローランドにとって重要なことは、黒水晶の盗難に関する真実を追求することではない。自然な流れで、皇帝の企みを明らかにすることだった。
「イーディスのことなら心配は要らん。仕える人間も、周囲に近づく者も、全て俺が管理している。俺が許可を出した者以外は不用意に近づけん」
当然“許可を出していない者”にはどの派閥にも与さずイーディスに婚約者を宛がおうと企む貴族だけではなく、第一皇女と第三皇子の手先も含む。ローランドの自信に満ちた言葉に、第一皇女は一瞬怯み、第三皇子は眉根を寄せた。
「――まさか」
掠れた声は第三皇子のものだった。ローランドは唖然としているマティアスを横目で一瞥する。どうやらマティアスだけは、ほぼ正しい情報を掴んでいるらしい。一方の第一皇女は正確な情報を未だ入手できていないか、もしくは齎された知らせを嘘だと思い込んでいるのだろう。
案の定、第一皇女は「何を馬鹿なことを」とローランドの台詞を一笑に付した。
「たかがそれしきのことで、王国の間者を退けられるものか。所詮は貴様の自己満足に過ぎないのだろうが」
「皇帝陛下にもご承諾いただいた上でのことだ、無論、温い人選などするはずがない」
第一皇女の言葉に、ローランドは肩を竦める。同意を求めるように顔を皇帝に向けると、カルヴィンは楽し気な笑みを浮かべたまま首肯した。そのことに、一部の貴族たちが息を飲む。第一皇女も顔色を失い、そして第三皇子は嫌らしい笑みを浮かべた口角を引き攣らせていた。
皇帝陛下にもご承諾いただいた上でのこと――即ち、皇帝は掌中の珠であるイーディス皇女の後ろ盾としてローランドを指名したという意味だ。
当然、耳聡い者たちはローランドが皇帝と謁見したという情報を掴んでいる。その中で一体何の会話をしたのかは、未だ広まってはいない。だが、決してローランドは必死に隠していたわけではなかった。それなりに情報網を持つ者は、ローランドがイーディスの後ろ盾となったことに薄々勘付いていたに違いない。その証拠に、宮廷でも有力者と名高い貴族たちは殆ど顔色を変えていない。
彼らにとって、今この場は自分の中にあった疑惑が事実だと確定したという、ただそれだけのことだった。とはいえ、情報を事前に掴めていなかった者たちにとっては青天の霹靂だろう。
第二皇子は、皇帝と晩餐を共にしただけでなく、皇帝が目に入れても痛くないというほど可愛がっているイーディス皇女の後ろ盾に正式に指名された。
その事実は、第一皇子亡き後、雌雄を決しきれなかった宮廷の権力図を塗り替えるだけの力があった。
「故にイーディスは内通者にはなり得ない。そして俺はそもそも今の段階で王国に戦を仕掛けることにも、王国との緊張関係を高めることにも反対だ。隣国と戦をするにしても、国内が今のように三分され不安定なままでは負け戦となり、他ならぬ民が禍を被る。そうなれば税は取れず、畢竟我が国の財政が圧迫される」
そこまで告げたローランドは、未だ衝撃から覚めない第一皇女と第三皇子から視線を外し、真っ直ぐに皇帝を見つめた。
「他の事情を斟酌せず本議題のみについて申し上げるのであれば、根も葉もない噂に踊らされ無駄に人と金と時間を費やす愚を見過ごすことこそ愚の骨頂と、愚考致す次第」
皇帝は答えない。部屋に沈黙が落ちる。緊張に満ちた時間がどれほど流れたか分からない。永遠にも感じる時の後、ようやく皇帝はその口を開いた。彼が声を発するのは、議題を述べた時以来だ。
「なるほど。それならば、お前は此度の議題として何を提言する」
ローランドはほんのわずかに口角を上げた。人によっては、それを不敵な笑みと受け取っただろう。確かにローランドはその時、一切の緊張を覚えていなかった。
国宝、黒水晶盗難の疑惑については釣り餌だ。真に皇帝が議題として考えていたことを、ローランドは当てなければならない。第一皇女と第三皇子は、皇帝の意図が読み切れないようだ。必死に取り繕ってはいるものの、わずかに動揺が読み取れる。しかし、ローランドにとってはそれほど難しい内容でもなかった。
「イーディスの婚約問題」
低くローランドは答えた。皇帝は片眉を上げる。真っ先に反応したのは、第三皇子だった。
「は――何を、」
馬鹿げたことを、とでも続けたかったのかもしれない。しかしローランドは第三皇子には一瞥をくれることすらなく、淡々と言葉を続けた。
「イーディスとの婚姻により一大派閥を作り上げ、皇位簒奪を目論む謀反人の処断について」
第三皇子が息を飲む。第一皇女に至っては、信じられないものを見るような目でローランドを凝視している。貴族たちも、吐息一つ漏らすことさえ憚れるとでも言うように固唾を飲み、ローランドと皇帝の様子を窺っていた。
48-3
49-2









