50. 繭の糸 2
リリアナと男の間で、ばちっと大きな音がする。鈍色の光によって弾かれた手をまじまじと眺めた男は、やがて耐え切れなくなったように低い笑い声を漏らした。
『単なる器かと思っていましたが、存外彼の方の力を使いこなしているようですねえ』
「誉め言葉として受け取っておくわ」
どこか挑発するような響きの男の言葉にも、リリアナは一切動じなかった。アジュライトが恨んでいると言われた時に一瞬浮かんだ動揺も、既に消え去っている。落ち着き払ったリリアナを眺めながら、男はリリアナの出方を窺うような視線を向けた。
『あの黒き獣は、無理矢理人の手によってこの世界に連れて来られたのですよ。本人の意思に反してそのようなことをすれば、どれほど悪感情が芽生えるか想像もつくというものでしょう』
リリアナは内心で首を傾げた。
先ほど男が言い放った言葉と今の台詞は、矛盾しているように思えた。自分の意思に反して何かを無理矢理させられた時、不快に思うのは人間のはずだ。もしかしたら魔に属する者も同じような感覚を持つのかもしれないが、いずれにせよ目の前の男がただリリアナを動揺させたいと考えていることだけは確かだ。
一方でアジュライトからは、リリアナを害したいという思いを感じ取ったことはない。寧ろ今リリアナを責め立てようとしている男の方が、リリアナに対しては害意がある。
「そうでしたの。召喚、と言えば良いのかしら。少なくとも術者はわたくしではなくてよ」
『ええ、術者は確かプルフラスとか名乗っていましたね。ですが、誰が術者であろうと私たちには関係ないのですよ。要は人間が為したということが問題なのです』
男は吐き捨てるように告げる。
プルフラス、と言われてリリアナは思い至った。
以前魔導省長官ニコラス・バーグソンが死んだとき、彼には隷属の術が掛けられていることが分かった。その術に組み込まれていた名前が“プルフラス”だった。
恐らくニコラス・バーグソンを良いように使っていた人物と、アジュライトを召喚した人物は同一なのだろう。
「そうでしたの」
リリアナは、目の前の男から自分の興味が失せたのを感じた。プルフラスという人物が何かしらの方法で父親の目的に絡んでいることは、これでほぼ確定した。魔王を復活させたいと企む者がリリアナの父親以外に居るとは早々思えない。寧ろ一人で十分だ。
だが、リリアナの薄い反応は男にとっては不満だったらしい。
『その術者は、貴方の血縁だったのですよ。だから、黒き獣の恨みは一入です』
「まあ」
困ったわ、というようにリリアナは微笑んでみせる。しかし本当に困ったと思っているわけではなかった。そして、その態度が一層男の苛立ちを煽る。
『貴方と懇意にしておいて、そして最後には裏切り貴方を殺す――そういうことが簡単にできるのですよ』
「それでは、わたくしが死が怖いと言っているように聞こえますわ」
リリアナは薄く笑んだまま、さらりと口答えする。男が一体何を目的にアジュライトとリリアナの関係性を悪化させようとしているのか、リリアナには分からなかった。
人間と人間の関係も、魔物と人間の関係も、互いに意思疎通が図れるのであればそれほど変わりはない。友と思っていた存在が次の瞬間には敵になることもある。そうでなくとも、疎遠になることはありふれた出来事だ。
永遠の関係を信じるほど、リリアナも子供ではない。
しかし敢えてそれを口にする気もなく、リリアナは敢えて死について口にした。
魔に属する存在――それも自分に対する敵意を隠さない存在に、本音など伝えても意味がないとリリアナは思っていた。
だが、男はリリアナの言葉が思っていたものと違ったのか、眉根を寄せて逆に質問を重ねた。
『あなた方にとって死は恐ろしいものでしょう』
「あなた方のような存在にとって、死は恐ろしくございませんのね」
男の問いには答えず、リリアナは話題を魔に属するものへとすり替える。男が胡乱な目を向けると同時に、リリアナは更に言葉を重ねた。
アジュライトとリリアナの間に不信を植え付けようとする男の態度に、いい加減リリアナもうんざりしていた。
「貴方が恐ろしいのは永久の消滅かしら」
どうやら男は、リリアナの言葉が自分に対する脅しだと受け取ったらしい。呆れと嘲笑を同時に浮かべると、鼻を鳴らして見下げ果てたというような声を出す。
『人間などに私たちを消滅させることなど出来ませんよ。できるのは我らが主だけです。人間にできるとしても封印ですが、それも脆いものです。年月が経てば、私たちは復活できるのですから』
「そう、圧倒的な力には敵わないと仰るのね」
『人間には到底、手に入れられぬ力ですよ』
男は自分たち魔の存在が人間よりも遥か高みにあるのだと信じて疑っていない。リリアナは小首を傾た。
「あなた方が平伏する主とやらの力が遥か小さなものになったとしても、あなた方は変わらず陛下として仰ぐのかしら」
『何を馬鹿なことを』
リリアナは、男が正直に答えるとは思っていなかった。もし反応があるとしても、変わらずリリアナを馬鹿にしたものに違いない。
しかし、男の口はあっさりと真実を語った。
『力を失えばそれは最早我が主とは言えませんよ。しかし我らが持つ力は生まれつき失われることはないのです。たとえ一時的に他の器へと力を預けたとしても、最後には必ず本人の元へと戻る。力がある限り、私たちは滅しない。あなた方のような脆弱な存在とは違うのですよ』
「初耳でしたわ。ですからあなた方は、永遠にも近い力をお持ちですのね」
にこやかにリリアナは頷いてみせる。
段々とリリアナの予想外の反応が気味悪くなってきたのか、男は眉根を寄せたまま無意識に半歩、後ろへ下がった。しかしリリアナは一切遠慮することなく、問いを重ねた。
「それでも、あなた方であっても消滅することはありますでしょう。死はなくとも、魂の消滅は身近なのではないのかしら。そう、例えば」
そこでリリアナは言葉を切った。一切の反応を見逃すまいと、男を注視する。
「破魔の剣は、封印ではなくあなた方の力を消滅させるものではなくて?」
男は答えない。ぎろりとリリアナを睨みつける。しかしリリアナは動じなかった。
緊張がその場を支配する。男がいつリリアナを攻撃して来るか、リリアナには分からない。今のリリアナでは、男と闘ったところで確実に勝てるとは言い切れなかった。
その時、二人の間に風が舞う。目を瞬かせたリリアナと男は、ほぼ同時に風の正体に気が付いた。
『お前――っ!』
咄嗟に男が叫ぶ。風の中から姿を現したのは、黒い獅子だった。
リリアナは瞠目する。まさか今ここでアジュライトが姿を現わすとは思っていなかった。それどころか、アジュライトはリリアナを背後に庇うようにして男を睨み据えている。牙を剥き出しにして喉奥で唸り、明らかに敵意を示していた。
もしかしたらアジュライトは男と対立しているのか、と思ってしまうほどだ。
そして男は、そんなアジュライトに対して警戒心を持っている様子だった。一歩下がってアジュライトから距離を取ると、リリアナが男に向けて言い放った言葉と全く同じ台詞を口にする。
『このような深夜に、淑女の部屋を訪れるなど常識を疑いますね』
『お前に言われる義理はない。そもそも俺はお前に、関わるなと言ったはずだが?』
『そうでしたか?』
低く唸ったアジュライトに、男は小首を傾げてみせた。黒い毛皮に包まれたアジュライトの表情は変化が分かりにくいが、男の言葉に更なる怒りを煽られたことは間違いない。今にも飛び掛かろうとするかのように、体勢を低くする。
男はそんなアジュライトを見て、呆れたように嘆息すると肩を竦めた。
『全く、昔から貴方は変わりませんね。決して道を共にすることはできない相手に心を寄せ、最後には心を痛めることになるのです。その娘に心を砕いたとしても、彼の方の復活を心待ちにしている私たちにとっては両立することなど出来ない願いですよ』
アジュライトは答えない。だが、その反応こそが男の指摘を肯定していた。更に男は言葉を重ねる。どこか苛立っているように見えるのは、リリアナの錯覚ではないだろう。男は腕を組み、指先で神経質に自分の腕を叩いていた。
『どのみち彼の方が復活する折には、その娘は命を落とす他ないのです。そこまで彼の方の力が身に馴染んだ以上、生かしたまま力を剥がすことはできませんからね。私たちが優先すべきは彼の方の安全であり、それを損なうことは如何様な理由があろうと許されません』
『――黙れ』
男の言葉を無言で聞いていたアジュライトは、とうとう耐え切れないというように声を絞り出す。しかし男は片眉を上げてアジュライトを見下ろした。
『私は親切心から言っているのですよ。貴方とそこの娘が懇意にすることは、双方にとって利がない。捕食者と被捕食者の心通わせる愛情深い物語など、人間が好む児戯であり、高貴な存在には不要なものです』
『黙れ、ベルゼヒュート』
アジュライトは相手の名を口にする。警告に満ちたその声音に、さすがの男も口を噤んだ。苛立ったように顔を顰めて、双方が睨み合う。
黙ったまま二人の会話を聞いていたリリアナは、思わず遠い目をしていた。
自分が話の中心であることは間違いがない。だが、実質的にリリアナは蚊帳の外だ。一触即発の空気の中、リリアナは恐怖よりもうんざりとした気分の方が強かった。
ベルゼヒュートと呼ばれた男とアジュライトの力は、最高位の魔術を使える人間を遥かに凌ぐことは確実だ。部屋の中で暴れられてしまえば、間違いなく部屋どころか屋敷全てが、もしかしたら敷地全てが破壊されてしまいかねない。
そうならないように、二人が術を繰り出すようであればどこか遠方へ――例えば遥か上空へ転移させた方が良いだろう。しかし二人は素直に転移されてくれるのかと、やがてリリアナは妙な方向へ思考を飛ばした。
ふと、リリアナはいつの間にか二人が沈黙していることに気が付いた。窓の外にやっていた視線を二人の方へと向けると、アジュライトとベルゼヒュートは複雑な表情を浮かべてリリアナを凝視している。寧ろベルゼヒュートの表情には呆れの色が強い。
もう口論は良いのだろうかと、リリアナは小首を傾げて二人を見返した。
「もう宜しいのですか?」
『いや――』
アジュライトが言葉を濁す。気まずそうに視線を逸らすアジュライトとは違い、ベルゼヒュートは更に呆れを強くした視線でリリアナを見やった。
『今まで私たちは、貴方の話をしていたのですがね。貴方はこの黒い獅子に殺されても構わないとでも言いたげだ』
「あら、そのようなこと、口にしたこともございませんのに」
リリアナは苦笑を浮かべる。
ベルゼヒュートの話を統合すれば、アジュライトの立場や彼の目的もおおよそ見えて来る。アジュライトもベルゼヒュートも、魔王の眷属であることは間違いがない。そして二人は――厳密に言えば一匹と一人だが――魔王の復活を心待ちにしている。魔王復活のためには、恐らくリリアナの体内に入り込んでいる魔王の魔力が必要なのだろう。だがリリアナがその力を体に馴染ませてしまったため、リリアナの体から分離させる時にリリアナは命を落としてしまうに違いない。もしかしたらリリアナが死なずに済む方法もあるのかもしれないが、その方法をベルゼヒュートやアジュライトは知らないのだろう。もしくは、知っていても魔王を傷つける可能性があるためその手段を取ることはない――ということだ。
だが、リリアナはアジュライトに殺されるという可能性を考えたことはなかった。元々殺されるのだとしたら攻略対象者たちの誰かの手によるものだと思っていたし、父の思惑を知ってからは、本来であれば父親に魔王として殺される予定だったのだと分かったからだ。アジュライトたちの手によるまでもなく、死は常にリリアナの身近に存在していた。
そんな中で、リリアナにとってベルゼヒュートの話は衝撃的なものではなかった。予想外の言葉が多く全く動揺しなかったと言えば嘘になるが、リリアナにとっては有難い情報でもあった。
「生き残るためでしたら、わたくし、何でも致しましてよ」
その瞬間放たれた気迫に、ベルゼヒュートは僅かに目を瞠る。アジュライトもまた、魅入られたようにリリアナを凝視していた。しかし、すぐにベルゼヒュートは苛立った様子で空咳を二、三度する。リリアナから視線を逸らすと、アジュライトに顔を向けて低く告げた。
『私は忠告しましたからね。貴方が主を裏切るようなことがあれば、その時は私自ら貴方を裁いて差し上げます』
その言葉と共に、ベルゼヒュートの姿は部屋から消える。気配も一切感じられなくなり、彼がどこか遠くへ転移したことが分かった。
リリアナはアジュライトに顔を向ける。アジュライトは気まずげそうに視線をそらしていたが、リリアナは全く気にせずに尋ねた。
「そういえば、今日マリアンヌが作った菓子が残っておりますのよ。宜しければ召し上がる?」
アジュライトは目を瞬かせて顔を上げる。リリアナの顔をまじまじと見つめたアジュライトは、やがて小さく息を吐くと微苦笑を浮かべて頷いた。リリアナの提案が、ベルゼヒュートの話を全て水に流す意味だということに、アジュライトは気が付いていた。









