表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢はしゃべりません  作者: 由畝 啓
第一部 悪役令嬢はしゃべりません
310/563

47. 魔王復活の予兆 2


ライリーが異様な雰囲気に気が付いて目を覚ましたのと同じ頃、隣国ユナティアン皇国でも目覚める人が居た。平民にしては豪奢だが貴族にしては質素な寝台に寝ていたその男は、何の予兆もなく目を開く。夢を見ていたわけでもなく、そして胸騒ぎを覚えたわけでもない。ただ、懐かしさを覚える感覚に胸を高鳴らせ、ゆっくりと体を起こした。


「――とうとう来たか」


長い間、彼はその日を夢見て来た。だが彼に出来ることはなく、ただ長い年月に渡り命を繋ぎ続けるだけだった。魂の奥底に存在している憎悪と慟哭の欠片を決して表に出さぬよう留め、神の元で修業を重ねる修道士のように己の精神を律する。それも時折耐えられなくなりそうだったが、ある日出会った運命を思えば乗り越えることもできた。


男は寝台から立ち上がると、上に何も羽織らずバルコニーに出た。息を整え集中し目を細め空を見上げる。すると、空中に漂っていた深い闇が密度を増して徐々に男の体内へと入って行く。その闇は、言うなれば瘴気を圧縮させたようなものだった。だが瘴気よりも遥かに強い力が内包されている。

暫く男はそのままバルコニーに立ち続けていたが、少ししたところで違和感を覚えたらしく眉根を寄せた。体内に入って行く闇も、いつの間にか消えている。


「妙だな」


思わずといった様子で男は呟いた。まじまじと己の掌を眺め、握ったり開いたりを繰り返す。それでも体内に入り込んだ闇の量は変わらない。


「本来なら全て私の元に来るはずなのに――ごく一部しかまだ復活していないのか?」


その割には闇の密度は十分だ。一体何故だろうと、男は考え込む。尤も一度闇の力を手に入れてしまえば、後は時間をかけて増幅すれば本来の量まで戻すことはできる。ただそれには時間が掛かるため、本来であれば復活した闇を全て自分の体に取り込むことになるはずだった。


この世に存在するすべての者には生体恒常性(ホメオスタシス)という性質がある。一般的な概念でないことは知っているが、魔力を扱う人間であれば誰もが感覚的に理解していた。つまり、魔力が激減しても、時間の経過と共に魔力量は本来自分が持っている量まで戻るのだ。

男にとって空中を漂う闇は本来彼に属するものであり、一度体内に取り戻してしまえば、遅かれ早かれ量は元に戻る。それでも本来彼が持っていた闇の力はかなり膨大だったため、今体内に取り込んだ分を元に増やすのでは、ほぼ間違いなく人間の一生分では足りない。


「全てを取り戻すにはまだ時間が掛かる――か」


男は小さく呟いた。人より遥かに長い年月を過ごして来た男にとって、全てを取り戻すその日は切望の時だった。

嘗て、男は全てを失った。力だけではなく、ありとあらゆるものが男の両手から零れ落ちた。全てを取り戻すことができるのであれば、しばらくの時間待つことに躊躇はない。


「ある程度力が戻れば、あとは自ら動けば良いだけだ」


不敵な笑みを浮かべて男は改めて心を決める。

長らく男は、この世界に執着を持てなかった。根底に存在している己に課した誓い、そして慟哭と憎悪の欠片だけを礎に、ただ生きていた。本来の力を取り戻す日を心待ちにはしていたが、それはただ漫然と過ごすだけの時を変えられるからだ。ただいずれ滅ぼすものならば、今であろうが数百年後であろうが、男にとっては同じことだった。

ただ、今の男は多少焦っていた。色のなかった世界の中で、ずっと探し求めていたものを見つけた。

色褪せた世界の中で唯一、その存在だけが色づいて見えた。今この時を逃せば次はいつ、巡り合えるか分からない。


だからこそ、男は早く本来の力を取り戻したかった。本来の力を取り戻し、探し求めていた彼の人を手中にすれば、ようやく男は本来の彼に戻ることができる。

今はまだ取り戻した力が足りないから、自ら動いて全てを取り戻すことはできない。しかし、大部分の力を取り戻せば――残りの部分はどうとでもなる。


男は己の力を良く知っていた。



*****



悪役令嬢(リリアナ)は驚きに目を瞠っていた。震える手で、美しく銀色に輝いていた長髪をつまむ――その姿を、リリアナは眺めていた。けれど、悪役令嬢(リリアナ)は彼女を見つめているリリアナに気が付かない。


「――なんですの、これ」


震える声が、可憐な唇から漏れる。震える手で摘まんだ髪は、毛先から漆黒に染まっていた。


「何故――何故、一体何が――?」


混乱した彼女は、忙しなく私室の中を歩き回る。物音を聞きつけた侍女が――マリアンヌではない、リリアナの知らない侍女が扉の外から声を掛けた。


「お嬢様、如何なさいましたか?」

「何でもないわ、放っておいて!」


悲鳴に似た声を上げた主に、侍女は「失礼致しました」とだけ告げて立ち去る。恐怖に震える少女は、華奢な両手で自分の体を抱きしめた。

自分の身に、何が起こっているのかも分からなかった。ただ目に見えぬ変化が自分に起こっていることは明白で、恐怖に震えている。しかし、誰かに相談しようにも心当たりはなかった。

(エイブラム)は論外だ。彼は自分のこと以外で煩わされるのを嫌う。

(クライド)も、リリアナとは殆ど関わりがない。もう何年も言葉を交わしていないというのに、今更何を相談できるというのか。


そこでようやく、一人の人物を思い出した。


「そうだわ、殿下なら――――いえ、駄目ね」


しかし、少女は直ぐに首を振る。つい先日、王立騎士団の訓練場で見かけた婚約者の姿が脳裏に蘇る。

王太子(ライリー)とは、貴族の政略結婚相手として友好的な関係を築いて来た。理性と秩序に縛られた関係性で、施策や外交について意見交換をしたことはあったが、自分の気持ちや感情、趣味などを共有したことはない。当然、手に触れたこともエスコートをされる時くらいだ。

その彼が、女性に対して表情を崩していた。王太子があれほど焦った表情をしているのを見たのは、長く婚約者を務めていた少女でさえ初めてのことだった。


「エミリア・ネイビーと言ったかしら」


ネイビー男爵家の一人娘だという。少女も数度だけ見かけたことがあるが、明るくて誰からも愛されそうな、気さくで可愛らしい少女だった。親からも、周囲からも愛されるような少女――それが、エミリア・ネイビーだった。王太子の婚約者として、そして三大公爵家の一つクラーク公爵家の息女としての振る舞いを強いられて来た理想的な淑女の少女とは正反対だ。


後から聞いた話では、エミリアは刺客に狙われた王太子を守ったという話だった。だが、それは本来近衛騎士の仕事のはずだ。それにも関わらずエミリアが王太子を守ったということは、彼女がそれほど王太子の近くに居たという証拠に他ならない。

これまで王太子は婚約者である少女以外の異性を傍に寄せることはなかった。例外は親世代以上の既婚女性、それも性格や振る舞いが相応しいと判断された相手だけだ。


「殿下は、あのような娘がお好きだというのかしら。それでしたら、あの娘の婚約を整え愛妾に――」


ずきりと、少女の胸が痛んだ。幼い頃から婚約者が居て貴族や王太子妃の教育に真面目に打ち込んで来た少女には、恋や愛という感情は今一つ良く分からない。それでも、体の奥底から仄暗い感情が湧き上がって来るのが分かった。咄嗟に胸元を強く掴む。

物心がついてから一度も泣いたことはないというのに、気が付けば少女は滂沱と涙をこぼしていた。


「何故――なぜ、わたくしが欲しいものを全て持っているのに――――っ!」


その時、少女は既に理性的ではなかった。慣れない感情の波に呑まれ、慟哭の声を上げる。


「わたくしから、全てを奪っていくの!!」


少女の声が二つに割れる。一つは彼女の声だったが、もう一つは低い割れ鐘のような()だった。

許せない、という声が頭の中で反響する。その声は、もはや少女の声色ではない。しかし、追い詰められた少女に気が付く余裕はなかった。


家族の愛も、周囲の人の興味関心も、そして――さらには、少女の夫となるはずの愛まで――少女が欲しいと願っていた全てを、エミリアという男爵家の娘は持っていた。

銀髪が黒く染まりつつある少女の体内で、黒い力がゆっくりと動き始めた。一瞬生まれた、自分の居場所を奪われるというごくわずかな恐怖が、黒い力と禁術の影響で少しずつ大きく育てられていく。

そして育てられた憎しみは、己の婚約者にも向けられた。


「殿下も――何故、わたくしではなくあの娘をお傍に置くの」


――あの女が憎い。

けれどそれ以上に、わたくしではない人をその瞳に映すあの人が憎い。


慟哭する少女の銀髪は、いつの間にかすべてが漆黒に染まっている。寝台に伏している少女は、シーツをきつく掴んでいる自分の爪が伸び始めたことに気が付いていない。

そしてそのまま、少女は気を失った。あまりにも唐突な出来事だった。


翌朝目覚めた少女は、自分が着替えもせずに眠ってしまっていたことに首を傾げた。髪も爪も、少女本来の色味に戻っている。しかし、その事に彼女は何も反応しなかった。

昨夜自分の身に起こった変化も、慟哭も、絶望を覚えるほどの悲哀も――すべてが少女の記憶から抜け落ちていた。そして記憶が抜け落ちていることにも、少女は気が付かない。


凍てついた心に気が付くこともなく、そして体内に増えている闇の魔力の存在も悟ることなく、少女は日々を過ごす。無意識のうちに、少女の心の底には澱みのような感情が溜まりつつあった。



*****



リリアナは目を覚ました。まだ夜明けには早い。おもむろに体を起こし寝台に腰かけたまま、窓の外を眺める。そして、彼女は目を細めた。


「――濃くなっているわ」


瘴気を圧縮したような闇の気配が、自分の方に近づいていることに気が付いていた。恐らく夢を見たのはこのせいだろう。

乙女ゲームには存在しないはずの場面を夢に見ることは、昔から多々あった。夢見の能力があるはずもなく、一体何だろうと疑問に思っていた。だがこれは恐らく、桁外れの魔力を身に宿すことができるよう施された禁術の影響に違いない。

隠し部屋で見つけた研究書には、複数の魂を一つの体に宿したと書いてあった。恐らくその内の一つが見た景色を、リリアナは見ているに過ぎない。しかし、その夢が恐らく乙女ゲームの舞台と同じ世界、そして同じ筋書きだということは想像がついた。


「ゲームの悪役令嬢(わたくし)は、色々なことが同時に重なって――闇に堕ちてしまいましたのね」


自分を顧みない家族、芽生えない感情、それでも心の内に抱えていた孤独。

その上、乙女ゲームの悪役令嬢(リリアナ)は知らなかった――彼女の父親の、謀略。魔王を憑依させるためだけに造られた彼女の体は、父親の綿密な計略によって、魔王の力が流れ込むに相応しい状態に整えられていた。

そこで目撃したのが、婚約者とヒロインの間に起こった事件(イベント)だ。王太子以外の攻略対象者の分岐先(ルート)でも、リリアナの求めていたもの――愛や賞賛といったものをヒロインが難なく手にしていくのを見て、悪役令嬢(リリアナ)は心に澱みを溜めたのだろう。

負の感情やそれに起因する心の澱みは、魔王や魔族、魔物が好むものだ。


「そういった感情に取りつかれてしまえば、心を喪ってしまうということですのね」


きっと乙女ゲームのリリアナは慣れない感情を制御することも出来ず、ただ魔王の闇の力に体も心も奪われていった。あくまでも推測でしかないが、彼女は最後の最後まで夢を見ていた気分だったのではないか――そう考えると、何かが腑に落ちた気がした。


「でも、わたくしはゲームの二の舞を踏むつもりはございませんの」


知らないのと知っているのとでは天と地ほどの差がある。リリアナは一切の動揺も見せず、近付いて来る闇の気配を感じていた。


反抗する術もないまま、どんどんと濃くなる闇が部屋に入り込んで来る。どれほど結界で防御したところで、その闇は一切の防御壁を考慮せずリリアナへと向かって来た。そして、何の違和感もなくリリアナの体へ入っていく。

これまでとは比べものにならないほど大きな魔力が体内に溜まっていく感触に、リリアナの心臓が痛んだ。

夢で見た景色を考える余裕もなく、リリアナは必死で深呼吸を繰り返す。そして意識して、新たに入り込んで来た魔力を体に馴染ませようと魔力を攪拌していく。頭の中がかき混ぜられるような不快感と眩暈に吐き気すら催したが、リリアナは必死だった。


「できる――はずよ、」


何よりも、乙女ゲームのリリアナは闇の魔力を身に宿しても死にはしなかった。だからこそ、現実のリリアナも――今回のことで、少なくとも命は落とさない。


どれほどの時間が経ったのか、リリアナには分からない。激痛が去り魔力がいつになく増えた実感を持ったところで、リリアナは汗にまみれた顔を上げた。外を見れば、空の色は全く変わっていない。永遠にも思えた時間も、実際はそれほど長くはなかったのだろう。

額から零れる汗を拭い、リリアナは知らず強張っていた体から力を抜いた。ゆっくりと深呼吸を繰り返し、荒くなった息を整える。

体内の魔力に意識を向ければ、闇の魔力の外側を薄っすらと風の魔力が覆っていた。確かにこれでは、乙女ゲームで稀代の魔導士と呼ばれていたベラスタもリリアナの変化に気が付かないわけだ。一見したところでは、魔力が変質しているとは分からない。


それでも、リリアナは正確に自分の実力を把握していた。


「正確なところは分からないけれど、魔王ほどの魔力ではないにしても同等程度は戦えそうね」


そうとなれば、今後の計画も進めやすくなる。

満足したリリアナは、もう一度寝て疲れた体を癒すことにした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。


第1巻~第5巻(オーバーラップ文庫)好評発売中!

書影 書影 書影 書影 書影
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ