46. 蔓延する噂 3
王都の屋敷で領地からの報告書に目を通していたメラーズ伯爵は、執務室の扉を叩く音に顔を上げず返答した。
「旦那様、お手紙をお持ち致しました」
丁寧な口調で告げた執事に入室を促すと、物音一つ立てずに執事が入って来る。一瞥もしない主人に文句を言うこともなく、執事は机の端に書簡を数枚置いた。そのまま立ち去るかと思われた執事だが、机の前から動こうとしない。疑問に思った伯爵が眉根を寄せ顔を上げると、執事は厳かな口調で尋ねた。
「お客様がいらしていますが、如何致しますか」
「客?」
「はい。先触れは頂いておりません」
メラーズ伯爵は不快そうに顔を顰めた。あまり自分の予定を崩されることを好まない彼は、先触れのない来客は追い返すように執事に指示している。しかし敢えて尋ねているということは、追い返すに差しさわりのある相手だと判断したということだろう。
沸き起こる不快感に蓋をして、伯爵は素っ気なく尋ねた。
「誰だ」
「やんごとなきお方からの使いと申しております」
「――やんごとなきお方、だと?」
自分を訪れて来る客で“やんごとなきお方”と言えば、心当たりは一人しかない。王太子や国王がわざわざ私的な使いをメラーズ伯爵邸に寄越す可能性はほぼないのだから、伯爵が直ぐに合点したのも当然のことだった。
「何用だ」
「旦那様に直接お伝えなさるとのことで、私は伺えておりません」
「そうか」
伯爵は考え込んだが、決定を下したのは一瞬だった。彼の思う相手であれば、追い返すことは当然ながら、あまり待たせる訳にもいかない。
そのため、メラーズ伯爵は客を応接間に通すよう執事へ申し付けた。すぐに書類を卓上に置き、身なりを整える。そして執事が呼びに来るのを待たず、執務室を出ると颯爽と応接間に向かった。
扉を叩いて中に入ると、既に訪問者はソファーに腰掛けている。身なりは粗末でどれだけ贔屓目に見ても男爵家か一代貴族、もしくは貧乏子爵家の嫡男と言った風情だ。普通に考えれば家主である伯爵を差し置いてソファーに腰掛けるなど許されるはずはないが、何の予告もなく伯爵邸を訪れた男はどこまでも常識がなかった。
ふてぶてしい表情でメラーズ伯爵を一瞥し、にやにやと意地悪そうな笑みを浮かべている。その様子を見た執事の瞼がピクリと動くが、男は気が付かない。そしてメラーズ伯爵は若かりし頃から外交で培った理性を動員して自らを落ち着かせると、一歩男に近づいた。
「私がメラーズだ。君の名は?」
「俺の名が必要かい? 別にどうだって良いだろ、名前を言ったところであんたみてぇなお人は直ぐに俺の名前を忘れんのサ」
言いながら、男はくしゃくしゃになった紙を尻ポケットから取り出す。随分とくたびれ汚れた紙に、メラーズ伯爵は反射的に眉を顰めそうになったが、無言で執事に目をやった。執事は弁えたもので、手袋をはめた手で紙を受け取る。メラーズ伯爵が読みやすいように広げたところで、男はどさりと汚れた靴をテーブルの上に投げ出した。
美しく磨かれたテーブルの上に、土や埃が広がる。ぎょっとしたように僅かに顔を強張らせた執事を無視して、男は大きく叫んだ。
「あーあ、この家は酒の一つも出ねえのかよ、ったくケチくせぇなあ!」
仮に侍女がこの部屋に居れば、恐怖に体を震わせたに違いない。だが、幸いにも応接間にはメラーズ伯爵と執事の二人しかいなかった。やんごとなきお方の使いだったとしても、今目の前に居る男に茶を出し客人として持て成すつもりは、二人には更々なかった。
茶を出す代わりに、伯爵は冷たい声を出す。執事が広げた手紙の内容を見る限り、男が他に書簡を持っているようには見えなかった。
「それはそうと、この書簡の主について考えれば考えるほど、君との関係性が良く分からないのだがね」
「関係性ぃ?」
男は鼻を鳴らした。尊大な態度と粗野な振る舞いは男が単なる堅気ではないことを示しているようだが、しかし元々の性格はそれほど悪くないらしい。男はにやりと楽し気に笑うと、ふてぶてしく答えた。
「俺のイロがよ、今、そいつの気に入りなワケよ。本当は女に届けさせたかったらしいけどよ、んなもん、夜に客の相手して真昼間から外を出歩くワケねえだろ、昼間は寝てンだよォ」
男の言葉に、伯爵は喉の奥で唸りそうになった。
間違いなく、書簡の主はフランクリン・スリベグラード大公だ。男の言葉を信じるのであれば、どうやら今、フランクリン大公には入れ込んでいる娼婦がいるらしい。大公はよりによって書簡をその娼婦に預けてメラーズ伯爵に届けるよう頼み、そして娼婦は恐らく――恋人なのだろうこの男に手紙を任せた。
メラーズ伯爵にとっては最悪の人選だが、元々フランクリン大公は物事を深く考えない性質の人間である。与えられたものをただ受け取り、そして自分の描く夢想を現実のものとしてくれる人間を重用する。その夢想が本当に実現できるものなのか、周囲にどれほど影響を及ぼすのかは一切考えない。考えることは周囲の人間がすべきことであり、自分はただ王族としての恩恵を受けるものだと信じている節があった。
だからこそ、今回もメラーズ伯爵に宛てた書簡を、たまたま近くに居た人間に言付けたのだろう。
「――金をやるから帰れ。それから、このことは金輪際口にするな。口にしたが最後、お前は二度と好きな酒も飲めない」
「脅す気かよ」
男は口を曲げたが、貴族の屋敷で我を通すことの不利益は自覚していたらしい。
たかが平民にできることは限られている。どれほど気に入らなかろうと、貴族の不興を買えば誰にも気付かれず始末されることは確実だ。
それが分かっていたからか、男はしぶしぶ頷いた。
「分かったよ。良いから、とっと金寄越せ」
伯爵は執事に視線をやる。執事は頷くと、手紙を手に部屋を出て行く。
男はこれ以上メラーズ伯爵に絡むつもりはないらしく、無言のまま腕を組んで苛々と足を揺すっていた。少しして、銅貨を入れた袋を持った執事が戻って来る。差し出された袋を広げて中身を確認した男は、満足したように立ち上がった。
メラーズ伯爵にとっては端金だが、男にとっては十分だったらしい。
「さすが気前が良いな。もし何かあれば言えよ、何でも請け負ってやるからよ」
にやにやとしながら、男は機嫌良く屋敷を後にする。伯爵は嘆息すると、執事に命じた。
「あの男の後を追え。必要に応じて気付かれぬよう始末しろ」
「御意」
執事は頷く。金は与えたものの、伯爵は男のことを信用していなかった。あの手合いの男は、酒が入ればポロリと情報を口にしてしまう。
だが、今ここで始末をつけると伯爵が犯人だと知られてしまう可能性が高かった。何よりも、恋人だという娼婦が、男がメラーズ伯爵邸を訪れたと知っているのだ。たとえ男が適当にでっちあげた嘘だったとしても、可能性が少しでもあるのであれば極力危険を回避すべきだった。
「本当に閣下からの書簡であったのか確認をしてから始末することに致しましょう。酒場での乱闘など如何でございましょうか」
「ああ、それで良い。それから――」
メラーズ伯爵は、ちらりと執事が手にしたままの手紙に目をやる。それほど長い文章ではなかったため、伯爵は直ぐにその内容を理解していた。
「その書簡に書いてある、王宮で流れている噂とやらが本当かどうかも確かめておけ」
フランクリン大公から届けられた書簡には、今王宮で流れている噂の詳細が書かれていた。女遊びの激しい大公の本命は賢夫人と名高いフィンチ侯爵夫人だが、時々娼婦や王宮の女官にも手を出している。その遊び相手の女官から齎されたという噂は、王太子ライリーが、ネイビー男爵家の娘エミリアと恋仲になっているというものだった。
ネイビー男爵というと権力欲もなく領地に引きこもっている貧乏貴族だ。一般的にはそう考えられているし、貴族によってはネイビー男爵と言われてピンと来ない者もいるに違いない。だが、宰相を務めるメラーズ伯爵はその名に記憶があった。
カルヴァート辺境伯ビヴァリーが甚く気に入っている、という情報は伯爵が自ら調べさせたもので、信憑性は高い。婚約者であるリリアナ・アレクサンドラ・クラークは父親が存命であれば後ろ盾として強かったものの、今は三大公爵家という体面だけで辛うじて権力や影響力が保たれているような状況だ。
現当主はまだ年若く、政治慣れもしていない。王太子の側近としての地位を確立しつつあるが、メラーズから見れば現当主クライドも、王太子の婚約者であるリリアナも、御しやすい相手でしかなかった。
しかし、エミリア・ネイビーは違う。後ろ盾にはカルヴァート辺境伯が付いている。つまり、万が一にでもエミリアが王宮での権力を持つことになれば、メラーズ伯爵は王宮で幅を利かすことが出来なくなってしまう。
フランクリン大公を王太子に据えることが出来れば問題ない懸念ではあるが、もし計画を完遂する前にエミリアが王宮である程度の地位を確立してしまえば、大幅な計画の練り直しが必要になる。
考える頭はないといっても、大公もそれなりには状況を理解しているのだろう。だからこそ、わざわざ噂をメラーズ伯爵に知らせようという気になったに違いない。そして、その噂が真実であるとするならば、メラーズ伯爵は計画を早めるべく何かしらの手を打たなければならない。
「承知いたしました」
執事は頭を下げる。伯爵が執務室に戻れば、すぐに執事は動き始めた。その背後を走り抜けた小さな鼠の影に、伯爵も執事も気付くことはなかった。
*****
メラーズ伯爵は、彼の執事が間違いなく仕事を完遂するものだと信じていた。そして執事も、慣れた仕事に失敗を考えることはしていなかった。
――その日の夜、メラーズ伯爵邸に書簡を運んだ男は尾行されていることに気が付いていながらも、素知らぬ顔で馴染みの酒場に顔を出した。
「よお、親父。なんか今日は混んでんなぁ?」
「ああ」
不愛想な亭主は短く答える。男の指摘通り、その日は初めての顔ぶれがそろっていた。身なりを見る限り、流れの傭兵らしい。全部で八人ほどいるが、それほど広くない店はあっという間に一杯になる。
男は警戒の目を傭兵たちに向けたが、彼らが自分を気にしている様子がないと見ると、いつもの席に座り酒を頼んだ。
「親父、今日のお勧めはなんだい?」
「豚」
「なら、それひとつ」
杯を重ねるごとに男の機嫌は良くなり、馴染みの男と喋る声も大きくなっていく。
やがて、流れの傭兵の一人が立ち上がった。用を足しに外へ出て、再び元の椅子に戻ろうと狭い通路を当たって居る時、偶々酒を飲んでいる男の腕が傭兵に当たった。酒が盃から零れ、男の服に掛かる。男は顔を赤らめて顔を上げ、苛としたように傭兵を睨んだ。
「てめぇ、何ぶつかって来てやがる!」
「ああ? お前が俺にぶつかったんだろうが。俺の商売道具の右腕が折れちまったかもしれねえなあ、おい?」
途端に、二人は険悪な雰囲気になった。気が付いた傭兵の仲間たちが、面白がるようにニヤニヤと二人の様子を窺う。男と話していた常連客は顔色を青くして、巻き込まれたくないと言わんばかりに体を縮こませた。傭兵は常連客など気にも留めず、男を睨みつける。そして男も、一切臆することなく傭兵を睥睨した。
「やんのか、てめぇ。良い度胸じゃねえか、表出ろやコラ」
「ンだ、ビビッてやがんのかお前」
嘲笑するように傭兵が言ったその瞬間、傭兵の左拳が男の右頬を捉えた。激しい音を立てて、男はテーブルの上に乗った料理や酒を盛大に飛ばしながら、テーブル諸共転げ落ちる。常連客は蒼白になって、慌てた様子でその場から走り店の外へと逃げ出す。
店の外に出るどころか、その場で殴る蹴るの喧嘩が始まった。店の中のテーブルや椅子を破壊しながらも、傭兵と男の戦いは止まらない。途中までは男も良い勝負をしていたが、囃し立てる仲間の声に興奮した傭兵は腰から剣を抜き――そして、男の体を貫いた。
「こ――殺しやがった!」
客の一人が叫ぶ。ぎろりと傭兵に睨まれた客は、慌てふためき店の外に転がり出る。傭兵たちは痛烈な舌打ちを漏らすと、荒れ果てた店内に見向きもせず、さっさと外に出る。捕まる前に逃げようという魂胆なのだろう。
そして男を尾行していた人影は、開け放たれた扉から垣間見えた血の海と、そこにピクリとも動かず横たわる男の姿を確認し、その場から姿を消した。
――――その、およそ三十分後。
傭兵と男の喧嘩が始まってから店の奥に引っ込んでいた店主は、荒れ果てた店内を見回して深々と嘆息していた。
「――やりすぎだ」
「悪かったよ、親父」
答えたのは、先ほどまで血の海で倒れ伏していた男だった。メラーズ伯爵邸で見せていた横柄さも形を顰め、傭兵に絡んだ時の短絡さも消え去っている。そして、周囲を警戒しながら傭兵たちも戻って来た。
荒れ果てた店内を見回し、頭目らしき男が申し訳なさそうに頭を掻く。
「派手に暴れすぎたな。店主、申し訳ない」
「まあ、金は事前に貰ったしな。そろそろ休みも取ろうかと思ってたから、別に問題はないが」
呟く店主の前で、男は先ほどぶちまけた血を拭い取る。傭兵たちも、出来る限り店内を掃除しようと忙しなく動き回り、飛び散った酒や料理を袋に詰め、そして壊れていないテーブルや椅子は元あった場所に戻す。
その様子を眺めていた店主だったが、近くに居た男に不思議そうに尋ねた。
「ずっと気になってたんだが、その血はなんだい」
「これか? 上手く出来てるだろ、豚の血だよ。鳥の血を使おうかと思ったんだが、確実に死んだと思わせるには量が足りねえなって話になったんだ」
「なるほどなぁ。本当に剣が刺さっちまったもんだと思ったよ」
感心したように言う店主の言葉を拾ったのは、男と盛大な喧嘩を繰り広げた傭兵だ。床を掃除していた手を止めて、楽し気に腰から剣を抜く。そして左手で剣先を抑え、右手で鞘を押した。すると、左手に全く何の変化もないにも関わらず、刃の部分が短くなる。
驚いて言葉を失う店主に、傭兵は「な?」と言ってみせた。
「これ、仕掛けがあるんだよ。だから刺さったように見えても、本当には刺さってないわけ」
「普段は血が滲み出る程度にしてるのさ。そうしないと、大道芸を見に来たガキが本気で泣くからな」
傭兵の説明を、男が補足する。店主は「ははあ……」と感心したような声を漏らすと、しみじみ呟いた。
「あんたたちの芸っていうのを、ちゃんと見てみたかったなあ」
「そうだな。機会があればぜひ見てくれよ。一応、しばらくここいらには立ち寄らないようにって言われてんだ」
「死んだと思わせなきゃならねえって約束だからな」
まあ問題はねえよ、と男たちは全く気にした様子がない。
元々各地を転々としながら芸を披露して来た彼らにとって、この場から離れるよう言われても問題は一切なかった。他の土地に向かえば良いだけだ。そして何より、今回の仕事は非常に支払いが良かった。そして観客を騙して度肝を抜くことに快感を覚える彼らにとって、いけ好かない貴族の鼻を明かす機会というのは願ってもいない好機だった。
「まあ、楽しかったぜ。親父、元気でな」
「次に来れたらその時はまた飯食わせてくれや。今度はぶちまけたりしねえからよ」
口々に別れの挨拶を口にした傭兵たちと男――否、旅芸人一座は朝一番にその町を出る。
彼らに依頼を持って来たのは、年齢不詳の女だった。一人には老婆にも見え、別の者には年若い女にも見えた。性別以外に共通していたことは、その女が恐らくは貴族の――それもかなり高位の人間の話し言葉だった、という一点だけだった。
その女に頼まれた仕事は、とある伯爵の元に書簡を持っていき、そして最後は店で喧嘩を起こし男が死んだように見せかけるように――ということだった。
ただし、最後のくだりに関しては指示があるまで実行してはならない。
妙な依頼だと思ったが、貴族が絡んでいる事であれば深入りしない方が良い。それに何より、金払いがあまりにも良かった。舞台となる店にも保障するという言葉に、貴族にしては珍しいと皆が好印象を持った。
旅芸人一座ではあるものの、彼らもそれなりに修羅場をくぐっている。そのため、男は尾行されていることに気が付いていた。そして傭兵たちも、店の様子を探っている人影を認識していた。
そして実行の指示が店主より出された。
――今日のお勧めは、豚。
それが、合図だった。
*****
メラーズ伯爵邸では、男を尾行した影が執事を前に膝をついていた。首を垂れたまま、求められた言葉だけを口にする。
「標的の死亡を確認しました」
「ご苦労」
執事が答えると、影はその場から消える。執事は満足気に微笑み、主人へと報告に向かった。報告を受けた伯爵は、満足そうに頷く。
「それでは、噂の件は?」
「王宮の使用人たちの間で、確かに王太子殿下がネイビー男爵家の娘と懇意にしているとの噂が広まっているようです」
「そうか。よくやった」
メラーズ伯爵は執事を労い、手を振る。下がって良し、という合図に一礼し、執事は執務室を辞する。扉を閉める直前、執事は何かが目の端に映ったような気がして顔をそちらへ向けた。だが、何もない。違和感に首を傾げるが、執事は気のせいだと自分に言い聞かせると仕事へ向かう。
刹那の隙に影へと溶けるようにして消えた鼠の存在に気が付く者は、メラーズ伯爵邸の中には居なかった。









