46. 蔓延する噂 2
王宮に勤める使用人たちの間で、王太子が婚約者であるクラーク公爵家の令嬢リリアナ・アレクサンドラを放って男爵家の令嬢と恋仲になったという噂が広まり始めた時、リリアナは王都近郊にある己の屋敷で機嫌良く呪術の鼠を解析していた。
集めて来させた情報は全て王宮内部のものだ。王宮は魔術や呪術に対する防御も高いが、使用人たちが出入りするような場所は見落とされている。そのため、呪術の鼠が走り回ったところで気が付かれる心配もない。
「順調に進んでいるようね」
リリアナは満足気な笑みを浮かべる。今、王宮に勤める使用人たちの間で少しずつ広まり始めた噂があった。
――王太子は、男爵家の令嬢と愛を囁き合っているらしい。
事実は異なるとリリアナは知っているが、人は信じたいことを信じるものだ。特に使用人たちにとって殿上人でもある王族の下世話な噂は、囁いてはならぬと自戒しながらも楽しいものである。特に恋愛関連の噂話など、侍女や下女の好むところだ。ある程度地位のある女官たちもまた、興味津々だった。
リリアナが手を出さずとも、このまま放置しておけばある程度は噂も広まり、一部の貴族の耳にも入ることだろう。リリアナが狙っていたのは、それだった。
「ウィルたちが早々に勘付いてしまったことは想定外でしたけれど――噂の元を探したところで、見つかることはございませんし」
男爵家の令嬢、つまりエミリアとライリーが恋仲であるという噂を宮中に流したのはリリアナだ。勿論自ら囁いたわけではない。リリアナの傍には常に人がいるのだから、転移の術と幻術を使って姿を晦ませでもしない限り不可能だ。そこでリリアナは、数人の使用人に幻術を掛けることにした。
本当であれば口が軽い者を見繕いたいところだったが、生憎とそこまで精査する暇はない。手っ取り早く、王太子がエミリアの部屋に入って行く姿が見えるよう、エミリアが泊っている客間の入り口近辺に魔道具を仕掛けた。己の手で行ったわけではなく、呪術の鼠にさせたことだ。そしてその魔道具が見つかる前に、呪術の鼠に回収させる。多少陣を組むのに苦労したが、無事に全ての道具がリリアナの手元に戻った。
「もう少し様子を見ましょうね」
穏やかに呟き、リリアナは宮中の様子を知るべく呪術の鼠の解析を続ける。鼠が持ち帰った情報にはそれほど目ぼしいものはない。だが、最後の鼠の解析を終えたところで、リリアナは違和感を覚えて手を止めた。思わず眉根を寄せると目を閉じ、神経を体内の魔力に集中させる。
リリアナの体内で渦巻いている魔力は、リリアナ本来の魔力である風属性に適性があるものと、魔王を封じた陣から流れ出ているであろう闇適性の魔力が混ざり合ったものだ。アジュライトに方法を学んで以来、リリアナは二種類の魔力が上手く自分の体に馴染むよう、意識的に魔力を体内で循環させていた。そのためか、体調を崩すこともなくなっている。
だが、その魔力の均衡が若干崩れ始めていた。
「増えているわ」
リリアナはぽつりと呟く。実感できるほど、体内に宿る闇の魔力が増えている。今集中している間にも、確実にその量は増え、本来の魔力が見えなくなるほどの奔流となりリリアナの体内を流れ始めた。
それが示す事実は一つしかない。
「封印が、」
掠れた声が漏れる。魔王の封印が解け、閉じ込めた魔王の魔力を抑えられなくなっているのだ。このままの状態が続けば、あっという間にリリアナの体は魔王に乗っ取られるに違いない。
「早すぎますわ」
思わずリリアナは毒づく。
乙女ゲームでは、リリアナが闇魔術を使い始めた時期は明らかにされていなかった。しかし、はっきりと影響が目に見える形で表れ始めたのは中盤を過ぎてからだ。前半はヒロインが攻略対象者たちとの仲を深め、好感度を上げる時期であり、共に手を取り魔王の復活を阻止するため闇魔術による妨害と闘いながら必要な道具を探しに出る旅が後半だ。
だから、魔王の封印が解ける時期はまだ先だろうと思っていた。しばらくは解けかける程度で済むとの目算だったが、どうやら魔王の封印自体は早々に解けたらしい。もしくは、乙女ゲームよりも全体的にイベントが前倒しになっている可能性もある。
「もう一つの研究も早々に済ませなければなりませんわね。でもまだ情報が足りませんわ。もっと魔族に関する書物があれば宜しいのですけれど」
父親の手記を見つけてから、リリアナは乙女ゲームの知識も併せて今後の展開を予想し、最悪の可能性を避けるために様々な情報を集めている。その内の一つが、魔王や魔族に関する情報だった。
これまでは物語の一つでしかなかった魔王や魔族も、現実に復活の兆しがあると知れた途端に最悪の災厄となる。乙女ゲームや現状で入手可能な書物を参考にする限り、魔王の封印に必要となる道具は三種類――勇者の剣、魔導士の宝珠、そして賢者の鏡だ。その三つと三傑の血を継ぐ者が揃って初めて、魔王の封印は可能となる。
乙女ゲームでは、魔王それ自体の復活はないとされていた。ただリリアナが魔王の復活を目論み闇魔術に手を染め、国家転覆のため勇者の血を継ぐ王太子の命を狙ったというのが主な筋書きだ。
だから、魔王の封印に必要な三つの道具は実際には魔王の封印には使われていない。魔王の復活を悟ったヒロインと攻略対象者たちが封印のための道具を探す旅に出て、その中で魔王の復活を企んだ者がいると気が付く。その犯人が王太子の婚約者だったため、リリアナは――ヒロインがどの攻略対象者とのエンディングを向かえるかによるが――断罪される。
処刑されるか、もしくは魔術を封じられた上で幽閉もしくは国外に追放されるか。つまり、三つの道具を探すという物語はヒロインと攻略対象者の好感度を上げたりミニゲームを楽しむためのものでしかなく、最終的には様々な謎を解き真犯人の思惑に辿り着かなければならない。
「尤も、ゲームでの悪役は寧ろ黒幕に操られた駒でしかなかったわけですけれど」
自嘲の滲んだ声で呟き、リリアナは目を開く。少し考えたリリアナは立ちあがって窓から外を覗き、体内で荒れ狂う闇の魔力を目に集中させた。その途端、これまで見えなかった景色が見える。
「まあ」
気が弱い者であれば失神したかもしれない。しかし、リリアナは寧ろ感嘆の吐息を漏らした。
「良く見えますわ」
彼女の視界に映っていたのは、人間では視認できない程度の瘴気が一面の空に広がっている景色だ。そしてその瘴気は、王都に近づくほど濃くなっていた。
*****
リリアナが見つめていた空の瘴気を、全く別の場所で注視する姿があった。黒い獅子は印象的な紫と緑が混じった瞳をきらめかせ、思案気に尻尾を揺らしている。リリアナにアジュライトと名付けられたその獅子は、ふと空気の揺らぎを感じて視線を瘴気から逸らした。目を細めて自分の右手前方を睨む。そして溜息を吐くと、何もない空間に向かって苛とした声を掛けた。
『俺が気が付かないとでも思ったか。気色の悪いことをしていないで、さっさと姿を現わせ』
途端に、何もなかった空間に人間の姿が現れる。しかし普通の人間とは異なり、空中に浮いたその人物は透明な二枚の翅を持っている。線が細く色素も薄い容姿だが、鋼のように鍛えられた肉体に無駄な脂肪は一切ついていない。くっきりとした両眼は印象的に煌めいているが、全体から発せられる妖気はぞくりとするような芳香を漂わせていた。
『相変わらず黒獅子のままとは。四天王の名に相応しくないと自ら喧伝しているようなものですよ。全く、いつまでその姿でいるつもりなのやら』
『黙れ』
苛々とした様子のアジュライトは喉の奥で唸る。二枚の翅を持つ男は楽し気に笑みを零すと、振り返って空の瘴気を仰いだ。感嘆の吐息を漏らし、大袈裟な身振りで胸に手を当てる。
『もうじき我らが主が再びこの地に御座すと思うと、あの不自然な術式に応えた甲斐があるというものですねえ。さすがにあそこまで細い糸を辿るのは骨が折れましたが』
翅の男ははっきりとは言わなかったが、アジュライトには直ぐ彼が何を示唆しているのか悟った。
嘗てリリアナの祖父が亡くなった時、祖父の棺には呪術陣が施されていた。魔物を召喚する術は不完全なもので瘴気しか発生させることはできなかったが、翅の男にとっては十分だったらしい。
不完全な術は、しかし刺繍糸よりも細い繋がりをこの世界と翅の男が居た場所の間に作った。翅の男はその糸が消えないよう細心の注意を払い、この世界に姿を現した。それに気が付いたのは、アジュライトだけだった。
『――四天王の名に相応しくないとは、一体どこのどいつのことだ』
思わずアジュライトは顔を顰める。不完全な術に応えて姿を現わすことは、高位の存在である彼らにとって侮辱に他ならない。翅の男は実際には術に応えたわけではなく利用しただけだが、結果だけを見ればゴミを頼りにしたようなものである。
だが、翅の男は全く意に介した様子なく、面白そうに片眉を上げてみせた。
『おや、私を貴方のお仲間にしたいと? 光栄ですねえ、大公爵殿』
アジュライトは更に渋い顔になる。翅の男の物言いは一々アジュライトの神経を逆撫でした。
長らく会っていなかったから忘れていたが、確かにこういう男だった――と頭痛を堪えるように溜息を堪える。
『その呼び方は止めろといっている。もう俺はそのようなものではない』
『でしたらアスタロス殿でしょうか。それとも、あの人間の小娘に付けられた名前の方がお好みですか?』
翅の男に、アジュライトは答えなかった。鼻を鳴らしそっぽを向く。その双眸は何の感情も映さず、空を流れる瘴気に注がれていた。
『貴方には、藍銅鉱よりもアスタロスの方がお似合いですよ』
『俺も貴様にアジュライトと呼ばれるのはご免だ』
アジュライトは低く唸る。しかしやはり翅の男は気にする様子がない。元々全ての物事において真剣に考えるということをしないのだ。とりわけアジュライトに関しては、常に揶揄うような口調を崩さない。
しかし、翅の男は真剣な表情になるとアジュライトに向き直った。
『それで、貴方はいつまでその姿でいるつもりですか。主が蘇れば、私たちには軍勢が必要です。プルフラスが居ない今、軍勢を率い先陣を切り、勝利を導くことのできる者は貴方しか居ません』
翅の男の声は真摯だった。しかしアジュライトは答えない。しばらく翅の男も無言だったが、段々と焦れて来たのか、わずかにアジュライトに向かって声を荒げた。
『アスタロス、聞いているのですか!?』
『――黙れ、ベルゼビュート』
久方振りに呼ばれた名に、翅の男ベルゼビュートは一瞬硬直した。
嘗てから、二人の権力は拮抗していた。しかしその性質は大きく違う。アジュライトは――アスタロスと呼ばれていた頃、その武勇で名を馳せた。そしてベルゼビュートは、知略と冷酷なまでの戦術で敵を恐怖に陥れた。
だからこそ、ベルゼビュートは自尊心の高い彼には珍しく、アジュライトに対してある程度の礼儀を保っている。その性格故に苛立たせることしかしていないが、それでも最後の一線は越えないよう常に気を付けていた。
だが、今のベルゼビュートに余裕はない。もうすぐで長年の悲願が達成されると思えば、気は急くばかりだ。だからこそ余計に、アジュライトの態度に腹を立てていた。
『貴方は我らが主を裏切り、あの人間の娘に与するつもりですか。仮初の器に過ぎぬ娘に現を抜かし本願を蔑ろにするのであれば、今からでもあの娘を人形に変えてきますよ』
『ベルゼビュート』
言い募るベルゼビュートを遮ったアジュライトの声は、明確な警告の色を纏っていた。アジュライトの体はいつの間にか姿を変えている。背中には竜の翼が生え、その体には蛇が巻き付く。口からは瘴気が零れ、鋭い眼光はベルゼビュートを射貫いていた。
それは、アジュライトが完全に本来の魔力を取り戻したことを示していた。弱っていた時であればまだしも、完全体になったアジュライトにベルゼビュートは太刀打ちできない。
『余計な手を出すな。俺たちの王は復活する。だが、あの娘に手出しはさせん』
『――――良い、でしょう』
余裕を見せて頷いたベルゼビュートだったが、声は僅かに掠れている。そして尻尾を巻いて逃げるのが嫌だったのか、翅の男は低く言い捨てた。
『猶予を差し上げます。それでも、もし貴方が我らが主ではなくあの娘を選ぶようであれば――その時は、我が全勢力を持って娘諸共、貴方を滅ぼして差し上げますので、そのおつもりで』
次の瞬間、ベルゼビュートの姿が掻き消える。何もなくなった空中を睨み据えていたアジュライトは、低く呟いた。
『軟弱者め』
そしてアジュライトの姿もまた、黒獅子から人の姿へと変わる。両腕と手の甲、そして首筋には蛇と竜の鱗が薄っすらと浮かんでいた。ベルゼビュートとは違い、長身で筋肉質のがっしりとした体つきだ。久方振りの人型に眉を顰め、アジュライトは掌を見る。
『――慣れんな』
どうやら黒獅子の姿が身に馴染んでしまったらしい。しかし戦いに際しては人の姿の方が何かと便利だ。そもそもアジュライトもベルゼビュートも、肉体という概念がない。魂に器を与えれば良いだけだから、獣の姿にも人の姿にもなれる。ただし、魔力を奪われたり自身の体力では回復できない大怪我を負った時は、魔力の消費が少ない姿に落ち着く。アジュライトの場合は黒獅子であり、そしてベルゼビュートの場合は人型だった。
また、魔力量を多く消費する姿かたちの方が戦の際には力を強く発揮できる。アジュライトは以前も黒獅子の姿を好んで取り、ベルゼビュートは人の姿で出歩くことが多かったが、戦の際には二人とも姿を変えていた。
『暫く慣らすか』
これから先、いつ人の姿で活動することになるかは分からない。普段は黒獅子の姿で過ごすにしても――特にリリアナに会いに行く時は人の姿になるつもりはなかったが、それでも人の姿を取る訓練はしておくに越したことはない。
一人呟いたアジュライトは、その場から消える。人型とはいっても、鱗がある時点で人里には紛れ込めない。しばらくは奥深い森の中で、一人過ごして体を慣らすことにした。
18-4
30-4









