42. 死神の休息 2
夜も更け、店内は人でごった返している。その場にいる誰もが堅気ではない。
「そろそろ帰った方が良いんじゃねえか」
オブシディアンは声を潜めて隣に座るペッテルに告げた。ペッテルは酒に強いらしく、かなりの杯を開けているにも関わらず平然としていた。
「うん、そうだね。子供たちも待ってることだし」
「一緒に暮らしてんのか?」
ペッテルが言っている“子供たち”とは、以前テンレックとオブシディアンがペッテルと共に助けた彼の同胞のことだ。まだ成人に達しない子もいたため、今日この場に呼ばれたのはペッテルだけだった。
「そうだよ。僕たちは、本来なら同胞で固まって生活する。王国や皇国のように土地を決めて国とするのではなく、僕たちそのものが国だからね」
「へえ。つまりこの国とか隣にいるあんたらの同胞は飛び地みてぇなもんってことか」
「そう。さすが、呑み込みが早いね」
オブシディアンが理解したと頷けば、ペッテルは嬉しそうに笑みを零した。それほど長い時間飲み交わしたわけではないが、ペッテルはどうやらオブシディアンを信頼したようだ。オブシディアンもペッテルを無害と断じた。
テンレックやペッテルの会話を聞く限りではそれなりに強いようだが、ペッテルには殺意や害意というものが一切ない。そういった気配を微塵も持たずに、それこそ息をするように人を殺す種類の人間もいるが、ペッテルはそれには当てはまらなかった。
「あの子たちも、助けてくれた君にお礼を言いたがっていたよ。テンレックには結構な頻度で会えるけど、君には滅多に会えないからね」
「気が向いたらな」
機嫌を窺うような声音で問われたオブシディアンはあっさりと肩を竦めた。他人と慣れ合うことは好きではない。ペッテルたちを助けたのも、単に知人が必死に助けようとしていた場面に出くわし、気が向いたからだ。決して正義感や親切心ではなかった。
大して苦労をしたわけでもなく、更に手を貸した報酬はテンレックからきっちり貰っている。わざわざ礼を言われるようなことでもない。
一方のペッテルは、オブシディアンの素っ気ない反応にも気を悪くした様子はなかった。苦笑すると、椅子から立ち上がる。
「それじゃあ、僕は帰るよ。また君とも会えたら良いな」
オブシディアンは答えない。口約束はする気にはなれなかった。ペッテルはテンレックに挨拶をして、気配を消し店から出て行く。その後ろ姿を見送ったテンレックは、馴染み客に酒を置いてカウンターに戻って来た。
「おい、さっき耳にしたんだけどよ」
「あ?」
テンレックが声を潜めれば、それは他の誰にも聞こえない声になる。どうやらオブシディアンにだけ知らせたい火急の用があるらしい。
一体何事かと眉根を寄せると、テンレックは真剣な表情で囁いた。
「分家の長が決まったらしいぜ。だが、なんとそいつが神官長じゃねえ奴だって話だ」
「――神官長じゃない?」
「ああ」
オブシディアンは眉を寄せた。
分家とは大禍の一族のうち、スリベグランディア王国を拠点とした一派のことだ。分家の長は長らく変わらなかったが、本家と距離を置いて独自路線を突き進んでいた。そのせいか、先日事故で命を落としたのだ。
そして新たな長が選ばれたのだが、問題は選ばれた人物だった。
分家の長は、とある神殿の神官長が代々務めている。実際、先代の長も神官長を務めていた。だが本家が指名した新たな長は神官長ではなかったらしい。
「俺はてっきり、新しい神官長が分家の長になったもんだと思っていたんだがよ。どうやら違う奴が選ばれたからってんで、今の神官長は怒り心頭だって話だ」
それは当然だろう。自分が長に選ばれると信じていただろうに、あっさりと裏切られたのだ。
面倒なことになりそうだと、オブシディアンはうんざりとした表情を隠せない。対するテンレックは難しくも苦りきった表情で、ぼそりと呟いた。
「暫くはこっちも荒れそうだな」
オブシディアンは答えずに一つ頷く。ショーン・タナーが処刑され王国の表舞台も変わりつつあるが、裏側もだいぶ変わりそうだった。
*****
テンレックの店で飲んだ後、オブシディアンは一人外に出た。いつの間にか夜は更けて星空が広がっている。ほろ酔い気分で通りを歩けば、鋭い目付きの男たちが一瞬オブシディアンを睥睨し、すぐに興味を失ったように視線をそらした。
慣れた反応に、オブシディアンは小さく笑みを浮かべる。この周辺にいる者たちは皆多かれ少なかれ脛に疵を持っている。そのため、あまり馴染みのない者が近くを通れば、一体何者で自分たちに何かしら害のある者なのか推し量るのだった。
だが、オブシディアンの纏う雰囲気は明らかに堅気ではない。それどころか年齢の割に悠然と落ち着いた雰囲気は一種の恐怖を煽るらしく、寧ろ関わらないで欲しいと言わんばかりに背を背けられるのが常だった。
「成長したってことなのかね?」
オブシディアンはぼそりと呟く。数年前までは絡まれることもあった。当然こちらを軽んじて害そうとする者たちには相応の報復をして来たが、ここ数年はそのようなこともない。成長期を経てだいぶ肉体が出来上がって来たオブシディアンは、既に弱者には見えなくなっていた。
「さぁて、どうしようか」
暫く歩調を変えずに歩いていたオブシディアンは内心で首を捻る。
テンレックの店を出てからずっと、自分を尾行する気配を感じ取っていた。だが殺意は感じ取れない。オブシディアンの命を狙っているわけではないらしいが、そうなると余計に意図が読めなかった。
「俺を狙ってるとか、言ってたか」
その話を教えてくれたのはテンレックだった。大禍の一族の本家が分家を制圧し、裏切り者を粛清する――その対象者にオブシディアンの名前が挙がったらしい。テンレックはオブシディアンを心配してくれているようだった。どちらかというとオブシディアンを、ではなく、オブシディアンが仕えているクラーク公爵家の令嬢リリアナが害されるのではないかという懸念があるらしい。尤もオブシディアンはリリアナに仕えているわけではないし、リリアナも簡単に暗殺されるような令嬢ではないため、オブシディアンはそれほど心配してはいなかった。
「――面倒臭ぇ。とりあえず誘き出すか」
それほど悩むこともなく、オブシディアンはあっさりと決意した。このまま適当な塒で一夜を過ごし明日にでもリリアナに会いに行くつもりだったが、その前に面倒事は片付けておきたい。
オブシディアンは路地を曲がる。人気のない裏路地は酷く暗く、普通の人間であれば視界が利かず一歩も動けなくなるところだが、オブシディアンは全く危なげのない足取りで更に奥まった方へと進んでいった。
もし尾行している人間がオブシディアンに用があるのなら出て来るはずだ。
案の定、行き止まりまで進んだところで気配が強くなる。オブシディアンは笑みを浮かべたまま、左手を挙げて自分の首筋に向け放たれた針を掴んだ。
「ご挨拶だな、おい」
きちんと見ずとも毒針であることは分かる。オブシディアンは指先だけで毒針を相手に投げつけた。手加減はしているが、並みの人間であれば毒針を眼球に受け絶命する程度には殺気を込めた。それにも関わらず、追手の気配は揺るがない。寧ろ追手は笑ったらしく、空気が揺れた。
「顔も見せねぇつもりかよ?」
「こういうのが好きかって思ってたんだけど、違ったんなら悪いね」
暗闇から響いて来たのは女の声だった。オブシディアンは声が聞こえたのとは全く違う方向を注視する。すると、少しの沈黙の後にオブシディアンの見つめている方角から一つの人影が現れた。普通にしていても顔は見えないが、女は念を入れているのかローブを着こみ、目深にフードを被っている。しかしオブシディアンはその姿かたちを見て僅かに目を細めた。
「好奇心は猫をも殺すって言葉、知らねえのか」
「忠告、痛みいるよ」
女は肩を竦める。オブシディアンは小さく息を吐いた。
「それで、一体ゼンフくんだりからこんな所まで、わざわざ俺を探しに来たのか? 随分と暇なんだな」
皮肉を込めて口角を上げる。すると女は絶句した。ローブの下から信じられないとでも言うようにオブシディアンを注視しているのが分かる。
傍から聞けば、大して意味のない言葉に聞こえるだろう。だが、オブシディアンと女にとってその言葉が意味することは明らかだった。
ゼンフ――それは、大禍の一族がスリベグランディア王国で拠点としている町の名だ。だが、その事実を知るのは一族の一部の者のみだった。そして、一族の者たちはユナティアン皇国を拠点として動いている者たちを本家、スリベグランディア王国を拠点として動いている者たちを分家と呼んでいる。つまりゼンフは一族の分家の総元締めを意味していた。
当然、普通の町を装うため町には一族以外の人間も暮らしている。今では町もだいぶ大きくなり、ただ道を歩くだけでは一族の者たちに出くわすこともほとんどない。そして誰が一族で誰が一族ではないのか、正確に把握しているのは上層部の中でもごく一部だけだった。
少しして、女は「何故」と言った。
「何故、ゼンフからって分かったんだい?」
「そりゃ分かるだろ。あんた、長年あそこから出てねぇんだろ? 元は違う場所から来たんだろうが、臭いがプンプンしやがるぜ」
オブシディアンの言葉を聞いたローブの女は苦笑と共に首を緩く振った。
「全く――やっぱりとんでもない奴だね、あんた」
「俺も暇じゃないんでね、何か用があるならさっさと済ませてくれねぇかな」
「せっかちだね。でもまぁいいや」
女は何かに吹っ切れたように肩を竦める。そしてあっさりと顔を隠していたフードを取った。現れたのは存外に若い容貌だ。それでも目を捕えて放さない色気がある。一言でいうならば妖艶と言う単語に尽きるだろう。
なるほど、とオブシディアンはそれだけで女の正体を悟った。
――狐魅。
元々は間諜と暗殺――特に高位貴族や王族、皇族の男性に取り入り色仕掛けで情報を引き出したり、閨で殺害することを得意とする者たちだ。その性質上、女性が大半を占める。しかし嘗て大禍の一族に反旗を翻した為、惨殺され全滅したと言われていた。とはいえ生き残りは居るという噂も耳にしている。そして、今オブシディアンの目の前にいるのはほぼ間違いなくその生き残りだった。
女はオブシディアンが自身の正体を看破したとは気が付かないまま、楽し気に告げた。
「あたしはジーニーってんだ、よろしく。一応、あんたと同族――ってことになるのかな?」
にんまりと笑った女に、オブシディアンは顔を顰める。二人とも微動だにしない。
宜しくと言われても、女の本意が分からない以上、動く気にはならなかった。