42. 死神の休息 1
オブシディアンはユナティアン皇国の辺境にほど近い領地に身を潜めていた。他ならぬケプケ伯爵領だ。広大な屋敷の一室では、一人の少女が癇癪を起こしていた。
「どういうことなのよ!?」
だが少女の質問に答える者はない。彼女の前に居るのはケプケ伯爵の雇っている侍女頭で、年季の入った彼女はただ冷たい視線をマルヴィナに向けるだけだ。侍女頭とはいえ様々な経歴を持つ彼女は、相応の迫力も持っていた。そのせいか、マルヴィナは「どういうことなのか」と問いただした時にクッションを一つ投げただけだ。これが他の侍女であればもっと殺傷能力の高いもの――たとえば瓶やナイフを投げつけていた。
「答えなさいよ!」
侍女頭の態度が気に食わないマルヴィナは更に金切声を立てる。
マルヴィナの癇癪は、彼女が初めて訪れた数ヵ月前にはまだ知られていなかった。だが徐々に彼女がケプケ伯爵邸に慣れるにつれ、その傲慢さは侍女や使用人たちに向けられるようになった。
そのため、明らかにマルヴィナが癇癪を起こすだろう時は侍女や従僕ではなく、侍女頭や執事が足を運ぶようになった。ある程度地位があり経験を積んだ者でなければマルヴィナの相手は出来ない。マルヴィナの夫になる予定だったケプケ伯爵は早々にマルヴィナに見切りをつけ、結婚した暁には領地の端に一人で住まわせるつもりだと断言するほどだった。
「先ほど申し上げた通りにございます。此度、お嬢様の兄上たるタナー侯爵閣下は謀反の咎にて処刑が決定したとのこと。故にお嬢様と旦那様の婚約は白紙となります故、こちらのお屋敷に滞在を許可することはできませぬ。早々に準備を整えお国へお帰りください」
「帰るってどこへよ!?」
「そちらの手紙に書かれてあると伺っております」
侍女頭はしれっと答える。彼女が一瞥した先の床には、マルヴィナが無惨に引き裂いた手紙の残骸が散らばっていた。
「読めないじゃない!」
「先ほどご覧になっていたかと」
「使用人ごときが私に口答えするというの!?」
「おや、これは異なことを仰る」
マルヴィナの金切声は既に言葉の域を逸脱していたが、侍女頭は難なくマルヴィナの主張を理解した。彼女にとってはそれほど難しいことでもない。何よりも、マルヴィナの言いそうなことは大体予測できる。
「タナー侯爵家は、お嬢様とは無関係の方が治められることとなり、また先代侯爵は全ての爵位を王家へ返上なされたとのこと。故にお嬢様は既に貴族のご令嬢でもあらせられず、今は便宜上お嬢様とお呼びしているにすぎません」
つまり、マルヴィナは既に貴族の娘ではなく、そしてケプケ伯爵との婚約が破談になった以上単なる平民でしかない。侍女頭は一代貴族とはいえ騎士爵を持つ夫に嫁いでいるから、立場としてはマルヴィナよりも上になる。
それでも名を呼ぶほどでもないために、便宜上これまで通り“お嬢様”と呼んでいるに過ぎない。
そう断じられたことを理解したマルヴィナは顔色を失くした。
「な――っ!」
「夕刻までに馬車を呼んでおきます。夕食は賄いを籠に詰めてお渡しいたしましょう。旦那様のご温情に感謝なさい」
賄いとはつまり使用人の食事だ。これまでのマルヴィナはケプケ伯爵と同じものを食べていた。だが、平民となってしまったマルヴィナは最早使用人の食事しか食べられない。その上、本来であれば食事もなく放り出されていたところだと言う。
しかしマルヴィナには、そのようなことは一切関係なかった。
賄い、平民――そんな言葉が頭の中をぐるぐると回る。
「私は侯爵の妹よ、そんなことが許されるとでも思っているの!? 賄いなんて言語道断よ、いつもの通り私の夕食も用意なさい!」
「お嬢様がこちらで夕飯を摂ることは叶いません。夕刻までに荷物を作っておくこと。準備が出来ておらずとも、馬車が来ればご出立いただきますので、そのおつもりで」
だが侍女頭はマルヴィナの言葉を一切取り合わない。礼すらせずに、そしてマルヴィナが荒らした室内を片付けることもなく、部屋を出て扉を閉める。
「この、慮外者――!!」
マルヴィナは叫ぶ。しかし、これまではマルヴィナの機嫌を取るために慌ててやって来ていた侍女たちは誰もやって来ない。
「屋敷を出るにしたって、準備が必要じゃない。私は本来王太子妃になるべき人間なのよ。それなのにこの仕打ち、許されるものではないわ」
侍女頭は、夕刻までに荷物を詰めておくように言った。だが当然マルヴィナはそのようなことをしたことはない。全て侍女任せだった彼女は、自分から動く気はなかった。
マルヴィナはソファーに座る。苛立つまま眉間に皺を寄せて「どうしてやろうかしら」と呟いた。
ケプケ伯爵との婚約が白紙に戻るのは問題ない。侯爵家で育ち王太子妃となるはずだったマルヴィナにとってはあまりにも地位の低すぎる相手だ。だが、問題はこの後のことだった。
王国の両親から送られて来た手紙には、爵位を全て返上したこと、そしてマルヴィナは両親が働くこととなった荘園に世話になることが書かれていた。その荘園の場所は知らなかったが、手紙には丁寧にも詳細が書き連ねてあった。
どうやら元々はタナー侯爵家が管理していた土地だったらしい。だがあまりにも辺鄙な場所にあった。その土地で暮らしていれば滅多に王都に出ることは叶わない。最新の流行を反映した衣服も作れないだろうし、宝飾品など一年に一度商人が回ってくれば良い方だろう。主要な街道からも離れていて、つまるところマルヴィナにとっては死地に等しい場所だった。
「私は王太子妃になるというのに、その兄を捕え、あまつさえ私を辺鄙な土地に押し留めるとは。王国には真の忠義の士は居ないというのかしら、嘆かわし――」
美しく紅をさしたその唇から流れるように愚痴を垂れ流していたマルヴィナは、はたと思い立った。
マルヴィナには忠義の士に心当たりがあった。
兄ショーンの愚かな采配によりマルヴィナがケプケ伯爵の元へと辿り着いた時、彼はマルヴィナの前に現われた。それ以降も度々姿を現わしてはマルヴィナの自尊心を満足させるような言葉を並べ立て、そして敬ってくれている。見目も良いことも手伝い、マルヴィナはその男を烏と呼んでいた。最初は本名を教えられないことに腹を立てたが、やがて全幅の信頼を寄せるまでになっていた。
ただ最近はマルヴィナの前に姿を現わしていないが、そんなことはマルヴィナの頭から零れ落ちている。
「そうだわ、彼が居たじゃない。呼べば来るのではないかしら」
マルヴィナが必要と思った時は、呼ばずとも彼は姿を現わしていた。人目を忍んでバルコニーに立つ彼は麗しく、王太子妃になった後には愛人として囲ってあげようと約束も交わしていた。
彼もマルヴィナには恩を売っておきたいはずだ。そうすれば将来はこの美貌を持つ少女と権力が手に入るのだから――そう信じて疑わないマルヴィナは、扉を開け放ちバルコニーに出る。そして庭で仕事をしている庭師や従僕たちがぎょっとした顔を見せるのも気に止めず、愛しの彼を呼ばんと声を張り上げた。
「烏! 早くいらっしゃい、私が呼んでいるのよ!」
しかし何度呼んでも、マルヴィナの求める人は来ない。喉が枯れる前にマルヴィナは呼ぶのを止めたが、思い通りにならない現状に更にマルヴィナは物に怒りをぶつける。
結局準備も碌にできないままマルヴィナを迎える馬車が到着し、彼女は使用人が着る服と幾許かの金、そして硬いパンが詰め込まれた鞄を持たされ貧相な馬車に乗せられた。
鞄はマルヴィナが自分で用意をしないだろうと判断した侍女頭が別途事前に用意していたものであり、そして馬車は平民にしては上等なものだった。護衛も二人ほど付けられていたが、侯爵家の令嬢として生きて来たマルヴィナには到底納得できるものではない。
最後まで反抗していたが、力では護衛たちに適うはずもなかった。
馬車が動き始めると、マルヴィナも諦めたのか口を噤む。それでも時折「早く、私の元へ来なさい」と頼りになるはずの少年を呼ぶことは止めない。
その全てを、姿を隠したオブシディアンは観察していた。
烏と自分を呼ぶ少女を助ける気は、もうない。人身売買の一件に決着がついた今、彼がマルヴィナと関わる理由もなくなっていた。
*****
スリベグランディア王国の王都ヒュドール郊外に、一軒の寂れた店があった。他の店や家に埋没するように建っているせいか、滅多に足を踏み入れる者はいない。しかし、夕刻を過ぎれば風体の怪しい者たちが人目を忍んでその店を訪れる。
とはいえ、その事を咎める者はいない。この区画は平民たちの中でも後ろ暗いところのある者たちが集まる場所だった。
「お、死の虫じゃねえか。久し振りだな」
「お前本当嫌味な奴だな。その呼び名は止めろって何回言えば分かるんだ?」
開店と同時に訪れたのはオブシディアンだった。印象的な目は一瞬にして店内の様子を確認し、異常がないと判断した瞬間に警戒を解く。とはいえ最強の刺客という呼び名を欲しいままにしている少年は、奇襲を受けたところで傷一つ付かないことは、店主が良く知っていた。
オブシディアンを“死の虫”と呼んだ男は面白がるような笑みを浮かべて林檎を盛った籠をカウンター席に置く。オブシディアンはそれを見て嫌そうに顔を顰めた。
「おい、テンレック。俺を見た途端に林檎を出すのも止めろ。烏もいねえのに」
「お前と言えば林檎だろ。どのみち必要になるんだから持って行っとけ。せめてもの礼だ」
テンレックの台詞にオブシディアンは顔を顰めたが、それ以上文句は言わずにカウンターに腰掛ける。そして目の前の籠を横に追いやると「酒」と言った。テンレックは無言で酒を出す。オブシディアンは無言で酒を飲む。その様子を見るとはなしに眺めながら、テンレックは「ようやく酒も解禁かい」と言った。
「大仕事が終わったからな」
オブシディアンは短く答える。仕事の内容は口にはできないし、するつもりもない。ただ長年かけた仕事が片付き、皇国――正確にはケプケ伯爵家とリリアナ・アレクサンドラ・クラークの元を行き来する必要もなくなった。
「そりゃ何よりだ。俺も気がかりが一つ減ってほっとしたよ」
「気がかり?」
「前手伝って貰っただろ、ペッテルたちのことさ。あいつらを売ろうとしていた奴らがどうにかならないと、安心して暮らしてはいけねえからな」
俺たちみてぇな商売ならともかくあいつらは堅気だからな、とテンレックは言う。オブシディアンは曖昧に頷いた。
ペッテルは以前、人身売買の商品として隣国に送られていくところだったが、そこをテンレックが助けた。実際には破落戸にテンレックが襲われているところをオブシディアンが助けたため、直接的な命の恩人はテンレックではなくオブシディアンだ。
とはいえ、オブシディアンがマルヴィナ・タナーの監視と人身売買の調査をしていたとは知らない。テンレックがその話題を選んだのは全くの偶然だった。今や王都はその話で持ちきりだから、不自然さはない。
「ああ、あれか。侯爵本人は処刑が決まったらしいな。親の方は無事らしいが」
「普通は一族全員処刑されるってもんだろ? 何しろ罪状が謀反だぜ」
オブシディアンが返事をすれば、テンレックも頷いて同意する。信じられないというように言うが、裏事情を知っているオブシディアンは短く同意するに留めた。
巷を賑わしているのは、タナー侯爵家当主のショーンが謀反の咎で捕まり、処刑が決まったという報せだった。
本来であれば一族が処罰を受けるべきところだが、爵位を返上するだけで終わったのだ。その上ショーンの両親は先王時代からの献身が評価され、命までは取られないこととなった。その裏にはタナー侯爵領を中心として発展した商業的な繋がりや経済への影響があるということだが、オブシディアンやテンレックなど定住しない人間には関係のないことだ。
「先代侯爵は先だっての政変の時、一時劣勢に陥りかけた国王を領地に匿ったことがあるらしいからな。目だった功績はねぇが、その点が今でも評価されてるんじゃねえか」
「なるほどなぁ。情けは人のためならずってか」
適当にオブシディアンが言えば、茶化すようにテンレックが笑う。
両親は温情を掛けられたが、さすがにタナー侯爵領の運営には携われない。タナー侯爵領は王家が指名した者が治めることとなり、ショーンの両親は監督官として荘園の内の一つを任されることが決まったそうだ。謀反と隣国への密通という大罪を犯した者の親族としては非常に寛大な処置を受けたが、貴族としての生活を捨てられなければ苦労するに違いない。とはいえ、聞こえてくる噂ではタナー侯爵の両親はそれほど贅沢を好まない性質だということで、問題なく暮らせるだろうことは予想が付いた。
ただ問題は処罰を下されたショーンの妹マルヴィナの方だ。ケプケ伯爵との婚約は破談となり、既に彼女たち一族のものではなくなった王都の邸宅にも戻ることも叶わず、必要最小限の荷物を持って両親のもとに行くことになった。だが贅沢が身に沁みついた彼女にとってはこれからの生活は苦労の連続だろう。
オブシディアンは思考を振り払うように酒を飲む。仕事の都合でマルヴィナと接触した際、オブシディアンは名乗らなかった。ただ呼び名がないのは不便だと言う理由で“烏”と名乗った。
マルヴィナは甚くオブシディアンの顔が気に入ったらしい。王太子妃になった暁には愛人として召し抱えると彼女が言った時には、さすがのオブシディアンも笑いを堪えるのが大変だった。
「それにしても、聞いたか?」
機嫌の良いテンレックが、空になったオブシディアンのコップに酒を継ぎ足してくれる。ついでに摘まみも幾つか出して、彼は僅かに声を潜めた。
「どうやら人身売買の話、俺たちが放置したあの破落戸共がゲロったって話だぜ」
「へえ?」
オブシディアンは今初めて聞いた顔をして相槌を打つ。
当然、オブシディアンは大まかな内容をリリアナから聞いていた。今回の件はリリアナがオブシディアンに様々な指示を出していた。ショーン・タナーは非常に慎重だったが、それでも当初の想定より早く彼を捕縛できたのはオブシディアンの働きが大きい。そのこともあってか、リリアナはオブシディアンにも簡単に情報を共有してくれていた。
どちらかと言えば秘密主義のリリアナには珍しいと驚いたのも記憶に新しい。
だが、テンレックはオブシディアンが知らないと思っている。淡々と仕入れた情報をオブシディアンに教えてくれた。
情報屋として金を得ているテンレックにしては大盤振る舞いだが、恐らくオブシディアンに命を助けられ、そして仲間の救出に手を貸して貰えたことに多少なりとも恩義を感じているのだろう。
「元々、そこまで義理堅い連中でもなかったんだろうな。本当は道中も枷を付けて絶対に荷馬車から出すなって言われていたらしいが、その枷もどうやら魔道具だったらしくてな。その魔道具は売っ払って金に換えたんだと」
ショーン・タナーって奴は見る目がなかったんだな、とテンレックは付け加えた。
その点についてはオブシディアンも同感だ。明らかにショーンは目先のことに捉われて急ぎ過ぎた。もう少し時間をかけて人を選べばまだもう少し商売は続けられただろう。だが、ショーンが慎重だったのは証拠の取り扱いについてだけだった。彼にとって傭兵や破落戸は道具に過ぎず、そこからほころびが生じるとは思ってもみなかったに違いない。
ふとオブシディアンは気配を感じて目を細める。振り返れば、そこには嘗て一度だけ会った人物が店内に入って来るところだった。テンレックはその人物が来ることを承知していたらしい。
「来たな」
にやりと笑って、カウンターに座るよう促す。問う視線を向けたオブシディアンに、テンレックは「なんだよ」と首を傾げてみせた。
「堅気をこの店に呼んで良いのか?」
「良いんだよ、今日は特別だ。何せ、祝いだからな」
テンレックに招かれたらしい客――ペッテルは人好きのする微笑を浮かべて、オブシディアンの隣に少し距離を開けて腰かける。
「君たちの場所にお邪魔しても良いのか悩んだんだけどね、彼に誘われたから」
良い店だね、とペッテルはにっこりと笑みを浮かべる。
ペッテルはテンレックの同胞であり、かつて人身売買で隣国に売られる途中助け出された青年だ。だからこそ、今回その首謀者が捕らわれたことに祝杯をあげようというのだろう。
テンレックの魂胆を理解したオブシディアンは、わずかに呆れ顔で酒を煽った。
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