38. 国境陥落 4
リリアナは一つ息を吐いた。リリアナが転移の術を使えると、ライリーは確信を持っている様子だ。
元来リリアナは自分の能力をひけらかすのは好きではない。転移の術も幻術も、使えることが周囲に知られないからこそ本来の効果を発揮する。しかし今ここで嘘をついてジルドに抱えられ砦に侵入することは、あまりにも危険性が高かった。もしその状態で敵と交戦することになれば、三人で侵入したリリアナたちが明らかに不利だ。生きて逃げるために、結局はライリーの前で転移の術を使うことになる可能性がある。
それならばいっそのこと、今の段階で転移の術を使えると知られても術を行使した方が良いに違いない。
「――そうですわね。転移の術で参りましょう」
答えれば、意外そうにジルドが目を瞠る。一方のライリーは大して驚くことも得心したような表情も浮かべず、当然のことを言われたような態度だった。
それほど表には出さないが、ライリーの洞察力は他の追随を許さない。クライドは交渉術に長けているし複数の情報から一つの回答を導き出す能力に優れているが、ライリーはそもそも何の変哲もなさそうなところから共通点を見つけ出したり可能性を引き出したりすることが得意なようだった。
リリアナが手を差し出し、ジルドとライリーは素直にその華奢な手を取る。
「【転移】」
ライリーの視線を横顔に感じながら、リリアナは詠唱した。無詠唱で魔術が使えるとライリーに見せる気はなかったが、既に気が付かれているような気もする。だが、無詠唱で魔術を使っているところを見せなければ、その疑惑を認めることにもならない。
次の瞬間、リリアナたちの視界が切り替わる。ジルドとライリーは素早く周囲に視線を巡らせる。人の気配はない。三人が転移した先は、物見の塔から少し離れた場所だった。物見の塔は目視できるから転移しやすい。それに、場所も都合が良かった。
この近辺は使用人や物見の役割を負っている兵士たちが使う場所で、それなりの地位がある者は近寄りすらしない。つまり、砦を占拠している騎士たちの中でも、指揮を執るような位の高い者たちは決して寄り付かない場所だった。
「もしかしたら、ここに捕虜がいるかもしれねえってこったな」
ジルドが喉の奥で唸る。ライリーは小さく頷いた。
「そうだね。良い場所に転移してくれてありがとう、サーシャ。せっかくだから、先に彼らの無事を確かめて来ようか」
「ええ」
リリアナは短く頷く。
暗闇の中、ジルドは全く迷いなく足を進めた。元々ジルドは身体能力が高く、普通であれば足を進めることすら躊躇う暗闇の中であっても、ほんのわずかな月光と星明りを頼りに周囲の状況を認識できる。その彼にとって、離れているとはいえ松明が赤々と火を燃やしている状況は昼間に等しいものだった。
ジルドほどではないにしろ、ライリーも危なげのない足取りで歩き始める。リリアナは目に魔力を纏わせて視界を確保すると、二人に挟まれるようにして歩き始めた。
「わたくしが後ろに居た方が宜しいのではございませんか」
「何故?」
声を潜めてリリアナが問えば、予想外のことを問われたというようにライリーが目を丸くする。リリアナはほんの僅かに眉根を寄せた。
「貴方は王太子殿下であらせられますもの。砦に侵入しておいて申し上げるのもなんですが、危険に身を晒すべきではないと思いますわ」
ライリーが最後尾に居るのは、後ろから敵に襲われた時のためだ。先頭のジルドと最後尾のライリーにリリアナが挟まれているのは、一重にリリアナの身の安全のためだった。だが、それならば王太子であるライリーが一番安全な真ん中に居るべきだ。砦に侵入すること自体、褒められたことではない。ライリーも分かっているから、護衛たちの目を盗んで陣から抜け出たのだ。だが、リリアナもライリーの主張は一理あると納得したからこそ、追い返すような真似はしなかった。それでも許せる限度がある。ライリーはリリアナを守って命を落とすべきではない。
だが、リリアナの指摘を聞いたライリーは首を横に振った。
「そう簡単にやられたりはしない。大丈夫だ。それに、実戦に慣れていない貴方を危険に晒したくはない」
「貴方は実戦に慣れていらっしゃると?」
「手厳しいね」
リリアナの言葉にライリーは苦笑して肩を竦める。
確かにライリーは実戦経験がない。机の上で学んでいることと、実際の現場で起こることは違う。どれほど訓練を重ねても、実際に襲われた時には訓練した通り動けないことも往々にしてある。
以前刺客に襲われた時、ライリーは一人で複数の敵を倒していた。今、敵に襲われて手も足も出ないということはないだろうが、万が一ということもある。
それに、リリアナが何も出来ないと思われるのは妙に腹が立った。
攻撃に気が付かなかったとしても、結界を張っておけば初手は防げる。
しかしそれを主張しても得策ではないと、リリアナは口を噤む。
そんなリリアナに何を思ったか、ライリーは「それと」と付け加えた。
「貴方を危険に晒すのが嫌だという、私の我が儘だよ」
一瞬、リリアナは息を詰める。まじまじとライリーを見つめるが、薄明りの中辛うじて見えるライリーの表情は真剣だった。
リリアナは小さく息を吐く。
「――周囲の景色は見えていらっしゃいますの?」
ライリーが魔術を使っている様子はない。不思議に思ったリリアナが小声で尋ねると、ライリーは「はっきりとは見えないけれどね」と答えた。
「どちらかと言えば、視力じゃなくて五感に頼っている感じかな」
周囲の気配を感じ取っているのだという。だから敵が近づいて来れば直ぐに分かるのだろう。
気配と言えば人や動物など生き物から感じ取るものだと思っていたリリアナは思わず目を瞠る。揺れた空気に気が付いたのか、ライリーは笑みを浮かべたようだった。
「あとは――そうだね。一度来たことのある場所だというのが大きいと思うよ。大体の構造、物の位置は把握しているから。不自然なものにも気が付けるんじゃないかな」
ライリーの説明にリリアナは納得する。その時、先頭を歩いていたジルドが足を止めた。
「多分これが入り口だろうな。誰も居ねぇってのは解せねえが」
ジルドの言う通り、物見の塔の入り口には全く人がいない。ただ閂が掛けられているだけだ。
「人手が足りないか、侵入者など居ないと思っているのか、扉が開けられても問題ないから放置しているのか――どれだろうね」
そうぼやきながら、ライリーはジルドと共に閂を開ける。最後の仮定は、希望的観測と最悪の可能性の二つを含んでいた。一つは、人質たちが他の場所に居る可能性――そしてもう一つは、既に死んでいるから逃げられる可能性がないとして放置している可能性だった。
二人は一抱えもある大きな閂を音もなく外し、地面に置く。そして中を警戒しながらゆっくりと木戸を開けた。カビの生えたような、独特な臭いが鼻をつく。
ジルドを先頭にし、三人は中に入る。物見の塔はそれほど広くない。円形の室内は中央に螺旋階段があり、一見したところは上に行く階段しかない。しかしジルドは地面に跪き、螺旋階段の足元にある木板に手を掛けた。そして引き上げると、その下にはぽっかりと開いた穴がある。中を覗き込んだジルドは顔を上げてライリーに尋ねた。
「おい、地下に繋がってんぞ。上と下、どっちに行く?」
「下だろうね。上には物見のために兵士がいるはずだ」
ライリーの言葉を受けて、ジルドはもう一度階下を覗き込む。しかしさすがのジルドにも地下の様子は見えなかったらしい。一つ首を振ると、木板を外して横に置いた。そして顔を上げてリリアナに目を向ける。
「嬢ちゃん、さすがに何も見えねぇわ。魔術使って灯りつけれるか?」
「問題ございませんわ」
リリアナは頷くと詠唱した。すると、空中に火の玉が浮かび上がる。さすがにジルドやライリーは驚いた様子で目を瞠る。ライリーは感嘆と共に、苦笑を浮かべた。
「――普通、適性魔術以外はそれほど簡単に使えるものではないはずなんだけどね」
ライリーはリリアナの適性魔術が風であることを知っている。しかし今リリアナが使った魔術は火の適性が必要となるものだった。
勿論、適性以外の魔術を使えないかと問われると必ずしもそうではない。しかし、適性のない魔術を使うためには、適性のある魔術よりも長い詠唱と膨大な魔力量が必要だとされている。
しかし、今はリリアナの魔術の才能について話す時間はない。リリアナの作った魔術の灯りはジルドとリリアナ、そしてライリーの周囲を淡く照らし出す。
「一応、灯りを付けられる魔道具も持って来たんだけど」
ライリーは言うが、リリアナは首を振った。
「魔道具の灯りはそれほど長時間使えるわけではございませんでしょう。後で必要になった時に使えなくなると困りますわ」
そしてリリアナは穴に視線をやる。そのため、背後でライリーが苦笑しながら肩を竦めたことには気が付かなかった。
最初に穴に飛び込んだのはジルドだった。梯子が細い通り道に下ろされているが、それほど深いものではない。
リリアナとライリーは一番下まで降りたジルドが安全を確認するまで、木板のところで待機していた。少ししてから、穴の底からジルドの声が響く。
「良いぜ」
リリアナはライリーに手を貸して貰いながら、梯子に足を掛ける。
公爵家の令嬢として生まれてからこの方、梯子を使って上り下りするのはこれが初めてだ。上から見下ろせば大した深さではないと思ったものの、実際に梯子を降りる段になると途端にその印象が覆る。
戦場ということもあってリリアナも動きやすい服装に着替えてはいるものの、足元を確認すると均衡が崩れそうで、リリアナの顔からはいつも浮かべている微笑が消えた。
ライリーが気遣わし気に尋ねる。
「サーシャ、大丈夫?」
「え、ええ」
無理だと泣き言を口にすることなど、リリアナにはできなかった。ほんのわずかに上ずった声で答えると、ライリーはそれ以上何も言わなかった。
「おいおい、本当に大丈夫かよ」
先に地下へ降りたジルドがボヤくが、リリアナは無視した。梯子を降りながらジルドの軽口に応える余裕などありはしない。
多少動きにぎこちなさが残るリリアナが梯子を降りた後、ライリーも身軽な動作であっという間に地下へ辿り着く。
リリアナがほっと安堵の息を漏らしていると、ジルドが周囲を見回してぽつりと呟いた。
「だいぶ狭い――が、塔よりは広いみてえだな」
それほど広いとはいえないが、物見の塔よりも広く造られている。つまりリリアナたちが降り立った場所の地面の下にも、今リリアナたちが居る地下があったらしい。
「ここの存在は聞いていたけど、確かに広いね」
「来たことはなかったのか」
「うん、一応ここは簡易とはいえ地下牢だからね。私が言うのもなんだけど、王族に見せるような場所じゃないんだよ」
「へえ」
ジルドはライリーに質問したが、ライリーの答えには顔を顰めて鼻を鳴らした。しかしライリーは苦笑したまま、責めることはしない。ジルドが貴族社会はやはり面倒だと思っていることは、それなりに付き合いが出来て来たライリーにもすぐわかった。そしてジルドもまた、ライリーのことを普通の貴族とは少々違うらしいと知っている。
ジルドはじろりとライリーを見下ろし、口の端を曲げた。
「で?」
「なにかな?」
「実際は? 一人で来たりしてねえのか」
護衛やカルヴァート騎士団の目を盗んで一人見に来たのではないかと、ジルドは問う。ライリーは全く悪びれる様子もなく頷いた。
「そうしたいのは山々だったんだけどね。ビヴァリー殿の目を盗んでうろつくのは難しかったな」
「ビヴァリー、ってえと、あのおばちゃんか」
「ご婦人と呼んだ方が良いよ、命が惜しければ」
ライリーは神妙な顔つきでジルドに提言する。そんな会話をしながらも、三人は周囲を注意深く観察しながら奥へと足を進めていた。
地下牢は一本道で、両側には鉄柵で区切られた個室がある。そのどこにも人の姿はない。
「そんなに強ぇのか」
「うん。そうは見えないだろうけどね」
ビヴァリー・カルヴァートは一見したところ、典型的な貴婦人だ。ゆったりと茶や菓子を楽しみながら、社交界で他の夫人たちと話に興じて居そうに見える。肉体を鍛えているようにも思えない。しかしライリーは真剣で冗談を言っているようにも見えない。
ジルドが戸惑った視線をリリアナに向ければ、リリアナは口角を上げた。
「わたくしも、噂だけ聞き及んでおりますわ。その噂が本当かどうかは、明日分かるでしょう」
「そいつぁ楽しみだな」
にやりとジルドは笑う。貴族は嫌いだが、強い人間はその地位に関わらず興味があった。
その時、ジルドはぴたりと足を止める。手を掲げてライリーとリリアナに注意を促すが、その時にはライリーもリリアナも同じものに気が付いていた。
「血の匂いがするぜ」
「――急ごう」
ライリーの顔が険しくなる。ジルドもリリアナも、足を速める。
嫌な予感が三人の脳裏をよぎっていた。









