38. 国境陥落 3
夜半過ぎ、ジルドは単独で気配を殺して木々の影に隠れながらフィーニスの砦に向かっていた。
砦とはいっても非常に堅牢な要塞で敷地も広い。隣国が攻めて来た時は数ヶ月間籠城できるだけの規模がある。
彼の役割は、砦内部の状況を確認することだった。夜目がきき魔術にも引っかからず、そして一定程度以上の戦闘能力がある――という条件を満たす者はそれほど多くない。更に、ジルドは“北の移民”も判別できる。魔導士の存在もカルヴァート騎士団側にとっては頭の痛い問題だが、それ以上に戦闘能力の高い“北の移民”が居たら厄介だ。
カルヴァート辺境伯ビヴァリーは勿論、クライドやオースティンでさえジルドの出自を知らないが、凡そのことを把握しているライリーがジルドを推挙した。カルヴァート騎士団の騎士たちは驚き、中には憤りを隠せない者も居た。だが他ならぬ王太子の指名だと、ビヴァリーは半ば不審げな表情をしつつも頷いた。万が一ジルドが寝返ったとしても問題ないと考えたのかもしれないが、当然ジルドにその気はない。
「さあて、どこから侵入するかな」
ジルドは遠目から砦の全容を眺め、顎を撫でる。ジルドは傭兵であって間諜ではない。それでも彼の類稀な身体能力のお陰で、たいていの砦ならばそれほど苦労せずに侵入できる。しかしフィーニスの砦は本職でないジルドには多少、難しい相手だった。
その時、ジルドはふと一つの気配を身近に感じる。唐突に現れた気配は見知ったもので、一瞬警戒したものの、すぐに彼は体の緊張を解いた。代わりに半眼になってそちらを振り返る。
「――嬢ちゃん」
視線の先には、全く悪びれた様子のないリリアナが立っていた。リリアナはジルドににこりと微笑むと、危なげない足取りで近づいて来る。
「あんたは休んでるんじゃなかったのか」
「お一人で侵入なさるのは大変かと思いましたの」
僅かに責める色合いを含んだジルドの言葉に、リリアナはあっさりと言い返す。端的な言葉に、ジルドは眉根を寄せて少し考える。リリアナの微笑は普段と変わりないが、双眸には悪戯っぽい光が浮かんでいる。少ししてようやく、ジルドはリリアナの考えに思い至った。
「魔術でも使う気かよ、おい」
「転移も幻術も、自由自在でしてよ。それに、陣の捜索も容易くなりますでしょう」
確かにリリアナが居れば大幅に戦法は増える。それにジルドは魔術について詳しくない。転移陣の図柄とその上に置いて陣を無効化する魔道具を預かりはしたものの、転移陣と他の陣の区別など付くわけもない。それでもどうにかなるだろうと持ち前の気楽さで高を括ってはいたが、リリアナが居ると心強いことも確かだった。
ジルドは喉の奥で低く唸った。
護衛としての立場から言えば、当然リリアナの同行は許可できない。しかしジルドはリリアナの護衛である以前に傭兵だった。それも単独で功績を立てたがる、戦場を主とした傭兵とは違った“何でも屋”である。そのため、その場で最善の方策があるのであれば悩む必要はなかった。ただ一つの懸念と言えば、たった一つ。
「王太子には言ってねえんだよな?」
「言うと思いまして?」
リリアナの平然とした回答に“やはりか”とジルドは肩を落とす。
ライリーには、リリアナが無茶をしないよう護るよう頼まれていた。だがよく考えればその時にジルドは快諾はしなかった。どう考えてもリリアナの行動を制限することなどジルドにはできない。頭脳派のオルガならともかく、肉体派と自負しているジルドではリリアナの思い付く計画など全く予想外のことばかりだ。
ジルドの逡巡はほんの一瞬だった。
「分かった」
その言葉は承諾の証だ。リリアナの口角が満足気に上がる。しかしそれも一瞬だ。
「どこに転移しましょうか」
「とりあえず人気のねえところで。捕まった騎士見習いの無事も、一応確認しねえといけねえんだろ? 物見塔の地下じゃねえかつってたから、まずはその辺りか」
「そうですわね」
つらつらと考えていたことをジルドが口にすれば、リリアナから反論の言葉は出なかった。よしと頷いたジルドが差し出されたリリアナの手を取ろうとした、その時――ジルドは咄嗟に身構える。
全く気が付かなかった気配がすぐ間近に迫っていた。
「面白そうなことを話しているね」
その声は、ジルドもリリアナも聞き覚えのあるものだった。だがここに現われるはずのない声だ。さすがのジルドも愕然と目を瞠り、暗闇から姿を見せた自分より華奢な姿を見下ろす。それは、スリベグランディア王国の王太子だった。
ジルドは絶句していた。そもそもこの場に居ないはずの王太子が居ることも驚きだが、彼の他に人の気配が一切ないこと――つまり王太子が護衛を連れていないことも予想外だ。
リリアナも目敏くライリーが一人だということに気が付いたらしい。多少声音をきつくしてライリーに問う。
「ウィル、護衛はどうなさいましたの?」
「気が付いていないよ。私が天幕で寝ていると思っているのではないかな」
ライリーは全く気にした様子もなくジルドとリリアナのすぐ傍に立ち、目を細めて少し離れた場所に聳える砦を見つめる。黒装束に身を包んだ腰には愛剣がぶら下がっていて、どうやら本気でジルドと共に砦へ侵入しようと考えていることが窺えた。
「――あんたの護衛って、結構な手練ればっかりじゃなかったか?」
「ジルド殿にそう言われると嬉しいね」
ようやく立ち直ったジルドが胡乱に問うと、ライリーは一瞬目を瞠り破顔一笑した。ライリーはジルドとオルガの強さを認めている。そのため、その声には素直な賞賛と歓喜の響きがあった。ジルドは居心地が悪そうに眉を顰めるがライリーは気にしない。
「さすがに王太子の護衛ともなると、選りすぐりの騎士を選ぶからね。ああ、でも私は王太子だから、普段は彼らの目を掻い潜って抜け出すなんて真似はしていないよ」
機嫌良く告げたライリーを前に、リリアナとジルドは毒気が抜けたような表情になった。
「――俺でも気が付かねえほど気配消すのに慣れてるってことは、つまりそういうことってわけか」
多少分かり辛い言い回しで、ジルドは苦く呟く。その独り言を拾ったリリアナも、おおよそジルドの言いたいことを悟った。
ジルドは身体能力に優れた“アルヴァルディの子孫”だ。そのため五感は勿論のこと、他人の気配を感じる能力にも長けている。リリアナが幻術を使っても直ぐにその気配に気が付くほどだ。
そのジルドにも悟らせないほど、ライリーは魔術を使わず気配を消すことができるということだった。
「普段は滅多に使わないその技術を使って抜け出ていらして、何をなさるおつもりです?」
リリアナは自分のことを棚に上げて尋ねる。ジルドが呆れた視線をリリアナに向けた。その目が“抜け出て来たお前が何を言う”と雄弁に語っているが、リリアナはその視線を無視した。そしてライリーは責めるようなリリアナの視線をものともせず、あっさりと答える。
「私が居ると何かと役に立つんじゃないかと思ってね。サーシャもジルド殿も、実際にフィーニスの砦の中を見たことはないし、それに騎士見習いたちの顔も知らないだろう」
それは確かにそうだった。だが事前に砦内部の構造は聞いているし、騎士見習いたちもカルヴァート騎士団の制服を着ているはずだから一目見れば分かるはずだ。
「私は以前、何度かフィーニスの砦にも足を運んでいる。その時に今回捕らわれている騎士見習いたちの顔も見ているから、たとえ服を脱がされたり着替えさせられていたり――たとえ首だけになっていたとしても、すぐに判別ができる」
低く付け加えられたライリーの言葉は、重苦しく二人の耳に響いた。
つまりライリーは、捕虜たちが既に死んでいる可能性も考慮に入れている。それも当然だ。騎士見習い程度であれば人質にはならず、そして備蓄された食料には限界がある。まだ砦が落とされてから数日しか経っていないが、敵の判断によっては殺されている可能性も否定できない。
ジルドは苦い顔を隠せず、リリアナは微笑を収めてライリーを真っ直ぐに見つめていた。
「それに」
真剣な表情を浮かべていたライリーは、少し面白がるように口角を引き上げて続ける。
「隣国の領主は新興領主でカルヴァート騎士団の――いや、カルヴァート辺境伯の恐ろしさを知らない。それならついでに、王太子も油断ならない相手だと思わせておいた方が良いんじゃないかと思ってね」
「あ? どういうことだ」
ジルドは顔を顰めて首を傾げた。以前は何か疑問を抱けばライリーでなくリリアナに問いかけていたジルドも、“北の移民”の人身売買問題でライリーと会話することが増えてからは、直接王太子に質問を投げかけることが増えた。またライリーもそんなジルドを無碍にせず、丁寧に答える。
「先代国王は賢王と呼ばれていたけれど、その武勲も褒め称えられていたからね。実際に戦場で先陣を切ることも、若い頃にはあったらしい。その勇姿が、隣国の年配者の記憶には焼き付いていたんだよ」
そのため、ユナティアン皇国の重鎮たちはどれほどスリベグランディア王国を支配下に入れたいと願っていても、報復や反撃を恐れておいそれとは戦を仕掛けて来られなかった。彼らは虎視眈々とスリベグランディア王国の弱体化を狙いながらも、王国は先代国王以下優秀な者たちによって隣国からの脅威を未然に防いでいた。その結果、二十六年前の内乱の時もユナティアン皇国はスリベグランディア王国に攻め入っては来なかった。
だが先代国王が崩御し王宮の力関係も変わった今、皇国に根付いた警戒心も徐々に失われつつある。
「二年前にケニス辺境伯領に近隣領主が攻め入り、そして今回はカルヴァート辺境伯領に攻め込んで来た。その上フィーニスも敵の手に落ちた。勿論、ケニス辺境伯領を襲ったのが領主の独断専行だったなどというユナカイティス皇家の言い分を信じているわけではないけど、どこまで本気で攻め入るつもりがあるのかは判断が付きかねていたんだ」
だが、今回の件だけではなく、得られた種々の情報からもユナティアン皇国はスリベグランディア王国に本格的に手を入れようとしているのだとライリーは判断した。当然、その見解を知るものは多くない。
「知っているのはオースティンとクライド、それから貴方たち二人だけだから、他言無用だよ」
途端にジルドは思い切り顔を顰めた。そのような国家機密は知りたくなかったと、ありありと顔に書いてある。その表情を見て取ったライリーは笑みを深めた。口にはしないが、ジルドを“共犯者だね”という目で眺めている。
ライリーの無言の意味を間違いなく汲み取ったジルドは痛烈な舌打ちを漏らした。不愉快そうだが、かといって本気でライリーを嫌うというわけでもない。ただジルドは国家の面倒事に巻き込まれるのが嫌なだけだった。
「というわけだから、今回フィーニスを取り返すついでに、スリベグランディアと敵対しても利点がないと知らしめたいんだ」
「お考えは分かりましたわ」
それまでずっと無言だったリリアナが口を開いた。普段と表情はそこまで変わらないものの、ライリーにはこれ以上何を言っても無駄だろうと半ば諦めの境地だった。
「時間もございませんし、さっさと参りましょう」
「そうだね。どうやって行くつもりだったのかな?」
ライリーは問うような視線をジルドとリリアナに向ける。ジルドは答えず、仏頂面でリリアナを見やった。そして溜息混じりに応える。
「俺が嬢ちゃんを抱えて行く」
リリアナは魔術の才能はあるが、肉体的には一般的な貴族の令嬢と変わらない。多少運動はしているものの、砦に侵入するなど無理な話だ。ライリーが居なければ転移の術であっという間に侵入できたのにと、ジルドとリリアナは内心嘆息する。
だがその時、何気なくライリーが一つの質問を口にした。
「サーシャは転移の術は使えないのかな?」
思わずリリアナはライリーの顔を見る。ライリーは穏やかに微笑んで、しかし真っ直ぐにリリアナを見つめていた。その双眸には、リリアナが転移の術を使えるはずだという確信めいた光が浮かんでいる。
「何故ですの?」
「大した理由ではないんだけどね。ベン・ドラコ殿とペトラ殿は転移の術が使える。そしてその二人が、自分たちよりも優れた魔導士として名を挙げるのが貴方だから、もしかしたら使えるのかもしれないと思ったんだよ」
リリアナは全く表情を変えずにライリーの目を見つめる。ライリーもまた静かにリリアナを見つめ返していた。
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