38. 国境陥落 1
ネイビー男爵領の視察を終えた翌日には、ゼンフの町を発つ予定になっていた。リリアナたちは往路と同じように支度を整えると、歓談しながらゆったりとした朝食を摂る。そしていざ旅立とうという時、焦った表情の侍従が一人、部屋に飛び込んで来た。
「どうした」
ライリーが鋭く尋ねる。普通であれば入室の前に許可を取る。しかしそれを省略したということは、緊急事態が起こったということだ。侍従は顔面を蒼白にし、喘ぐように告げた。
「お、王太子殿下に申し上げます! 国境より――フィーニスより、赤い狼煙が上がりました!」
「――っ!」
その部屋に居た全員が、息を飲む。
フィーニスはカルヴァート辺境伯領にある砦の一つで、隣国ユナティアン皇国に対する国防の要の一つだ。そこから赤い狼煙が上がったということは、砦が陥落したということだった。
何故事前に何の知らせもなかったのか、その狼煙は本物なのか、何故簡単にカルヴァート騎士団が敗北したのか、そしてカルヴァート辺境伯と騎士団は無事なのか――様々な疑念が脳裏をよぎるが、事は一刻を争うことも確かだった。
一瞬言葉を失ったライリーは、すぐに冷静さを取り戻す。
「王都はどうなっている」
「未だ反応はありません」
「他の領は?」
「――反応なしです。ケニス辺境伯領のみ、黄色の狼煙を上げました」
侍従の答えに、オースティンとクライドも顔を顰めた。
「なんだと?」
「本当か?」
黄色の狼煙は“救援不可”の印――つまりケニス騎士団も自領の対応で手一杯という意味だ。それはあり得ないことのはずだった。
全員の視線を一身に浴びたライリーは低く唸り、侍従に指示を出す。
「王都の方面から狼煙が上がらないか、注視しておいてくれ。まだ用意が整っていないだけかもしれない。ケニス辺境伯領に関しては斥候を飛ばして様子を知らせろ」
「御意」
侍従は汗を拭いながら深く頭を下げる。その場に取り残されたライリー、クライド、オースティン、そしてリリアナは、誰からともなく顔を見合わせた。他に人がいないのを良いことに、オースティンが気安い口調で尋ねる。
「どうする」
本来であれば、ライリーたちに出来ることはない。安全を期して王都に戻り、国境へは王立騎士団を向かわせるべきだ。そして近隣の領主たちに依頼を飛ばし、騎士団の派遣を要請する。
しかし、ライリーにはその判断はできなかった。あまりにも妙だった。
「フィーニス陥落もそうだが、ケニス辺境伯領も騎士団が出られないほどの状況になっていると報告がなかった」
その異様さに、クライドやリリアナも眉根を寄せる。オースティンははっきりと顔を顰めた。
「“影”も使ったのか?」
「いや、国境に関しては“影”を一々使わずとも情報が流れて来るように手を打ってある」
「つまり、誰かが故意的に情報を遮断したか、それとも情報が届くより先に危機的状況に陥ったか――ってことか」
「ああ」
ライリーの言葉から、オースティンが容易く幾つかの可能性を導き出す。その場にいる者たちは皆、オースティンが口にした可能性に思い至っていた。
「――予定を変更する」
悩む時間はない。ライリーは決意に目を光らせて告げた。
「これからフィーニスに向かう。フィーニスが本当に陥落したなら、ユナティアン皇国が王都まで進軍する可能性も高い。そうなれば我が国はユナティアン皇国に下る他ない」
「そうだな。そしてあの皇帝が在位している今、ユナティアン皇国に下った俺たちが無事でいられるはずもない」
皇国のことだから、スリベグランディア王国の貴族たちは一族郎党皆殺しだ。そして平民たちも無事では済まない。ユナティアン皇国はスリベグランディア王国の力を削ぐために、王都までの道すがら、畑を踏み荒らし女子供や財宝を略奪し、そして村に火を放つ。それはれっきとした戦術だ。つまりフィーニスから王都へ続く街道は血に染まることになる。
そして問題はそれだけではない。領土を失えば諸侯たちからの信頼も失う。即ち、フィーニスを失ったままでは、そう遠くない将来にスリベグランディア王国が崩壊するということも意味した。
ライリーの決意に満ちた表情に、オースティンはにやりと笑みを浮かべた。
「俺は付いて行くぜ。これが俺たちの初陣だ」
「ああ。せめて足を引っ張らないようには気を付けよう」
「だいぶ殊勝だな」
オースティンは茶化すような言葉を口にするが、ライリーは気にする様子もなく視線をクライドに向けた。
「クライド、貴方はどうする? 貴方に万が一のことがあればクラーク公爵家を継ぐ者が居なくなることになる」
ライリーの指摘は尤もだったが、クライドは迷わなかった。肩を竦めて首を振る。
「ご一緒しますよ。私の連れて来た護衛たちもカルヴァート騎士団に助力できるでしょう。我が領でも選りすぐりの精鋭たちです」
「そうか――サーシャ」
そして最後に、ライリーはリリアナに顔を向けた。リリアナは穏やかに微笑んでいるが、双眸に浮かんでいる光は強い。他の誰も、リリアナの表情から彼女が何を考えているのか読み取ることはできないだろう。だが、ライリーは苦笑を浮かべて一歩自分の婚約者に近づいた。
「サーシャも共に来てくれるだろうか」
「殿下!?」
珍しく目を瞠って仰天したのはクライドだった。思わず一歩踏み出し、苦言を呈する。
「リリアナまで連れて行こうというのは無茶です!」
「そうかな。彼女は前衛でこそないが、後衛では十分その真価を発揮してくれると思うよ。それに、できればジルド殿とオルガ殿の力も借りたい」
にこりとライリーが答える。完璧な笑みでありながらも感じられる迫力に、クライドは思わず息を飲んだ。眉根を寄せたクライドは少し考える。
唯一の妹を戦場という危険な場所に連れて行くことに、抵抗はある。何より、血生臭い戦場とリリアナを結び付けようとすると、どうしてもクライドの脳裏には嘗て魔術で父親を弑した妹の姿が蘇る。
しかし、あの時のリリアナの魔術は見事だった。クライドでさえ対抗できなかった父親の魔術に、リリアナは一歩も引かず戦っていた。確かに前衛ではなく後衛で、魔導士として参加するのであれば問題はないはずだ。
自分に言い聞かせるように、クライドは低く「分かりました」と呟いた。
「それでしたら、これから直ぐに向かいましょう。一刻の猶予もないでしょうから」
「そうだね。それで、サーシャ。貴方はそれで構わないかな?」
クライドに口を挟まれてしまったが、まだリリアナはライリーの質問に答えてない。再度尋ねたライリーに、リリアナは穏やかな表情のまま頷いた。
「構いませんわ」
ご一緒致しましょう殿下、と答えるリリアナがその心の中で、もし置いて行かれたら一人転移で現場に向かおうと考えていたことに気が付いていたのは、ライリーだけだった。
*****
フィーニスから狼煙が上がった時、カルヴァート辺境伯ビヴァリーは齎された情報を手に愕然とした。砦のあるフィーニスと、ビヴァリーが普段暮らしているカルヴァート辺境伯領の中心地は距離がある。普通に馬で行けば十日ほどかかる道のりを数日で飛ばして来た騎士は、砦に詰めていた一人だった。
「一夜にして砦が落とされた――というの?」
「は――恐れながら」
半ば崩れるようにして地面に膝をついた騎士は、両肩で荒く息をしながら答える。息も絶え絶えの彼は、ビヴァリーに指示された侍女が持って来た水を一息に煽ってようやく落ち着きを見せたところだった。
ビヴァリーは難しい表情で考え込む。フィーニスの砦は国防の観点からも非常に重要だ。そのため、交代制ではあるものの、カルヴァート騎士団から選りすぐった騎士ばかりを集めていた。当然彼らは昼だけでなく夜も警戒している。ユナティアン皇国がどれほどの精鋭を集めたとしても、一夜でフィーニスを奪われるはずはなかった。
半ば呆然としながら、ビヴァリーは尋ねる。
「騎士団は今どこに?」
「七ウムリス離れた平原に陣を張っているようです」
「捕らわれた者は?」
「――逃げ遅れた見習い騎士が三名ほど、姿が見えないと」
つまり見習い騎士三人が敵の手中に落ちたということだ。ビヴァリーは零れ落ちそうになる溜息を飲み込んだ。
驚きが去れば、冷静に状況を考えられるようになる。
敵が一夜にして砦を落としたという点は憂慮すべき点だ。十中八九、魔導士の仕業には違いない。そして砦内部に内通者が居た可能性もある。
そのため、砦を取り返すためには敵の状況を正確に把握し、攻囲戦を行う他はない。
「皆を集めて。それから、アンガスにも早急に戻るよう早馬を」
「御意」
ビヴァリーは執事を呼びつけて命じた。それからの行動は素早い。大広間に関係者を集めると、ビヴァリーは的確かつ端的に指示を飛ばした。
今この場に、ビヴァリーが女だからといって侮る者は居ない。
「まずは敵の戦力の把握を。それと並行して足場確保のための木材を集めてください。魔導士に頼んで構いません。それから投射機の準備も忘れずにお願いします。念のために破城槌も十分数掻き集めるようにしてください。塹壕掘りと技術兵は確保できそうですか」
「問題はありません」
「宜しい」
カルヴァート騎士団は大多数の領主が私有する軍隊とは異なり、練度の高い集団だ。人数もそれなりに居るものの、一部の騎士たちは普段は農民や猟師として働いている。塹壕掘りや技術兵はその殆どがそういった民兵だった。
「極力、砦は無傷で取り戻したいものですな」
鋭い目つきでビヴァリーの指示を聞いていた男たちの中で、声を発したのは恰幅の良い初老の男性だった。ユージンという名前はあるものの、それよりも“裂傷の死将軍”という呼び名の方が広く知られている。その名にふさわしく、将軍の頬には大きな傷があった。
若かりし頃はカルヴァート騎士団の副団長だったが、戦場での怪我を機に第一線を退いた。だが戦士としての能力は未だに健在で、補佐役としてだけではなく騎士たちの訓練にも顔を出している。
その彼は、齎された知らせに腹を立てているようだった。フィーニスが敵の手に落ちるなど、彼にとっては言語道断だ。己がその場に居ればユナティアン皇国の連中の好きにはさせなかったものをと口惜しく思っていることが伝わったのか、ビヴァリーは口角に笑みを浮かべた。
「将軍、アンガスが戻って来るまで貴方に全権を委任いたしましょうか」
「それよりも、坊主を一発殴る許可を頂きたいものですな」
将軍は鼻を鳴らす。次期辺境伯となる嫡男を“あれ”呼ばわりとはあまりにも失礼だったが、ビヴァリーは咎めなかった。元々、アンガスの指南役をしていたのも将軍だ。彼にとってアンガスは世話の焼ける生徒でしかない。
「そうですわね。砦を取り戻した時には、お好きになさいな」
「御意」
ビヴァリーの言葉を聞いた将軍は片眉をひょいと上げた。表情は殆ど変わらないが、面白がるような光が双眸に浮かんでいる。
「ああ、それから」
会議はそれほど長くない。それぞれが持ち場に戻ろうと動き始めたところで、思い出したようにビヴァリーが付け加えた。
「此度の攻囲戦には、わたくしも参じます」
それは決定事項を告げる声音だった。集った者は皆、一斉に固まる。ぎぎぎ、と振り返って信じられないものを見るような目でビヴァリーを凝視する。しかしビヴァリーは全く気にしない様子で平然としていた。
「――それは、後ろで控えていなさるという意味ですかな?」
尋ねたのは将軍だった。
「まあ」
ビヴァリーは楽しそうに笑みを零す。しかしその双眸は全く笑っていない。見る者の背筋を凍らせるような美しい顔を披露したビヴァリーは、夢を囁くように告げた。
「状況次第ですわ。わたくし、フィーニスを落とした方がどのような方か、一目みたいと思いましたの」
「――――なるほど」
どうやらこれは説得しても聞かなさそうだと、将軍は諦めと共に言葉を漏らした。そして一瞬だけ目を瞑り、再び開いた時には獰猛な光を浮かべてニヤリと笑んだ。その表情はまさしく肉食動物の荒々しさそのものだった。
「それでは、そのつもりで戦略を立てることと致しましょう」
その一言で軍議は終了となる。軍議とも言えないほどビヴァリーの独壇場だったが、今後の方針が決まったことに変わりはない。ビヴァリーは軽い足取りで自室に戻る。そして戦場に出るための装束を整えた。
彼女の装束は、騎士たちのように命を守るためのものではない。多少なりとも騎士たちの衣服に寄せて作ってはいるが、防具といえば籠手や脛当てといった最小限のものだけだし、武具も長剣だけだ。女性には不釣り合いなほど長い武器だが、それは昔からビヴァリーが愛用している剣だった。
「久々ですわね」
うっそりとビヴァリーは笑う。腕は鈍らないよう、日々鍛錬は重ねて来た。だが実戦には殆ど顔を出していない。だからこそ、騎士団でも若手の者たちはビヴァリーの姿を見て不思議に思うだろう。そして年長の者たちは、ほぼ間違いなく将軍と似たような反応を示すに違いない。
「それでは、参りましょう」
手早く準備を整えたビヴァリーは、将軍たちと共にフィーニスを目指す。馬を飛ばせば数日だが、普通の女性であればその強行軍に耐えられるはずもない。しかしビヴァリーは一切の疲れを見せず、将軍たちと共に道を駆け抜けて行った。









