37. ネイビー男爵領の娘 4
アニーにとって、エッカルトという名は王太子や高位貴族と対面している恐怖を軽く吹っ飛ばすだけの威力があったらしい。先ほどまで青白かった顔を真っ赤にして、大きく身をソファーから乗り出した。転げ落ちそうになった体を、慌ててアンガスが支える。それすらも気にならない様子で、アニーは必死にクライドに尋ねた。
「兄さんを、兄さんを知ってるんですか!?」
その勢いに、クライドだけでなくライリーやリリアナも目を瞠る。二人はクライドから、以前クラーク公爵家に勤めていたエッカルトという使用人の家族に会いに行く、という話を事前に聞いていただけだ。その詳細は聞いていない。だからこそ、まるで生き別れた兄弟が生きていると聞いたような反応に驚きを隠せなかった。
「アニー、ちょっと落ちついて!」
今にもクライドの体に縋りつきそうな勢いのアニーを見たエミリアが、不味いと思ったのか声を上げる。エミリアに横から抱き着かれたアニーは、そこでようやく我に返った。
「あ、あたし――、」
大きく喘いで「すみませんでした」とクライドに頭を下げる。しかしまだ頬は赤いし涙目だ。粗末なスカートを掴んでいる働き者の両手が小刻みに震えている。
アンガスもまた僅かに驚きを現わしてアニーを見つめていたが、やがて問うような視線をクライドに向ける。クライドは比較的早い段階で落ち着きを取り戻していたが、アニーの興奮が収まるのを待っていた。
アニーが恐る恐る顔を上げて縋るような目をクライドに向けたところで、彼はようやく口を開いた。
「私はクライド・ベニート。クラーク公爵を拝命しています。以前私の屋敷に勤めていたエッカルトは君の兄で間違いありませんか」
「はい、エッカルトはあたしの兄さんです」
まだ完全に落ち着いたわけではないだろうが、アニーは深呼吸してはっきりと答える。クライドは一つ頷くと、簡単に事情を説明した。
「先代公爵、というと私の父なのですが、エッカルトを雇っていました。公爵領にはいくつか屋敷がありますから、私は面識がなかったのですが――数年前に屋敷を出たようなのですが、とある細工師の元に腕輪を預けたままだったそうです」
そう言って取り出したのは、以前クライドがクラーク公爵邸を去ったエッカルトの足跡をたどって訪れた細工師の元に預けっぱなしだった腕輪だった。
護衛の一人がクライドから腕輪を受け取り、アニーに手渡す。半ば無意識に震える手を差し出して腕輪を受け取ったアニーは、泣きそうに顔を歪めた。
細工師はエッカルトから預かった腕輪を綺麗に直していた。それだけでなく、傷んだ箇所も磨き上げて新品同様の美しさを取り戻している。
「これを――兄さんが?」
「はい、そうです」
クライドはそれ以上は何も言わなかった。細工師の男はエッカルトが“妹から貰った大切な腕輪”と言っていたことを覚えていた。だが、今回クライドがわざわざアニーに会うことにしたのは彼女の気持ちに寄り添うためでも、恐らくエッカルトの遺品になるだろう腕輪を直接渡したかったわけでもない。
エッカルトの行方を知る、それが一番の目的だった。
「――ありがとう、ございます」
「いえ、貴方の元に戻った方が良いでしょうから」
アニーは今度は泣かなかった。つぶらな瞳一杯に涙をためて、しっかりと腕輪を両手に掴んでいる。
クライドは少し間をおいて、優しく尋ねた。
「その腕輪は貴方がエッカルトにあげたものですか」
「そうです。兄さんが家を――その時は家族でゼンフに住んでたんですけど、家を出る時に贈りました。兄さん、俺が一旗揚げて来るって言って」
「それで王都に行った?」
「はい」
アニーとエッカルトの家族はゼンフの町に住んでいた。父は病がちで母が家族を支えていた。そのため、アニーとエッカルトの兄妹は幼い頃から家計を助けるために働いていた。当時のゼンフは発展途上で仕事には事欠かなかったが、子供ということで足元を見られ割の良い仕事はなかなか見つからなかった。
その矢先に、エッカルトは仲間から一つの話を仕入れて来た。
『王都の貴族ん家に転がり込んだら、良い金になるって言われたんだ』
未来に夢を見る少年は目を輝かせてアニーに言った。アニーは嫌だった。大好きな兄が遠くへ行ってしまうなど、耐えられないと思った。たとえ貧しくとも家族が近くに居るだけで頑張れると思っていた。しかし、エッカルトはそんな妹の訴えを苦笑と共に退けた。
『でも、もうお袋も限界だろ。俺が大金稼いで来れば、親父もちゃんと治療を受けられるし、お袋も楽になるよ』
そしてエッカルトは王都へと旅立った。エッカルトは責任感もあったし、真面目な性格だった。粗末な紙ではあったが、代筆や代理人を頼んで時々アニーたち家族に近況を知らせてくれた。
「最初は確か、男爵様のお屋敷だったと思います。そこで少し読み書きも習ったんだと言ってました。途中から手紙の文字も変わったから、多分本当なんだと思います」
アニーたち親子は文字を読むことも書くこともできない。だから、文字を読める知人に頼むしかなかったが、それでも未だにエッカルトから送られて来た手紙は全て大切に置いてあるという。
「その後、働きぶりが真面目だと認められて、もっと良いお給金が出るお屋敷に移ることになったって連絡が来て――その後は、全く」
クライドはアニーたちに気が付かれないように眉根を寄せた。
時期を確認すると、手紙が途絶えたのはエッカルトがクラーク公爵邸で働き始めた時期と一致する。その後エッカルトは数年務めただけで行方を晦ませた。公爵家では退職処理がされていたが、妹から貰った腕輪が修理に預けられたままになっていたこと、アニーが語るエッカルトの人物像から想像するに、給金の良い仕事を自ら辞めたとは考えにくい。どう考えても、事件に巻き込まれて姿を消したと解釈する方が自然だった。
アニーは結婚を機にゼンフの町を去った。そして両親も既に亡くなっている。それでももしエッカルトがゼンフの町に戻って来たら直ぐにネイビー男爵領へ来られるよう、知人に言伝を頼んでいるという。
「その人とは定期的に会ってるんですけど、手紙も代理人も来てないって言ってて――もしかしたら、もう、し――死んで、んじゃない、かっ――って、」
堪え切れなくなったアニーが嗚咽を漏らす。エミリアも悲痛な表情で、アニーの肩を優しく撫でた。
「そうですか」
沈鬱な声でクライドは頷いた。彼は深く考え込んでいる。
――エッカルトの失踪を、フィリップが知らないはずはない。
つまりフィリップが何らかの形で関わっている可能性は非常に高かった。
顔を上げたクライドは視線を妹に向ける。ライリーの隣に座ったリリアナは、クライドの視線に気が付いて顔を向けた。相変わらず感情を表さない妹に微笑を向け、クライドは再びアニーに向き直った。
「傷を抉るような真似をしてすみません。ですが、この腕輪は貴方にお渡しした方が良いだろうと思いましたので」
「はい、――……ありがとうございます」
どうにか涙を飲み込んだアニーは深々と頭を下げる。
エッカルトの腕輪が手元に戻ったことで、多少はやり場のない感情の治めどころを見つけることが出来たのかもしれなかった。
*****
アニーが立ち去った後、ネイビー男爵領の視察を終えた一行は、ゼンフの町に取っている宿へと戻った。少しばかり時間は遅いが、宿の食堂に集って夕食を摂る。本来であれば護衛は別に席を設けるが、時間も遅いことから、ライリーの一声で共に夕餉に与ることとなった。とはいえ、護衛たちにも身分がある。ライリーやリリアナ、クライドと同席できるのは近衛騎士のオースティンくらいだった。
必然的に、一行の話題はアニーとエッカルトの話に移る。
「確かに、愛する肉親を失った人はああいう反応をするんでしょうね。迂闊でした――彼女の傷を抉るような真似をしてしまった」
クライドは自嘲の笑みを浮かべる。リリアナは喋る気がないらしく、無言でゆっくりと食事を口に運んでいる。結果的に会話はクライドとライリーを中心としたものになっていたが、クライドの独白にライリーは答えられなかった。
ライリーもクライドも、肉親には恵まれていない。
クライドの父は全てを支配し自分の思い通りにしたい性質だった。クライドのことは嫡男として教育を施していたが、自分が期待した通りの成果を見せなければ冷酷な目でクライドを睨みつけ、ほとほと呆れ果てた愚鈍な白痴だと罵った。果てにはクライドの母の貞節を疑う発言すらした。クライドは父親の顔色を窺いながら、必死に父親の望む息子になろうと努力した。
ライリーはクライドとは違う家庭環境ながら、決して恵まれているとは言えなかった。母は物心つく前に亡くなり、父は亡くなった母に心捕らわれ息子を顧みることはなかった。父と会話をしたことなど数えるほどしかない。そのお陰で未だに父親と話すときは、国王と相対していると思った方が会話が弾む。
寧ろ、父親よりも祖父の方がライリーとの関りが深かった。しかし今から振り返れば、祖父は自分を肯定し尊敬の眼差しを向けてくれる無垢な存在が心地よかっただけだ。決して祖父はライリーの話を聞こうとはしなかったし、稀に気まぐれでライリーの話を聞いたとしても、必ずライリーを否定した。たとえ自分と同じ意見をライリーが口にしても、一度否定してから自分の考えを滔々と述べた。
幼い頃は盲目的に祖父の言葉を信じていた。乳母や家庭教師も皆祖父のことを盲信していたから、幼いライリーが祖父の言葉を疑う余地はなかった。だが、成長するにつれて違和感を覚えるようになった。
神の言葉にも等しい祖父の話を疑うことは酷く苦痛だった。それでも、今ではその殆どがあまりにも極端だったと思うようになっている。植え付けられた価値観を塗り替えることは、かなり大きな労力を必要とした。
そしてその弊害は、未だに思いも寄らないところで顔を出す。今回は間違いなく、その一つだった。
クライドもライリーも、肉親が亡くなったり行方不明になったところで動じない。動揺してもその感情を押し隠す術を身に着けている。だから、アニーが連絡の途切れた兄の名前を聞いてあれほど取り乱すと想像ができなかった。
「次に生かせば良いよ、クライド。人は学んで成長する生き物だ」
「――はい」
どうにかライリーが絞り出した励ましの言葉は、慰めにもならないものだった。だが、クライドは三大公爵の嫡男だ。致命的な間違いでなければ、その失敗を取り返すよう努力すれば良い。
それでも、とライリーは唇を引き結ぶ。
三大公爵の嫡男だからこそ、許される失敗の範囲も多少は広い。
だが王太子であるライリーに、失敗は許されない。国を統べるライリーが犯す失敗は、その多くが民を巻き込むことになる。その重責があるからこその玉座だ。
誰にも気付かれないよう深呼吸をしたライリーは、雉肉を口に運ぶ。それなりに美味しいはずの料理は、あまり味を感じられなかった。
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