37. ネイビー男爵領の娘 3
穏やかな天候の中、ネイビー修道院を後にした王太子一行は、ネイビー男爵邸に到着した。村人たちが住んでいる家と比べると遥かに立派な造りだが、どうしてもクラーク公爵邸やエアルドレッド公爵邸と比べると質は劣る。ネイビー男爵の娘であるエミリアは当然公爵邸を見たことはないが、王宮の荘厳さは間近に見たばかりだった。
「あの、本当に大した場所ではないので恐縮なのですが……」
「寧ろこちらこそ、押しかけて申し訳ない」
エミリアの言葉にライリーは優しく答える。ほっとしたように微笑を浮かべるエミリアは、当初よりも緊張が解けている様子だった。
どうやらまだ男爵は戻っていないらしく、屋敷の中に人の気配はない。日陰に面している部屋は薄っすらと肌寒く、エミリアは慌てて侍女に火を入れるよう頼んだ。
ライリーやクライドは、失礼にならない程度に興味深そうな視線を室内に向けた。男爵が飾り立てることに興味がないせいか、控え目で素朴な装飾品が僅かばかり飾られている室内は品が良かった。勧められたソファーはネイビー修道院のものとそれほど質は変わらないが、丁寧に手入れされながら使われていることが分かる。リリアナは既に一度訪れたことがあるが、その事実はエミリアでさえ知らない。
遠慮しがちに、しかし興味を引かれる様子を取り繕って室内を眺める。実際に以前訪れた時はネイビー男爵とアンガス・カルヴァートの会話に注意を向けていたから、室内の細かな装飾をしっかりと確認するのは今回が初めてだった。
「ねえ、確かアニーってゼンフの町から移って来たのよね? 連れて来て貰えるかしら」
「アニーを、ですか」
侍女に茶を出させたエミリアは、年若い彼女を手招いて人を呼ぶよう耳打ちした。侍女は驚いたように目を瞬かせる。エミリアは気にする様子もなく、一つ頷いてみせた。侍女は驚きを隠さないまま、目と口を丸くして部屋を出て行く。その剽軽な様子に、室内の空気は緩んだ。
「――楽しい方ですね」
茶と茶菓子を出してくれた侍女が部屋を出た後、少ししてから口を開いたのはクライドだった。エミリアは頬を染めて恐縮したように肩を竦める。
「も、申し訳ありません。あの、ご覧の通り私たちの領はそこまで立派ではないと言いますか、小さな村だった頃から変わらなくて」
「確か男爵領になる前はカルヴァート辺境伯領の一部で、お父上が監督官をなさっていたんでしたね」
「そうです」
クライドの言葉にエミリアははっきりと頷いた。
エミリアの父親であるネイビー男爵が農民出身の監督官であったことは、この場に居る者たちは皆知っている。その勤勉性がカルヴァート辺境伯の目に止まり、そしてカルヴァート辺境伯と血縁関係のある妻を迎えたことも手伝って彼は男爵位を得ることになったという。
「父は爵位も欲しくないと思っていたようですが――母と結婚するのであれば爵位があった方が何かと良いと言われて、男爵になったそうです」
ライリーもクライドも、わずかに驚いた様子で目を瞠る。この場に居る者たちにとっては初耳だ。だが、リリアナは既に知っている情報だった。
エミリアの両親は恋愛結婚だ。カルヴァート辺境伯の遠縁であるエミリアの母は監督官だった父と一目で恋に落ちた。だが、エミリアの母は元々体が弱い。たとえ監督官と言えど、結局は農民だ。仮に夫を早く亡くせばすぐに命を落とすだろうことは容易く想像が出来た。そのため、カルヴァート辺境伯はエミリアの父を説得し、結婚したいのであれば爵位を受けるという条件を飲ませることに成功した。
夫が爵位と領地を持っていれば、寡婦となった場合も夫の財産の三分の一を相続できる。
結局エミリアが小さい頃に彼女の母は亡くなってしまったが、エミリアの父が今の地位を得たのは全て彼の妻のためだった。
尋ねられるがまま訥々と両親の馴れ初めを語るエミリアは、年相応にはにかんでいた。元々可愛らしい顔立ちをしているせいか、照れた様子で――しかし目を輝かせている様は酷く愛らしい。リリアナは何気なく視線をクライドやライリーに向ける。ライリーは普段と変わらない微笑を浮かべていて内心を読み取ることも難しいが、クライドの纏う雰囲気は柔らかくなっているように見えた。
(さすが攻略対象者とヒロインというべきですかしら)
ちらりと視線を向ければ、オースティンを含んだ近衛騎士たちも微笑ましいものを見るような目になっている。
裏表もなく素直な人柄はたいていの場合可愛がられる。自分にはない長所だと、リリアナはどこか冷めた気持ちで内心呟いた。
「失礼いたします」
そうこうしている内に、先ほどエミリアからアニーという女性を連れて来るよう頼まれた侍女が戻って来る。入室の許可を求められ、ライリーに確認を取ったエミリアは直ぐに答えた。
「入って」
「はい」
緊張した様子を隠さず部屋に入って来たのは、先ほどの侍女と幼く見える女性だった。だが服装や髪形を見れば、それなりに年齢を重ねたことが分かる。
アニーは室内に揃っている顔ぶれを見てきょとんと首を捻った。貴族でない彼女は当然、自国の王太子の顔も知るはずがない。更には貴族と同席したこともないのだから、当然室内の様子から、その場にいる客人たちがやんごとなき身分の者たちだと察することもできなかった。
「アニー、こちらに来てくれるかしら。あなたに訊きたいことがあるの」
エミリアも緊張を隠せていない。
ライリーたちがネイビー男爵領に立ち寄った理由の大半は視察だが、その内の一つに、クライドからの依頼があった。それが、アニーと言う女性との面会だった。勿論断る理由もなくエミリアは快諾したが、そもそもエミリア自身、高位貴族との交流には慣れていない。例外はカルヴァート辺境伯だが、そもそもビヴァリーのことはカルヴァート辺境伯としてではなく母親の親友として出会ったのだから緊張するはずもなかった。
「お嬢様? 勿論、あたしで良ければ答えますけど……なんでしょうか」
「エミリア、その前に紹介した方が良いんじゃないか」
口を開いたのは、それまでエミリアに任せようと傍観の姿勢を見せていたアンガスだった。アニーはアンガスを知っていたようで、頬を綻ばせて会釈する。アンガスも優しくアニーに頷いてみせた。
一方のエミリアは慌てたように「そうだった!」と叫ぶ。どうやら緊張のあまり色々なことが頭の中から飛んでいたらしい。そして高位貴族を前にしている令嬢としてはあるまじき発言に、慌てて口を両手で抑えた。真っ赤になって、ライリーたちに頭を下げる。
「も、申し訳ございません……」
「気にしないで、その程度で不快に思ったりはしない」
安心させるような台詞をライリーが言えば、エミリアは素直に受け取りほっと緊張を解いた。表情が緩めば稚い雰囲気が出て来る。本人にその意識がないところが一層好感を誘う。
「ありがとうございます」
仰々しい言葉で飾り立てない素直な礼は、間違いなくその場にいる者たちの心を掴んでいた。ただ、リリアナだけはその様子を冷静に俯瞰している。
穏やかな空気が流れる中で、エミリアは一つ咳をして真面目な顔を取り繕った。
「こちらがゼンフの町からこちらに移って来たアニーです。アニー、こちらが王太子殿下、婚約者のリリアナ様、クラーク公爵閣下。アンガス様のことは知ってるわよね」
エミリアが紹介をした途端、アニーは顔から色を失くした。真っ青になって今にも倒れそうだ。いや、倒れそうではない。明らかにふら付いたが、予想していたのかすかさずアンガスが立ち上がってアニーを支える。それでもアニーは自分を取り戻せず、呆然自失の体だ。一人で立てなくなったアニーを見かねて、アンガスはエミリアの隣に座らせてやる。
その上で、アンガスは呆れ顔を年若い王太子と公爵に向けた。
「――だから、あなた方ではなく私に任せてくれたら良かったんですよ」
「いや、辺境伯嫡男も公爵もそう大して違いはないと思うが」
ほら見たことかと言わんばかりのアンガスに、思わずライリーが口を挟む。確かに辺境伯だろうが公爵だろうが、平民にとっては一律に“偉い人”である。その点からいえばライリーの指摘は尤もだったが、アンガスは呆れた表情のまま首を振った。
「私は辺境伯嫡男ですが、まだ身近なんですよ。何度もこの領地には足を運んでいますしね。だからここの人たちにとって私は“お坊ちゃん”なんです」
エミリアが“お嬢様”であるように、アンガスは“カルヴァート辺境伯のお坊ちゃま”だ。自分たちとは比べものにならないほど“偉い人”であることは認識しているが、それでもなお親しみはある。
しかしライリーやクライド、リリアナはそうではない。親しみもなく、自分たちとは別世界の存在だ。不敬を買えば殺されると思っていても仕方がない。
「――なるほど。もう少し親しみのある王太子であることを喧伝した方が良いのかな」
「殿下、民に阿りすぎると国が崩壊します」
ライリーの独り言に反応したのはクライドだった。
王太子でありながらも民草に親しまれることは可能だ。だが、一歩間違えれば貴族たちに軽んじられてしまう。そうなれば王太子としての地盤が揺らぎかねない。その危険性を危惧したクライドは側近として苦言を呈したのだが、ライリーは微笑を浮かべて小さく首を振った。
「何となく貴方が何を考えたかは想像がつくけどね、私が言っているのは民の立場に立った政をして、この王太子なら安心して暮らせると思える環境を整える必要があるということだよ」
「確かに、その方法でしたら即座に取り掛かる必要があるでしょうね」
クライドも納得して頷く。
実際にライリーがこれまでに顧問会議で提言して来た法案は、ほとんどが民のためになるものばかりだった。全てではないものの、採用されたものも多数ある。その功績を高位貴族たちは知っているが、一般には広まっていない。広めようとしたこともあるのだが、関わったのがクライドやオースティンといった子供だったせいか、思うようには上手く行っていなかった。それでも分かったことは、恐らく大公派の貴族に妨害されているらしい――ということだけだ。
当然、クライドもその調査結果を知っている。だからライリーが言外に含んだ意図を察した。リリアナも例外ではなく、彼女はほんのわずかに目を細める。
低い声で会話を交わしていれば、少ししてようやくアニーが息を吹き返した。未だに顔色は青いが、意識ははっきりとしている。
「あ、その――大変、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げたアニーに答えたのはクライドだ。ライリーほどではないが穏やかな微笑を作り、多少固い口調で告げた。
「こちらこそ驚かせてしまってすまない。大したことではないんだよ。エッカルトという男を、君は知っていると思う」
エッカルト――クライドがその名を口にした瞬間、アニーのつぶらな瞳が零れそうなほど大きく見開かれた。









