37. ネイビー男爵領の娘 1
リリアナたちがネイビー男爵領に到着した時、挨拶のため近づいて来たのはネイビー男爵の娘であるエミリアと、カルヴァート辺境伯領嫡男のアンガスだった。男爵領では下りずに真っ直ぐ修道院に向かう予定だと伝えていたからか、二人とも馬に跨っている。男装のエミリアは緊張しつつもどこか怒りを堪えた表情で、そしてアンガスは苦笑を浮かべていた。
リリアナは不思議に思ったが、疑問は直ぐに解明された。馬車から顔を出したライリーたちに歓迎の挨拶を述べたアンガスは、苦々しく続ける。
「本当でしたらネイビー男爵もこの場で皆さまを出迎える予定だったのですが、あいにくと急用が入りまして――」
「そうか、残念だが仕方がない」
ネイビー男爵領はそれほど広くない。長閑な村だ。見渡せば全ての土地が見通せる――ほどではないが、どこかで異常事態が発生すればすぐに分かる程度の広さしかない。そして今、リリアナたちには異変は感じられない。どこまでも穏やかな村の風景――長閑と言っても、家畜の鳴き声や肥溜めの臭いで騒々しいが――広がっている。
しかし、王族の視察を放ってまで優先されるべき急用とは一体何なのだとか、そんな急用があるほど切羽詰まった雰囲気はないようだが、などと口を挟んではいけない。そう、間違ってもネイビー男爵が王太子の歓待を嫌がって逃げ出したのではないか、という疑惑を持ったと勘付かれてはいけないのだ。下手に勘繰れば男爵に対し何らかの罰を下さなければならない可能性がある。しかし、それはライリーたちも本意ではない。
ライリーは穏やかに男爵の不在を赦し、リリアナもにこやかに立っていた。そのせいか、エミリアもアンガスもほっとしたように表情を緩める。それでもエミリアの双眸には怒りの感情が残っていた。恐らく王族や高位貴族の相手を自分とアンガスに押し付け、まんまと逃げた父親に腹を立てているのだろう。
「――やはりネイビー男爵は面白い方だね」
ライリーはリリアナの耳元に口を近づけて囁いた。リリアナも小さく頷く。
確かに、これまでリリアナたちが出会って来た貴族たちは爵位に差はあれ、王族であるライリーたちに気に入られようと近づいて来るものばかりだった。大公派の貴族でも、王太子には表面上は丁寧に接する。だからこそ、本気で逃亡を図る男爵という存在は物珍しい。
「逃げ出すのも、勇気が必要だと思いますわ」
リリアナが言葉を返せば、ライリーは一つ頷いて同意を示した。
もしかしたら罰が下される可能性もあるというのに、王族と高位貴族を接待したくないからと逃亡を選択する勇気はある意味賞賛に値する。
(ですが、確か乙女ゲームでも男爵は出ていらっしゃいませんでしたわよね)
ライリーとオースティンのルートでは必ず修道院の視察イベントは発生する。その時に、ネイビー男爵は居なかったはずだ。名前は出て来なかったが、もっと若かったように記憶している。恐らくその人物がアンガスなのだろう。
クライドにも挨拶を終えたアンガスとエミリアは、馬首を返して一行の先頭に立った。しばらく馬車に揺られるとネイビー修道院に到着する。
馬車から降りると、アンガスが守衛に声を掛けているのが見えた。守衛は慌てて修道院の中に駆け込んでいく。
リリアナやライリーにとっては懐かしい場所だが、オースティンやクライドは初めて見る場所だ。近衛騎士として付き従っているオースティンは表情を変えていないが、それでもクライドと同じく興味津々に修道院を観察している。
一方のアンガスとエミリアは平然としていて、リリアナは目を瞬かせた。エミリアはネイビー男爵の娘だが、慰問するのであれば女子修道院を訪れるはずだ。以前リリアナと隣国のイーディス皇女はネイビー修道院を訪れたが、それは視察であり、そして王太子ライリーと皇子ローランドに同行しているという建前があったから許されただけだ。あくまでも異例の措置だった。
もしエミリアが慰問するのであれば父男爵と同行した可能性があるが、貴族的な慰問という風習とネイビー男爵の印象は全く重ならない。
更に、アンガスはカルヴァート辺境伯の嫡男であり、ネイビー修道院を訪問する理由はないはずだ。
リリアナの脳裏に浮かんだ疑問と全く同じ感想を、ライリーは抱いたようだった。
「二人は良くここに来るのかな?」
「私は一度来たきりですが、エミリア嬢はよく訪れていると聞いております」
ライリーに答えたのはアンガスだった。それを聞いたライリーだけでなく、クライドも目を瞠ってエミリアに視線を向ける。注目を浴びたエミリアはほんのりと頬を赤らめた。恥ずかしそうに、蚊の鳴くような声で答える。
「――お恥ずかしながら、この近辺に修道院はここしかありませんので。その、村で作った食料を、村の方と一緒に運んで来ることが良くあります」
「ああ、なるほど」
納得したようにライリーたちは頷く。領主の娘として慰問するのではなく、男爵領の領民たちと共に寄付のため訪問するのであれば納得できる。
「確かに貴方は乗馬もお上手だ」
ライリーの言葉に、エミリアは更に顔を赤くした。貴族女性の中でも乗馬や狩りを嗜む者はいるが少数派だ。特にエミリアのように男装で馬に乗る女性は珍しい。羞恥を覚えているのだろうが、リリアナはその光景に既視感を覚えていた。
(王太子の好感度が高い時の会話ですわね)
勿論この会話があっただけでライリールートに進むとは限らないが、可能性は限りなく高い。もう一つの可能性はオースティンルートだ。クライドの可能性も否定しきれないが、ライリーかオースティンのどちらかと考えておいた方が無難だろう。
(二人のルートに進まれると面倒ですわ)
内心でリリアナは嘆息する。
エミリアには、隠しキャラクターのルートに進んで貰わなければならない。そのためには、ライリーやオースティンではなく隣国のローランド皇子ルートに入る必要があった。
だが、人の心はどうにもできない。たとえロバを水辺に連れて行っても無理矢理水を飲ませることはできないように、禁術でもなければ人の心を操ることなどできるわけがなかった。
(やはり別の手段を講じるべきでしょうね)
どこか苛立つ気持ちを持て余しながら、リリアナは理性を総動員する。
エミリアに頼らず世界の破滅を避けるためには、隠しキャラクターの登場を防ぐか、もしくはその暴走を止めるか、そのどちらかを選ばなければならない。だが、隠しキャラクターが出現する可能性に思い至った日からずっと考えているものの、未だに良い案は思い付かなかった。
溜息を堪えていたリリアナをライリーは一瞥する。しかしリリアナは気が付かない。逡巡したライリーが口を開こうとした時、守衛が修道院長を連れ戻って来た。修道院長は焦ったような様子で、慌ててライリーに最敬礼する。
「殿下、お待たせしまして大変申し訳ございません」
「気にしないでくれ。忙しいのに時間を取らせて申し訳ない」
「とんでもないことにございます」
恐縮しきりの修道院長にライリーは優しく答える。その隣で、リリアナは修道院長の後ろに立つ年若い修道士を見つめていた。
年若い修道士は緊張を隠せない表情で突っ立っている。もしかしたら――とリリアナが思ったところで、修道院長は一歩横にずれて年若い修道士を示した。
「こちらが、カルヴァート辺境伯領の修道院から移動してきた修道士です。詳しいお話は中でして頂ければと存じます。こちらへご足労賜れますでしょうか」
「わかった」
ライリーたちは修道院長に促されるがまま、修道院の建物内に足を踏み入れる。案内されたのは、以前リリアナたちが訪れた時には入ることのなかった区画に設けられている応接室だった。簡素なつくりではあるものの、他の場所とは違って多少見目の良い装飾品が置かれている。高級なものでこそないものの、訪問客を持て成そうという意図が見えた。
ライリーがソファーに腰掛けたのを皮切りに、護衛以外は皆ソファーに座った。多少手狭にはなるが、幸いにも数は足りている。簡素なソファーは座面が固いが、修道院であることを考えれば十分なほどだった。ネイビー修道院はそれなりに潤っているのだろう。
「それでは、早速ですが」
口火を切ったのはクライドだった。今回、ネイビー修道院に訪れた一番の目的はカルヴァート辺境伯領の修道院から移って来たと言う修道士に、黒死病の経験を訊くためだ。カルヴァート辺境伯ビヴァリーは明言しなかったが、リリアナたちの前に居る緊張した面持ちの修道士は、以前黒死病が発生したというカルヴァート辺境伯領の村にあった修道院に居たはずだった。
「まずは貴方のお名前を伺っても?」
「あ、大変申し訳ありません。申し遅れました。ディーターと申します」
「ディーター殿、突然話を持ち掛けてしまって申し訳ありませんでした。さぞ驚かれたことでしょう」
クライドは、ディーターの緊張をほぐすように穏やかな口調で問う。ディーターは照れたように目を伏せて肩を竦めた。
「ええ――正直なところ、驚きました」
どうやらディーター修道士は非常に素直な人柄らしい。素朴と言っても良いだろう。クライドも好印象だったらしく、顔に張りつけていた微笑を本物の笑みに変えた。
「殿下から、この修道院にパッチワークというものを持ち込んだとも聞いています。非常に熱心に活動されているということも」
「そんな、お恥ずかしいことです。ぼ――私は当然のことをしているまででして」
僕、と言いかけたディーター修道士は慌てて一人称を言い直す。クライドたちの視線に気圧されたように、ディーターは頬を染めて言い訳のように言葉を重ねた。
「あの、実は私は孤児でして、カルヴァート辺境伯領の修道院で育ったんです。そのまま修道士になりまして――ですから、その、あまり外の方とお話する機会も多くなくて、ですね。何かその、御無礼がありましたら申し訳ありません」
「お気になさらず。私は勿論、殿下もそのような些末事をお気になさるような方ではありませんから。難しいかもしれませんが、気楽にお答えいただければ嬉しいのですが」
クライドの言葉に、ディーターは感銘を受けた様子だった。嬉しそうに微笑んで「ありがとうございます」と礼を言う。そして慌てて顔を引き締めると、緊張した様子で付け加えた。
「私にお答えできることでしたら、何なりと」
「それは心強い。私たちがお尋ねしたいのは、貴方がいらしたカルヴァート辺境伯領の修道院で起こった出来事についてなのです」
ディーターはごくりと唾を飲み込む。真剣な面持ちで視線をクライドに向けるディーターに、クライドは安心させるように頷いてみせた。
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