35. 繋がれた意図 13
アジュライトの持つ魔力を感知したリリアナは、しかし同時に疑問も覚えていた。今まで幾度となくアジュライトとは会って来たが、これほどまではっきりとアジュライトの魔力を感じ取ったのは初めてだった。
何故、突然アジュライトの持つ魔力を認識できるようになったのか、心当たりはない。敢えて言えば、王宮の地下迷宮に足を踏み入れた事くらいだ。
しかし、リリアナは内心の動揺は綺麗に押し隠してゆったりと微笑んでみせた。そしてアジュライトが以前見つけた小屋に隠されていた秘密を簡単に明かす。
無言でリリアナの話を聞いていたアジュライトは、難しい表情で『ふむ』と頷いた。
『奇怪なことを考える者も居たものだな』
「と、言いますと?」
死者の魂を肉体に定着させる研究は明らかに禁術だ。確かにアジュライトは人間と違う概念に従い生きているとは知っていたが、それにしても“奇怪”とは予想外の言葉だった。
首を傾げるリリアナに、アジュライトは皮肉に見える笑みを浮かべる。
『複数人分の魂を一人分の肉体に入れようというのだろう。人間一人分の体には一人分の魂しか入らない。それにも関わらず複数人分の魂を押し込んで、常人では手に入れられない魔力を手に入れようとする――これを奇怪と言わずして何という』
リリアナは少し考えると首を傾げた。問うような視線をアジュライトに向ければ、アジュライトは意味深な目をリリアナに向ける。何かを辿るようにリリアナの顔と体を順に眺めていたが、しばらくしてやおら口を開いた。
『魂を増やしたところで、人が耐え得る魔力の量も質もある程度は決まっている、ということだ――例外はあるようだが、たいていの場合は何かしら悪影響が出るぞ』
「質?」
予想外の言葉だった。確かに魔力には質がある。個人差はあるが、アジュライトや魔王を封じた呪術陣から感じ取れる魔力は人間の持つ魔力と比べて異質だった。アジュライトは、一見したところ分からない程度に魔力の質が覆い隠されているが、滲み出るものは明らかにリリアナたちのものとは違う。
そしてリリアナは、ちょうど良い切っ掛けだと一つの疑問を口にした。
「ずっと気になっておりましたの。貴方は長く生きていらっしゃるのでしょう。人の持つ魔力の質は、以前と比べて変わっているのでしょうか」
アジュライトは印象的な紫と緑が混じった瞳を煌めかせてリリアナを見上げる。
『いや、変わってはいない』
「――そう、ですのね」
リリアナは曖昧に頷いた。わずかに目を伏せる。アジュライトは微細なリリアナの表情の変化に気が付いたようで、どこか気遣わし気に身を乗り出した。
『どうした』
「いえ――魔術理論は変わっているのに、質が変わっていないというのは面白い話だと思いましたの」
それらしい言葉をリリアナは返す。アジュライトは違和感を覚えなかったらしく、あっさりと納得した様子だった。
しかしリリアナはそれどころではない。
人の魔力は長い間変わっていないと、アジュライトは断言した。人間よりも遥かなる悠久の時を生きるアジュライトの言葉だ。間違いなく、スリベグランディア王国建国の時から人間が持つ魔力は多少の差異はあれど大きくは変わっていないのだろう。
つまり、その事実はリリアナの疑惑を一つの方向に決定付けるものだった。
アジュライトが持つ本当の魔力は、魔王を封じた呪術陣から流れ出る魔力と似ている。呪術陣から流れ出ていた魔力が、一体なに由来なのかは誰にも分からなかった。ただ、ベン・ドラコが“陣から漏れ出ている”と言っていたから、リリアナは魔王を封じた者の魔力だと考えた。
つまり、呪術陣から漏れ出ていた魔力と似た魔力を持つアジュライトは、魔王を封じた者に連なる存在なのだろうと――そう、リリアナは考えた。
だが同時に、それとは異なる最悪の可能性が脳裏をよぎっていた。
そしてその懸念は、アジュライトの答えで確実なものとなってしまった。
(アジュライトは魔王に属する存在――ですのね)
伝承では、三人の英雄が魔王を封じたとしている。伝承によってはそこに聖女も加わるが、三傑も聖女も人であることに変わりはない。人が持つ魔力の質が長年変わっていないのであれば、呪術陣から漏れ出していた魔力は人のものではない。消去法で考えれば、あの魔力は封じられた魔王のものだ。
(魔王に属する存在は全て封印されたと伝承には書いてあったけれど、アジュライトは封印されていなかったのか――それとも、)
リリアナは息を飲む。
アジュライトと初めて出会った場所と時機、アジュライトが事あるごとにリリアナに会いに来ている現実。そして自分自身に起きている変化――明らかになった禁術の研究。それらの事実が、突然一つの線で結ばれる。
『どうした』
突然黙り込んだリリアナを見て、アジュライトが不思議そうに尋ねた。リリアナは意識を引き戻される。しかし動揺は直ぐに消え失せ、にこりと微笑んでみせた。
「何でもございませんわ。それよりも、最近なにか面白いことはございまして?」
リリアナの問いに、アジュライトは少し考える素振りを見せる。そして彼が話し出したのは、取り留めもない旅の話だった。
*****
ソーン・グリードはその日、酷く不機嫌だった。しかし表情には出していない。これから会う相手に感情を知られることは、彼にとってはあってはならないことだった。
「今更、一体なにを――」
舌打ちを辛うじて堪えながらも、ソーンは低く毒づいた。
滅多に休まない仕事を休んで、ソーンは辻馬車に揺られていた。身に纏う衣服は普段と変わらないローブだ。本来であれば貴族らしく着飾るべきだと分かっているが、辻馬車に乗るのに貴族の服では悪目立ちする。特にソーンの実家は伯爵だ。伯爵家の三男が辻馬車で魔導省から王都邸に向かっていると知られたら、矜持が高く世間体を気にする父親や二人の兄に散々文句を言われることは目に見えている。
それに、魔導士が着るローブ姿を見せつけることで、これまで長くソーンを顧みて来なかった父親たちに意趣返しをしてやりたいという気持ちもあった。
「ローブ姿でも文句を言ってくるんだろうな」
自嘲気味にソーンは独り言を漏らす。父親は魔導士という職業を馬鹿にしているが、それ以前に末っ子のソーンのことも取るに足らない存在として軽んじていた。ソーンという存在を目にするだけで、彼は不快気に眉を寄せ、そして居ないものとして扱った。
「――ずっと認められたかったんだろう、きっと」
過去の自分を、ソーンは冷静に振り返る。だが、断言できるほど割り切れるものではなかった。
もう何年も父親には会っていない。二人の兄に至っては言わずもがなだ。
父親に認めて欲しかったが、兄たちのように文官にも武人にもなれなかった。唯一魔術だけは兄弟の中でも得意だと思えたから魔導士の道に進んだが、父親は一層ソーンを軽んじるようになっただけだった。グリード伯爵家の三男だということすら、認めたくないと言いたげだった。そんな実家を、ソーンが避けるようになったのも当然だった。
そして父親も二人の兄も、これまで一切家に寄りつかないソーンに連絡を取ろうとはして来なかった。それにも関わらず、今回ソーンが王都の伯爵邸に向かっているのには理由がある。
つい数日前に、日付を指定されて家に戻って来るよう父親から連絡があった。用件は書かれていなかったが、父伯爵が手紙を寄越すとは並大抵のことではない。致し方なしに、ソーンは無理矢理仕事を片付けて休暇をもぎ取ったのだった。
実家の邸宅は王都の中心部にある。伯爵という地位にしては、非常に立地が良い。昔は不思議に思ったこともなかったが、今思えば父が非常に優れた領主なのだろう。尤も、良い領主が良い父親であるかと問われれば必ずしも答えは是ではない。
一旦深呼吸をして昂る神経を落ち着けると、ソーンは門の前に立った。扉を叩いて暫く待てば、内側から執事が顔を出す。記憶にある彼の顔よりも随分と老けていて、ソーンは一瞬言葉を失った。執事は訝し気に眉根を寄せたが、すぐにソーンだと分かったらしい。変わらない無表情で扉を開けると華麗に一礼した。
「お待ちしておりました、お坊ちゃま」
「――もう良い年だ、それは止せ」
「承知いたしました。それでは、こちらへ。旦那様がお待ちです」
執事に案内されて、ソーンは屋敷の中を歩く。執事が向かっているのは執務室のようだった。記憶にある屋敷と一切装飾も変わっておらず、ソーンは懐かしさに顔が歪むのを感じた。
正直、実家に良い思い出はない。ソーンが幼い時に亡くなった母は優しい人だったが、病弱だったせいか、記憶に残っている母はいつも寝台の上で柔らかく微笑んでいた。
「旦那様、ソーン様がお見えです」
執務室に到着した二人は扉の前に立ち尽くす。少ししたところで、室内から「入れ」と短く命じる声がした。執事が扉を開け、ソーンは無言で中に入る。執事は執務室に入ることなく扉を閉め立ち去ったようだった。
ソーンは大きな執務机に座っている父親を見つめる。会えば腹立ちのあまり暴言を吐いてしまうのではないかと思っていたが、存外ソーン自身は冷静だった。執事と同様、記憶にあるよりも父親は老けている。一回り体も小さくなったように思えるが、ソーンが成長したせいかもしれない。
無言で立ち尽くすソーンに、伯爵は呆れたような表情で鼻を鳴らした。
「碌に挨拶もできんとは、相変わらずお前は愚図だな。全く嘆かわしい」
「――お久しぶりです」
どうしても父上とは呼べず、ソーンはそこで言葉を切る。何を言おうが父親が気に入らないのは昔から分かっていることだった。案の定、伯爵は不機嫌に顔を顰めた。
「これまで機嫌伺いにも来ず、全く薄情な息子だ。それにその形は一体なんだ、伯爵の息子であるという矜持を忘れ去り、魔導士などという下賤に魂を売り渡したか」
ソーンは咄嗟に口を引き結ぶ。これまで息子として扱ったことも呼んだこともない癖に、今更何を言い出すのかと言いたかった。それに、魔導士であることこそがソーンの矜持を支えている。だが、口にしたところで父親が聞き入れるとは思わない。不自然にならない程度に深呼吸をして、どうにか自分を落ち着かせる。
脳裏に魔道具屋で会ったベラスタ・ドラコの姿が蘇った。少年は目を輝かせて、尊敬を滲ませ“また会えたら色々教えてくれよ”とソーンに言った。それだけではない。魔導省でも、若手の魔導士たちはソーン・グリードに色々と話を聞きたがった。その時だけは、優秀な魔導士と呼ばれ持て囃されているベン・ドラコよりも優れているのだと、心が満たされた――否、そうではない。魔導士である自分は必要とされているのだと、そう思えた。
父親に会話の主導権を握られては面倒だ。ただソーンの精神がすり減っていくだけだと分かっている。だから、ソーンは敢えて父親の言葉は取り合わずに淡々と問うた。
「どのようなご用件で、私をお呼び出しになられたのでしょう」
伯爵は僅かに眉根を寄せて息子を見上げる。これまでのソーンは、伯爵が何かを言えば悄然と項垂れるか、どうにか許されようと必死に言葉を尽くそうとするのが常だった。その記憶と違う態度の息子に違和感を覚えたのかもしれない。しかし、その記憶が実に数年前で止まっているということに伯爵は思い至っていない様子だった。
鼻を鳴らして不機嫌に言い放つ。
「――まあ良い。魔導士などという下らん真似をし始めた時はどうするかと思ったが、今はお前のその地位を活かせ」
「は――?」
ソーン・グリードは胡乱に眉根を寄せて、父親を見つめた。一体、彼が何を言っているのか分からなかった。昔はそうではなかったはずだ。屋敷に居た時は、言葉の足りない父親が一体何を考えているのか、まだ理解できた気がする。しかし、今は全く父親の真意を読み取れなかった。
眉根を寄せて自分を見つめるソーンに苛立ったのか、伯爵は苛立たし気に顔を歪めた。
「分からんのか、全く。お前は昔から出来の悪い奴だったが、未だに変わらんとはな」
その言葉は的確にソーンの心にある古傷を抉ったが、ソーンは顔色を変えない。両手を握りしめた。わずかにその拳が震えるが、それだけだ。
昔から、伯爵はそうだった。自分よりも高位の爵を持つ相手には下手に出るが、彼が王となれる伯爵邸では決して他者を慮らない。
ソーンは魔導省に勤め始めてから知ったが、人と会話をするときには相手の理解度を推し量りながら話さなければ、こちらの意図が正確に伝わらないのだ。しかし、伯爵は一切そのようなことをしない。言葉が全く足りないくせに、相手が彼の意図を汲み取れなければ理解力が悪いせいだと断じる。更にそれを咎めるものだから、使用人も長く続かない。執事だけは伯爵に命じられる前に全てのことを処理するため、優秀な男だと気に入られていた。
よく考えれば、とソーンは心の中で呟く。
二人の兄も、父親の気持ちや考えを汲み取る能力に長けていた。ソーンだけはどうしてもそれが苦手で、見当違いのことをやらかしては父親に疎まれていた。末っ子のソーンは幼く、父親の考えを読み取れなくとも仕方がなかったはずだ。しかし、比較対象である二人の兄が傍に居たこともソーンにとっては不幸だった。
出来の良い兄二人と比べ、伯爵は末の息子は愚鈍で出来が悪いと判断した。だが、兄二人がソーンに比べて“優秀”なのは当たり前だ。二人はソーンよりも年上なのだから、その分経験も多く父親との付き合いも長い。まだ言葉も満足に扱えない子供に、剣術を習い始めた長兄と同じだけの能力を求める方が間違っている。
しかし、伯爵は息子の様子には一切気が付かず、わざとらしく大きな溜息を吐いてみせた。ほとほと呆れ返っている、という態度で言い放った。
「ベン・ドラコだ」
「――ベン・ドラコ、ですか」
その名を言えば分かるだろう、と言いたげな父親に、ソーンは頭痛を覚える。それだけで分かるわけがないだろうと言いたい。そもそも、ソーンは父親が今何をしているのかも、何を企んでいるのかも知らないのだ。
過去の記憶を彷彿とさせる父親の態度に心臓が痛んだが、同時にこれまでは気が付かなかった父親の粗が目に付く。
長らく父親のことは恐ろしいと思い込んでいたが、もしやこの父親は阿呆なのでは――とソーンは脳内で現実逃避を始めたが、そんな息子の態度に伯爵は苛立ちを覚えたようだった。強く机を叩く。大きな音がしたが、魔導省の研究棟に居れば不意の爆発など日常茶飯事だ。幼い頃はびくりと体を緊張させていたソーンも、冷静にそんな父親の姿を眺めていた。
「ここまで言っても分からんのか! 何のためにお前は魔導省副長官になった!? この伯爵家に尽くすためだろうが。あの忌まわしきベン・ドラコをいつまでのさばらせておくつもりだ?」
そこでようやく、ソーンは父親の意図を察した。わずかに目を瞠る。
「つまり――ベン・ドラコを魔導省から追放しろと仰る?」
「追放? そんな生温い処置で済むものか。少しはその足りん頭で考えろ」
苦々しく伯爵は吐き捨てる。その鋭い眼光に睨まれ、ソーンの背中には冷や汗が伝う。こればかりは幼い頃から刷り込まれた反射だ。からからに乾いた口内を潤そうと唾液を無理矢理飲み込み、小さく息を吐く。そんなソーンの様子に、伯爵はわずかに頬を緩めた。満足気な笑みが瞳に浮かんでいる。
幼い頃のソーンは、伯爵のその表情に安堵していた。その顔をするとき、ようやく父親はソーンを赦してくれた。
「お前がベン・ドラコを亡き者にすれば、それで事は順調に進むのだ」
だから、グリード伯爵家のために手を汚せと――グリード伯爵は、うっそりと笑った。
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