35. 繋がれた意図 10
リリアナたちを見送ったライリーは、応接間から執務室に戻った。いつも通り付き従っているオースティンの視線を感じつつも、ライリーは素知らぬ振りをする。しかし執務室に入った後、ライリーは溜息混じりにオースティンだけを呼びつける。普段のことだともう一人の近衛騎士が気にしないのを良いことに、オースティンは一人だけ執務室に入りライリーの傍に近づいて来た。
扉が閉められたのを確認したところで、ライリーは苦笑を浮かべて幼馴染の顔を見上げた。
「ずっと何か言いたそうにしているね、オースティン」
「――まあな」
オースティンは眉根を寄せてライリーを見ている。敬語が取れているということは、近衛騎士としてではなく幼馴染として物申したいということだろう。
そう判断したライリーは立ち上がると浅く机にもたれかかり、腕を組んだ。オースティンの鋭い視線を真正面から平然と受け止め、小首を傾げる。
「さっきの話のことかな」
「俺が口を挟むべきことじゃないってのは分かってる」
苦く答えるオースティンは顔を顰めていて、明らかに不満があるのだと分かった。ライリーは肩を竦めて見せる。
「我慢するなんてお前らしくないだろう。――私がサーシャの同行を許したのが信じられない、ということかな」
顎に指をあてて考えるように呟けば、オースティンの顔が更に歪んだ。今度こそはっきりと苛立ちが表情に現われる。今にも舌打ちを漏らしそうな表情で、オースティンは口を開いた。
「それなら言わせて貰うが、お前は彼女の同行を許すべきじゃなかった。何かあったらどうするつもりなんだ」
「サーシャが危険だから?」
「他に理由があるか? いくら魔力量が多かろうが、リリアナ嬢は魔術に関しては素人も同然だろう。魔術を学んだとしても所詮は机上の空論だ。実践で直ぐに活かせられるとは思わない方が良い」
オースティンはライリーの近衛騎士だが、それ以前に魔導騎士だ。魔導騎士は一般の騎士や魔導士と比べても学ぶべきことが遥かに多い。剣技だけでなく魔術の基礎も学び、そしてその二つを融合させる方法も身に付ける必要がある。そのためにはただ座学で学ぶだけではなく、訓練を繰り返して身に沁み込ませなければならない。
歯を食いしばりながらも厳しい訓練に耐えて来たオースティンだからこそ、その言葉には重みがあった。それに、とオースティンは尚も言い募る。
「お前から話を聞かないってことは、まだ彼女の魔力は安定してないんだろう。地下迷宮で魔力暴走を起こしたら事だぞ」
「うん、そうだね」
魔王が封じられている地下迷宮に関しては、王立騎士団に所属する一部の騎士だけが話を聞いている。有事の際に動員される二番隊は全員、そして七番隊の隊長と副隊長だ。尤も、その全員が詳細を知っているわけではない。地下迷宮への入り方や具体的な状況を知るのは二番隊と七番隊の隊長だけで、他の者たちは皆、地下迷宮に魔王が封印されていること、封印が破れた時にすべきことだけを頭に叩き込まれている。
だからこそ、オースティンの指摘も妥当だった。ライリーは真剣な表情で頷く。
万が一リリアナが地下迷宮で魔力暴走を起こしてしまえば、リリアナも危険だがベンやペトラも危ない。魔王の封印が破られる可能性もあるし、そうでなくとも地下通路が瓦解して三人とも生き埋めになる可能性もある。
ライリーはオースティンの指摘を尤もだと思いながらも、素直に頷けない理由があった。そしてライリーと長い付き合いのオースティンもまた、自分が口にした懸念は既にライリーの中にあるのだと勘付く。
問うような視線を向けたオースティンに、ライリーは苦く笑って静かに答えた。
「確かに、私もそのことは考えた。だから本当は、サーシャには行ってほしくなかったんだけどね」
「だがお前は許可を出した。何故だ?」
誤魔化すことすら許されない、端的で鋭い問いだった。ライリーは口を噤む。
本音を言えば、正直に胸の内を打ち明ける必要などないのではないかと思った。だが、それならば最初からオースティンを呼ばなければ良かったのだ。近衛騎士としての仕事をさせ、二人きりで話ができないようことを運べばそれで良かった。
実際オースティンも最初は問うて良いのか逡巡していたのだから、そう難しいことではなかっただろう。
そこまで考えてライリーは僅かに目を瞠った。その変化に気が付いたオースティンは訝し気に眉根を寄せる。問うような視線を受けて、ライリーは嘆息と共に答えた。
「いや――どうやら私は、お前に話を聞いて貰いたかったんだと思ってね」
それは嘘偽りないライリーの気持ちだったが、オースティンは“何をいまさら”とでも言うように片眉を上げる。オースティンはしばらく無言でいたが、腕を組むとおもむろに口を開いた。
「それならとっとと吐け」
「――分かったよ」
降参するというように両手を上げたライリーは、小さく息を吐いて口を開いた。
「もし私が止めたとしても、恐らくサーシャは一人で地下迷宮に行ったと思う。それも誰にも内密で。それなら、ベン・ドラコ殿とペトラ殿に同行して貰った方が安全だろう」
「は?」
あっさりと言い放たれたライリーの言葉に、オースティンは絶句した。言葉を失っていたが、すぐに自分を取り戻すと一歩ライリーに詰め寄る。
「おい、ちょっと待て。地下迷宮の入り口は封鎖されているって聞いたぞ。入るには特別な資格が必要だって――」
「ああ、そうだ」
「それを彼女が一人で突破するって言うのか?」
「サーシャなら出来るんじゃないかと、私は思ってるんだよ」
オースティンはライリーの正気を疑うような目つきになったが、幼馴染の落ち着いた目の色を見てようやく本気だと悟ったらしい。片手で顔を覆い嘆息する。
「――本気か。お前の中で彼女の評価はそこまで高いのか?」
「うん。サーシャは実力を表に出さないからね。極力隠そうとするんだ――何故そうするのかまでは分からないけど」
「婚約者にも?」
「ああ、悲しいけど、彼女の信頼はまだ得られていないよ。彼女に信頼されるほどの何かを見せられていないんだろうね」
ライリーの台詞は心からのものだったが、オースティンは俄かには信じられないらしく胡乱な表情だ。それも仕方がないかとライリーは思っていたが、オースティンは少しして「わかった」と頷いた。
「俺にはどうにも信じられないが、お前が言うなら今はその前提で話を進める。同行を許可しなかったら一人で行くだろうから、致し方なくあの二人に同行を許したってことか」
自分の中で整理するように言葉を続けたオースティンに、ライリーは頷いて見せる。
「その通り。本当は私も一緒に行きたかったんだけど、でもさすがに私が行くのは不味いだろう」
「不味いどころの話じゃねえよ」
王太子自ら行くな馬鹿野郎、と小さく毒づいてオースティンはライリーの肩を軽く小突いた。その仕草が昔を彷彿とさせて、ライリーは笑みを零す。
「でも取り敢えず、それなら俺でも同じ決断を下しただろうな。気に病むことはないさ」
「うん、ありがとう」
ライリーは嬉しそうに微笑んだ。その顔を見て、オースティンもまた表情を緩める。
「とりあえず、リリアナ嬢たちが戻ってきたら状況報告に立ち寄ってくれるんだろう。落ち着かないだろうが、それまでは大人しく待っとけよ」
「ああ、分かってるよ」
オースティンに言われてライリーは素直に頷く。そのまま護衛のため部屋の外に出て行く幼馴染の背中を見送り、ライリーは小さく息を吐いた。
リリアナたちを見送ってからずっと心の底にあったしこりが、いつの間にか綺麗さっぱり消えている。信頼のおける相手に少しでも心の内を打ち明けることで、これほどまで心が楽になるとは思ってもいなかった。まだリリアナたちのことを心配する気持ちはあるが、彼女たちを見送った時ほどではない。落ち着いて仕事に取り掛かれそうだった。
*****
ライリーの部屋から出たオースティンは、扉の前に立つ仲間と目が合った。
近衛騎士の中でも一番オースティンに年齢が近い青年は、それでもオースティンより十歳以上年上だ。貴族ではなく平民出身だが、王立騎士団で下積みを経て頭角を現したという。魔術は使えないし剣の腕も上の下だが、何かしらと目端の利く男だった。例えば、集団に紛れた掏児をいち早く見つけるのは他でもないこの青年だ。警邏をしている時に間諜や刺客を見つけることにも長けている。
そのため、剣術と魔術の実力はあるものの経験に乏しいオースティンと組むことが良くあった。
「嬉しそうだな、オースティン」
「え、そう見えますか?」
表情を変えていたつもりのなかったオースティンは、咄嗟に片手で自分の頬を抑える。青年は小さく笑みを零して安心させるように言った。
「他は誰も気が付かないだろうから心配するな。――懸念が晴れたって顔をしてるぞ」
「それなら良かったですけど――まあ、良いことはありました」
「そうか」
良かったな、と、青年は笑う。オースティンもつられて顔を綻ばせたが、すぐに顔を引き締めた。しかし青年は気にした様子もない。再び無言で周囲を警戒し始めた。オースティンもまた周囲の様子を窺う。しかし、頭の中にはどうしても先ほどライリーと交わした会話がちらついた。
オースティンの幼馴染は、まだリリアナ・アレクサンドラ・クラークが婚約者候補だった頃から、彼女を特別視しているように見えた。当初はあの儚く可憐な容姿と、声を失った悲劇性に心を奪われたのではないかとも疑った。だが、そうではないらしいとオースティンが悟ったのは比較的早い段階だった。
ライリーは常に王太子らしくあろうと努力を欠かさなかった。ライリーとオースティンが幼い頃、貴族たちはライリーを“毒にも薬にもならぬ平凡な王太子”と評していた。その評価を覆したのは他ならぬライリーだ。
その途中で、ライリーの様子がおかしくなった時期がある。その時、オースティンは自分が一番ライリーに近しい存在だと自負していた。将来近衛騎士になれば主従の関係にはなるが、それでも他の誰にも負けないくらい近くで王太子を支えるのだと、自信満々に考えていた。
だが、現実は甘くはなかった。一体どうしたのかと尋ねたオースティンに、ライリーは“大したことではない”と答えたのだ。
どれほど贔屓目に見ても、ライリーが何かを気に病み落ち込んでいるのは間違いがなかった。
――自分は、ライリーに頼られていない。
まだ幼いオースティンの心は、たったそれだけのことで大きく傷ついた。しかしそれを認めるのも矜持を傷つける。だから、オースティンは自分の傷ついた心に気が付かない振りをして、二番隊隊長ダンヒル・カルヴァートに言われたばかりの教えをライリーに伝えた。
『信頼できる奴を見つけて、少しは荷物を分けろ』
その言葉はライリーを励ますためのものだったが、同時にオースティンの心を更に深く抉った。
――まだ俺は、ライリーの信頼に足る奴じゃない。
悔しかったし、歯痒かった。どうすれば良いのかも分からなかった。だが、諦めるという選択肢はなかった。
あの日以降、ライリーとオースティンの関係は変わった。幼馴染の気安いだけの間柄から、少し距離が出来た。互いに相談をしあうことに変わりはないが、それまでのように何でも明け透けに話すことはなくなった。それでも確固たる信頼は得たくて、オースティンは必死に努力した。王立騎士団でも、他の誰にも負けないくらい訓練を積んだ自負がある。
だからこそ、今回の相談事はオースティンにとって酷く喜ばしいことだった。単なる政務の難しい案件に関してオースティンの意見を聞こうとしたのではない。ライリーがしたのは、不安の吐露だった。それも相手は彼の婚約者だ。
賢王と呼ばれた先代国王に憧れていたライリーは、特別な存在を作らないようにしていた。愛する相手を見つけてしまえば、国とその相手のどちらか一方を選ばなければならなくなった時に必ず迷いが出る。だからこそ大切な存在を作ってはならないのだと祖父に言われたのだと、幼い頃から何度も口にしていた。
一方で、幼いライリーは悩んでもいた。先代国王の教えでは、国王たるもの、他人を信じながらも決して信用せず、常に裏切られる覚悟を持っていなければならないと言う。その上で他者を上手く使い国政を担うのが国王の務めなのだと、ライリーは信じていた。
だが、ライリーは先代国王ではない。その心根は寧ろ愚王と呼ばれた父王に似て優しい。他人を疑いながらも上手く使うなど、あまりにもライリーの性格と掛け離れた理想像だった。
そのライリーが、いつの間にかリリアナのことだけは気に掛けている。候補でしかなかった時から、オースティンとの会話の中でもリリアナの名を出すことが多かった。正直、オースティンは他の候補者の名前を殆ど聞いた記憶がない。
可憐で儚げな容貌と、声を失ったという悲劇に目が曇ったのかと疑ったこともある。しかしその疑惑は直ぐに晴れた。ライリーは心の底からリリアナを大切にしているように見えた。恐らく唯一といっても良いのではないかと、オースティンは思っている。
そして、滅多なことでは自分の心情を吐露しないライリーがリリアナに関する心を口にしてくれた。それは間違いなく、オースティンを信頼しているからこそだった。
「これが報われたって気持ちなのかな」
にやけそうになる頬に力を入れて平静を装う。寧ろライリーの気持ちを考えれば、喜ぶべきではない。今もオースティンの幼馴染は婚約者のことを心配して気もそぞろになっているはずだ。だが、分かっていてもオースティンの心は弾んでいた。ベン・ドラコとペトラ・ミューリュライネンがリリアナと共に居る、と分かっていることがそれほど心配していない理由だ。
隣に立っている近衛騎士にはオースティンの浮かれ具合が如実に伝わっているに違いない。必死で取り繕おうとしたオースティンだが、やがて諦めた。時折横顔に視線を感じて、オースティンはちらりと隣に立つ青年を見やる。
「――……すみません」
「今日の任務、俺と一緒で良かったなあ」
「それは本気で思います」
近衛騎士の中でも、厳しい者は勿論居る。もしその騎士が今オースティンの隣に居たら、最年少のオースティンはしっかりと叱られていただろう。
だが、青年は優しく言った。
「何があったかは分かんねえけど、そういうの、青春らしくって良いと思うぜ」
「――どれだけ勘が鋭いんですか」
思わずオースティンは脱力する。詳細は知らないはずなのに、青年の発言は妙に的を射ていた。顔が熱くなる。間違いなく赤くなってるはずだと、オースティンは口元を手で覆った。妙に気恥しい。だが、心は晴れ晴れとしていた。
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