35. 繋がれた意図 8
リリアナがゆっくりと魔力を流し始めると、何もなかった壁には徐々に複雑な文様が浮かび上がって来た。ベンとペトラが息を飲んだ音がリリアナの耳に届く。しかしリリアナは魔力を流し続ける。思っていた以上に魔力を奪われていると感じた。手足の先が少しずつ冷たくなっていく。
はっきりと全ての陣が浮き上がったところで、リリアナは固定の術を掛けてからゆっくりと手を離した。
一歩後退したところでペトラに声を掛けられる。
「大丈夫? 体調は?」
「問題ありませんわ」
リリアナはペトラを安心させるように微笑みを浮かべた。しかし、体内に充満していた魔力がごっそりと陣に吸い取られたせいか、多少眩暈と耳鳴りがする。それでも耐えられないことはないし、一々騒ぎ立てるほどでもない。
そんなリリアナをペトラは探るように一瞥したが、深く尋ねて来るようなことはしなかった。その代わりに、まじまじと目の前に現われた呪術陣を見て感心したような声を上げる。しかし、その表情にはどこか呆れたような色があった。
「ここまではっきり見えるとは思わなかったな。細かい文字まで読めるじゃない」
「本当にね。しかし、こうして見ると、何だかぞっとしない術式の集大成って感じだな。すぐに何かしらの危険がある、というわけじゃないらしいのは良かったけど」
「同感」
ペトラに同意を示したのはベンだった。その顔は険しく呪術陣を睨むように凝視している。
ベンもペトラも緊迫した雰囲気を醸し出していて、リリアナの表情には気を配る余裕がない様子だった。ペトラに至っては、口を真一文字に引き結んでいる。
リリアナは呪術陣を見つめて、小さく息を吐いた。
(――最悪ですわね)
嫌な予感が当たったと、内心で彼女は呟く。
壁に現われたのは、本来ならば来年現れるはずの呪術陣だった。リリアナの記憶にある前世の乙女ゲームでは、この呪術陣を発見したのはベラスタ・ドラコだった。彼は一度だけ読んだことのある禁書に、この陣と似た文様があったのを思い出す。そして、この呪術陣はスリベグランディア王国だけでなく隣国も巻き込んだ大陸の危機を知らせるものだと、王太子ライリーに直訴するのだ。それがヒロインと攻略対象者たちの長く厳しい旅路の始まりだった。
疑問は次から次へと湧いて来る。一番の大きな謎は、リリアナは何もしていないのに何故その陣が現れたのか、ということだった。
(乙女ゲームでは、全てはわたくしが仕組んだことだと言われておりましたのに)
だが、現状から考えるとそれは事実ではなかったのだろう。実際にリリアナは何もしておらず、そして呪術陣は発現した。
リリアナが沈思黙考している横で、ペトラとベンは細かく呪術陣の文様を確認している。その陣はあまりにも強大で、解析することすらも出来なかった。ただ、現れた文様から読み取れるだけの情報を読み取らなければならない。
優秀な魔導士二人は、ローブから取り出した紙に文字を書きつけながら慎重に陣の内容を検討している。ゲームのベラスタが読み取ったことを、ベンとペトラが気付かないわけもない。しばらくの後、ベンの口から低い唸り声が漏れた。
「――これは……不味いな」
「やっぱりそう思う? あたしの勘違いであって欲しかったんだけど」
ベンの言葉にペトラも反応する。リリアナが二人に目をやると、その視線に気が付いたベンとペトラはリリアナを一瞥してから顔を見合わせた。そして、小さく息を吐いて壁に幻術を掛ける。
くっきりと姿を現した呪術陣は、既に誰でも見られるような状態だ。大半の魔導士はその呪術陣が一体何を目的としたものか理解すら出来ないだろうが、万が一ということもある。それに、下手に何か手を出そうとして呪術陣を暴走させてしまう可能性もあった。とはいえ、再び呪術陣を元の通り見えない状態に戻すことは不可能だ。リリアナが魔力を吸い取れば可能かもしれないが、その場合リリアナの身が無事である保証はない。
ベンは口を開いた。
「一旦、長官室に戻ろう。話はその後にする」
「承知いたしましたわ」
リリアナは一つ頷いた。
*****
長官室に戻ってからも、ベンとペトラの纏う雰囲気は重苦しいものだった。ペトラはソファーに座るより先に、備え付けられている簡易な台所で湯を沸かし、三人分の茶を淹れてくれた。リリアナは微笑と共に礼を述べて一口茶を飲む。ペトラとベンも茶を飲んだが、二人はリリアナと異なり沈鬱な表情のままで深い息を吐いた。
「――早速、本題に入るけど」
口火を切ったのはベンだった。リリアナとペトラは視線をベンに向ける。普段から飄々としてつかみどころのない男だが、その彼が珍しく切羽詰まったような表情を浮かべていた。
「あの呪術陣は、何か強大な存在を封印するためのものだ。封印には幾つか種類があるんだけど、東方呪術の場合は息災、もしくは調伏という大きな概念に含まれる概念――とされている、らしい」
この辺はペトラの方が詳しいかな、とベンはペトラに目を向ける。しかしペトラは小さく首を振った。
「一応、この国の中では一番詳しい自信はあるけどね。でも、東方で扱われている呪術は基本的に秘されているものなんだよ。だから、詳しくはあたしも説明できない」
リリアナは目を瞬かせた。息災、そして調伏――この世界では初めて耳にする言葉だ。しかし、前世の記憶には該当する単語がある。
そんなリリアナの反応を見たベンとペトラは、リリアナは知らないようだと判断したようだった。多少申し訳なさそうにしながらも、淡々と告げた。
「あんまり詳しくは説明できないんだけど、息災は“災害や障害を消滅させる”呪術、調伏は“呪詛”だと考えれば良いと思う」
「うん、大きく外れてはないね」
専門家にはありがちなことで、きちんと説明しようと思えば微に入り細を穿つ内容となるのだろう。それを自覚しているからこそ、ペトラは曖昧な言葉でまとめたに違いない。リリアナもその点については今、詳細を尋ねようとは思っていなかった。
ベンは更に言葉を続ける。
「詳細は省くけど、あの呪術陣は東方呪術と似たような文様が刻み込まれてた。勿論、全てが東方呪術のままじゃない。でも、東方呪術が基盤になっていることは確かだと思う」
「東方呪術が基盤になっている、ですか」
リリアナは驚いたというように目を僅かに瞠り尋ね返した。元々感情表現に乏しいのだから、大仰に驚愕を見せれば違和感を与えてしまうことになるだろう。
既にリリアナが呪術陣の効能を知っていると、ベンやペトラに勘付かれるわけにはいかなかった。
幸いにも二人はリリアナに胡乱な目を向けることもなく、解説を続ける。
「その本は禁書の扱いになってるから、僕たちもおいそれとは見れなくてね。でも研究のために必要だからというので、一度だけ確認したんだよ。そこに書いてあったのが、調伏の呪術――向こうの言い方では“調伏の呪法”だった」
その禁書には、ざっくりとではあるがその方法が書かれていた。細長い葉を特殊な方法で焚き上げ、呪法のための特殊な道具を使い対象者の頭か胸を貫く所作を行い、そして適所で呪言を唱える。それは対象を殺害するための呪術らしいが、動作や紡ぐ言葉を変えれば、対象を殺さずに封じることもできるという。
「その時に唱える言葉の一部が書かれていたんだけど、それと同じ形の文様があの呪術陣には組み込まれていた。幸いなことに、僕たちにはどう発音するか分からないんだけど」
「つまり、あの呪術陣は恐らく何かしらを封じ込めるためのものだろうってワケ」
ベンの話が終わった頃合いを見計らって、ペトラがまとめる。
リリアナは内心で二人に感嘆していた。さすがに優秀だと評されるだけあり、二人とも短時間で限りなく正解に近づいていた。問題は、あの呪術陣が一体何を封じていたのか――それを特定できるか、という点だ。
しかし、リリアナの懸念は直ぐに払拭された。考えるような仕草をみせながら、ペトラは自分の推測を口にする。
「推測でしかないけど、恐らくあの呪術陣はこれから何かを封じるためのものじゃなく、過去に何かを封じたんだと思う」
どうやらベンも同じ結論に辿り着いていたらしく、目を眇めて目の前に置いたコップを睨みつけた。リリアナは何も知らない振りをして、二人の顔を交互に見やる。
重たい沈黙の後、ベンは真剣な表情で口を開いた。
「前に、僕は君に“魔王は本当に居る”って教えたと思う。覚えてる?」
「え、ええ――おとぎ話だとばかり思っておりましたから、驚きましたわ」
リリアナがベンに会ったばかりの頃だったから、恐らくは今から六年程度前のことだ。ベンも忘れていてもおかしくはないのに、どうやら覚えていたらしい。さすがに国家機密を教えた事実は忘れないのだろうか、と思いながら、リリアナは素直に頷いた。
当時、ベンは魔物襲撃が異常発生していたため、魔王の封印が解けたのではないかという疑いを抱いていた。しかし、実際は所々綻んでいたものの、封印が解けたと言えるような状況ではなかった。
――その話を、今ここで持ち出したということは。
リリアナは確信に近い思いを胸に抱く。
ベンはそんなリリアナの反応には構わず言葉を続けた。
「当時、僕はまだ魔導省の副長官だったからね。色々と自由も効いたし、魔物襲撃が異常発生している原因は魔王の封印が解けている可能性を考えた。結果は、まあ封印は解けてなかった――というわけだけど」
でも、とベンは言う。
「その魔王が封じられている場所は言ってなかったよね。知ってる?」
「――いいえ、存じませんわ」
リリアナは首を振った。
本当は、知っている。もし乙女ゲームの設定と同じなら――魔王が封じられている場所、それは。
「王宮の下。ちなみにそこへは、魔導省からも行ける」
つまり、とペトラがベンの説明を引き継いだ。
「あの呪術陣は、スリベグランディア王国が建国された時に魔王を封じたものじゃないか、ってコト」
「そして、魔王を封じた呪術陣が姿を現したということは、封印が確実に緩んでいるということだ」
リリアナは敢えてゆったりと瞬いた。
(――ご明察ですわ、お二方)
微笑みそうになるのをどうにか抑え込む。しばらく沈黙して考えている風を装い、リリアナは口を開いた。このような時に、何も知らない自分が一番言いそうな言葉はただ一つだ。
「あの呪術陣が魔王を封印した陣だとして――でも、実際に魔王が封じられている場所は王宮なのでしょう? 多少、距離がありすぎるように思うのですけれど」
「確かに普通、封印に関する術といえば対象を封じる場所に施すものだよね。でも、東方呪術に限ってはそうとも限らないんだ」
リリアナの問いに答えたのはペトラだった。「例えば、さっきベンが言ってた調伏の呪術だけど」と例に出す。
「あの呪術も、対象者と術者は離れた場所に居る。あの呪術陣もそういう類のものだ。なんでわざわざ、封印場所を王宮の下――つまり地下だけど、そこにして、陣を魔導省のあるこの場所にしたのかまでは分からないんだけど」
「記録にも残ってないからな。でも、恐らく何かしらの理由はあるんだと思う」
ペトラの言葉にベンも同意を示す。リリアナは静かに頷いた。
「それでしたら、魔王を再び封印し直す必要がある、ということですわね」
「そういうこと。ただ、その方法が難しい」
ペトラは苦々しく言った。ベンもまた苦虫を嚙み潰したような表情で腕を組んでいる。リリアナは首を傾げた。乙女ゲームでは、魔王を再度封印するためには国内外に散らばった道具を集める必要があるという説明に終始していた。何故、その道具が必要なのかまでは説明がない。
ただ、その道具は嘗てスリベグランディア王国建国の際、魔王を封じるため使われたものだということ。
その事実があれば、詳細はどうでも良かった。問題は、記録に残された表現を元に、その道具がどのような形をしたもので、どこにあるのかを推理しなければならない事だけだった。
しかし、現実では他にも方法があるはずだ。そうでなければ、全ての道具を集めるなど出来る状況にない。
そんなリリアナの内心には気が付くこともなく、ペトラは説明を続けた。
「使われてる術があまりにも古すぎるんだ。文献にも碌な説明は残ってない――はず。もし王族だけが見られる、とかいうなら分からないけど、少なくともあたしたちはその存在を知らない。再現するのも難しい。つまり、綻んでいるところを修繕すればまた元通り封印できるだろう――ってことにはならないんだよ」
「一度封印を完全に解いて、その後再度封印し直す必要がある、ということでしょうか」
「そういうこと。封印がどれだけ解けかけてるかにもよるけどね。完全に封印を解かずに、綻びを繕える程度なら良いんだけど」
さすがお嬢サマ、呑み込みが早いね――とペトラは言うが、リリアナにとっては当然だった。
(現時点では、乙女ゲームと同じ方法でしか解決できない――ということですわね)
国内外に散らばっている封印用の魔道具を集め、魔王の封印を完全に解き、対峙して再度封印する――それが、今立てられる唯一の策だ。
「とりあえず、この件は王太子殿下に奏上しないといけないな」
溜息混じりにベンが呟き、ペトラは静かに頷いた。リリアナは少し思案する。
間違いなく、魔王復活に関してはベンがライリーに直接話すことになるだろう。だから、リリアナが関わる必要はない。とはいえ、魔王の復活は乙女ゲームの主軸になる事件の一つだ。隠しキャラである二巡目の攻略対象者も、魔王復活には深く関わりがある。
「でしたら、わたくしから殿下にご連絡いたしましょうか」
「お嬢サマが?」
驚いたように目を瞠って尋ね返したのはペトラだった。リリアナはにこやかに頷く。
「ちょうどこの後、殿下とお会いするお約束になっておりますの。面会申請を出すよりも、早くお会い頂けると思いますわ」
「それは有難い――けど、良いの? 一応、婚約者のデートでしょ?」
「まあ。基本的には執務のお話をしておりますのよ」
ですからお気になさらないで、とリリアナが微笑むと、ペトラは呆れ返ったように眉を上げてわざとらしい溜息を吐いた。
「――まあ良いけどさ。じゃあ取り敢えず、お願いするよ」
「ええ、勿論ですわ」
お任せくださいな、とリリアナは優しく微笑む。
どうやら、これから先は忙しくなりそうだった。
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