35. 繋がれた意図 3
長官室に私物を運び込みようやく人心地ついたベン・ドラコは、前触れもなくやって来たペトラ・ミューリュライネンを前に難しい表情を浮かべていた。
「それは不味いな」
「うん、そう思う。できれば誰にも知られないように解析したいんだけど、場所が場所だけになかなか難しくてさ」
対するペトラも複雑な表情だ。
普段はベンもペトラもあまり感情を表には出さない。高位貴族たちのように教育を受けているからではなく、単に性格の問題だ。だが、今回ばかりは取り繕う余裕もなく険しい表情になってしまう。
「長官室と副長官室に用がある魔導士も少ないから、何かしら理由を付けて立ち入りを禁止するか」
暫く考えていたベンがぽつりと呟く。ペトラも頷いた。
ペトラがベンに告げたのは、長官室と副長官室に繋がる廊下の壁に存在している呪術陣の話だった。先日ベラスタがペトラを訪ねて来た時に発見したものだが、その後ペトラが人目を盗んで呪術陣を確認した。
「それが良いと思う。陣自体に、大半の人間には見えないような細工が施してあったから気付かれない方が良い」
「その定義は?」
「一定量以下の魔力を持つ存在」
ベンは僅かに目を瞠る。確かにベラスタやベン、ペトラは魔力量が多い方だ。魔導省の魔導士たちと比べても魔力量が多い。しかしペトラの表情は晴れなかった。問うような視線を向けるベンに、ペトラは淡々と言葉を続ける。
「実はあたしも、本来であれば“見えない側”に分類される程度の魔力量だったみたい。陣自体が不安定になっていたから片鱗を感じ取れたけど――解析までは無理だったから、魔導石を使う羽目になったんだよね」
「魔導石で陣に魔力量を錯覚させたわけか」
「そう」
あっさりと頷いたペトラに、ベンは「分かった」と頷いた。
「呪術陣はミューリュライネンの方が詳しいけど、純粋な魔力量だけで言えば僕の方が多いからね。時間を合わせて一緒に解析に向かおう。立ち入り禁止にする時期に合わせて――そうだな、魔導省の入省試験の時でどうだ」
「うん、それが良いと思う」
もうじき、魔導省の入省試験がある。その時は魔導省に勤める魔導士たちも多数が休みを取る。魔導省に出て来るのは、入省試験に関わる者や仕事が立て込んでいる者だけだ。そのため、魔導省の一部を立ち入り禁止にしたとしても差し支えはないはずだった。そして何かしら呪術陣に不具合が起こったとしても、魔導省に人がそれほど居なければ被害も最小限に抑えられる。
「それで」
ベンは何気なくペトラに尋ねた。何の前知識もないまま、呪術陣の解析に向かうつもりはない。
何より、ベラスタが発見しペトラが解析に挑戦した呪術陣の存在はベンすらも認識していなかった。魔導省の建物内に、元副長官であり現在の長官であるベンが知らない陣があること自体が異常事態だ。それも、その呪術陣は“一定量の魔力を持つものしか認識できない”というのだから、怪しいことこの上なかった。正直なところ、一人で解析に向かったペトラが無事だったこと自体が僥倖だとも言えた。
「他に何か分かったことは?」
「大したことは分かってない。少なくとも、呪術陣自体がかなり古い術式で作られていることは分かった。それから、稼働に異常な量の魔力を必要とすること」
「つまり、動き出したら甚大な被害をもたらす可能性があるってことか」
溜息混じりにベンが呟く。基本的に魔術陣も呪術陣も、膨大な魔力量を必要とすればするほど、発動したときの効果も大きくなる。
そしてもう一つ、ベンには気になることがあった。
「かなり古い術式ということは、解析も解術も大変そうだな」
「その可能性は高いと思う。正直、古いってことは分かったけど実際に解析できるかどうかは自信がない」
ベンの呟きを聞いたペトラは“ちゃんと見ないと分からないけどね”と前置きをしながらも、苦く答えた。ベンは更に考え込む。
スリベグランディア王国で呪術に一番造詣が深い人物はペトラだ。彼女に解析ができないのであれば、他の誰が取り組んでも不可能だ。そもそもその呪術陣自体、認識するためには膨大な魔力量を必要とする。ペトラでも辛うじて知覚できる程度だというのだから、ベンも似たような状態に違いない。ベラスタは何なく見つけたようだが、彼が見つけた時に陣がどの程度不安定な状態だったのかも分からない。確かにベラスタはベンやペトラよりも多少魔力量は多いが、あくまでも“多少”だ。
「ミューリュライネン、一つ思い付いたんだが」
「なに?」
ペトラは首を傾げてベンを見る。彼女が注視する前で、ベンは酷く不服そうな表情を浮かべていた。思い付いたもののベンとしては出来るだけ取りたくない選択肢、ということなのだろう。
口火を切ったものの再び口を噤んでしまったベンを前にして、ペトラは無言で待った。やがてベンは言いにくそうに口を開く。
「――――魔力量が僕たちよりも大きくて、口が堅くて、呪術にもそれなりに通じている人物――で、僕たちの知り合いが居るじゃないか」
彼女なら助けになるのではないか、と言外にベンは言う。ペトラは目を丸くした。信じられないというようにベンを凝視する。具体的な名前は言わなくとも、ベンが一体誰のことを示唆しているのか直ぐに分かった。
――リリアナ・アレクサンドラ・クラークだ。
ベンは本気らしくその表情に変化はない。彼の目は、ベン・ドラコではなく魔導省長官としての責任感を浮かべていた。私人としての感情と魔導省長官としての義務に板挟みになっていることは、ペトラも分かる。だからといって直ぐに納得できるかと言えば答えは否だった。
「あの子を魔導省に連れて来るってワケ?」
「すぐにじゃない。僕とミューリュライネンで一度解析を試してみて、必要そうなら検討するってことだ」
苦々しく告げられたベンの言葉は揺るがない。妥協点はないのだと悟ったペトラは渋々頷いた。
もしベラスタが発見した件の呪術陣が魔導省や王国に害を為す目的で施されたのであれば、どんな手を使っても呪術陣を解術し無効化しなければならない。陣の認識に魔力量が条件となっているのであれば、確かにリリアナ以上の適材は存在していなかった。
不満だ、と顔中で表現しているペトラを見たベンは、苦く笑みを零す。
「そんな顔するな。僕も本当は嫌なんだ」
「分かってる」
ペトラにとってもベンにとっても、魔導省は決して居心地の良い場所ではない。ニコラス・バーグソンを筆頭としてベンやペトラに冷たく当たっていた魔導士たちが一掃された今でも、居心地の悪さは拭えていなかった。そんな場所にリリアナを連れて来たいと思うはずもない。
勿論リリアナ本人は全く気にしないだろう。魔導省という場所は当然ながら、ペトラやベンがリリアナを利用しようとしていると感じて不快に思うこともない。長い付き合いだから想像も容易い。リリアナは間違いなく、普段と変わらない笑みを浮かべて何事もなかったかのようにベンやペトラの望むがままに動いてくれる。彼女にとっては“ただそれが必要だから”という理由だけで十分なのだ。その結果、自分の身に危険が迫っても気にしない。
勿論、それで助かったことは多々ある。一番大きな出来事は、間違いなく王都近郊で起こった魔物襲撃だ。あの時リリアナ自ら転移してくれなければ、ペトラもベラスタもタニアも、無事では済まなかった。ペトラはほぼ間違いなく命を落としていたか、生き長らえたとしても五体満足ではなくなっていただろう。
そして早急に最大規模の魔物襲撃が制圧されたのも、リリアナの勇敢な行動故だった。
しかし、もし魔物襲撃の制圧に失敗していたら――リリアナは既にこの世から消え去っていたに違いない。
後から事情を聴いたベン・ドラコは喜ぶよりも先に絶句していたし、意識を取り戻したペトラもリリアナに感謝する一方で腹を立てていた。その後ゆっくりとリリアナと話す機会がないまま月日が流れたため未だに文句は言えていないが、機会があれば怒ってしまいそうだと今も尚思っている。
それでも、きっとリリアナは“もっと自分を大事にしろ”と言い募るペトラたちに普段と変わらぬ微笑を見せ頷きながらも、結局は同じことを繰り返すのだろう。
「――なにかあったら、すぐ死にそうで嫌なんだよ」
苦々しく吐き捨てるように呟いたペトラに、ベンも同意を示すように小さく頷いた。
「死にたくないって本人は言ってたけど、確かに色々なものと天秤に掛けて“それが最善だ”と判断したら簡単に自分の身を犠牲にしそうではあるな」
だから、とベンは付け加えた。無意識に声を抑えている。
「彼女を呼ぶのは最終手段だ」
ペトラも今度ははっきりと頷く。それでも結局、最後はリリアナを呼ぶことになるのではないか――ペトラはそんな気がしてならなかった。
*****
晴れた昼下がり、リリアナは王宮に向かっていた。勿論目的はライリーに会うことだ。婚約者候補だった頃から定期的に会ってはいたものの、婚約してからは頻度も上がった。そして“立太子の儀”を終えた後は更に回数が増している。
決してリリアナが望んでいるわけではない。前世の記憶を思い出してからは極力、王太子を始めとした攻略対象者たちを避けようと努めて来たというのに、現実はなかなか上手くいかないものだ。
(更に熱心になられたのは、わたくしが魔力暴走を起こし掛けて倒れてからですわね)
リリアナは思いを馳せる。
それまでもライリーは多少リリアナのことを何かと気に掛けてはいたが、基本的には彼女の意志を尊重してくれていた。しかしリリアナが体調を崩してからは極力目の届くところに居て欲しいとでも言いたげで、リリアナが拒否しても多少強引に自分の意見を押し通そうとすることが増えて来た。王太子という身分があるからこそ難しいものの、もし叶うことならばリリアナが暮らしている屋敷にまで押し掛けて来そうな勢いだ。
ただ、今回は珍しくリリアナの方から面会の願いを出した。リリアナの手元には、オブシディアンが入手してきた隣国のケプケ伯爵が王国の侯爵ショーン・タナーに宛てた手紙がある。その手紙を、リリアナはライリーに託すつもりだった。
(最初はジルドに頼まれたから調査を始めましたけれど、その後ウィルに協力を依頼されましたし)
さすがに隣国の貴族と自国の有力貴族が関わっている重大な事件はリリアナの手には余る。リリアナに出来ることと言えば、ケプケ伯爵が隣国から連れて来られた“北の移民”たちを何処の誰に託しているのかをオブシディアンに探って貰うことくらいだ。その結果も、すぐには出て来ないだろう。
馬車に揺られて王宮の敷地内に入り、顔見知りの衛兵に挨拶をしてライリーの執務室を目指す。背後にはジルドが付いていた。リリアナに連れられて王宮に来るようになってからは、王宮が見えた瞬間から不機嫌な気配を見せていた。しかしさすがに慣れたもので、見知った相手とは黙礼程度する間柄になっている。
ライリーの執務室に辿り着いたリリアナは、侍従に取次ぎを頼んだ。前もって訪問することは伝えてあるため、大して待たされることもなく中に通される。ライリーは執務机に向かっていたが、リリアナを見ると笑顔を浮かべて立ち上がった。
「サーシャ、よく来たね」
「本日はお時間を頂戴いたしまして、恐縮に存じます」
「貴方が会いたいというなら幾らでも時間を作るよ」
にこやかに答えたライリーはリリアナをソファーに誘う。大人しく腰かけたリリアナは、隣に座るライリーから僅かに距離を取った。ライリーは気にした様子もなく、侍従が用意した茶に手を付ける。リリアナの前には茶菓子が置いてあった。
「まあ、珍しいお菓子ですわね」
思わずリリアナは目を瞠る。その茶菓子はスリベグランディア王国では見たことのないものだった。ただ、リリアナは元々食事に興味がない。そのため、リリアナが知らないだけで広く食べられている可能性もある。しかしリリアナが抱いた感想は間違っていなかったらしい。ライリーは目元を綻ばせて頷いた。
「そうなんだ。ブロムベルク公爵夫人が送ってくださったんだよ。本来は保存ができないらしいんだが、魔道具を使えばある程度長期間保存できるらしい」
「魔道具ですか?」
リリアナは首を傾げる。頷いたライリーは立ち上がると、執務机の引き出しから小さな袋を取り出した。ソファーに戻って来ると袋を差し出す。リリアナが受け取って袋を開けるのを眺めながら、ライリーは楽しそうに言った。
「サーシャがきっと気に入るだろうと思ってね。見せたくて置いておいたんだ」
「そうですのね、有難うございます」
礼を言ったリリアナは袋の中から小さな魔道具を取り出す。魔道具は薄く小さな円盤だった。掌ほどの大きさで、中心に魔導石が埋め込まれている。今はもう魔導石に魔力は入っておらず、単なる石だ。
「魔導石に魔力を入れてごらん」
ライリーの言葉を受けて、リリアナはほんの少しだけ魔導石に魔力を流し込んだ。リリアナにとってはごく僅かだが、一般的には十分な量だ。そして、魔導石に力が込められた瞬間起こった変化にリリアナは僅かに目を瞠った。
「――冷たい」
「そう。物を冷却する魔道具らしい」
嬉しそうにライリーは笑う。
驚いたような顔をしながらも、リリアナは複雑な気分だった。前世の知識に照らし合わせるならば、これは保冷剤だ。魔術が存在しない世界であれば、食物を数日間新鮮に保つ程度の保冷剤を作るためには高度な科学技術が必要だ。必要に迫られたとしても、作る術はない。しかし魔術が存在する世界であれば、リリアナの前世のように科学技術の発展を待つ必要はない。魔術で作れる範囲は、産業革命を待つまでもなく発展していくだろう。
気を取り直して、リリアナは魔道具を袋に戻す。そして袋をライリーに返し口を開いた。
「この魔道具を量産できるようになりましたら、色々な場面で役立ちそうですわね」
「私もそう思うよ。食料事情も変わるし、鍛冶場でも使い道があるかもしれない。他にも探せば色々と役立てられそうだ」
リリアナから袋を受け取ったライリーは楽し気に言いながら、袋を執務机に引き出しに戻すと、再びリリアナの元に戻って来た。そしてソファーに腰掛け、茶菓子を食べるように勧めてくる。素直にリリアナは菓子を口にした。甘すぎず食べやすい。
ライリーの伯母であるヘンリエッタ・ブロムベルク公爵夫人は以前から時々贈り物を届けてくれているが、彼女の選ぶ菓子はどれもライリーとリリアナの口にあった。
「美味しい?」
「ええ」
ライリーの問いにリリアナは素直に頷く。それを見たライリーは嬉しそうに破顔して「口にあったようで良かったよ」と言った。そしていそいそと彼もまた菓子を口に運ぶ。わずかに緩んだ頬を見る限り、ライリーも送られて来た茶菓子が気に入ったようだった。
「価格にもよりますけれど、これでしたら王国でも受け入れられそうですわね」
「うん、どうやら伯母上は我が国への輸出も考えているらしいよ」
「――ブロムベルク公爵領の特産物ですの?」
「特産というほどではないけど、伯母上が考案したらしいからね」
どうやら販売の権利はブロムベルク公爵家が独占しているらしい。それならば、ライリーとリリアナが頼めば王国へ優先的に品物を回してくれるだろう、とリリアナは納得する。
“立太子の儀”で挨拶をしてからというもの、ブロムベルク公爵夫妻はライリーのみならずリリアナのことも可愛がってくれている。時折、リリアナの元にも手紙が送られて来るようになった。
戸惑いを隠せなかったリリアナを見たライリーは、笑いながら「他意はないだろうから安心して」と取りなしの言葉を掛けてくれた。本心から信じられるとは言い切れないが、以来リリアナも極力気にしすぎないように、しかし礼を失さないように気を付けていた。
「それで、サーシャ」
茶菓子を食べ終えて一息ついたところで、ライリーが口を開いた。
「手紙には緊急の用件と書いてあったけれど、何があったの?」
探るような視線を、ライリーはリリアナへ向ける。全てを見通すような澄んだ眼差しを正面から受け止めて、リリアナはゆったりと微笑んだ。
「わたくしたちにとっては良い知らせをお持ちしましたの」
「――私たちにとって?」
微妙な言い回しが気に掛かったのか、ライリーの眉がぴくりと動く。小さく頷いたリリアナはおもむろにジルドを振り返る。心得たもので、気配を消して壁際に立っていたジルドは直ぐにリリアナに近づいて来た。そしてリリアナに一通の手紙を差し出す。
ジルドから手紙を受け取ったリリアナは、それをライリーに手渡した。宛名を見たライリーの眉間に皺が寄る。
「――タナー侯爵?」
「ええ、差出人は裏面に」
リリアナの言葉に従って裏面を見たライリーは息を飲む。
それは、オブシディアンが持って帰って来たケプケ伯爵の手紙だった。