35. 繋がれた意図 1
転移の術で自室に戻ったリリアナは、多少落ち着きを取り戻していた。寧ろ、あの小屋で見たものが夢だったのではないかという気さえしてくる。しかし、埃で薄汚れた指先が現実だったと教えていた。
「問題は、最近増えている魔力がどこから来たものか――ということですわね」
魔力も自然発生するものではない。自身の魔力が自然に増えているのだろうと考えてはいたが、あの手帳に書かれていた内容を思い返せば“人為的に増やされている”以外にないと思えた。
そう考えれば、今も着実に増えている魔力は元々誰かが持っていたものに違いない。
それに、疑問はそれだけではない。
何故件の研究者は魔力量の多い人間を作り出そうとしていたのか、その目的が定かではない。研究者が信奉していた相手の計画のために、協力しようとしたのだろうことは分かった。しかし問題は、その相手が一体何を計画していたのかということだった。
「場所から考えるに、クラーク公爵家の誰かが関係しているのでしょうけれど」
生憎と呪術に精通していた血縁者の話は耳にしたことがない。エイブラムの名が出されていたことから、それほど過去の話でないだろうことは予想がつく。研究がなされていた時期が、リリアナの亡父が子供の頃だったのか、それとも成人してからだったのかで状況はかなり変わる。
「お父様が関係していたのか、それともお父様も巻き込まれただけだったのか――判然としませんわ」
ただし父と母の間に生まれた子供を実験台にしようとしていたのだから、その計画はかなり長期的なものであることは確かだった。少なくともリリアナが成人するまでは計画を見届けられる自信があったのだろう。
「不老長寿の術でも開発していない限りは、難しいでしょうね」
それならば、研究者が信奉していた相手はエイブラムだったのか。
その可能性が一番高い気はするが、問題はあれほどの技術と能力を持つ魔導士が居たという話を一切聞いたことがない点である。執事のフィリップであれば何か知っているかもしれないが、尋ねたところで怪しまれるだけだろう。答えてくれるとも思えない。
一切思い当たる節もなく、リリアナは疲労に目を閉じる。悩んでいても仕方はない。他にあるだろう研究成果をまとめた手記を探さなければ、と思いながらも、疲れた体をのろのろと動かす。魔術で体を清めて夜着を纏うと、すぐに寝台に潜り込む。
考え込むこともできず、意識は闇に沈んで行った。
*****
王都に入ったオブシディアンは、一旦テンレックと共に彼の隠れ家に向かった。元々の予定では真っ直ぐリリアナに会いに行く予定だったが、今二人の元には助け出した“北の移民”たちと、人身売買に関わっていた傭兵の頭が居る。オブシディアンは“北の移民”はともかく、傭兵の頭への対処をテンレックに任せるつもりはなかった。
何より彼は重要な証人だ。オブシディアンは隣国からリリアナへの土産を持って帰って来ているが、手土産は多い方が良いだろう。
オブシディアンは何も言わず、のんびりと御者台に座るテンレックの隣に陣取っていた。やがて一行は王都の外れにある倉庫街に辿り着く。オブシディアンはテンレックの隠れ家を知っている。記憶にある場所まで辿り着くと、テンレックは無言で倉庫街の奥まった場所にある、光が届かない一際暗い場所へ馬車を乗り付けた。御者台から降りて倉庫の扉を開け、その中に馬車を入れる。道中で目覚めた傭兵の頭はオブシディアンの手で目隠しと猿轡をされたままだ。周囲から聞こえる音だけでは、現在地も分からないだろう。
テンレックの隠れ家は馬車を入れた倉庫の裏手にある。傍から見ただけでは分からないが、隠し通路があるため人目に付くことはない。鼠と呼ばれる男に相応しい隠れ家だとオブシディアンは毎度思うのだが、口にしたことはなかった。
助け出した“北の移民”たちと傭兵の頭をテンレックの隠れ家に押し込んだ後も、オブシディアンはそこから立ち去ろうとしない。ようやくそこでテンレックはオブシディアンを振り返った。
「――おい、死の虫」
「その呼び名やめろって」
オブシディアンは顔を顰めて苦情を言うが、テンレックはあっさりとオブシディアンの文句を無視した。真剣な表情で、どこか緊張を漂わせ告げる。
「助けて貰ったところで悪いが、この件からは手を引け」
「――俺に関わるなってことか?」
目を眇めてオブシディアンはテンレックを見やる。その視線からは一切の感情が削ぎ落され、冷酷な光だけが残っていた。ぞっとするほど純粋な殺気だけが僅かに漏れ出している。裏社会に生きる男たちでもその視線に晒されたら恐怖に震えるところだったが、テンレックは一瞬きつく手を握りしめただけだった。
「そうだ」
「その頼みを聞いてやる義理はねえなあ」
にやりとオブシディアンは嗤ってみせる。テンレックは答えなかった。静かにオブシディアンを見つめている。互いの腹を探るような沈黙の後、オブシディアンから漂う無言の気迫に負けたテンレックは渋々口を開いた。
「お前は今、貴族の子飼いになってるんだろう」
一瞬、オブシディアンは意味を理解できなかった。しかしすぐに目を丸くして、心底驚いたというようにテンレックを凝視する。その表情からは、最強の刺客からは程遠い、年相応の幼さが滲み出ていた。
「――――はあ?」
一体こいつは何を言っているんだ、というようにオブシディアンはまじまじとテンレックを見やった。まさに珍獣を眺める態度だ。オブシディアンの視線に居心地が悪そうにしながらも、テンレックは口をへの字にして苦々しく言った。
「お前も否定しなかったろうが。貴族のガキに良いように使われてるって――分かってんだろ、俺たちみてえな稼業をやってたら貴族との繋がりは極力持ちたくねえもんだ」
一族とは違ってな、と皮肉に唇を歪める。しかし、オブシディアンは反応しなかった。ようやく自分を取り戻して俯くと、ほとほと呆れたように深い溜息を吐く。そして乱暴に頭を掻き顔を上げた。そこには既に驚愕も憤怒も――何の感情もない。先ほどまで僅かに滲んでいた物騒な空気も消滅している。
「何を勘違いしてんのか分かったけどな、俺は別に子飼いになったつもりはねえよ」
「なんだと? 良いように使われてるんじゃねえのかよ」
「俺がそんな人間に見えるか」
途端にテンレックは口を噤む。オブシディアンが唯々諾々と他人に従うような性質でないことは、テンレックも良く知っていた。
だがこの世界には何事も例外がある。苦り切った口調で、テンレックは溜息混じりにぼやいた。
「――お前に限ってはあり得ねえと思ってたけどな、でも一族からの連絡も無視してるんだろ。その貴族に寝返ったのかって思ってもおかしな話じゃねえだろうが」
それも数ヵ月どころの話ではない。オブシディアンが大禍の一族から寄越される連絡を無視している期間は既に数年に上る。どうしても見逃せない連絡には答えるが、それも必要最小限だ。確かにオブシディアンが主を一族から別の存在に変えたと判断されてもおかしな話ではない。
納得できたからといって、オブシディアンはテンレックの言い分を認めるつもりは一切なかった。薄く笑って肩を竦める。
「お前らがどう思ってようがどうでも良いがな、別に俺は寝返ったわけじゃねえよ。今までと何も変わらない。ただ一族よりも面白い相手を見つけたんでね、どうせなら一番近くで見た方が楽しめるってもんだろ」
「――面白い?」
「ああ。よく分かってるだろ、俺は面白い話じゃなきゃ乗らねえよ」
オブシディアンの台詞にテンレックは絶句した。しばらく言葉を失って目の前の少年を凝視していたが、やがて眉間に皺をよせ恐る恐る口を開く。
「貴族が? 面白いのか?」
テンレックの中で――否、テンレックだけではない。裏社会に生きる人間にとって、貴族社会ほど面白くない場所はなかった。皆豪勢に着飾り、御馳走を毎日毎晩のように食い散らかし、領民から吸い上げた税で贅沢の限りを尽くす。男は口を開けば金儲けと狩猟と女の話ばかりで、女は恋愛と音楽、宮廷文学、宝石や衣装の話ばかり。金蔓にはちょうど良いが、貴族社会に参加したいかと問われると答えは否だ。
それにも関わらず、オブシディアンは“面白い”と言う。
一族に属しながらも常に一線を引いて自由を謳歌していたオブシディアンを知るテンレックにとって、彼と貴族社会は正反対の存在だった。だからこそ、オブシディアンが“面白い”と表現することが信じられない。
愕然としているテンレックにどこか気の毒そうな目を向け、オブシディアンは小首を傾げてみせた。その仕草は酷く稚いが、その中身は冷酷非道な刺客だ。
「貴族は別に面白くねえよ。俺が面白いと思った相手は後にも先にもそいつだけだ」
「――誰だ?」
「教えねえよ」
どうやらテンレックは、オブシディアンが貴族と関りがあるということを知ってはいても、相手の具体的な名前は知らないらしい。それどころか、性別や年齢も分からないのだろう。
オブシディアンも敢えてリリアナのことを伝えるつもりはない。うっそりと嗤って、彼は言った。
「とっとと始めようぜ。傭兵の頭、尋問すんだろ?」
オブシディアンが言えば、テンレックは諦めたように溜息を吐いて頷いた。
「そうだ。雇い主を吐かせる。それからどこに運ぶつもりだったのかも――な」
勿論、二人とも裏社会の人間だ。尋問といっても、王立騎士団や各地の騎士たちが行うような生温いものではない。ほぼ間違いなく、捕らえられた男は早く殺してくれと涙ながらに訴えるはずだ。
「――この世界には、死ぬより辛い思いをすることがあるんだってことを叩きこんでやる」
テンレックは低く呟いた。その横顔を一瞥したオブシディアンは無言で肩を竦める。
これまでは知る機会もなかったが、テンレックは酷く同胞想いらしい。他人に対してはある程度距離を置き決して親しい相手を作って来なかったから、てっきり人に興味がないのだとオブシディアンは思っていた。しかしどうやら考えを改めなければならないようだ。
「その前に、ちゃんと情報は全部引き出してくれよ」
念のため、オブシディアンはテンレックに言った。すると、一瞬物騒な色を消したテンレックは小さく頷く。
「分かってる」
「それなら良い」
オブシディアンの目的は、傭兵から必要な情報を聞き出すことだ。その後のことはどうでも良い。もしテンレックや捕らわれていたペッテルが復讐をしたいと望むのであれば、止めるつもりはなかった。
二人は先ほど傭兵の頭を連れ込んだ一室の前に立つ。分厚い壁と扉に阻まれ、中の音は一切聞こえない。そのまま中に入るのかと思いきや、テンレックは取っ手に手を掛ける前にオブシディアンを振り返った。その顔には、先ほどまで浮かんでいた苦しいほどの憎悪は見られなかった。
「忘れる前に言っておく」
「ん?」
一体なんだ、とオブシディアンはテンレックを見返した。真剣な目がオブシディアンを見つめている。無言で先を促すと、テンレックは淡々と告げた。
「一族のことだ。ずっと本家と分家は争っていたが、つい昨日分家の長が死んだ。馬から落ちたってことにはなってるが、本家が差し向けた刺客に殺されたらしい」
「へえ」
オブシディアンは気のない様子で言葉を返す。しかしテンレックの話はそこで終わらなかった。
「つまり、長年の対立が解消されたってことだ。そこで本家は――分家の長が死んだことを皮切りに、裏切り者を粛清すると布告した」
裏切り者――それは、組織から抜け出し姿を消した者。
大禍の一族から抜け出た者は殆ど居ない。一族以外の場所で生きるという意思すら持たせないよう、彼らは刺客たちを教育して来た。だが何事にも例外はある。一族の指示に従い暗殺稼業を続け外の世界に触れるうち、一族から抜け出そうと考える者もごく稀に居る。しかし、彼らは足抜けしようという素振りを見せた瞬間、この世界から消えた。
そうすることで、一族はその実体を隠して来た。
一族が巨大になり本家と分家に分かれた後も、その体質は変わらない。刺客たちも本家に属するか分家に属するかという違いだけで、本質は全く同じだ。
「裏切り者っていうと、分家に属してた奴ってことか?」
「それもあるが、まだ彼らには猶予が与えられた」
即ち、本家に忠誠を誓うのであれば、しばらくの猶予を持って処罰を決定するということだ。数年の間に離反する様子がなければ、再び一族の正式な仲間として迎え入れられる。ただし猶予期間は正式な仲間として認められない。その間の冷遇に耐えられるだけの精神力は必要だろう。
テンレックの説明に納得したオブシディアンだったが、テンレックは目を細めて言葉を続けた。
「だが、猶予を与えられなかった者がいる」
「ふうん?」
そいつは気の毒なことだな、とオブシディアンは頷いた。猶予がないということは、即座に刺客が差し向けられるということだ。この場合、迅速かつ確実に処分するため、一族の中でも最高峰の者が任務に就く。
他人事のように話を聞いているオブシディアンに、テンレックはどこか憐れむような視線を向けた。
「お前だ、死の虫」
「――俺?」
オブシディアンは目を瞬かせる。意外そうな表情ではなかった。どちらかというと「何故そんな愚かなことを」とでも言いたげな表情だ。しかし、対するテンレックは苦々しい表情を浮かべている。
「俺にも要請は来たが、俺はまだ死にたくねえからな。お前の居場所が分かれば伝えるとは言っておいたが、本来それは一族がやる仕事だろ」
テンレックは情報屋だ。だから一族にも深く関わりはあるが、あくまでも取引相手であって一族の人間ではない。それ故の妥協点だったのだろう。
「だから、俺は知らぬ存ぜぬで通す。だが、一族はお前の居場所が分かり次第、選りすぐりの刺客を複数送りつけてくるだろう。精々気を付けろよ、お前一人なら大丈夫だろうが」
一応教えておいてやる、とテンレックはぶっきら棒に言う。
どうやら彼は、オブシディアンが“貴族のガキ”と関わっていると聞いて、その貴族にも被害が及ぶ可能性を懸念しているのだろう。貴族は気に入らないが、見殺しにする気もないらしい。もしかしたらオブシディアンが気に病むと考えているのかもしれない――と考えて、オブシディアンはそっと首を振った。
テンレックはそんな殊勝な男ではない。
大方、テンレックが事前に情報を掴んでいたと後から知ったオブシディアンが、テンレックに報復しないようにするためだろう。つまり保身だ。
オブシディアンが浮かべた余裕の笑みを見て、テンレックは眉根を寄せる。胡乱な視線を受けて、オブシディアンは更に口角を吊り上げた。
「まあ、気にすることはねえさ」
その気軽な口調に、テンレックは更に訝し気な表情になる。
オブシディアンの本心をテンレックが知ることはないだろう。仮にテンレックの仕事相手がリリアナ・アレクサンドラ・クラークだと知れば、更に困惑が深まるに違いない。
だがリリアナを良く知るオブシディアンにとっては、テンレックの懸念はあまりにも見当外れだった。
「大事な手駒が消えて困るのは一族だろうよ」
リリアナが、たかが刺客数人に殺されるような人間でないことはオブシディアンが良く知っている。何より彼女はオブシディアンと相対し、翻弄するような少女だ。初めて出会った日から月日は流れ、その魔術の能力は格段に上がっている。儚い見た目に騙された刺客が強かに反撃される未来しか想像できない。
あんな化け物じみたお嬢相手に刺客差し向けるとか、自ら処刑台に立つようなもんじゃねえの、とオブシディアンは思うが、賢明にも口には出さなかった。
本気で困るわけでも怒るわけでもなく、複雑な表情で口を噤んだオブシディアンを見てテンレックは首をひねる。オブシディアンは一瞬苦笑した後で、何事もなかったかのようにあっさりと告げた。
「どうでも良いけど時間が勿体ねえ。さっさと始めようぜ」
そして扉に手を掛ける。開いた先、暗い部屋の中には床に転がされた傭兵の頭が居た。
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