34. 身に刻まれた呪い 5
夕刻をすぎ、眠る時間になってもアジュライトはリリアナの元を訪れなかった。ぎりぎりまで待とうと考えて起きていたリリアナは、諦めの溜息を吐いた。
「仕方ありませんわね」
今日できることを明日に延ばす道理もない。既に夜着に着替えてはいるものの、魔術を使えば簡単に着替えられる。あっという間に外出着を身に纏ったリリアナは、無詠唱で目的地に転移した。
既に何度か足を運んでいる湖近くの森は、夜になると不気味な雰囲気に包まれる。月光も入らない森の中は自分の手足さえも闇に溶け込んでいるようで、普通であればその恐ろしさに震え身動き一つ取れなくなるだろう。
だが、リリアナは慣れたように周囲を魔術で照らした。そして危なげのない足取りで、ゆっくりと小屋に近づいて行く。
以前アジュライトが発見した小屋は、誰かの目に付かないようリリアナが魔術で再度姿を隠した。既に掛けられていた魔術を補強したのではなく、リリアナがその上から覆うように新しい術を掛けている。そのため、リリアナやアジュライト以外は足を踏み入れることも難しい。ただし、小屋に元々掛けられていた魔術と親和性のある魔力を持った人間はリリアナの掛けた術に気が付かないよう細工を施していた。
「さて、始めましょうか」
リリアナは僅かに口角を上げて呟く。
彼女が組み立てた解術用の魔術は相当な魔力を消費する。一般的な魔導士であれば、自分の魔力だけでは足りないと判断して魔導石を用意するところだ。しかしリリアナは一切魔道具を用意していなかった。むしろ、体内に増えているという魔力を放出する良い機会だ。
全身に循環する魔力を意識し、練り上げるような感覚で体外に放出する。ゆらりとリリアナの長い銀髪が広がり、月のような光を放ち始める。ゆらりと全身から光が泡立てば、リリアナの眼下に半ば解術されかけている陣が現れた。
「【我が名に於いて命じる、汝の真なる姿を示せ】」
途端に、小屋全体に光が満ちた。空気の流れもないはずの室内に、風が巻き起こる。リリアナの髪も纏っている服も、全てが大きく靡いた。
リリアナは左手を翳して魔力を掌に収束させていく。陣から放出される魔力と流れ込んでいく魔力の動きを調節しながら、自らが編み出した術式を陣に重ね合わせ、変形させていく。リリアナの作った術式に合わせた姿へと形を変えていく陣は、やがて与えられていた役割を放棄した。
巨大で強力な陣に隠されていたものが、その姿を現わしていく。
全ての光が失われ、純粋に周囲を照らし出す灯りだけが残った。
リリアナは、眼前に広がる光景に息を飲む。
「――――見つけたわ」
恐らく、数あるうちの一つには違いない。しかし、確かにそれはリリアナがこの三年間探し続けて来たもの――隠し部屋だった。場所から考えても、クラーク公爵家のものには違いない。
しかし、あまり使われていないのか床には埃が溜まっていた。
眼前に広がる、王宮にある王太子の執務室より広いのではないかと思えるほどの書斎。小屋の外見からは想像もつかないほど豪奢な部屋は、壁に沿って天井まで届く書架が設えられてある。
王宮図書館やクラーク公爵家が保有している図書館よりも、はるかに多くの書物が保管されていた。書物だけではない。よく見れば、一画には所狭しと魔道具が置かれ、床には魔術陣か呪術陣が描かれた布が積まれている。
ある種異様な雰囲気に、自然とリリアナは息を飲んだ。
「隠し部屋――でしょうけれど、隠し部屋と呼ぶには随分と立派ですわね」
思わず呟きながら、リリアナは室内に足を踏み入れた。事前に罠がないか魔術で確認することは忘れない。リリアナは一番近くにある書架に置かれた書物の背表紙を確認していく。並べられている書物は大部分が異国のものだった。近年になっても使われている言語もあれば、既に過去の遺物となった古語もある。ただし最近でも使われている言語であっても、古い文体であるものばかりだ。普通であれば読むのに苦労する書物ばかりだが、題号程度であればそれほど苦労することもなく理解できる。
そして、ざっと書物の内容を確認していったリリアナの表情は徐々に強張って行った。
「――何故、」
――――何故、こんな書物ばかりが保管されているのか。
口内が渇いて仕方がない。心臓がどきどきと脈打っているのが分かる。無意識に唾を飲み込み、リリアナはゆっくりと部屋の奥へと足を勧めた。足を進めるにつれて、嫌な予感が膨らんでいく。
突き当りまで辿り着いた時、足を止めたリリアナは纏められた魔道具と床に積まれた布の束を見る。手を触れることは躊躇われた。最悪の場合はリリアナの身に悪影響が出かねない。
しかし、手を触れなければ全ての布を検分することはできない。それでも、一番上に置かれている布だけでも十分リリアナにはその異様さが分かった。
「これは――東方古代呪術陣――ですわね」
気が付けば、リリアナの手は小刻みに震えていた。
当然、リリアナも実物を目にするのは初めてだ。書物でも読んだことはない。しかし、基本的な形状は東方呪術として一般に流通している書物に紹介されていたものと同じだ。ただ使われている文字が東方の地域で古代に使われていたものであり、そして術式が更に難解になっている。
古代文字を読めば、詳細は分からずとも凡そどのような用途で組まれた陣かは想像がつく。
「復活の呪文――」
神に祈る、故人を蘇らせるための呪法だ。
書架に並んでいた書物は全て希少なものばかりだった。既に存在していないと考えられていたものさえ保管されている。勿論、原本ではない。恐らく写本だろう。それは全て、スリベグランディア王国は勿論、ユナティアン皇国でも殆ど知られていない東方呪術に関するものだった。魔術に関するものもあるが、ごく一部だ。その上、既に失われた古代呪術から近代のものまで幅広く取りそろえられていた。
そして一番の問題は、その殆どが禁書に該当するものだということである。
勿論、禁書とはいっても危険性に差はある。
一番危険性が低い禁書は、厳重に管理されるものの焚書の対象にはならない。その多くは闇魔術――ペトラ曰く正確には黒魔術だが――に繋がる可能性が否定できないとされる魔術や呪術であり、禁術を記載している書物と定義されている。スリベグランディア王国では呪術の大半が禁術に該当する。そのため呪術を扱いたければ、黒魔術ではないことを証明する必要がある。多くの場合は闇属性以外の魔術の術式を組みこむことで禁術指定から逃れられる。
他方、特定の禁術はその存在を匂わせただけでも処罰の対象になる。そのような禁術が書かれた書物は焚書となり、存在自体が駆逐されるのだ。その禁術は黒魔術そのものだ。
――術を実行するために、多くの犠牲を必要とするもの。
――――術を実行した結果、多くの犠牲に繋がるもの。
それは人や生物を作り出すものであったり、時間や空間を大きく変質させるものであったりする。父がリリアナに使おうとしていた“隷属の呪い”も当然、最も危険とされる禁術の一つだった。
「ここが見つかれば――お父様は勿論、わたくしもお兄様も無事では済まなかったでしょうね」
今でもこの場所が公になれば、リリアナやクライドは処刑される可能性が高い。やはり小屋自体に隠匿の術を掛け直しておいて良かったと、リリアナは安堵の息を吐く。しかしそれでも緊張は解けなかった。
問題は、何故これほど禁術に関する書物ばかりが集められているのか、という点だった。魔道具や呪術陣も詳しくは確認できていないが、今でも実用に耐え得るものであるように見える。実際に効果が期待できるかは使ってみなければ分からないが、さすがのリリアナも試してみる勇気はなかった。
「何かないかしら」
リリアナはどこか焦燥を覚えながら、部屋の一角に置かれている机に触れた。引き出しを開けて中を探る。物を動かすだけで埃が舞うが、不思議と虫はいない。魔術で虫よけの対策が取られているらしい。
机の中には、書物や魔道具は殆どしまわれていなかった。この小屋に出入りしていた人物の手記が大量に残されている。
簡単に開く引き出しには東方呪術や東方魔術に関する研究資料が乱雑に詰め込まれていたが、一瞥した限りではそれほど危険性が高いものには思えない。ただ、興味深い内容であることは確かだった。
「――駄目だわ、没頭してしまったら抜け出たことがマリアンヌに気付かれてしまうではないの」
ふと気を抜けば研究資料をじっくりと読みそうになっていて、リリアナは慌てて資料を元に戻す。必要であれば後で内容を魔術で複製し、持ち帰れば良いだけの話だ。
興味深い研究内容を見かければ、どうしてもそれに気を取られてしまい手を止める、という悪循環に陥りながらも、リリアナは出来る限り速やかに机の中を探していた。机自体もそれなりに大きいが、術が掛けられているせいか見た目よりも遥かに多くの書類が保管されている。
「あら――?」
そして、とうとうリリアナは一つの引っかかりを見つけた。しゃがみ込んで机の下を覗き込む。魔術を使って照らせば、薄っすらと魔力の気配がした。
「隠し扉がここにもありますわね」
どうやらこの小屋を作った人物は魔術や呪術で物を隠すことが好きだったらしい。探せば他にも隠し部屋や隠し通路があるかもしれないと思いながらも、リリアナは目の前の隠し扉に取り組むことにした。
幸いにも、机に仕掛けられた小さな隠し扉は小屋自体に掛けられたものより遥かに簡易だった。多少時間はかかったものの、リリアナはその隠し扉を解術する。
魔力が感じ取られた場所に現われたのは、解術するまでは視認すらできなかった引き出しだった。緊張しながらも、リリアナはゆっくりと引き出しを開ける。そこには黒い装丁の手帳が収まっていた。かなり古びているが、使い込まれた形跡がある。持ち主は何度も何度もその手帳を開き、物を書いては読み返していたのだろう。
そっとリリアナは手を伸ばして手帳を手に取る。他には何も入っていないことを確認すると、彼女は机の下から這い出て椅子に腰かけた。埃で汚れた服は魔術を使って綺麗に整え、黒い手帳を解析する。
手帳が隠されていた場所には術が施されていたが、手帳自体には何の術も掛かっていなかった。
「ここまで徹底的に隠していたら、手帳が見つかる可能性も低いと考えていらしたでしょう」
この小屋の持ち主が一体誰だったのか、リリアナにはまだ分からない。少なくとも、亡父でないことは確かだろう、と彼女は首を傾げた。研究資料の文字は、リリアナも見た覚えのないものだった。癖があまりにも強く、読むのに多少骨が折れそうではあるが、規則性があるため慣れれば問題ない。亡父の文字は豪快だったが読み辛くはなかった。
それならばリリアナが産まれる前に亡くなったという叔父かとも思ったが、叔父が魔導士だったという話は聞いたことがない。彼は書物を収集することは確かに好きだったが、呪術や魔術の研究者でもなかったはずだ。
一番あり得る可能性は父か叔父が研究者を雇ったということだろう。
リリアナは高揚と緊張とが綯い交ぜになった表情を浮かべ、手帳の一ページ目を開く。そこに書いてあった文章を一瞥した瞬間、リリアナは息を飲んで目を見開いた。
『我が魂の主に、我が研究成果の全てを捧ぎ、この世の全てを主へと奉ず。我が呪術研究が礎となるであろう我が主の未来に幸多からんことを』
そのような文言から始まった、誓いの言葉。
――――――それは。
『研究番号其の三。
人の魔力増幅と魂および体の質あるいは量の関係性について』
間違いなく、禁術の一つ――歴史の闇に葬られた、過去の遺物だった。
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