挿話4 クライド・ベニート・クラークの懺悔
僕は妹の部屋から出ると、重い足取りで自室に向かった。妹――リリアナ・アレクサンドラ・クラークに会ったのは本当に久しぶりだった。リリアナが四歳で本格的に王太子妃教育を受けるようになった時、彼女は王都近郊の屋敷に引越した。そう聞いたとき、僕はほっとしたのを覚えている。僕が妹を嫌いだったとか、そういう理由ではない。
『あんな子、生まれてこなければよかったのに』
『あたくしの子供は貴方だけなのよ、クライド』
毒のように、ずっと耳元で囁かれ続ける母上の言葉。四歳になって弟か妹が生まれると聞いた時、母上はとても嬉しそうだった。僕が二歳になった時に生まれた弟は一歳にならずに死んだから、不安はあったようだが、それ以上に期待が大きいようだった。僕も、そんな母上を見て一層楽しみになった。
――貴方はお兄さんになるのよ、クライド。貴方がお兄さんなんだから、可愛がって守ってあげてね、きっと貴方と同じ良い子になるわ――。
しかし、リリアナが生まれて母上は変わった。段々と母上は憂鬱そうな顔になって、そしていつしかリリアナの名を耳にすることすら厭うようになった。リリアナの顔を見れば、悪し様に罵る。名前を聞けば癇癪を起こす。
絶えず流される毒が妹にまで及んでいるようで、僕は気が気ではなかった。
リリアナは聡い子供だった。五歳年上の僕が驚くほど、理知的な子だった。後から出会った他家の子供の話を聞く限り、僕の妹は早熟で理性的だった。母上に嫌われているからか、規律と規範を重んじ決してそこから逸脱しようとはしなかった。
そうしてもなお、リリアナは母上に受け入れては貰えない。
『あんな汚らしい髪、視界に入るのもおぞましい』
『薄緑のあの目に見られただけで、あぁもう、恐ろしくて死んでしまいそう』
『クライド、あの子に会っては駄目よ。あの子はあたくしたちにとって不幸の根源なのだから――』
僕は何度かリリアナに会いに行こうとしたが、母上に阻まれた。使用人たちは皆、母上の手先だ。領地から王都近郊の屋敷まで一人で行くには、僕はあまりにも幼かった。
毎年の誕生日プレゼントだけは、手ずから選びたかった。それができたのは最初の一度だけで、その後は毎年使用人に選ばせるようにと、僕の魂胆に気が付いた母上に言われた。
リリアナにとっての毒は、母上だけではなかった。父上もまた、家庭に興味を持たない人だった。僕は勿論、王太子の婚約者候補となったリリアナにも過分なほどの期待を寄せる。父上の期待に応えられなかった使用人たちが次々と屋敷から消えていくのを間近で見て来たリリアナは勿論、僕でも父上とは話すことさえ難しい。腹を空かせた獅子の前に出て行く気持ちにすらなる。
母上がリリアナの部屋を使用人部屋に移すと決めたのは、リリアナが屋敷を出た半年ほど後のことだった。リリアナの居場所を作る気などないのだと、その時に分かった。
父上からも母上からも、厭われ遠ざけられるリリアナ――彼女の居場所は今や、王都郊外にある屋敷にしかない。
対する僕は、母上からは愛され領地の屋敷にも部屋が残り、そして視察に行けば祖父母にも会える。公爵家の嫡男として領地経営や王宮での業務を学び、人脈を作るために王都へも足を運ぶこととなった時には、王都中心部にある屋敷で父と会うこともあった。父上は厳格な人だが、頭は良い。僕も学ぶことはとても多い。
リリアナに与えられた部屋は、僕が滅多に立ち寄らない王都の屋敷の部屋よりも簡素で、物がなかった。
――――愛されている僕と、愛されていない妹。
何もしてやれていない自身の不甲斐なさと無力さに、歯を食い縛ることしかできない。
脳裏にふと、王都で知り合った友の声が蘇る。三大公爵家の嫡男として、下手な相手とは付き合えない。父上の紹介で出会った“友人”は皆、名の知れた公爵家か侯爵家の嫡男ばかりだった。勿論、庶子は含まれない。その内の一人、エアルドレッド公爵家の次男はリリアナのことを知っていた。
『なぁクライド。お前の妹――まだ声が出ないんだろう?』
僕は言葉を失い、次いで顔が熱くなるのを感じた。
――リリアナが? 流行り病に倒れ、高熱から冷めたら声を失っていた?
初耳だった。婚約者であるライリー殿下が知っているのは当然にしても、全く関係のない公爵家嫡男が知っているとはどういうことだ。しかも彼は、僕よりも年下だ。
――僕は知らされていなかった。
母上はともかく、父上はご存知だったはずなのに――そして、僕はリリアナの声が失われてからも父上には会っていた。公爵家の跡継ぎとしてもリリアナの兄としても、僕は失格だということなのか――どれほど頑張っても父上には認められず、母上の心を取り戻すこともできず、唯一の妹さえも守る資格がないということなのか。
動揺を必死で押し隠す僕に、少年は剣の訓練で流れる汗を拭いながらも、真剣な表情で続けた。
『もし長引くようなら、魔導士に見て貰った方が良いんじゃないか』
その言葉に心臓が引きちぎられるかと思った。真剣な面持ちの少年が、何を示唆しているのか分からないほど愚かではない。リリアナが声を失った原因は呪いではないかと、彼はそう言っているのだ。
呪術によって声を奪われたのなら、医師では治せない。魔導士に解呪させなければ、リリアナの声は二度と取り戻せない。
悔しさと苛立ちと、生まれて初めて抱く混乱した感情に動揺しながらも、僕は算段を立てた。
僕の披露宴で、リリアナと久しぶりに会える。その時に、魔導士を紹介するのはどうか。
父上がリリアナの元に魔導士を派遣していないことはフィリップに確認した。後はリリアナが不安にならないよう、呪術のことは伏せて提案する他ない。まだ六歳の妹はきっと、声が出ないのは呪術のせいだと知れば怖がってしまうから。
そう思ったのに、僕は兄としても足らなかったようだ。妹は穏やかな笑みを浮かべたまま、魔導士は要らないと首を振った。その様子に説得の言葉を重ねることもできず、僕はリリアナの部屋から退散した。
あまりにもみっともない。対外的な一人称を「僕」から「私」に変えたところで、張りぼてが突如猛禽類になれるわけもない。たった一人に忠誠を誓うべしとする我が公爵家嫡男に代々伝わる誓いさえ、立てたところで全うできるわけがない。これで三大公爵家であるクラーク公爵家の跡継ぎなどと、笑わせる。父上に認められないのも当然だ。
気が付けば、僕は深く溜息を吐いていた。
きっと、会えずにいる間にリリアナの声も変わっただろう。僕の耳に残る彼女の言葉は鳥のさえずりのように可愛らしかった。
どうにかして、彼女を守りたい。そう思うのに、僕にできることは何一つ思い浮かばず、途方に暮れるしかなかった。