31. 乙女遊戯 10
少し迷いはしたものの、ベラスタは無事にペトラが居るという研究室に到着した。扉を叩いて来たことを告げると、少しして中から扉が開けられる。事前に訪問を告げていなかったため、ペトラはベラスタを見ると驚いたように目を瞠った。
「ベラスタ、こんなところで何してるの?」
「届け物。と、ちょっと聞きたいことがあってさ。入って良い?」
ベラスタの言葉を聞いたペトラはわざとらしく溜息を吐く。しかしここで追い返すのも今更だと思ったらしく、無言で扉を大きく開きベラスタを招き入れてくれた。
ベラスタにとっては初めての場所だ。ペトラの研究室は書物や魔道具で散らかっているように見える。だがペトラの性格を考えると、恐らく彼女の中では整理整頓されているのだろうとベラスタは考えた。
「雑用ばっかり押し付けられてるって言ってたけど、ちゃんと研究室貰ってるんだね」
「この部屋にあたしの物はほとんどないけどね」
ペトラは肩を竦めてあっさりと答える。ベラスタは目を丸くした。
「そうなの?」
「そう。くだらない魔道具の修理と古い書物の修繕が基本的なあたしの仕事だから」
どうやら雑用ばかり押し付けられているという話は本当らしい。しかしペトラ・ミューリュライネンの才能はスリベグランディア王国の中でも一、二を争うほどだ。魔術に関しても造詣は深いが、特に呪術に関しては第一人者といっても差し支えないほどである。
だからこそベラスタはほとほと呆れたように空を仰いだ。
「うわあ、才能の無駄遣い」
「誉め言葉として受け取っておくわ」
「もしくは上が馬鹿」
「こら」
歯に衣着せぬ物言いをしたベラスタの頭をペトラは叩く。失礼なことを言ったからという理由ではなく、今二人がいる場所が魔導省だからだった。
「一応防音の結界は張ってるけど、どこで誰が聞いてるのか分かったもんじゃないんだから。不用意なこと言ったら首が飛ぶよ」
「それは物理的に?」
「他にどういう意味がある?」
ペトラは呆れ顔だ。ベラスタは魔導省に勤めていないのだから、解雇できるわけがない。そう考えると残る選択肢はただ一つである。ベラスタは「うへえ」と顔を歪めてわざとらしく自分の首を擦る。ペトラは半眼のままベラスタの持っている袋を半ばひったくるようにして受け取った。
「ベンから?」
「そうそう、急ぎじゃないらしいんだけど俺がペトラに訊きたい話があるっていったら言付けてくれた」
袋から取り出した書類は“立太子の儀”に関する報告書だった。王太子が刺客に狙われる回数が増えたため、今回の式典は近衛騎士だけでなく魔導省から派遣された魔導士が魔術や呪術の有無を確認している。
元々ベン・ドラコは派遣一覧には入っていなかった。だが魔導省は実質バーグソン長官の支配下にある。バーグソンが大公派に与しライリーを暗殺しないとも限らない。
そのため、ライリーが手を回してベン・ドラコは一般客として参加できるように整えた。名目は魔導士の名門ドラコ家と王家の繋がりを作るべく、ライリーと同年代のベラスタとタニアを茶会に参加させることだった。しかし実際は、派遣された魔導士たちを秘密裏に監視する役目も兼ねている。恐らく派遣された魔導士の内、バーグソン長官におもねっている者たちにとっては煩わしいことこの上ない存在だっただろう。その様子を想像したペトラは小さく笑みを零す。
ベラスタは研究室に山積みにされている壊れた魔道具を興味津々に眺めていたが、ペトラが報告書を机に置くとようやく意識を魔道具から引き離した。
「それで?」
ペトラは椅子に腰かけると腕を組んでベラスタを見やった。少年の目的が報告書を渡すことだけでないことは、本人の口からも告げられた通りだ。ベラスタは頷くと、ペトラに勧められるがままもう一脚の椅子に腰を下ろす。そして周囲を慮るように声を潜めた。
「あのさ、前に俺とタニアとペトラで魔物襲撃の現場に居合わせたじゃん」
魔物襲撃――と言われて、ペトラは眉根を寄せる。彼女は幾度となく魔物襲撃には出くわしているし、制圧したこともある。
しかしタニアとベラスタがペトラと一緒に居た魔物襲撃はたった一度しかない。五年前に開催された王太子の生誕祭で起こった史上最大規模の魔物襲撃だ。王都近郊で発生したこともあり、五年経った今でも人々の記憶に新しい。
ペトラはベンやリリアナと共に作成した魔術陣を使って魔物襲撃を浄化しようとしたが、タニアとベラスタを守りながら魔物と戦いつつ、魔術陣を所定の場所に置くため転移を繰り返すのは無理だった。間違いなく、一つ間違えればペトラだけでなくタニアやベラスタも命を落としていたに違いない。
ペトラが頷いたのを見て、ベラスタは僅かに身を乗り出した。
「その時に俺たちを助けてくれた魔導士が一体誰だったか、ペトラは知ってるのかなと思って」
「何で今更?」
ベラスタの言葉に、ペトラは直ぐには答えなかった。胡乱な目をベラスタに向けて尋ねる。
あの時、ペトラは意識を失い倒れた。魔力も殆ど使い果たし、瘴気で痛めつけられた体はなかなか回復しなかった。助けに入ってくれた人物のお陰で後遺症もなく回復したが、その当時ベラスタもタニアも助けてくれた魔導士の出自をペトラに尋ねたりはしなかった。精々「格好良かった」「凄かった」とはしゃぎ、その魔導士が使った魔術を模倣しようと挑戦した程度だ。
勿論ペトラは自分たちを助けてくれた人物を知っている。他ならぬリリアナ・アレクサンドラ・クラークだ。しかし彼女はローブで顔を隠していたし、あれほどの術が使えると知られたくないと考えていることもペトラは知っている。だから誰にも謎の魔導士の正体は明かさないと心に決めていた。恐らくベンもリリアナがペトラたちを助けたと勘付いているだろうが、彼もまた心に秘して黙している。
ベラスタはペトラの言葉に違和感は覚えなかったようで、真剣な面差しで「実は」と言った。重大な秘密を打ち明けるのだとでも言いたげな迫力に、ペトラは頬の内側を噛んで笑いを堪えた。
「今日“立太子の儀”の茶会に参加したんだけど、そこで似たような魔力を感じたんだよ。でも完全には同じじゃない気がして、でも五年前だし俺も小さかったから記憶違いかもしれないと思ったんだ」
「似たような魔力? 一体誰の魔力と似てたの?」
嫌な予感がしたペトラは、目を細めてベラスタの表情を注視する。観察されていることに気が付かないまま、ベラスタは更に前のめりになって声を低めた。
「クラーク公爵令嬢だよ」
「お嬢サマの魔力が、似てたの?」
五年前の魔物襲撃の時、ベラスタはまだ七歳だった。だから記憶もはっきりとは残っていない。それに当時は、助けてくれた魔導士もローブを被っていたし、一体誰なのか分かるとは全く思ってもいなかった。
「うん、かなり似てた気がする。でも同じかどうかって言われると自信がないんだよな。だけど、あの時ペトラはもうクラーク公爵令嬢とは知り合いだっただろ? だからもし本人なら、あの時に気が付かなかったはずないと思ったんだ」
それでどうなの、と目を煌めかせてベラスタはペトラの顔を覗き込む。ペトラは表情を変えることはなかったが、内心では面倒なことになったと頭を抱えていた。
間違いなく、あの日ペトラたちを助けてくれたのはリリアナだ。だがそれを正直にベラスタに打ち明けるかと問われれば、答えは否である。もしベラスタが彼の魔導士の正体を知れば、間違いなく魔術を教えてくれと本人に突撃する。だがそれはリリアナの本意ではないだろう。
「残念だけど、あの時はあたしも意識が朦朧としてたからね。それに相手はローブを着てたし、ちゃんと顔も見てないから分からないよ」
ペトラはそれほど悩むこともなく、しらばっくれることにした。少なくとも意識が朦朧としていたのも、相手がローブを着て顔を隠していたことも本当だ。ただペトラはあの時あの場に転移できる人物と使っている魔術の独特さ、そして魔力の質からリリアナだと知っただけである。
幸いにもベラスタはペトラの言葉を信じた様子だった。がっかりと肩を落としている。
「そっかあ。もしあの魔導士がクラーク公爵令嬢だったら、色々と訊きたいことがあったのに……」
「たとえば?」
薄々ベラスタが何を訊こうと思っていたのか予想は付いたが、ペトラは敢えて尋ねた。するとベラスタは弾かれたように顔を上げる。落ち込んでいたとは思えないほど顔を輝かしていた。
「そりゃ決まってるだろ! あの時、魔物をどうやって氷漬けにしたか訊きたいんだよ。あの術を改良すれば物質だけじゃなくて、特定の空間だけ時間を止めることも理論上は可能だし――――って、いや、分かってるって。禁術だろ? 大丈夫やらないから」
意気揚々と語り出したベラスタだったが“特定の空間だけ時間を止める”という言葉を口にした途端ペトラの目が鋭くなったのを見て、慌てて前言を撤回した。
ペトラはわざとらしく溜息を吐く。
どうもベラスタは不用意な発言をする癖がある。まだ十二歳と幼いせいだとは思うが、ペトラの身近にはリリアナという例があるため比較してしまいがちだ。リリアナの方が例外的なのだと改めて自分に言い聞かせ、ペトラは滾々とベラスタに言い聞かせた。
「ベラスタ。あんたはもう少し考えてから物を言うようにしな。そうじゃないと本当に頭が胴体から離れることになるよ。あんただけじゃなくて、最悪の場合は家族も巻き込むことになる」
「分かってるよ」
「分かってるように見えないから言ってるんだ。あんた、ついさっきこの部屋に入ってから何回まずいことを言ったと思ってんの?」
ペトラの言葉にベラスタは唇を尖らせて黙り込んだ。ペトラの指摘は真っ当だ。ベラスタも言ってから“まずかったかな”と思うこともある。しかし魔術や呪術のこととなると、興味関心が先走って不用意な発言をしてしまう。茶会の時も、初対面にも関わらずエミリア・ネイビーの魔力に関して言及してしまった。ベンに窘められて咄嗟に反発したものの、確かに自分が悪かったとは思ったのだ。
「――分かった。ごめん、気を付ける」
「口を開く前に、一回考えるようにしてみな」
ただ叱るだけでなく、ペトラは助言を与えた。素直に聞き入れるのが難しいのかベラスタはむくれたままそっぽを向いていたが、小さく頷いた。それを見てペトラはこれ以上叱るのは止めることにする。しかしベラスタには気付かれないよう、ベンとポールには知らせておこうと心に書き留めた。
「それで、話はそれだけ?」
一応、ペトラはまだ仕事中だ。他に用がないのであればベン・ドラコの私邸に戻れと言外に告げたが、ベラスタは少し気まずそうに「あともう一つだけ」と言った。
「ここに来る途中に呪術陣見かけたんだけど、あれなに?」
「呪術陣?」
一体何の話をしているのかとペトラは眉根を寄せる。ベラスタは不思議そうに目を瞬かせたが、自分が魔導省の中を歩いている最中に見かけた様々な魔術陣について説明した。
「だから、魔導省の中には魔術陣しかないのは呪術が嫌われてるからなんだって思ったんだ。だけど、一つだけ外廊下の壁のところに呪術陣があったから驚いたんだよ。かなり複雑だったから、呪術に詳しい人じゃないとただの飾りに見えるとは思うんだけど」
ベラスタの得意分野は魔術であって呪術ではない。無能な魔導士と比べると呪術に関する知識は豊富だが、自信はあまりないのだろう。自信のなさを裏打ちするように、声が徐々に小さくなっている。
ペトラは眉根を寄せると低く尋ねた。
「どこの壁?」
「えっと――」
ペトラの反応が予想外だったのか、ベラスタは目を丸くして瞬いた。少し考えながらも具体的にどの場所にあったのか伝える。真剣にベラスタの説明を聞いていたペトラは「分かった」と頷くと、ベラスタにさっさと帰るように言った。
「ええ、もう?」
「忘れてるみたいだけど、あたしは仕事中なんだ。それから、魔導省の中で目にしたことは口が裂けても言うんじゃないよ」
「え、なんで」
厳しい言葉にベラスタは目を白黒させる。しかしペトラの表情は険しいままベラスタに向けられていた。
「なんで、じゃない。あんたが口にしたが最後、あんたもあたしもベンもタダじゃ済まないかもしれないって言ってるの」
「どういうこと?」
「あんたが知って良いことじゃない」
ベラスタは首を傾げるが、ペトラは教えようとはしなかった。にべもなく突き放されて不服そうな様子のベラスタに、ペトラは溜息を吐く。
「あんたがその軽い口を噤めるようになったら、教えてあげる」
「ちゃんと黙ってるよ」
「言葉だけじゃなく行動で示すんだね」
さすがにベラスタも、これ以上粘ったところでペトラが教えてくれることはないと悟ったらしい。やれやれ、と言わんばかりに肩を竦めて首を振ると椅子から立ち上がった。
「分かった。大人しく帰る」
「寄り道するんじゃないよ」
ペトラも立ち上がって扉を開けてやると、ベラスタは素直に返事をした。
「はあい」
そしてそのまま研究室から出て行く。ペトラは少し考えて、ベラスタの後ろから部屋を出た。ベラスタは驚いたようにペトラを見上げた。
「どうしたんだよ?」
「あんたが出て行くところまで見送ってあげる。有難く思いな」
つまり魔導省の門まで見送る、とペトラは言ってるのだ。子供扱いされたような気がしたのか、ベラスタは口をへの字に曲げた。
「一人で戻れる。そんなに複雑じゃなかったし」
「来る時は知らせがなかったから一人だったけど、客人は見送るのが普通でしょ」
ペトラはにやりと笑い言い放つと、ベラスタの背中を押して歩くように促す。ペトラが引かないと分かったのか、ベラスタは致し方なしといった風情で歩き出した。真っ直ぐに二人は魔導省の正門に向かう。
途中すれ違う魔導士たちが嫌な目付きでペトラを睨んでいたが、ペトラは全く気に留めていなかった。寧ろベラスタの方が顔色を失っていく。
一人で歩いていた時の方が、魔導士たちの視線も訝し気なだけで悪意は含まれていなかった。やはりペトラの見送りは要らなかった、とベラスタが内心で思い始めた時、ペトラがベラスタにだけ聞こえる声で囁いた。
「わかった? これがあたしとベンのいる魔導省なんだ。周りは敵だらけ。だから、あんたの不用意な発言がベンを追い詰める」
ベラスタは息を飲む。ようやくペトラの言っていた言葉の真意が身に沁みて理解できた。神妙な顔でベラスタは一つ頷く。ペトラはそれを見て微笑を浮かべるとベラスタの頭を軽く一つ撫でた。
意気消沈した様子のベラスタを見送ったペトラは、一人研究室に戻る。その時、ベラスタが見たという呪術陣のある外廊下を通ることも忘れなかった。
確かにそこには呪術陣が描かれている。上手く偽装して単なる飾りに見せかけているところに作為を感じた。
「――なんでこんなところに」
訝し気にペトラは眉根を寄せる。その呪術陣は、ペトラとベンが魔導省に出勤しなくなった五年前には存在していなかった。少なくとも設置されたのはこの五年以内ということになる。
復帰した後も、この中庭に足を向けることはなかったからベンもペトラも気付くことはなかった。
「一体、何の術――?」
一見したところでは、呪術陣が一体何の効果を持つのか分からない。解析しなければならないが、解析するためにはこの場所はあまりにも長官室と副長官室に近すぎる。すぐに気が付かれてしまうだろう。
「ベンの仕事が終わってからかな」
ペトラは一人小さく呟いた。
気にはなるが、今は呪術陣の解析よりも重要な仕事が控えている。ペトラはすることがないが、ベンはその仕事に手を取られているという。だがそれが終われば、堂々と壁に誂えられた呪術陣の解析もできるはずだ。
焦る必要はないとペトラは自分に言い聞かせた。
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