6. フォティアの屋敷 2
夕食を終え湯あみも済ませたリリアナは、早めに休むとマリアンヌに告げ、早々に寝室へ閉じこもった。これから自分がすることが知られないように、鍵を掛けて結界を張る。誰かが自分を訪ねて部屋に来た時、自動的に戻れるよう術も施しておいた。
そして、自分の周辺にある量子を弄って姿が他人に見えないようにする。一般的に己の姿を消すためには闇魔術を用いるが、リリアナの方法であれば得意な風魔術で行える。前世で広まっていた科学を礎としたリリアナ独自の術理論によって、消費する魔力量が非常に少なくて済むようになっていた。
あとは屋敷の中を散策するだけだ。すぐに切り札が見つかるとは思っていない。屋敷に滞在する期間は長いから、今日は下見に留める予定だ。
そして、リリアナが自身に術を掛け部屋を出ようとしたその時――扉を叩く小さな音がした。
(誰かしら)
リリアナは扉の向こうに立つ人の気配に気が付く。躊躇っている様子が窺えるが、一体誰だろうか――そう思いながらリリアナ自身に掛けた術を解いて、そっと部屋の扉を開けた。隙間から外をのぞくと、予想外の顔が見えて驚く。しかし、緊張を浮かべたその顔は、記憶にあるよりもだいぶ幼かった。
(――――お兄様)
次期公爵であり、リリアナの兄であるクライド・ベニート・クラーク。リリアナの記憶にある彼は、十八歳だった。今のクライドは体が成長しきっておらず、顔も面影を残す程度でしかない。灰色の瞳は幼いながらも理性を宿し、プラチナブロンドの髪は天使のようだった。
(まだ眼鏡は掛けてらっしゃらないのね)
ゲームのクライドは、眼鏡を掛けた知的なキャラクターだった。若くして頭角を現し、次期宰相としても有力候補だと目された彼は、腹に一物も二物も抱えているような青年だった。
だが、まだ十一歳のクライドは心の動きと表情が直結してしまうらしい。本人は平静を装っているつもりなのだろうが、数年ぶりに会う妹を前に緊張している様子だった。
リリアナとて、クライドとは相応に友好的な関係を築いておきたい。仮にヒロインがクライドルートを選択した場合でも、服毒による処刑か幽閉という悲惨な結末を迎えないためには、クライドとはきちんと関係を築くべきだ――他の攻略対象たちのように、避ければ良いという話ではない。
「――久しぶりだね、リリー。その――夜分に申し訳ないんだけど、入っても良いかな」
遠慮がちにクライドは尋ねる。リリアナは少し躊躇ったが頷いた。兄とはいえ、夜分遅くに密室で二人きりになることは褒められたことではない。だが、この屋敷には母親がいる。母親が忌避している娘と、溺愛している息子が仲良く話していると知れたら、後々面倒になることは目に見えている。それに、控え目ながらもはっきりと囁かれた『リリー』という呼び名に懐かしさを覚える。
リリアナが半身を引いて誘うと、クライドは扉の隙間から室内に滑り込んで来た。
クライドは質素な部屋を見回して、申し訳なさそうな顔になる。
「せっかく帰って来てくれたのに、勝手に部屋を移動させてごめん。僕にはどうしようもなかった」
悄然と謝ったクライドは、自分の力不足に不甲斐なさを覚えているのか、気まずそうに肩を竦めた。
(あら――本心に見えますわ)
もしかしたら自分を懐柔するために一芝居打っているのかもしれないと邪推した数分前の考えを改め、リリアナはまじまじとクライドを見つめた。前世の記憶を思い出してから忘れがちだが、リリアナは六歳、そしてクライドは十一歳だ。
(たかだか十一歳で、これほどの腹芸を覚えてしまっては先が思いやられますものね――)
ゲームのクライドは腹黒キャラで策略家だった。この天使のような少年が、近い将来ああなるのだろうか――と思わずリリアナは遠い目をしてしまう。
答えないリリアナを不思議そうに見つめたクライドは、すぐに「ああ」と思い出したような声を上げた。
「そういえば、まだ声が出ないんだったね。体調は大丈夫かい?」
リリアナは微笑を浮かべたまま頷く。そしてクライドにソファーを勧め、自分は書き物机の上から紙とペンを取りクライドの斜め前のソファーに腰かけた。
〈お久しぶりにお会いできて嬉しいですわ、お兄様〉
まずは挨拶からだろうと、リリアナは文章を書く。クライドは少し驚いたように目をみはったが、すぐに柔らかい笑みを浮かべて「僕もだよ」と答えてくれた。
「リリーが倒れて声が出なくなったと聞いたのは――少し前のことなんだ。父上も母上もご存知だったようだけど、僕は聞いていなくて――」
兄失格だな、とクライドは自嘲する。リリアナは小首を傾げたものの、〈気にしておりませんわ。むしろ、今お心配りいただいて、嬉しゅうございますの〉と書く。クライドは少し照れたように笑みを浮かべた。
(なんだか妙だわ――お兄様って、こんな方だったかしら?)
内心でリリアナは首を傾げる。リリアナが最後にクライドと会ったのは、一年前のことだ。会ったといっても晩餐を共にしただけで、交流する時間はなかった。きちんと話す時間が取れたのは更にその半年ほど前だったと記憶している。リリアナが四歳の頃の話だから、記憶が薄れていても仕方がないが、クライドはもう少し妹に対して冷淡だったはずだ。
(何があったのかしら)
クライドは公爵家を継ぐための勉強を、フォティア領の屋敷でしている。だが、最近では王都の公爵の元に行き、他の公爵家や侯爵家といった有力貴族の子息たちと交流を持っていると聞く。勿論、情報源は屋敷の使用人たちだ。
熱を出し倒れる前は意識していなかった使用人たちは、自分たちの職場の事情に通じている。笑みを浮かべて愛想よく対応をしながらクライドの様子を窺うリリアナに、クライドは気遣うような視線を向けた。
「それで、これから十日ほどここで過ごす予定だろう。その間、色々と気づまりなこともあると思う。その時は気軽に頼って欲しい」
〈ありがとうございます、お兄様〉
リリアナの返答に、クライドは嬉しそうに頷いた。どうやら妹に頼られるのは嬉しいらしい。そして、クライドは控え目に「今は声が出ないことで困ってると思うが――」と言葉を続けた。リリアナの微笑を浮かべた頬が一瞬だけ痙攣する。クライドはそんなリリアナの変化に気が付かない。
「もし良ければ協力するよ。今回の披露宴には、優秀な魔導士も来るから」
その言葉を聞いた途端、リリアナは一瞬言葉に詰まる。クライドからその言葉を聞くとは、予想だにしなかった――だが、これは。
〈まあ、魔導士様ですの? でも、お医者様も様子を見ようと仰ってくださってますの。もうしばらく、気長に待っても宜しいのではないかと考えておりますのよ〉
手早く文章を書く。線が震えていないことにリリアナは安堵する。表情は万全に取り繕えているはずだ。リリアナはクライドに気が付かれないよう、左手にじんわりと滲んだ汗を拭った。クライドはリリアナの答えを見て、困ったように小首を傾げる。
「だが、リリー。君は今、王太子の婚約者候補だろう。声が出ないと、不味いんじゃないのか」
〈ええ――ですが、まだ候補でございますから〉
焦りのせいで、上手い言い訳を思いつかない。どうにか絞り出した答えを見て、クライドは沈黙した。端正な顔で何かを考えている様子だ。リリアナも黙ってクライドの反応を待つ。
クライドは、しかし無理強いをする気はない様子だった。やがて「わかった」と言って立ち上がる。
穏やかな表情を浮かべたままリリアナを優しく一瞬抱きしめ、「夜遅くにすまなかった」と再度謝罪する。
「また明日から、宜しく頼むよ。時間が合えば積もる話もしよう」
どうやらクライドの訪問はこれで終了らしい。リリアナは紙をローテーブルの上に纏めてペンと共に置き、クライドを部屋の外へ見送るためソファーから立ち上がった。クライドはさっさと扉に向かう。そして扉に手を掛けたところで、クライドは肩越しにリリアナを振り返った。
「――――もし気が変わったら、いつでも言ってくれ。優秀な魔導士を紹介するよ」
おやすみ、とクライドは優しい笑みを浮かべて今度こそ部屋を出る。リリアナは感謝を示し一礼したが、扉が閉まったところで静かに深く息を吐き出した。
(ああ――騙されるところだったわ)
最後の、魔導士を紹介すると言った時の笑み――幼い顔に浮かんだ表情に、見覚えがあった。
(ゲームのクライドも、あんな笑みを浮かべていた)
完全に同じではない。まだ幼稚で未完成だ。荒削りの部分も見られる。だが、あの美しい容貌と穏やかな言葉遣い、そして表情に惑わされるのは危険だ。
(お父様の手先、というわけではなさそうですけれど――警戒するに越したことはなさそうですわ)
リリアナはクローゼットに仕舞った鞄からジュースを取り出す。ペトラに貰ったものだ。魔術で冷やして飲めば、体から疲れが吹き飛ぶ気がする。
本音を言えば、このまま寝てしまいたい。だが、明日の夜からは屋敷の中に人が増える。その前に、確認しておきたいことがある。
ジュースを半分ほど残して、リリアナは再び自分に術を掛ける。姿を見られないようにして、今度こそ一人、部屋を出た。