31. 乙女遊戯 8
王宮の裏手側にある広い庭――そこは、茶会が行われた庭だった。そしてその隣に温室のある庭がある。茶会が行われた場所よりも多少手狭だが、十分広い。その庭の一角にリリアナは立っていた。生い茂った木々の影に姿を隠し様子を窺う。
視線の先では、どうやらなかなか来ない父親を待ちくたびれたらしいエミリアと、ベンやタニアと別行動しているらしいベラスタが顔を合わせて言葉を交わしていた。
「さっきはごめん、無理言ったよね」
「いえ、大丈夫です。少し驚きましたけど――」
申し訳なさそうなベラスタに、エミリアが慌てて首を振る。どうやら茶会の最中にエミリアの魔術に関して言及したことを改めて謝っているらしい。その様子がリリアナは意外だった。
(二人きりで会話をするという点はゲームと同じですけれど、内容がだいぶ違いますわね)
ゲームでは、エミリアと二人きりになったベラスタの頼みに従ってエミリアは魔術を使っていた。それもエミリアの魔術を見たいから、という理由ではなく、ベラスタが魔導省で引き受けた仕事の参考にしたいという申し出だったように記憶している。
今思えば、ゲームのベラスタは既に魔導省に所属していたため、ベラスタの監督下ならば魔術を使っても良いと判断したのだろう。だが現実にはベラスタは魔導省には所属していない。そのため出来事の外形はゲームのままでも内容に違いが出ている可能性があった。
姿と気配を隠したリリアナがそんなことを考えながら観察しているとも知らず、ベラスタは苦笑を浮かべて少し恥ずかしそうに言った。
「俺、魔術のことになると周りが見えなくなるんだ。兄貴にはそれで良く怒られるんだけど」
「そうなんですか。魔術がお好きなんですね」
「そうなんだよ!」
優しく微笑んだエミリアに向かって、ベラスタは身を乗り出した。そして照れたように頬を染めて俯く。目が輝いていて、本心からエミリアの言葉を喜んでいることが分かった。しかしエミリアはそんなベラスタのことはそれほど気にならないらしく、不思議そうに首を傾げる。
「もしかして、その――私にそのお話をされるために、わざわざ戻っていらしたのですか?」
「え――っと、まあ、うん。それもある」
それだけではないのだと言いながらも、ベラスタの目的の一つがエミリアへの謝罪であることは間違いがない。ベラスタの態度からそれを読み取ったエミリアは僅かに苦笑して丁寧に頭を下げた。
「ご丁寧にありがとうございます。でも茶会の時に、ちゃんと謝ってくれたではないですか。私はそれで十分だったのですが」
「あれをちゃんと謝ったとは言わないだろ」
ベラスタは僅かに頬を膨らませた。確かにベラスタの声はエミリアに聞こえるか聞こえないか、という程度のものだったし、きちんと心を込めた謝罪かと問われると首を傾げる者も多いだろう。しかしエミリアは本気で気にしていない様子だった。ただそれでもベラスタが譲らないのは目に見えていて、どこか困ったようにエミリアは首を傾げている。このままでは埒が明かないと思ったのか、エミリアは「分かりました」と頷いた。
「貴方の謝罪を受け入れます。ですので、これでその件は終わりということで如何でしょうか」
「うん、それで良い。ありがとう」
エミリアの言葉に安堵したのかベラスタがにっこりと笑う。さすがにエミリアも釣られたのか、答えるように笑みを浮かべた。その表情にベラスタは目を奪われるが、しかし彼の興味はエミリア本人ではなく彼女の魔力にあるようだった。
「――でさ、あの、失礼なお願いだとは分かってるんだけど」
「はい、なんでしょう」
エミリアは首を傾げた。謝罪以外にベラスタがなんの用なのか、彼女には分からなかった。
「その――俺の回り、魔術に興味のある奴ばっかりなんだけど、基本的に一族だから魔力の系統とか種類とかも結構似てるんだ。でも俺はそれがつまらなくて――というか、もっと色々見てみたいと思ってて」
ベラスタは遠慮がちに口を開くが、本当に遠慮しているのであれば謝罪の後早々にその場を立ち去るはずだ。だが謝罪からすぐに“お願い”を口にするところを見ると、本当に反省しているのかは疑わしい。失礼なことをしたと理解した上で申し訳ないとは思っているのだろうが、それを次の行動に生かすということはないようだった。
エミリアは目を丸くしてベラスタの言葉を聞いていた。ベラスタの発言は、初対面で相手の魔力を話題にすることが不躾であると理解している人間とは思えないものだった。エミリアだから不快に思わないのだろうが、人によっては既にこの段階で腹を立てその場を立ち去ってもおかしくない。事実、リリアナは物陰で二人の会話を聞きながら呆れ返っていた。
(――何となくベラスタ様が何を言いたいのか、先は読めますけれど。二度目とはいえネイビー男爵令嬢とベラスタ様はほぼ初対面の間柄でしょうに)
ベン・ドラコがこの場に居れば間違いなくベラスタの脳天に拳骨が落ちるだろう。しかし幸か不幸か、この場にはエミリアとベラスタ、そして姿を消したリリアナしかいない。
止める者が居ない場で、ベラスタの言葉は止まらなかった。
「だから、もし――嫌じゃなかったら! あ、あと君の師匠が良いって言ってくれたら――そしたら、俺と一緒に魔術の研究して欲しい――んだけど」
どう、かな。とベラスタは上目遣いにエミリアの様子を窺う。エミリアは予想外のことを言われたようで、驚いたように目を真ん丸に見開いていた。
「けんきゅう、ですか」
初めて聞いた単語のようにたどたどしい口調だ。ベラスタは「うん」と頷いたまま口を開かず、じっとエミリアを見つめていた。緊張した横顔はエミリアの返答を待っている。
エミリアは戸惑いを隠せない様子だったが、すぐに真剣な表情になって考え込んだ。すぐに断ろうとしないところをみると、彼女自身は興味を引かれているのだろう。だが即断はしない。まだ彼女は魔術を学んでいる最中で、自分の判断で魔術を使える段階ではないのだろう。
重苦しい沈黙の後、ようやくエミリアが顔を上げた。何か決意したような表情を浮かべて、真っ直ぐにベラスタを見つめた。
「勿論、私でお役に立てることがあるのでしたらお引き受けしたいと思います。ですが、私はまだお師匠様に師事している身ですので、この件は一度お師匠様に伺ってから決めたいのです。それでも宜しいでしょうか」
「っ、勿論だよ!」
ベラスタは喜色満面で大きく頷いた。エミリアにあっさりと断られなかったことがとても嬉しいらしい。その様子を見たエミリアは頬を緩めた。
「それでしたら、お師匠様に相談した結果を手紙で送らせて頂いても良いでしょうか? どちらに届ければ良いでしょう?」
「しばらくは王都に居る予定なんだ。もし実家に戻っても、兄貴の家に届けば送り返してくれるから」
「分かりました」
エミリアは頷く。そして照れたように口を開いた。
「――実は、私も魔術には興味があるんです。剣術にも興味があるんですけど、でもどっちもまだ上手くできなくて。できるだけたくさん練習してるんですけど」
「最初から上手くできる人なんていない、だろ? 俺だって色々と試してるんだけど、失敗することも多いんだぜ」
困ったように打ち明けるエミリアを見て、ベラスタは“なんだ、そんなことか”と言うように片眉を上げた。エミリアは弾かれたように顔を上げる。そして驚いたようにベラスタの顔に見入った。
「そうなのですか?」
「ああ、そうだよ」
当然だろうとベラスタは頷く。その実、二人の悩みには天と地ほどの差があるのだが、互いにそのことには気が付いていない。エミリアは魔術の基本書に従って訓練をしている最中で、躓いているのは中級の魔術の発動だ。一方ベラスタが躓いているのは、過去に見た魔導士の魔術を再現することや、新しい魔術を創出することだった。
エミリアは真剣な表情で頷く。
「上には上がいますし、やっぱり努力しないといけないですね」
「うん、そうだな」
ベラスタも同意を示す。その時、少し離れた場所でエミリアを呼ぶ声がした。そちらを振り返ったエミリアは、ほっと安堵の表情を浮かべた。ベラスタも同じ方向を見て首を傾げる。
「知り合い?」
「はい、父なのです」
「あれ、茶会の時に一緒に居たのってカルヴァート辺境伯じゃなかった?」
不思議そうにベラスタは尋ねた。確かに茶会の間、ネイビー男爵はエミリアから離れて他の男爵や子爵たちと旧交を温めていた。ベラスタに挨拶をしたのはエミリアと懇意にしているカルヴァート辺境伯ビヴァリーだ。
苦笑したエミリアがそう説明すると、ベラスタはあっさりと納得した。
「そっか。でも優しそうな親父さんだな」
「はい。頼りないところもありますけど、でも好きな父です」
エミリアは嬉しそうに、胸を張って応える。エミリアはベラスタに一礼して父親の方に歩いて行く。走りたいのかもしれないが、王宮ということもあってか早足だった。その後ろ姿を見送ったベラスタは踵を返して歩き始める。
リリアナはベラスタに向けて白い鳥型の紙を放った。
(【追尾】)
術を掛けると呪術の鳥は姿を消してベラスタの後を追う。ベラスタはリリアナより一歳年下でありながら、既に魔術の才が開花し始めている。下手をすればリリアナの追跡にも気付かれるだろう。万が一悟られた時は、自動的に消滅するような術式も組み込んである。
無事に鳥がベラスタを追っているのを確認した上で、リリアナは姿を幻術で消したままエミリアとその父の近くに転移した。なぜならそれが、クライドとエミリアのイベントだからだった。
*****
エミリアと別れたベラスタは、急ぎ足で王宮から出ると乗合馬車に乗り込んだ。茶会の時に兄に確認したら、ペトラはしばらく屋敷には来られないと言われたのだ。しかしベラスタはどうしてもペトラに確認したいことがあった。
暫く揺られて魔導省に到着する。門はそのままでは開かない。そのためベラスタは門番が居る横門まで歩いた。
「すみません、面会申請出したいんですけど」
「面会? 誰とだ」
守衛室から顔を出したのは、くたびれた顔の老人だった。ぶっきら棒な言葉遣いも気にせず、ベラスタは淡々と答える。
「ペトラ・ミューリュライネン。王宮に居るベン・ドラコから、重要書類を直接渡して来てほしいって頼まれたんです」
ペトラとベンの名前を耳にした途端、門番は嫌そうに顔を顰める。しかしベラスタは平然と、手にした袋をひらひらと揺らしてみせた。門番は鼻を鳴らす。
「それなら会うまでもねえだろ、寄越せ」
「駄目ですよ」
門番の返答は予想通りだった。奪われないように一歩下がってベラスタは用意しておいた文言を口にする。
「ちゃんと手渡したことを確認して来いって言われてるんです。もし俺があんたに渡したのにミューリュライネンの手に渡らなかったら、長官がお怒りになるかも」
途端に門番は手を引っ込めた。不機嫌に顔を顰めて舌打ちを漏らす。乱暴に記名帳とペンをベラスタに突き付けて来た。どうやら通してくれるらしい。
本当は王太子の名前を出そうかと思ったが、下手をすれば王太子の名を騙ったとして処罰される可能性もある。その上魔導省は長官ニコラス・バーグソンが牛耳っていると耳にするから、王太子よりも長官の名前を出した方が効果的だろうと予想した。結果、それが大当たりだったというわけだ。
ベラスタは記名帳とペンを門番に返すと、そのまま魔導省の敷地に入る。
ペトラの場所は兄ベンから聞いているから把握している。魔導省に来るのは今回が初めてだった。しかし、迷っても道を尋ねられる相手はいない。だからといってベラスタに不安はなかった。確信を持って歩みを進める。時々すれ違う魔導士たちに胡乱な目を向けられるが、堂々と歩けば咎められることもない。
しかし、魔導省の中はベラスタが想像していたよりも複雑な構造だった。様々な場所に階段があり、一階から二階に上がる階段だけでなく、三階に直接繋がっている階段もある。普通の扉もあるが、魔術陣が施されている扉もあった。
「おもしれえー」
ベラスタは目を輝かせる。王国内でこれほど建物自体に魔術陣が施されている施設もないだろう。尤もドラコ一族が住まう邸宅や屋敷と比べると魔術陣や呪術陣はそれほど高度なものではないが、一般的に言えば最高峰の術ばかりである。
「これってアレか、魔術陣の作動のさせ方によって、扉開けたら違う場所に通じるやつか」
魔導省に勤める魔導士でも水準の高い者でなければ読み解けない魔術陣を難なく読み解いて、ベラスタは口笛を吹く。
「うわあ、結構エゲつない陣も使ってるんだな」
次にベラスタの目を奪ったのは廊下の天井と床に施された対の魔術陣だった。一つだけが作動しても何の効果も生まないが、二つを同時に発動させることで廊下の特定の場所を孤立させることが出来る陣だ。恐らく敵が侵入した時に発動させ、生きたまま捕らえることを目的としているのだろう。
そうして歩いていく内に、ベラスタは人気のない外廊下に出た。建物の反対側には庭が広がっている。四季折々の花が植わってるが、ベラスタが注目したのは庭ではなかった。建物の外壁に施された目に見えない陣だ。
「――これだけ、呪術陣?」
これまでベラスタが目にした陣は全てが魔術陣だった。元々この国では呪術が忌避される傾向がある。ドラコ家は勿論のこと、ベラスタの周囲に居る人間は呪術に対して偏見がない。特にペトラ・ミューリュライネンは魔術よりも呪術を好んで使う。しかし、他はそうではないとベラスタはきちんと理解していた。実際に魔導省で使われている陣は全て魔術陣だったから、ベラスタは自分が習ったことが間違っていなかったのだと嬉しささえ感じたのだ。
「なんで――」
魔術陣と違って呪術陣は一辺倒ではない。そのため陣を見たところで、その陣が一体どのような効果を発揮するのか直ぐには分からない。実際に発動させるか、解析が必要になる。
一体この呪術陣は何なのだろうと、ベラスタは手を伸ばしかけた――その時。
「おい、そこで何をしている」
背後から聞こえてきた低い声に、ベラスタはびくりと肩を震わせ、勢いを付けて振り返る。そこに立っていたのは、不機嫌そうに目を細めてベラスタを睥睨する、黒いローブの男だった。フードを被っているから顔は良く見えない。しかし彼の左指には、赤い宝石の指輪が嵌っていた。









