31. 乙女遊戯 4
スリベグランディア王国王太子ライリー・ウィリアムズ・スリベグラードは、隣に座る婚約者の様子が気に掛かっていた。ずっと緊張している様子だったが、カルヴァート辺境伯ビヴァリーが男爵令嬢エミリアを紹介し立ち去ってからはどこか上の空である。
しかし一番驚いたのは、リリアナがエミリアに自ら声を掛けたことだった。確かにあの時はリリアナかライリーのどちらかが声を掛けることでしか場を収めることはできなかっただろうが、その後リリアナは必要最小限しか口を開いていない。
「サーシャ、体調は大丈夫?」
「ええ」
まさか魔力暴走しかけた時の体調不良が未だに続いているのだろうかと不安になり声を掛けるが、リリアナはおっとりと微笑んで首を振った。顔色はあまり悪くないと気付いてライリーはほっとする。リリアナとは長年の付き合いだが、だからこそ彼女が重要なことほど隠してしまうとライリーは知っている。ライリーは勿論、実兄であるクライドもリリアナの内面には踏み込めていないようだ。だからこそ余計に、ライリーはもどかしさを感じずにはいられない。
以前は照れが勝っていたが、それでは永遠にリリアナの心に触れることはできないだろう――そう思ったからこそ、多少の恥ずかしさは押し隠して思うまま想いを伝えようとはしているのだが、己の感情にも鈍いリリアナがライリーの心に気が付いている様子はなかった。
高位貴族たちの挨拶が終われば次は下位貴族たちの番だ。やはり教育の内容が違うせいか、下位貴族の令息や令嬢はライリーやリリアナを不躾にじろじろと眺める者が多かった。居心地の悪さを覚えるがこれも役割の一つだと自分に言い聞かせる。
やがて気疲れし始めた頃、二人の前にはローブを着た少年少女が立った。二人とも髪は緑色だが、瞳の色が違う。少年は紫色、少女は水色の瞳だった。その隣に立つのは見知った顔である。ライリーはどこかホッとした気分になりながら僅かに笑みを浮かべた。
「この度は誠におめでたく存じます、殿下。また皇子殿下も我が国までいらしてくださったこと、感謝いたします」
口を開いたのは保護者として二人の子供に付き添っている魔導士ベン・ドラコだった。若干慇懃無礼な感が否めないが、礼儀としては問題ない。ライリーは仄かに苦笑を滲ませながらも鷹揚に答えた。
「ああ、ありがとう。今日は参加してくれて助かるよ」
ライリーが口を開けばベンは僅かに口角を上げてみせた。普段滅多に表情を変えないベン・ドラコだが、さすがに社交の場での立ち居振る舞いは弁えている。ライリーはちらりと隣のローランド皇子を一瞥し、ベンを紹介した。
「ローランド皇子、こちらは我がスリベグランディア王国随一の魔導士一門ドラコ一族の嫡男ベン殿だ」
「そうか。噂はかねがね聞いている」
ローランド皇子が鷹揚に頷けば、ベンは慇懃無礼に礼を取る。彼の目はどこかローランド皇子の為人を推し量るような光を湛えていた。ローランド本人はそれに気が付いた様子もないが、ライリーは目敏かった。せっかく収めた苦笑が再び零れ落ちそうになるがどうにか堪え、ローランドとは反対側に座るリリアナの手を取った。
「リリアナ嬢のことは知っているな」
「はい」
ベンは頷いた。表情は一見変わらないように見えるが、目元が仄かに和らぐ。そしてベンはライリーたちへの口上とは打って変わって温度のある声でリリアナに挨拶を告げた。
「お久しぶりです、クラーク公爵令嬢。最近体調を崩されていたと殿下から伺っておりますが、その後如何ですか」
「まあ、お心遣い痛み入ります。既に回復しておりますのよ」
ですからご心配なさらず、と普段と変わらない笑みを浮かべるリリアナをじっと注視したベンは、小さく指を鳴らした。途端に、ベンとリリアナ、そしてライリーを囲うようにして防音の結界が張られる。その上その結界は幻術も併せた複合魔術であり、張ったことに気が付いたのはライリーとリリアナ、そしてベンの後ろに居る二人の子供だけだ。ローランドとオースティンは本来であれば気が付けるはずなのだが、どうやらベンが幻術で彼らには気付かれないよう細工をしたらしい。
ベンの後ろに居る少年と少女は驚いたように目を瞠ってベンを見上げる。しかしそちらを一瞥すらせず、ベンは低くリリアナに尋ねた。
「近々、屋敷に伺っても?」
「――まあ、なぜですの?」
リリアナは不思議そうに首を傾げる。隣で二人の会話を聞いていたライリーが口を挟んだ。
「サーシャ、この前貴方は魔力暴走を起こしかけて倒れただろう。医師には診て貰ったのだろうが、もう一度ベン・ドラコ殿に診て貰った方が良い」
「もう大丈夫ですのに」
「それでも、だ」
ベンではなくライリーに懇願に似た言葉を重ねられ、リリアナは小さく息を吐いた。微苦笑を浮かべて「そうですわね」と頷く。
「また機会がありましたらお願い致しますわ」
その言葉に、ライリーは思わずと言ったように溜息を吐いた。困ったようにベンを見上げると、ベンは僅かに眉間に皺を寄せてリリアナを見下ろしている。しかしすぐに表情を取り繕うと、にこりと笑みを浮かべた。
「はい、それでは近々伺います」
どうやらベンも引く気はないらしい。リリアナが答える前に、ベンはもう一度指を鳴らした。途端に防音の結界が消える。
ベンは何事もなかったかのように、自分の後ろに立つ二人の子供に前へ出るよう促した。緊張した面持ちで少年と少女が一歩を踏み出して来る。
「ドラコ家の末弟ベラスタ、そして末妹のタニアです」
「はじめまして。タニア・ドラコと申します」
「ベラスタ・ドラコです」
ベンの紹介に続いて、タニアとベラスタが頭を下げた。ドラコ家は貴族ではないが、社交の場に顔を出すことはある。言葉遣いこそ貴族らしくはないが、礼の仕方はそこそこ貴族に見えるものだった。特にタニアの方は練習を重ねたのだろうと思える所作だ。
「そうか。ドラコ一族と王族は切っても切れぬ関係にある。今後会う機会も増えるだろう。タニアにベラスタ、宜しく頼むよ」
「は、はい!」
ライリーの言葉に答えたのはタニアだった。ベラスタは緊張しているのか、口を一文字に引き締めてしまっている。その物慣れない姿を微笑ましく眺めていたライリーは、ベラスタがベンとタニアに引き続いてその場を下がろうとした時、妙な表情でリリアナを注視していることに気が付いた。どうしたのかと眺めていると、ライリーの視線に気が付いたベラスタは慌てたように顔を逸らす。そしてそのままタニアの隣へと走り去って行った。
*****
エミリアは「ビヴァリー様!」と声を抑えながら怒鳴るという高等技術を披露した。カルヴァート辺境伯ビヴァリーは楽し気な笑みを目に残したまま、一体何のことかしら、という表情でエミリアを見下ろす。
「どうしたの、そんな顔をして」
「どうしたの、じゃありません! 一体どういうことですか!」
もはやエミリアは涙目である。
彼女にとって、高位貴族と挨拶をするだけでも勇気が必要だった。それにも関わらず、ビヴァリーは平然と、クライド・ベニート・クラーク公爵が修道院に視察に行く際にはエミリアを案内に付けても良いかと尋ねたのだ。
「あんな尋ね方されたら、駄目だなんて言えないじゃないですか!?」
「あら何を言っているの。クラーク公爵が視察に行かれるなら相応の身分がある者でなければ駄目だけれど、でも息子のアンガスもなかなか領地を離れられないでしょう」
当然のことのように告げるビヴァリーに、エミリアは目を吊り上げた。
「よくうちの領にいらしてますけど!?」
「毎回、首に縄つけて連れ帰られてるけどねえ」
ぐ、とエミリアは言葉を飲み込む。ビヴァリーの言葉に反論の余地はなかった。
カルヴァート辺境伯嫡男アンガスは次期当主であるにも関わらず、放浪癖がなかなか抜けない人だった。今でこそカルヴァート騎士団の団長として落ち着いた風格を見せているが、その性根は変わらない。若かりし頃は家名を隠して傭兵稼業に身を窶していた男だ。騎士団長としての仕事はともかく、執務となると途中で飽きて放り投げてしまうことが多々あった。その度に昔から辺境伯家に仕えている家令が目を猛禽類のように尖らせて探し回っている。そんな生活が何年も繰り返されたせいか、アンガスが屋敷から脱走したとなれば直ぐに捜索網が敷かれ、家令が直々にアンガスを捕獲しに行くのだ。
他の誰が行っても次期当主が我が儘を言えばなかなか連れ帰れないが、幼少時からアンガスを知っている家令であれば話は別だった。
「それにこれは貴方にとっても良い話でもあるのよ」
「――良い話、ですか」
「貴方は今、何歳?」
ビヴァリーの質問の意図が掴めず、エミリアは首を傾げて目を瞬かせる。
「えっと――十三歳、ですけれど」
一体それがどうしたのか、という表情だ。ビヴァリーは重々しく頷く。
「そうね。まだ十三歳、されど既に十三歳。貴族令嬢として婚約者が決まっていないことは問題です」
「――――え」
エミリアは目を剥く。その様子を眺め、ビヴァリーはわざとらしく溜息を吐いた。
「勿論、貴方にその気があまりないことは分かっています。でも、男爵領の村でも! 貴方と親しくしている村娘は既に恋人も作っているというのに、貴方は全くその気配がない! 我が辺境伯領でも貴方に相応しいと思える相手も居ない。何故、年の頃が合う、そして貴方に釣り合う男が居ないのでしょうね」
本当に嘆かわしい、と物騒に目を光らせるカルヴァート辺境伯を見てエミリアは頬を引き攣らせた。
元々ビヴァリーはエミリアを非常に可愛がってくれている。そのため、小さい頃から何かにつけ将来の結婚相手を見繕うとしてくれているのだが、なかなかビヴァリーのお眼鏡に適う人がいない。
だからといって高位貴族の中から探そうとするとは何事かと、エミリアは恨めしく思った。せめて自分の家柄と似たような、下位貴族の中から選んで欲しい。そうでなければ生活水準も価値観も合わないだろう。何よりエミリアは社交界や茶会といった貴族社会らしい場面が非常に苦手だと現在進行形で実感している。下位貴族であれば領民に混じって働いたり、剣の稽古をしたり馬に乗ったりしてもある程度は許される。だが高位貴族では許されないに違いない。高位貴族の令嬢に必要なのは家内の監督や刺繍、舞踏、社交だ。
それは嫌だと悲愴な気分に浸っていると、ビヴァリーは「無理にとは言いませんが」と続けた。
「少しは貴方も男女の機微というものを学びなさい。貴方は異性に対して無頓着すぎます。男も女も同じように、友達として扱うのが悪いとは申しません。しかしそれでは男女の仲には発展し辛いのです」
勿論、エミリアも貴族だから政略結婚をする覚悟はある。
だが不運なことに、政略結婚にしても良い相手に恵まれなかった。ネイビー男爵家と繋がりを持ちたいと思う貴族は少数ながら居る。近隣の領を治める子爵家や男爵家だ。彼らは豊かなネイビー男爵領と比べて農作物の収穫量が低い。そのため彼らにとっては利点がある。しかし良い年頃の男がいなかった。
結婚していない男は、エミリアの父より年上で妻と離別した者か、もしくはまだようやく歩き出した程度の者。年頃が比較的近い男性はエミリアより十五歳以上年上で、既に結婚している。年齢がそれなりに近い独身男性はただ一人――ビヴァリーの次男ダンヒルだ。しかし彼は王立騎士団に所属していて滅多に辺境伯には顔を出さず、エミリアともほぼ親交がない。そして何よりもビヴァリーの眼鏡に適わない。
そのため、エミリアが結婚するのであれば身の回りに居ない相手を探す他なく、そのためにはカルヴァート辺境伯の力を借りる以外になかった。
「必要とあれば貴方を養女としてカルヴァート辺境伯家に迎える用意はあります。しかし、私が用意できる相手は貴方自身が持って生まれた立場より、地位も富も上の者だけです。心の伴わない政略結婚であれば、嫁ぎ先で貴方の立場が悪くなりかねません」
当然ビヴァリーとしては、性格的にも問題ない相手を見繕うつもりだ。しかし何事にも確実なことはない。だからこそビヴァリーは、エミリアに惚れる相手を見つけて欲しいという。とはいえエミリアの態度では恋仲になることも難しい。そのためにネイビー男爵領やカルヴァート辺境伯領に居る男たちとは違う毛色の男と会わせて、男に対するときめきを知って欲しいという荒療治だった。
ここでようやくビヴァリーの思惑を把握したエミリアは蒼白になる。無理だと叫びたかったが、叫んだところで無意味であることは他ならぬエミリアが良く知っていた。
「幸い、まだ時間はあります。社交の季節には一緒に茶会へ出ましょう」
その台詞は間違いなくエミリアにとって死刑宣告に等しいものだった。がっくりと肩を落とすエミリアを気にすることなく、ビヴァリーは一人の男に目を止める。
「エミリア、それからもう一つ」
「はい」
悄然とした面持ちのエミリアは顔を上げた。その視線の先で、ビヴァリーは楽し気に口角を上げる。
「人脈も広げなさい。男爵領と辺境伯領という狭い世界だけで留まっていては、何かあった時に立ち行かなくなります。顔の繋ぎは私が致しますから」
さあ行きますよ、と促されてエミリアは慌ててビヴァリーの後を追う。カルヴァート辺境伯が目を付けたのはローブを纏った三人組――ベン・ドラコとその弟妹だった。









