31. 乙女遊戯 3
王太子とその婚約者、そして隣国の皇子への挨拶を終えたエミリア・ネイビーは、大きく息を吐き出した。男爵である父も緊張したらしく、カルヴァート辺境伯ビヴァリーに一言断って、エミリアを放ったまま、さっさと下位貴族たちの方へ行ってしまった。どうやら知り合いが居るらしい。
エミリアとしても下位貴族の集団に紛れた方が気が楽なのだが、今は自分を放って行ってしまった父に文句を言う元気もなかった。どのみち、父に付いて行ったところで会話の輪に入れないことは分かっている。
「緊張したぁ……」
エミリアにとってはこの茶会自体が別世界の出来事だ。物語や吟遊詩人の歌で聞くことはあっても、自分には関係のない遠い世界の出来事。その中に自分が居るなど俄かには信じられない。その上、目の前に居たのは普通であれば決してお近づきにすらなれない高貴な三人だった。その上、王太子の背後に控えていた近衛騎士たちも皆見目麗しく、きっとこれは同じ人間ではないとさえ思った。あまりにも神々しく見えたのだ。
「よく頑張っていたわよ、エミリア。それでももう少し敬語を使いこなせるようにした方が良いわね。それから、思ったことをあまり態度に出すと付け込まれてしまうわよ」
思わずと言ったように零れたエミリアの言葉に、カルヴァート辺境伯ビヴァリーは微笑ましいものを眺めるような眼差しのまま、問題点を容赦なく指摘する。エミリアは途端に顔を引き締めて姿勢を正し、神妙な顔で頷いた。
「――難しいです。けど頑張ります」
「宜しい」
元々、ネイビー男爵家は貴族とも言えない家柄だ。エミリア自身もどちらかというと領民たちの方が“社交界に出ている貴族たち”よりも身近に感じる。自分自身も平民と近い感覚だと認識していた。
だが、だからといって完全に平民にはなり切れない。領民たちはエミリアを慕ってくれてはいるが、必ず“お嬢様”と呼んで一線を引いている。父親である男爵には“旦那”と呼びかけて仲間のように扱うのに、エミリアは彼らにとって“良いところのお嬢様”であるらしかった。
そんなエミリアに貴族としての暮らしを教えてくれたのが、カルヴァート辺境伯だった。元々エミリアの父とも交流があったらしいビヴァリーは、早くに母を亡くしたエミリアに必要なのは教育だと渋る男爵を説き伏せ、定期的にエミリアを辺境伯領に連れて行っては淑女教育を施してくれたのだ。とはいえ、辺境伯領を女だてらに統治し騎士団を率いている女傑である。その淑女教育は決して一般的なものではなかったのだが、エミリアにそれを知る術はない。そして淑女教育が一般的なものではないため、エミリアは下位貴族の令嬢たちと話が合わなかった。
「まあ、そんな貴方の朴訥さをあの方々もお気に召したご様子でしたけれど」
「え、本当ですか?」
ビヴァリーの言葉にエミリアはかなり驚いた。目をまんまるに見開いている。実際にエミリアは自分のことで手一杯で、王太子やその婚約者、隣国の皇子の反応など観察する余裕はなかった。
ビヴァリーは「あら」と僅かに目を瞠り、くすくすと笑みを零した。
「あら、貴方が気が付かないなんて余程緊張していたのね。ええ、可愛らしい小鳥か子兎を見つけたというような表情でしたわよ。特にクラーク公爵令嬢」
「え、え? なんか全く褒められている気がしないんですけれど……」
ころころと笑うビヴァリーを前に、エミリアは戸惑いを隠せない。本当に褒められているんだろうか、揶揄われている気がする――という顔でじっとりと女傑を眺めやる。
ビヴァリーは少し笑いを残した表情でエミリアを見返した。
「誉めているのだから素直に受け取りなさいな」
「――はい。クラーク公爵令嬢リリアナ様が凄くお姫様みたいで、あんな風になれたら良いなと思ったので」
頑張ります、とエミリアは決意を新たにする。勿論、エミリアも完全にリリアナを真似ることが出来るとは思っていない。だが少しでも憧れの人に近づけたら良いと、そんな気持ちだった。
途端にビヴァリーは僅かに呆れを滲ませる。
「あの方を真似るのは無謀というものじゃないかしら」
「分かってます」
出鼻を挫かれた気分になって、エミリアは少し落ち込む。彼女は貴族とはいえ下位の男爵令嬢だし、淑女教育をカルヴァート辺境伯から受けているとはいえ、元々活発な気質だからか可憐さや儚さといった単語からは程遠い。微笑みを浮かべて口を開かず座っていれば淑女に見えるが、口を開いたり動けばすぐに化けの皮が剝がれるな、とはカルヴァート辺境伯家嫡男アンガスの台詞だった。
そんなエミリアとは違って、リリアナは深窓の令嬢といった風情だった。すぐに風邪を引いて体調を崩しそうだし、辛いことがあれば貧血を起こして倒れてしまいそうだ。儚げな容姿ではあるが面差しは優しく、所作も華麗だ。言葉遣いも美しく、指先にまで神経が通っていると思わせるような動作はエミリアでも目を引かれた。そんなリリアナに微笑まれただけで、エミリアも胸がどきりとした。エミリアは女だから騎士にはなれないが、もし側に仕えないかと誘われたら一も二もなく頷くだろう。
それに、他の高位貴族たちと違って彼女は男爵令嬢に過ぎないエミリアにも変わらぬ態度で接してくれた。それで憧れるなという方が無理な話だ。
しかしビヴァリーはそんなエミリアに僅かに困ったような視線を向ける。
「多分、貴方が思っていることは私の意図したところではないと思うのだけれど」
「え?」
エミリアは首を傾げた。それでは一体どういう意図なのだろうかと疑問を顔中に浮かべる。しかしビヴァリーは具体的に答える気はないらしく、少し小首を傾げてみせた。
「貴方は貴方らしさを保っておくべきよ。羊が馬になりたいと憧れても無理ですもの」
「まあ確かに、リリアナ様はこの上なく高貴な方ですしね」
幾分納得してエミリアが頷けば、ビヴァリーはぽつりと言葉を漏らした。
「――相当な爪か牙を笑顔の下に隠し持つ芸当もできないでしょう、貴方は」
「つめ?」
妙に物騒な言葉が聞こえた気がしてエミリアは目を瞠る。しかしビヴァリーは答えずに視線を別の場所に向けた。その目が何かを見つけたようにきらめく。不思議に思ったエミリアはビヴァリーの見ている方角へ顔を向けた。そこにはエミリアよりも年上の青年が居た。プラチナブロンドが太陽光を反射して、キラキラして見える。
「うわあ……すっごく綺麗」
「――貴方、先ほども殿下方をそんな表情で見ていたけど。まさかあの時もそう思っていたの?」
「え? あ、はい。だってこんなに綺麗な人たちばかりだなんて思ってもいなくて」
プラチナブロンドに目を奪われていたエミリアは、茫然としたままビヴァリーの問いに無意識に答えた。ビヴァリーは呆れた視線を向けるが、エミリアにとっては仕方のないことだった。
ローランド皇子もライリー王太子もリリアナ嬢も、皆それぞれにとても美しかったのだ。特にリリアナ嬢は、おとぎ話に出て来る妖精姫を具現化したような人だった。小さなころから、エミリアが思い描いて来た妖精姫やお姫様そのものだ。本当に自分は今起きているのかと、夢を見ているのではないかと疑っても仕方がない。
「まあ良いわ。ご挨拶に伺うわよ」
「はい――って、ええ!?」
仰天したエミリアだが、高位貴族ばかりのこの場に置いて行かれては堪らない。慌ててビヴァリーを追いかける。
どうやらプラチナブロンドの青年はビヴァリーのことも知っている様子だった。
「クラーク公爵」
「――これは珍しい方がいらしているのですね。ご無沙汰しております、カルヴァート辺境伯」
ビヴァリーに声を掛けられたクライドは一瞬目を瞠ったが、如才なく笑みを浮かべて挨拶を述べた。ビヴァリーもにこやかに答える。
「直接ご挨拶するのが遅れましたわね。先代公爵閣下のことは残念でしたが、若き公爵のご活躍は我が辺境にも届いておりますのよ」
「過分なお言葉恐縮です。若輩者ゆえ、まだまだ足らないところが多いのですが」
「まあ、ご謙遜を」
エミリアは黙って二人の会話を聞いていた。どこまでが社交辞令でどこからが本心なのか、貴族同士の会話に慣れないエミリアには読み取れない。領民との会話なら、もっと話は簡単だ。彼らは遠回しな言い方などしないから、裏を読む必要もなかった。
その上、先ほどまでは緊張で気が付かなかったが、ずっと周囲から向けられている視線が痛い。驚嘆や興味関心もあるが、大半は敵意や嫉妬だ。
尤も、ビヴァリーには貴族社会の話し方にもある程度慣れておいた方が良いと言われている。だが、ある程度上手くこなせるようになったとしても、きっと楽しめるようになる日は来ないのだろうと、内心でエミリアは嘆息した。
ビヴァリーはちゃんと周囲の視線に気が付いているようで、扇の後ろで含み笑いを漏らす。
「私がお声掛けしたことで、ご令嬢方から恨まれるかしら?」
「寧ろ、私としては助かりました」
しれっとクライドは肩を竦めて答える。
クラーク公爵となったクライドは今や多くの貴族たちから注目の的だ。妹は未来の王太子妃であり、そして若年で公爵位を継いだ彼はまだ婚約者も居ない。三大公爵家の一翼を担う公爵家の未来の女主人を夢見る者は少なくない。
だからこそ、今回の茶会でクライドにお近づきになろうとする令嬢とその親は多かった。しかし今クライドに話し掛けているのはカルヴァート辺境伯だ。下手な者が口を挟めるわけはない。
クライドの返答に楽し気に笑みを零したビヴァリーは、エミリアに前へ出るよう促した。
「こちらネイビー男爵家のご令嬢エミリアですわ。縁あって私が世話をしておりますの」
「お初御目文字仕ります、クラーク公爵閣下」
口の中が干上がるのを感じながらエミリアは淑女の礼を取る。クライドは微笑まし気にエミリアの挨拶を受けていたが、彼女が姿勢を戻すと同時に優しく名乗ってくれた。
「クラーク公爵クライドだ。宜しく頼む」
「は、はい。光栄に存じます」
麗しい顔に微笑まれて否応なしにエミリアの頬が赤く染まる。
男爵領には居なかったが、カルヴァート辺境伯領には見目の良い男性は居た。しかし彼らは辺境を守るため騎士服を身に纏っていて、“麗しい”というよりも“勇ましい”といった方が相応しい雰囲気だった。だからこそ、ローランド皇子やライリー王太子、クライドといった見目麗しい異性にエミリアは慣れていなかった。内心で絶叫しながら、どうにか礼儀を失しないようにとエミリアは言葉を返す。
一方で、カルヴァート辺境伯とクラーク公爵の会話を傍から見守っていた外野は驚きと衝撃を隠せなかった。これまでクラーク公爵クライドと言えば、どれほど麗しい女性が挨拶をしても決して“宜しく頼む”と口にしたことはなかった。いつも名乗るだけで終わり、なおざりに服飾品を褒めて終わる。彼がその言葉を口にしたということは、今後も付き合いを続けていくという意思表示に他ならない。
だがエミリアにとっては幸運なことに、それもカルヴァート辺境伯の顔を立てたのだろうという見方が大半だった。
クライドは視線をビヴァリーに向ける。そして、他の者には声が聞こえないよう声を潜めて尋ねた。
「確かカルヴァート辺境伯領だったと記憶しているのですが、十六、七年ほど前に黒死病が発生した村がありませんでしたか」
ビヴァリーは変わらぬ笑みを浮かべている。しかし、その目は鋭くクライドを凝視した。扇で顔を半分隠したまま「ええ」と肯定する。
「確かに十七年ほど前に、我が領の端にある村で黒死病が発生いたしました。それが如何致しましたか?」
「実は」
クライドは僅かに苦笑を滲ませてみせた。何気なく一歩ビヴァリーに近づき更に声を潜める。
「我が領でも黒死病が発生いたしました。すぐに鎮静化はしたのですが、妙なことに未だ黒死病が再発するという噂が消えないのです」
そして同時に、放火しようと村を訪れる者も定期的に出て来ている。執事のフィリップは村人の無教養さ故だと言っているが、それにしては違和感が拭えなかった。捕らえた村人の証言を聞いても、黒死病が再び蔓延すれば魔物が出て来る、そうなると自分たちの村も喰い尽くされる、だからその前に原因となる村を焼くのだと、その一点張りだった。
「もし共通点があるのであれば、何かしら糸口が見つかるのではないかと思いまして」
クライドの言葉にビヴァリーは目を細めた。真意を探るような目つきでクライドと見つめ合う。クライドもまた悠然とした微笑みを崩さぬままビヴァリーの返答を待った。やがて沈黙を破ったのはビヴァリーだった。
「――確かに我が領で黒死病が発生しましたわ。幸いにも最初に患者が発生した村以外に伝播はしませんでしたが、参考になるようなものはなにも残っておりませんの。その村は焼失したものですから」
低い声にエミリアは恐る恐るビヴァリーの様子を窺う。対するクライドの微笑みも決して本心のようには思えず、エミリアは顔が引き攣りそうになった。直前で気が付き慌てて堪えるが、もしかしたら多少笑みが不自然になってしまったかもしれない。
クライドとビヴァリーはエミリアのそんな様子など一切気に掛けず、にこやかに会話を続けていた。
「そうですか。辺境伯のことですから、小さな手掛かりでも掴んでいるのではないかと期待したのですが――残念です」
ビヴァリーは扇の下で口角を上げる。クライドは言外に、辺境伯の有能さを揶揄している。ビヴァリーが本気で手掛かりは皆無だと言っているとは露ほども信じていない様子だった。そしてビヴァリーもまた、クライドが言外に告げた意味をきちんと受け取っていた。ビヴァリーは目を細める。
「そうですわね。ご期待に沿えず申し訳ないとは存じますわ。――ああ、そう」
多少わざとらしく、ビヴァリーは何かを思いついたというように声を上げる。そしてにこやかな顔をエミリアに向けた。
「実はこの娘の――ネイビー男爵領の近くに修道院がございまして。黒死病が発生するより前ではございますが、その修道院と交流があったと聞いておりますわ」
「――修道院、ですか」
どうやらクライドにとってその言葉は予想外だったようで、一瞬不意を突かれたように目を瞬かせる。戸惑いを隠せずにビヴァリーの言葉を反復したクライドに、ビヴァリーはにっこりと頷いた。
「ええ、一度行かれても宜しいのではないかしら。確か王太子殿下とクラーク公爵令嬢、それに皇子殿下も視察で立ち寄られたと先ほど仰られておりましたわ」
その言葉でクライドはどこの修道院なのか把握したらしい。わずかに顔を引き締めると、満足気な笑みを浮かべた。
「それは貴重なお話ですね。ありがとうございます」
「いいえ、お気になさらず。もしいらっしゃる際はご連絡を頂けましたら、誰か人を寄越しますわ。もし我が辺境伯家の人間が無理でしたら、この娘でも宜しいかしら」
エミリアはぎょっとして傍らに立つビヴァリーを見上げる。しかし辺境伯の表情は本気だ。そしてクライドもまたにこやかに答えた。
「お手を煩わすのは申し訳ないのですが、差し支えないようであれば勿論」
「まあ、それはそれは」
おほほほ、と楽し気に笑い声を立てたビヴァリーはパチリと音をさせて扇を畳んだ。
「またのご連絡をお待ち申し上げておりますわ」
その後は軽く雑談を交わし、ビヴァリーはエミリアを連れてクライドの前から引き上げる。エミリアは泣きたい気持ちになりながら、とぼとぼとビヴァリーの後ろに付いて行った。
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