30. 遊戯の前触れ 3
王立騎士団に勤める騎士は、滅多なことでは家に帰れない。基本的には騎士団の兵舎で一年中過ごす。だが、知人や友人の訪問まで禁じられているわけではない。
その日、二番隊隊長のダンヒル・カルヴァートは訪問者の知らせを受けて顔を顰めていた。
「――会いたくねぇ。仮病でも使ってお帰り願おうかな」
思わず呟くが、そのようなことをしても無駄だということは骨身に沁みている。深々と溜息を吐く二番隊隊長を見て、言付けを持って来てくれた騎士は顔を引き攣らせている。ダンヒルは王立騎士団の隊長たちの中では比較的開けっ広げな態度で明るく接する方だが、それでも一般騎士にとっては雲の上の存在であることは間違いがない。特にダンヒルの実家は辺境伯だ。騎士の中には勿論高位貴族もいるが、大半は下位貴族であり、高位貴族でも辺境伯には及ばない家系も多い。
ちらりと若い騎士を見上げたダンヒルは諦めたように息を吐いた。今ここで自分が文句を言っても、目の前の騎士が板挟みにあって困るだけだ。その上ダンヒルに会いに来た人間は一筋縄ではいかない相手だ。どのみち、今日中にダンヒルは捕まってしまうだろう。
「分かった。行く。面談室だな?」
「はい、そちらでお待ちです」
ほっとしたように騎士が頬を緩めた。椅子から立ち上がったダンヒルは「訓練に戻れ」とだけ告げ、帯剣して隊長室を出た。隊長室とはいっても、団長室や副団長室のように個室ではない。各隊の隊長たちの机が適当に並べてあるだけの部屋だ。机の間に間仕切りはあるが、個人的な空間とは到底言えない。
尤も、そのせいで隊長室を使う隊長は限られている。少なくともダンヒルは滅多なことでは使わない。お陰で自室には仕事の資料が山積みになり際の踏み場もない――と言えば聞こえは良いが、要は片付けをしないだけだ。そして八番隊隊長のブルーノ・スコーンの机は一度も使ったことがないに違いないと思うほどに綺麗だった。それを考えると、ごく稀ではあるが、隊長室を使う自分は協調性があるとダンヒルは内心で自画自賛する。
尤もその自画自賛が現実逃避である自覚はあった。重い足取りで廊下を歩き、ダンヒルは面談室に到着する。扉を叩いて中に入れば、そこには見慣れた顔があった。
「――――姉上。こんなところまで何をしにいらしたのです?」
「お前が滅多に帰らないからではないですか」
姉上とダンヒルが呼んだ相手は非常に美しい女性だった。豊かな金髪を艶やかに結い上げ、切れ長の瞳は薄紅色に色づいている。そんな姉は、絶世の美女と嘗て評判だった母親ビヴァリー・カルヴァートの生き写しだと噂されていた。なるほど確かにこの姉に似ているのであれば、母も若かりし頃は社交界の花だっただろうとダンヒルは思う。
しかしダンヒルにとっては見慣れた顔だし、その内面を知っているからこそ素直に見惚れることもできなかった。
「領地は遠いのですよ」
「私が言っているのは王都の屋敷のことです」
言い返したダンヒルに、姉ヴァージニアはけんもほろろに切り返す。ダンヒルは口達者な姉と戦うことは早々に諦め、立ったまま単刀直入に用件を尋ねることにした。
「それで姉上、御用件は一体なんです?」
「まあ、少しはこの姉と旧交を温めようとは思わないの?」
ヴァージニアは片眉を上げて不機嫌を表わす。その表情一つでさえ計算しつくされたような美しさがあった。ダンヒルはげんなりとする。
「ハインドマン卿はどうなさったのですか。あまり夫を放置していると愛想をつかされますよ」
「ある程度距離があった方が、私の大切さも身に染みるでしょう。恋愛に限らず夫婦間にもある程度の緊張感は必要ですよ。覚えておきなさい、ダンヒル」
全くああ言えばこう言う、とダンヒルは溜息を吐く。ヴァージニアの夫ハインドマン卿は一体この姉のどこに惚れたのかと、何度目か分からない疑問をダンヒルは心に抱いた。彼は他にも選択肢があったにも関わらず――そしてその中にはそれなりに美人も居たにも関わらず、その心根に惚れたのだと中々靡かないヴァージニアに何度も求愛した。
ダンヒルも長兄のアンガスもハインドマン卿には「やめておけ」と幾度となく忠告したのだが、心からの気遣いは結局卿には届かなかったらしい。その上、結婚して数年経った今でも二人は仲睦まじいと言う。
「――それで、御用件は」
再度ダンヒルはヴァージニアに尋ねた。ヴァージニアはわざとらしく溜息を吐く。仕方のない子ね、というようにダンヒルを見やり、彼女は口を開いた。
「“立太子の儀”が執り行われるでしょう。その時に憂いがあっては困ります」
ダンヒルの眉がぴくりと動いた。だが感情は表に出さない。そんな弟を満足気に見やり、ヴァージニアは艶やかに微笑んだ。それは見る者全てを魅了するような表情だったが、慣れ切ったダンヒルには何の影響もない。そしてヴァージニアも、弟が今更自分の表情一つに動揺するとは思っていなかった。
「騎士団の中で私が信頼しているのは貴方です。他にも知り合いはおりますが――意味は分かりますね?」
ここまで聞かされたダンヒルは、ようやく苦虫を嚙み潰したような表情になった。非常に貴族的な言い回しだ。ダンヒルは貴族社会にありがちな慣習が嫌で、騎士を志した。幸いにも適性があったため二番隊隊長にまで登り詰めることが出来たから、以来極力貴族的な付き合いは避けるようにしている。女性を口説く時は幼少時から身に付けた貴族的な言い回しを使うのも楽しいが、こと政治や権力闘争に関わることになると途端に詰まらなくなる。
ヴァージニアは明らかに、そんなダンヒルのことを分かっていて持って回った言い方を選んでいる。
本当に良い性格してやがるぜと毒づきたいが、口にしてしまえば倍以上になって返されるのは分かっているから、ダンヒルは賢明にも口を噤んでいた。
ヴァージニアの紅を塗った形の良い唇が弧を描く。にこりと微笑む彼女は周囲の男全員が見惚れるだろう煌びやかさを放っていたが、ダンヒルには悪魔の表情にしか見えなかった。
しかし彼の姉は変わらぬ表情を浮かべたまま、手にした小さな鞄から一枚の紙きれを取り出す。
「貴方にしか見えないように魔術を掛けてあります。必要な時に、必要な情報が手に入るでしょう」
受け取りたくない、とダンヒルの顔にでかでかと書いてある。しかし受け取らない選択肢は用意されていなかった。溜息を堪えて、ダンヒルは乱暴に紙を受け取る。ヴァージニアは一瞬目を瞠ったが、すぐに楽し気にくすくすと笑い始めた。
「何がおかしいんです」
「だって、お前が直ぐに受け取るとは思わなかったんだもの」
色々と屁理屈にもならない理由を付けて断ると思っていたわ、と続けられ、ダンヒルは眉間に皺を寄せた。
「いつまでも子供じゃありません」
「あら、私にとってはお前はいつまでも泥だらけで遊んでいた子供よ。お母様も、それは同じだわ」
上品に笑いながら、ヴァージニアは椅子から立ち上がる。ダンヒルは紙をポケットに突っ込むと、姉をエスコートするため隣に立った。本当であればエスコートなどしたくなかったが、弟と二人になるため護衛と侍女を外に待たせている以上、そこまでは礼儀として付き合わなければならない。
ヴァージニアは優雅な仕草でダンヒルにエスコートされ、静々と歩いた。傍から見れば美男美女で見事に釣り合っている二人だが、特にダンヒルの表情が硬すぎて恋人同士には見えないだろう。
姉を無事護衛と侍女の元に送り届けたダンヒルは、挨拶をするとさっさと踵を返す。短い面会であったにも関わらず、酷く疲れていた。
*****
ネイビー男爵領から転移で帰宅したリリアナは、体のだるさを覚えていた。座っていることですら辛く、這う這うの体で寝台に潜り込む。辛うじて枕元にある呼び鈴を鳴らすと、すぐにマリアンヌが飛んで来た。
「お嬢様、如何なされましたか?」
扉を開いたマリアンヌは、リリアナが寝台に入り込んでいるのを見て驚いたように目を丸くする。しかし次の瞬間、彼女は険しい表情で慌てたようにリリアナの額に手を当てた。
「熱が――、すぐにお医者様をお呼びします」
ようやくそこでリリアナは熱を出しているのだと自覚した。
一見したところ儚い少女だが、その実リリアナは体調を崩したことなど滅多にない。六歳の時に流行り病で床についたものの、それ以来風邪の一つも引いたことがなかった。だからこそ久しぶりの体調不良に気が付くのが遅れたのだろう。
医者を呼ぶために部屋を出たマリアンヌは、すぐに氷嚢を持って戻って来た。
「暫く御辛抱くださいませ」
マリアンヌはリリアナが着ていた服を脱がせ、汗を拭くと再び寝台に寝かせる。氷嚢を額の上に置かれ、リリアナは気持ちよさに目を瞑った。マリアンヌは心配そうにしながらも優しく微笑みかけてくれる。
「お医者様がいらっしゃるまで、お眠りください」
こくりと稚い仕草で頷き、リリアナは直ぐに意識を手放した。
次にリリアナが目を覚ましたのは、医者が来た時だった。医者といってもこの世界では大した診断も治療も出来ない。ただ特筆すべき点として、リリアナの侍医はある程度魔術にも精通している点だった。ただしあくまでも“ある程度”であって、治癒魔術は使えないし呪われていたとしても気付けない。彼ができるのは、体内を循環する魔力の様子を診ることだけだった。
「――だいぶ、魔力が乱れておりますな」
「魔力が?」
不思議そうに言葉を繰り返したのは、傍に立っていたマリアンヌだった。医者は「左様」と頷く。
「魔力暴走に似た動きをしております――が、魔力暴走とは違い、多すぎる魔力が体内に渦巻いている状態。上手く魔力を外に出せれば良いのですが、一歩間違えれば魔力暴走になって周囲にもご本人にも悪影響ですな」
熱でぼうっとした頭を抱えたリリアナは、自分の思考速度が普段より遅くなっていることを自覚する。だが、それでも医者の言葉に違和感を覚えた。
魔力は使えばその分減る。尤も恒常性があるため減った魔力はある程度の時間をかけて元の量まで戻る。だが、リリアナは普段から良く転移の術を始めとして高度な魔術を次々と使っているのだ。魔力暴走を起こすほど大量の魔力が体内を巡る状態になるなど、普通に考えればあり得ないはずだった。
しかしそのことを口には出来ない。一般的には出来ないとされている魔術も含めて、リリアナが日常的に使っていることは誰にも話すことのできない秘密だった。
マリアンヌは難しい表情で医者に尋ねる。
「その、魔力を外に出すには――魔導士様にお願いすれば宜しいのでしょうか」
「いや、治癒魔導士でも難しい。できる魔導士は――私の知る限りではおりませんな」
医者の言葉にマリアンヌは眉根を寄せた。普段であればマリアンヌも引いただろうが、他でもない主の体調に関わることである。初老の医者に食らいつく勢いで質問を重ねた。
「魔導省の、ベン・ドラコ様でも無理なのでしょうか?」
「彼は研究肌だから、もしかしたら出来るかもしれないが――いや、難しいだろう」
消極的な姿勢を崩さない医者に、マリアンヌは珍しく苛立った様子だった。このまま医者を問い詰めても満足の行く回答は得られないと判断したらしい。静かに「分かりました」と頷く。
医者はどこかホッとしたような表情になった。
「暫く安静にしていれば多少は落ち着くでしょう。薬を煎じておきます。一応、この薬も魔力を落ち着かせる働きがありますから」
「ありがとうございます」
マリアンヌは静かに礼を告げ、立ち上がった医者を送り出す。ふう、と息を吐いたマリアンヌは、辛そうな表情で顔を赤くしたリリアナを見下ろした。
「ベン・ドラコ様に文を飛ばして、解決策をお伺いします。お嬢様、申し訳ありません」
「――大丈夫よ、気にしないで頂戴」
リリアナの答えを聞いたマリアンヌの表情が一瞬泣きそうに歪んだ。だが、熱で視界の霞んだリリアナは気が付かない。マリアンヌは氷嚢を取り換えてくれた。リリアナは目を閉じる。疲れ切った体は睡眠を欲しているようで、すぐにリリアナの意識は闇に沈んだ。
*****
――胸が張り裂けるように痛い。
リリアナは目を開けた。目の前には、少し大人びた顔のリリアナ・アレクサンドラ・クラークが立っている。彼女の薄緑の瞳は悲哀と絶望を映し出し、徐々に憎悪へと変わっていった。
――――あの女は、わたくしの持っていないものを全て持っている。
わたくしが失ったものも、欲していたのに手に入れることが終ぞ敵わなかったものも、あの女は労せずして手に入れている。
幸福な環境を当たり前のものと考えて、感謝すらしていない。当然のようにその幸せと愛情を享受して、のうのうと生きている。それどころか、わたくしが唯一持っている婚約者も王太子妃の座も、奪おうとしている――。
許すことなどできなかった。
家族からの愛など、リリアナは知らなかった。生まれてからずっと憎しみと侮蔑を向けられて生きて来た。自由に意見を言う環境など、リリアナにはなかった。皆に愛される、純真無垢で開けっ広げな、どこまでも明るく肯定的な感情などリリアナには存在していなかった。
――誰からも愛される、心優しい少女――エミリア・ネイビー。
彼女はリリアナが産まれてから一度も手にしたことのない全ての幸せを、当たり前のように手にしていた。
リリアナには眩しすぎた。常に変わらぬ微笑を浮かべるリリアナにも、裏表のない笑顔と親切心を向ける少女が、ただ恐ろしかった。自分の居場所が奪われる、それは間違いのない事実だった。
『排除しなければ』
掠れた声が、可憐な少女の喉から零れた。
『わたくしから大切なものを奪う――そんな世界など、わたくしは要らない』
涙一つ零していないのに、リリアナの目の前にいる少女は泣いているように見えた。
暗黒に飲まれてしまえと、彼女は手を振るう。
そしてその瞬間、リリアナは――――
目を覚ました。