表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢はしゃべりません  作者: 由畝 啓
第一部 悪役令嬢はしゃべりません
194/564

30. 遊戯の前触れ 2


アジュライトが訪れた翌日、リリアナは単身でネイビー男爵領に向かった。勿論転移の術を駆使して、侍女のマリアンヌや護衛二人には気が付かれないよう万全を期している。


ネイビー男爵領は非常にこぢんまりとした領地だった。領地というよりも、隣接した村を束ねると表現した方が適切だ。馬を使えば一両日で全てを見て回れるだろう。

領地は肥沃な土壌にあるらしく、牛が食べるのに十分な牧草をたたえた草原と川が流れていた。多くの土地とは異なり土壌に十分な窒素が含まれているのか、もしくは三圃制が上手く根付いているのだろう。家畜小屋に豚や牛を飼い餌をやっていることからも明らかだ。

男爵一家が住まう邸宅から少し進んだ場所に教会があり、その周辺に農民たちの住まう家々が点在していた。そしてその家々を囲むようにして広がる肥沃な大地は、風が吹く度に草が揺れ独特な臭いと砂埃を運んで来る。


(見事な田園風景ですわね)


幻術で姿を消したリリアナは内心で呟いた。あちらこちらから家畜の鳴き声、子供の泣き叫ぶ声、怒鳴り声、車輪の壊れかけた荷車を押す音が響いて来る。決して落ち着けるような場所ではないが、ある意味で素朴な風景だった。

しかし、リリアナは農村の風景には興味がなかった。村を突っ切って男爵一家の住まう邸宅に向かうよりは転移の方が早いし汚れないだろうと考えた瞬間、その場から姿を消す。そして彼女は村の中央に位置している邸宅のすぐ傍に転移した。

邸宅の傍には粉挽き用の水車がある。恐らく農民たちが刈り取った小麦はここで挽いて蓄えるのだろう。しかし今は水車も動いていない。リリアナは止められた水車を横目に邸宅の中へ勝手に入って行った。


(エミリア・ネイビーは居るかしら)


乙女ゲームの女主人公(ヒロイン)エミリア・ネイビーは活発な性格という設定だった。その通りの性格であれば、彼女は家に籠っているはずがない。高位貴族の令嬢であればまだしも、男爵や子爵ともなると“金と広大な土地を管轄している農民”と言うに相応しい暮らしぶりであることは間々ある。ネイビー男爵家がどのような暮らし方をしているのかリリアナは詳しく知らないが、ゲームのエミリアを思い返せば、貴族的というよりも庶民的と言った方が腑に落ちる。


幸いにも、男爵家の邸宅はそれほど広くはなかった。尤も農民たちの暮らす家と比べたら大きいが、三大公爵家息女であるリリアナにとっては多少、手狭に感じられる。


「ああ、やっちまった!」


響いて来た銅鑼声に、リリアナは咄嗟に顔を上げた。玄関ホールで立ち尽くしていると、再び同じ声が「エミリアにどやされちまう」と喚いている。誰かが宥めているようだが、宥めている側の声は良く聞こえない。大まかに見当を付けたリリアナは、声が聞こえて来た方に向かった。

どうやら声の主は執務室に居るらしい。二階の奥まった場所にある執務室は扉が開いていて、リリアナはその隙間から室内を覗いた。

婚約者であるライリーの執務室は勿論、クラーク公爵家の執務室も機密事項を扱っているため必ず施錠されている。たとえ中に人が居ても、それは変わらない。だがネイビー男爵家で施錠は大して問題ではない様子だった。他に洩れてはいけない情報を扱っていないのか、もしくは邸宅に忍び込む盗人がいないのか――恐らく前者だろうと思いながら、リリアナは隙間から室内へと身を滑り込ませた。


部屋の中には二人の男が居た。銅鑼声の主は恰幅が良く日に焼けた男で、体つきも逞しい。騎士のような体つきというよりは、野良仕事に精を出している屈強な男という印象だ。

一方、その男を宥めているのは綺麗な衣服を身に纏った若い男だった。仕立ての良い服は間違いなく高位貴族のものだ。リリアナは何となく物陰に身を潜めながら、二人の様子を窺った。


「でも良かったではないですか、僕が今日伺ってご連絡することができたのですから」


丁寧な言葉遣いをしているのは若い男だ。恐らく爵位は彼の方が高いはずだが、彼は目の前に座る男爵に敬意を払っている。そして男爵もまた目の前の若者に敬語を使われても気にしていなかった。


「そうなんだけどよぉ……若い女の着るもんなんざ、俺は分からねえぞ」


悲壮感たっぷりに男爵はぼやいた。若い男は穏やかな表情を浮かべてはいるものの、わずかにうんざりした様子も垣間見える。もしかしたら男爵は何度も同じことを繰り返しているのかもしれなかった。

それでも若い男は真摯に言葉を重ねた。


「だからこちらで手配すると申しております」


しかし、男爵は首を縦には振らない。苦い表情で渋っている。大きな体を小さくして、ぎしぎしと音のなる椅子に腰かけたまま、存外器用に動く手指が卓上のペンを弄ぶ。そして溜息混じりにぼやいた。


エミリア(あいつ)が初めて社交界に出る時のドレスは俺が用意するって、あいつの母親と約束したんだよ」

「それでしたら、貴方も我が領へいらっしゃれば宜しいでしょう。なに、しばらくここを留守にすることにはなりますが、代わりの者を置いておきますので存分に娘孝行なされば宜しい」

「でもなあ、そうしたらあいつが、俺がすっかり“立太子の儀”を忘れてたって気付くだろ? そうしたら、どんだけ怒られることか――」


そういえばエミリアは幼い頃に母を亡くしていたと、リリアナは思い出した。小さな男爵領で父と娘二人、力を合わせて生きて来たのだ。隣接する領地がカルヴァート辺境伯領だったため、幼いエミリアと辺境伯一家はずっと交流を持っていたのだ。となれば、今この部屋に居る若者はカルヴァート辺境伯の関係者に違いない。

リリアナはそこまで推測すると、せめて若者の名前だけでも知りたいと耳をそばだてる。

あいつは怒ったら怖ぇんだよ、と大袈裟に震えてみせる男爵を見て、若い男は小さく笑みを零した。


「そこはもう諦めて、怒られてください、男爵。エミリア嬢と一緒に貴方の服も誂えれば良いのですから」

「アンガス、お前俺をエミリアに売ろうと考えてやがんな?」


リリアナは僅かに目を瞠った。アンガス・カルヴァート――カルヴァート辺境伯の長男だ。次期当主として教育を受けているが、同時にカルヴァート騎士団の団長も勤めている剣豪である。

男爵の体躯と並んでいるせいもあるかもしれないが、それでもアンガスの肉体は騎士としても細身だ。だがその剣技は王立騎士団の騎士と競わせても互角であると、王都にまで武勇が聞こえている。

巨体の男は恨めし気に、自分より一回り小さな青年を睨んだ。だが青年は一切動じない。にこやかに男爵の睥睨を受け止めている。


やがて、男爵は諦めたように溜息を吐いた。途端に大きな体が萎んだように見える。そのさまを優しく眺め、アンガスは「それでは」と尋ねた。


「代理人は既に連れて来ていますから、早速発ちましょう」

「はあ!?」


男爵は目を剥いた。ぎょろりと大きな瞳をアンガスに向けて「ふざけるな」と喚く。

農作業をしているせいか地声が大きい。そんな彼が怒鳴れば鼓膜が破れそうで、咄嗟にリリアナは両手で耳を塞いだ。

男爵の声は騒音だ。壁を一枚か二枚隔てたところで聞くくらいでちょうど良いに違いない、などと失礼なことを思いながら、リリアナは二人の会話を聞き続けた。アンガスは男爵の声に慣れているのか、平然としている。リリアナよりも男爵と距離が近いのに立派なものだと見当違いにも感心していると、アンガスは嫣然と微笑みを浮かべた。


「この上なく本気です。寧ろ、今発注しても完成は直前ですよ。何か起こった場合の危機管理を考えるのであれば既に失格です」


しかし男爵の顔色は悪くなる一方だ。

どうやら“立太子の儀”に参列するため衣服を仕立てなければならないと理解はしていても、できるだけ携わりたくない領域らしい。彼にとっては着飾って王宮に向かうよりも、領地で農民たちと共に過ごしている方が幸福なのだろう。

それを示すように、男爵はどうにか辺境伯領(死地)に向かう時期を先に延ばそうと足掻き始めた。


「いや、だが明日には村の奴らと種まきの時期について話し合いが――」

「代理人に任せられます。ネイビー男爵領の報告書は先ほど全て目を通したと言っていましたから」

「え、いやでも、ピットの所の牛が最近調子が悪いっていうから」

「おや、彼はちょうど家畜の健康管理もできるのです。奇遇ですね」


しかしアンガスはにこやかに全ての反抗を綺麗に封殺していく。男爵は目を泳がせてパクパクと口を開閉させていたが、やがてがっくりと肩を落とした。男爵が若き次期辺境伯に敗北した瞬間だった。


「――――分かった。準備する」


掠れた声は悲哀を誘い、そして大きな体の中で情けなく伏せられた目は哀愁を誘う。しかしアンガスはにっこりと満面の笑みを浮かべて華麗に一礼してみせた。


「ご理解いただけたようで何よりです。エミリア嬢も、我が屋敷で首を長くして貴方を待っていますよ」

「うへえ」


男爵は肩を竦めた。娘は愛おしいが、会えば怒られると思えば乗り気になれない、ということのようだ。そんな男爵を楽し気に見やり、アンガスは人を食ったような笑みを浮かべた。


「貴方が『うへえ』と言ったと、一言一句違わずエミリア嬢にお伝えしましょう」

「俺を殺す気か!」


大袈裟なほど男爵が震えあがる。

リリアナは首を傾げた。ゲームのエミリアは確かに努力家で、近衛騎士オースティンのルートでは数少ない女騎士として名を立てるほど武にも優れている。だがそれはあくまでもゲームの終盤の話であり、初期のエミリアは快活で運動神経が良いという程度の令嬢だったはずだ。それならば、これほどまでに父親である男爵が震えあがるはずがない。


(父親は娘に弱いという話を聞いたことがありますけれど、そういうことかしら)


クラーク公爵家の父子関係からは想像もできない関係性だが、もしかしたらネイビー男爵家ではあり得るのかもしれない。

リリアナがそうして自分を納得させていると、男爵とアンガス・カルヴァートは椅子から立ち上がり出立の準備を始める。その様子を眺めながら、リリアナは逡巡していた。

カルヴァート辺境伯に行けば、恐らくエミリアの姿も見られるだろう。だがそこまでしてエミリアを確認したところで、自分に出来ることはない。

少なくともエミリアと彼女の父親が“立太子の儀”に参加することは確実だ。悪役令嬢らしく何かしら策を弄してエミリアが参加できないように手を尽くすことも考えられなくはない。だが、リリアナは首を振ってその考えを振り払った。


(もしエミリアが“立太子の儀”に参加しなかったとしても、遅かれ早かれ攻略対象者に会うことにはなるでしょう)


“立太子の儀”が終われば、次は十五歳か十六歳で迎える社交界デビュー(デビュタント)もある。そうなればエミリアはライリーやオースティンと会う機会が増える。ただ彼らの出会いを先延ばしにするだけで自分の運命を変えられるとは限らない。

そもそも、エミリアは攻略対象者と初対面の時に何かしら特別なことをするわけではないのだ。“立太子の儀”ではなくとも、どこかで出会った時に同じ状況になることは十分考えられる。それならばまだ、リリアナが把握しているゲームの展開通りにある程度まで進めた方が、その後の展開を制御しやすい。


(――帰りましょう)


少なくとも、エミリアが“立太子の儀”に参加すると分かっただけでも収穫だ。妙に疲れた気分で、リリアナは小さく息を吐いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。


第1巻~第5巻(オーバーラップ文庫)好評発売中!

書影 書影 書影 書影 書影
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ