30. 遊戯の前触れ 1
リリアナはその日、朝食を摂った後の時間を図書室で過ごすことにした。未だに亡き父と執事フィリップが使っていただろう隠し部屋は見つけられていない。当初は感じていた焦燥も、時間と共に遠いものになりつつあった。
(エアルドレッド公爵が仰ることもあって探していたけれど――でも、隠し部屋があるという確証もなければ、証拠となりそうな資料をお父様が残しているという推測も確実なものではないわ)
父エイブラムが残していたとしても、執事のフィリップが処分している可能性も否めない。父が生きている時や亡くなった直後であればまだしも、二年経った今もまだ残っていると考えるのは現実的ではない気がした。
寧ろ、今は間近に迫ったライリーの“立太子の儀”の方が気に掛かる。ライリーは十五歳、そしてリリアナは十三歳。本来であれば各国の貴賓が招かれ、国内貴族でも当主とその同伴者しか列席を許されない式典だ。だがライリーの婚約者であるリリアナが十三歳でありながら参列すること、ライリーが国王となった時に同世代の貴族たちと親交があれば治世が行いやすいだろうことから、式典とは別に子供世代も参加できる場を設けている。
――それが、乙女ゲームの冒頭部の場面だった。
当初それをライリーから聞いた時、リリアナは別に開催せずとも良いのではないかと進言した。だが反対の立場をとるのはリリアナのみで、他は皆――クライドやオースティンといった側近候補だけでなく、顧問会議の面々も賛同しているらしいと聞けば強く反対はできなかった。
結果的に、現実世界でも前世の乙女ゲームと同じような展開になりつつある。
気が付けばリリアナは深く溜息を吐いていた。
(先に主人公の様子を見て来た方が宜しいかしら)
ヒロインが今どこに居るのか、詳しいことは知らない。普通であれば彼女の生家であるネイビー男爵家に居ると考えるべきだ。だが、彼女は領地を接するカルヴァート辺境伯とも親交があり、頻繁に辺境伯の屋敷を訪れているという記述もあった。
(男爵家であればともかく、辺境伯の屋敷には魔導士が居る可能性もございますわね)
簡単にリリアナの幻術を見破られるとは思わないが、油断は禁物だ。辺境伯はカルヴァートに限らず、ケニスも含めて他には知られていない秘密事項を持っているものである。
それならば先に一旦男爵家の方に行ってみるのも手だと、リリアナは心の中で呟いた。だが一度もネイビー男爵領には行ったことがない。男爵領というからには狭いはずだから、地図で場所を確認すればどうにかなるだろう。
(取り敢えず図書室で一度地図を確認してみましょう)
食事を下げたマリアンヌが戻って来れば、図書室に行くと告げようと考えながら準備を整える。その時、ふと風を感じてリリアナは顔を上げた。窓の方を見れば懐かしい黒獅子が顔を覗かせている。リリアナは目を丸くして久しぶりの客人に対峙した。
「アジュライト、お久しぶりですわね」
『人間の感覚で言うと数ヵ月ぶりか? なるほど、数ヵ月会わなければ久しいということになるのだな』
どうやらアジュライトには“久しぶり”という感覚はないらしく、小首を傾げている。獰猛にもなる獅子でありながら、その仕草は妙に愛くるしかった。リリアナは微笑ましく思いながら久方振りの来訪を歓する。
「今日は何かご用がございますの? それともただ立ち寄られただけかしら」
『両方だ』
アジュライトはあっさりと答え、リリアナの近くに寄る。リリアナはソファーに腰掛けた。アジュライトは不思議に光る瞳をリリアナに向けて喉を鳴らす。
『久しぶりにお前の顔を見たかったのと、それからこの屋敷の近くに面白いものを見つけてな』
「面白いもの?」
顔を見たかったと言われると妙に擽ったい気持ちになると思いながらも、リリアナの意識は後半に惹きつけられた。アジュライトは人ではないから、恐らく人間が思う“面白い”とは違うものだろう。
首を傾げたリリアナに、アジュライトは口角を引き上げる。牙が覗いて恐ろしく見える表情になったが、恐らく笑ったのだろうとリリアナは見当を付けた。
『そうだ。この屋敷近くに湖があるだろう。その傍に四阿がある』
「ええ、ございますわね」
『四阿から森に入る小道をそのまま進めば、そこに小さな小屋があるのを知っているか?』
アジュライトの説明を聞きながらリリアナは脳裏に地図を思い描いていた。しかし、森の中に小屋があるなど聞いたこともない。それほど頻度は多くないが嘗て森の中を歩いたこともあるが、小屋を見かけたことはなかった。素直に首を振ると、アジュライトは『だろうな』と呟いた。
『その小屋には魔術だか呪術だかが掛けてあってな。普通は見えないようになっているようだが、どうやらここ最近その術が解け始めたようだ』
「術が解け始めた――?」
『そうだ。一応、そこもお前の領域だろう? 自分の領域に妙なものがあると、落ち着いて生活できないからな』
術が解ける場合はそれほど多くない。術者が術を解く、何者かが解術する――この二つが可能性としてはあり得るが、もう一つの可能性は術者の身に何かが起こった場合だ。例えば病に罹った時、そして死んだ時。その時、術者が掛けた術はひとりでに解けてしまう。
今回の場合はどれだろうかとリリアナは眉根を寄せて思案した。この屋敷は叔父のものだったが、彼はリリアナが産まれる前に亡くなっている。そして父が亡くなったのも二年前で、術が解けた時期と合わない。それならばもう一つの可能性は執事のフィリップだった。彼がどの程度の術者なのかは分からない。魔導士としてはそれほど能力も高くない――つまり初歩的な魔術は使えるが発展的な魔術は使えないと耳にしたこともある。だが、呪術であれば魔術の素地は必要ない。
『――行ってみるか?』
アジュライトが探るような目をリリアナに向けた。リリアナはハッと思考の波から意識を戻し、アジュライトを見る。そして微笑みを浮かべた。
「ええ、行ってみることにするわ」
『それなら俺も同行しよう』
「まあ、心強いですわ」
にこりと微笑んでリリアナが礼を言うと、アジュライトは鷹揚に頷く。
元々は図書室に行くとマリアンヌに告げるつもりだったが、こうなれば部屋に居ると偽りこっそり抜け出した方が良いだろう。そう考えて、リリアナは部屋を訪れたマリアンヌに今日は部屋でゆっくり過ごすと告げた。扉を閉めたところで、リリアナは気配を殺していたアジュライトに目を向ける。
「参りましょうか。わたくしは転移の術で向かいますが、貴方はどうなさいます?」
『共に参ろう』
「それではこちらへ」
リリアナはアジュライトに近づくよう促す。手を伸ばせば触れられる距離まで近付いたところで、リリアナは「【転移】」と唱えた。途端に視界が切り替わり、リリアナとアジュライトを包む空気さえも清涼なものに変わる。
二人は四阿から森に向かう小道に立っていた。
『こっちだ』
転移の術で移動してもアジュライトが驚くことはない。黒獅子はリリアナを先導するように歩き出した。リリアナもその後ろを付いていく。
アジュライトが言っていた小屋は、森の入り口から少し歩いた場所にぽつねんと建っていた。それなりの大きさがあり、これまで気が付かなかったことの方が驚きだ。だが、確かに小屋は見えたり見えなかったりする。術が解け始めているというアジュライトの言葉は、正しく事実を言い表していた。
「妙な具合ですわね。解術をしたわけでもなさそうですし」
リリアナは首を傾げた。術者本人や他人が解術する場合、掛けられた術は綺麗さっぱりなくなってしまう。今リリアナたちの前にある小屋に掛けられた術のように、効果が半減したような中途半端な状態にはならない。言うなれば経年劣化のような状態だ。だが魔術にそのような概念はない。
魔術の効果が発現しているか、していないか。もしくは術の効果が十分か不十分か。それだけだ。
「貴方は何かご存知かしら」
『俺は門外漢だ』
もしかしてと思いアジュライトに尋ねるが、彼はあっさりと首を振る。元からそれほど期待していなかったリリアナは小さく息を吐き、一歩小屋に近づいた。念のため自分たちを攻撃するような術式が組まれていないかを確認した。
(あまり見覚えのない術式ですわね)
リリアナは眉根を寄せた。小屋に掛けられていた術式は、魔術と呪術を組み合わせたものだった。だがその術式は今までリリアナが読んだどの書物にも記載がない。どれほど発展的な術式でも基礎となる術式は同じはずなのだが、リリアナには心当たりが全くなかった。
(昔使われていた術式でもないようですし――東方の国で使われているものに比較的、近いかしら)
敢えて分類するのであれば東方魔術に起源があるようにも思える。だが、スリベグランディア王国では東方魔術の詳細を記した書物はそれほど多くない。王宮図書館にも数冊あるかないかと言う程度だ。そしてクラーク公爵家にはそれなりに揃っているが、基本的な内容のものが主であり発展的なものはそれほど多くない。更には魔術のように体系化されていない呪術も重ね掛けされているのだから、本質を見極めようとしても、雲をつかむような話になるのは致し方のないことだった。
更に、掛けられた幻術から感じ取れる魔力にも違和感がある。だが、その違和感の正体は掴めない。詳しいことは後から考えることにして、リリアナは小屋の中に入った。土埃だらけの小屋の中には乱雑に物が散乱していて、特筆すべきような点はなかった。
しかし、リリアナの後から中に入ったアジュライトは何かが気になるようで、床を前足で何回も擦っている。リリアナがそちらに視線を向けると、アジュライトはちらりとリリアナを見上げた。
『ここに何かある』
一体何があると言うのか。リリアナはアジュライトの前足が示す床を見た。アジュライトが擦ったせいか、床を覆っていた土と埃が拭われ床板の色が見えている。そしてそこには、複雑な文様が黒く刻まれていた。
「恐らくこれは、呪術陣ですわね」
魔術と呪術を組み合わせた陣だが、小屋を隠していた術と比べると呪術の比重が高い。アジュライトはリリアナの言葉を聞くと、小屋の隅まで後退した。リリアナは詠唱する。
「【魔術探知】」
途端に、小屋の床全面が光を放った。埃や劣化で消えかけていた文様も全てが詳らかにされる。
それは、かなり巨大な陣だった。魔術と呪術の術式が綿密に施され、複雑に絡み合っている。言うなればその術は頑丈な蔦で編まれた巨大な鳥かごだった。
リリアナは息を飲む。圧倒されるほどの術に、知らず胸が高揚していた。目の前にある術が一体何を目的として刻まれたものなのか、まだ分からない。しかし、リリアナは薄々その正体を予想していた。
術者が、この小屋に掛けた術を外部に知られたくなかったことだけは間違いがない。小屋それ自体に幻術を掛けるほど、その意識は徹底していた。
(もしかしたら、隠し部屋に繋がっているのかもしれない)
そうすれば、父が何を企んでいたのかも分かる可能性がある。もし分からなかったとしても、クラーク公爵家に隠された謎の手掛かりがあるかもしれない。
ずっとリリアナは心の中に違和感を持ち続けていた。その一つが、家族に関することだった。
父は何を企んでいたのか。
なぜ、クラーク公爵家の長男は代々ただ一人に忠誠を捧げると言われているのか。
そして母ベリンダが、リリアナをあれほどまでに恐怖し遠ざけた理由は一体何なのか。
それは一つの希求でもあった。
自分に何故感情がないのか、そう生まれ付いたのは遺伝的な問題なのか、それとも他に理由があるのか。
感情がないという事実は、リリアナにとって歓迎すべきことではなかった。外部からの刺激があれば、聖女にも殺戮人形にもなれてしまう。
前世で遊んだ乙女ゲームのリリアナは、空っぽの体に憎悪や絶望を詰め込まれて悪に身を染めた。そして待ち受けていたのは破滅だった。そんなゲームのリリアナの二の舞にならないと、一体誰が言えるだろうか。
「【我が名に於いて命じる、汝の真なる姿を示せ】」
リリアナは震える声で解術の詠唱を唱える。魔力も十分あり、失敗するはずはなかった。
だが、眩いほどの光がリリアナの魔力に反発するように溢れ出す。そして、リリアナの詠唱は魔力と共に、落雷に似た音を立てて弾かれていた。
「――――ッ!」
魔術をはねのけられたリリアナは激痛に顔を顰める。しかし咄嗟に結界を張ったため、怪我を負うことはなかった。幸運にも体内の魔力にも変化はない。
少しして、小屋の中を満たしていた光は徐々に収まりを見せ始めた。しばらくそのままの状態で待っていると、再び土埃に塗れた小屋に戻る。
そこまで見届けたリリアナは、深く息を吐いた。壁際で一連の流れを見物していたアジュライトがそっとリリアナに近寄って足元に寄り添う。温かい感触に気が付いたリリアナはアジュライトを見下ろした。
「一気に解術することはできないようですわ」
『光が凄かったな。体はなんともないのか』
「ええ、問題ございません」
有難うございますと礼を述べれば、アジュライトは視線を前に転じた。既に気配を消している陣を眺めているのだろう。
リリアナは体から力を抜いて、ぽつりと呟いた。
「一度に解術することはできませんが、まずは解析をして――蔓を一本ずつほぐすように解術すれば、あるいは」
『――そうか』
アジュライトの相槌に、リリアナは頬を緩めた。
「戻りましょうか」
今すぐに解術することはできない。帰るかと問われたアジュライトが頷いたのを確認し、リリアナは転移の術を使った。あっという間に視界が切り替わり、リリアナの部屋に戻る。
また夜になれば一人で小屋に戻るつもりだった。術式を解析しその全てを解術するまでに、相当な時間がかかるだろう。
ソファーに腰掛けたリリアナを一瞥し、アジュライトは不可思議な表情を浮かべた。
『どうした、楽しそうだな』
「まあ、そう見えまして?」
リリアナは首を傾げた。楽しそうと言われるような顔をしているつもりはなかった。そもそもリリアナに感情はないはずなのだ。つまり“楽しい”と感じることもないはずなのだが、リリアナはその矛盾を深く考えずに相槌を打った。
「これまで見たことのない陣でしたもの。解ける日が今から待ち遠しいですわ」
『――――そうか』
アジュライトはやはり棒を飲み込んだような表情で曖昧に答える。リリアナはしばらくアジュライトと雑談を楽しみながら体を休め、その後に図書館に行こうと決めた。マリアンヌを呼び、お茶の用意をさせる。
今日は一日予定がないはずだったが、いつの間にかしたいことが増えている。
(ネイビー男爵領に転移した後に、もう一度あの小屋に参りましょう)
ゲームが開始する時期までもう時間がない。それまでに出来ることはしておかねばと、リリアナは改めて気を引き締めた。
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