29. 獅子身中の虫 7
王太子ライリー・ウィリアムズ・スリベグラードが何者かに襲われたという知らせは、顧問会議の面々を大層驚かせた。顔色を変えている貴族が大半だが、貴族らしく感情を一切表していない者もいる。ライリーは静かにそれぞれの反応を観察していた。
「それも王宮から騎士団の兵舎に向かう途中で――ですか」
苦々しく唸ったのはメラーズ伯爵だった。ライリーは伯爵に視線を向けて頷く。そして誰の反論も許さないという口調ではっきりと言い切った。
「そうだ。今回の視察は非公式のものだった。つまり知っている者は限られる。王宮内に間諜が居ては私も落ち着けないからな。早急に文官、武官を始めとした王宮に出入りする者、ならびに王立騎士団の騎士の身元と素行を調査し、逆心がある者を処罰する。それに並行して私に専属の近衛騎士を選抜することにした」
更に貴族たちの反応は分かれる。大多数の貴族たちは、ライリーが王宮の敷地外とはいえ殆ど外部の人間が通らない場所で襲われたことに対して未だ衝撃を受けている。
しかし、一部は衝撃から立ち直ってライリーの言葉を重々しく受け止めていた。クラーク公爵クライドやエアルドレッド公爵ユリシーズ、そしてフィンチ侯爵を筆頭とした幾人かは当然だという表情だ。一方で次男が騎士団八番隊の隊長を務めているスコーン侯爵は苦い顔である。メラーズ伯爵やプレイステッド卿は本心の読めない表情のまま、静かにライリーを見つめていた。
ライリーが「異論は?」と尋ねると、少ししてスコーン侯爵が僅かに不機嫌さの滲む声で「宜しいですかな、殿下」と口を挟む。ライリーだけでなく、室内に居る貴族全員が侯爵に目を向けた。全員の注目を浴びた侯爵は神経質に口髭を撫でつける。しかし一旦口にした言葉をなかったことにはできない。スコーン侯爵は眉間に皺を寄せて小さく咳ばらいをした。
「殿下の仰られることは良く分かりますぞ。確かに、ええ、確かに叛意のある者が王宮にいるとはぞっとしませんな。その点を考えれば全員の――その、なんでしたかな。身元調査と素行調査でしたか、それはした方が良いという理屈も分かります。しかし、しかしですぞ」
言葉ではライリーの提案に迎合する様子を見せながら、スコーン侯爵が反対の立場であることはその態度からも良く分かる。目を眇めるライリーの前で、スコーン侯爵は身を乗り出した。
「王宮に勤める文官と武官、それに騎士までもとなるとかなりの人数になる。文官と武官は身元調査と簡単な面接を受けて入っているはずですから、間諜など紛れ込めるわけもありませんが、それでも叙任式で殿下に忠誠を誓った騎士とは違い、簡単に翻意する者も多くいるでしょう。特に下女や下男といった、卑しい出自の者どもは克己心も矜持もなく、金で動くことさえある。それであれば、まずは文官や武官から調査すべきでしょう」
どうやら侯爵は王立騎士団の人事に手を出されたくないらしい。そう悟ったライリーは、露骨な身内贔屓に内心で呆れ果てる。
スコーン侯爵の次男ブルーノは黒かな、と心の中に記しながらライリーが無言でいると、溜息を吐いたフィンチ侯爵が口を挟む。
「何を愚かな。今回の件、話を伺えば騎士団一番隊の騎士二名が関わっていたというではないか。騎士団の中にも陛下や殿下に二心がある騎士が居ると疑うべきですぞ。よもや息子可愛さに世迷い事を抜かしているのではありませんでしょうな」
「――なに? 貴殿は私だけでなく我が息子も愚弄するか」
相手を切り裂くような舌鋒を披露したフィンチ侯爵を、スコーン侯爵は今にも掴み掛りそうな勢いで睨みつける。両者が互いを睥睨したまま微動だにしなくなり、室内を緊張が包んだ。
二人を諫めたのは、それまで無言で事の成り行きを見守っていたプレイステッド卿だった。他の人間同士であれば宰相でもあるメラーズ伯爵が懐柔するところだが、メラーズ伯爵とフィンチ侯爵は仲が宜しくない。それにも関わらず伯爵が口を出せば火に油を注ぐ結果となってしまう。
その点、プレイステッド卿はアルカシア派の中心人物とはいえ、アルカシア派のフィンチ侯爵とも無関係のスコーン侯爵とも関係性は悪くはない。
「お二人とも、落ち着かれよ。殿下の御前だぞ」
「――は、誠に申し訳なく」
失礼いたしました、と先に矛先を収めたのはフィンチ侯爵だった。一方のスコーン侯爵もはっと気が付いたように目を瞠り、気まずそうな表情でフィンチ侯爵から視線を逸らすと額の汗を拭う。
プレイステッド卿はその二人を一瞥すると、視線をライリーに向けた。
「時間は掛かりましょうが、その文官、武官、騎士、そして王宮に勤める者全てを今一度洗い出すのも良い機会でしょう」
ライリーは感謝を込めてプレイステッド卿に顔を向けて小さく頷く。他の貴族たちからも異論は出ない。くどくどと文句を言う者が居れば眼前に突き付けてやろうと改竄された報告書も持って来ていたのだが、どうやらそれを出す必要はなさそうだった。
尤も、改竄された報告書はわざわざこの場で出さなくとも使いどころはある。王立騎士団の副団長マイルズ・スペンサーがライリーの暗殺事件の調書を提出した先は分かっているし、関わった武官や文官も特定できた。その中に間諜が居ることは間違いない。ただ、だからといって直ぐに彼らを処罰するつもりはライリーにはなかった。どうせ一介の文官や武官を処分したところで、黒幕は新たな間諜を忍び込ませるだけである。
だが、一斉に調査をすると知らしめることで抑止力が働くことは期待していた。上手く事を運べれば、中途半端な気持ちでライリーたちに反旗を翻そうと考える者はいなくなるに違いない。
「反対意見もないようですので、王宮にて働く者、および騎士団に所属する者の身辺調査を行うことといたします。殿下、身辺調査を行う者の選定はこちらで行っても?」
貴族たちを見回して意見をまとめたのはメラーズ伯爵だった。ライリーは僅かに逡巡した後、首を縦に振った。
「そうだな。候補者の一覧を作って私に提出してくれ、メラーズ伯爵。それからフィンチ侯爵、貴方にもお願いして良いだろうか。その一覧の中から私の方で選ぶ」
「――承知いたしました」
「御意」
ほんの一瞬だけ沈黙したメラーズ伯爵だが、すぐに何事もなかったかのように頷く。ライリーに指名されたフィンチ侯爵は目を瞠ったが、すぐに嬉しそうな顔になった。さすがに全員がメラーズ伯爵の手の者であることはあり得ないだろう。だがライリーには狙いがあった。敢えてメラーズ伯爵と敵対するフィンチ侯爵にも声を掛けることで対立意識を煽るのと同時に、目的は彼らが準備する名簿にこそある。
ライリーは視線を感じて顔を上げると、クライドと目が合った。クライドは意味深に笑みを深め、ライリーも目だけで頷く。しかし他の貴族に気付かれてはならないと、ライリーは直ぐに顔を他へと向けた。
「それでは、次は近衛騎士の選定だが」
王宮と騎士団に所属する人間の身辺整理に関しては決定したと判断したライリーは、あっさりと次の議題に移る。すると、それまではライリーの意向に従う様子を見せていたメラーズ伯爵が「恐れながら」と声を上げた。ライリーが視線を向けると、メラーズ伯爵は静かに言葉を紡ぐ。
「今回の王宮と騎士団の身辺調査で、騎士たちにも動揺が広がると思われます。その中で、慣例に則り一番隊に殿下の護衛を任せることは殿下が騎士たちを信用していると態度で示すことになります。しかしながら、身辺調査に合わせて近衛騎士を選定することは、騎士団を信頼していないと誤解を与えかねません。時宜にかなわないのではないかと愚考致します」
つまり、この時期に近衛騎士の選定を行い一番隊を護衛の任から外す行為は、騎士たちの士気を下げ王室の求心力を低下させてしまうという指摘だ。ライリーは片眉を上げてメラーズ伯爵を見た。確かに一見したところは筋が通っているように思える。だが、だからといってライリーは伯爵の提言を受け入れる気はなかった。
それが分かっているからか、クライドが口を挟む。しっかりとメラーズ伯爵を正面から見据え、クライドは議論の前提を崩すべく、一つの事実を口にした。
「慣例と言うが、一番隊に護衛を任せるという仕来りはありませんよ、伯爵。国王陛下が病床についてあられるが故に近衛騎士の選定は行われていませんが、先代陛下の御世には近衛騎士の選定は行われておりました。一番隊の職責に王族の護衛は含まれておりますが、寧ろその本質は公式行事に纏わる会場の警備や幼少時の警護といった範囲に限られています。一番隊にのみ殿下の護衛を任じる方が歴史的にも異例ですし、また理にも叶いません」
メラーズ伯爵は口を噤んだ。確かにクライドの指摘通りだった。
クライドは先代国王の時代を直接その目では見ていない。だから近衛騎士の存在も書物や伝え聞いた限りでしか知らないはずだ。しかし、メラーズ伯爵は違う。近衛騎士の選定が必ず行われていたという事実は、その目で見て来たはずだった。
ライリーを説得するために“慣例”という言葉を持ち出したが、それが悪手だったと彼にしては珍しく後から気が付く。しかし言葉を撤回することはできない。
「いかさま――その通りですな、公爵閣下」
メラーズ伯爵は僅かに頬を引き攣らせながら同意を見せる。しかしそれでも彼は引かなかった。
「ですが、それでもやはり――時期が悪いと言わざるを得ません。せめて、近衛騎士の選定は身辺調査が終了し、落ち着いた頃に行うべきかと」
ライリーは黙って聞いていたが、伯爵が言い切ったところでにこりと笑んでみせる。しかし笑みの中で伯爵に向けられた視線は伯爵を貫くほどの鋭さだった。
「なるほど、それならば伯爵。今回の事件に一番隊の騎士二人が関わっていたことはどう見る?」
自分より遥かに年下の王太子に低く問われ、伯爵は言葉に詰まった。
王立騎士団一番隊の騎士二人が護衛に付き、そして失踪していることは報告書にも明記されている。もし暗殺の現場に居合わせた人間が居なければ間諜もその記載を削除したのだろうが、生憎とライリーやリリアナ、そしてジルドも一番隊の騎士が居たことを確認している。そのため、文官に提出された報告書にもその記載は残っていた。
「ええ、それは確かに遺憾に思います。しかしそのような懸念を拭うために身辺調査をなさるのではないですか」
だから身辺調査で我慢をしろと、メラーズ伯爵は遠回しに言葉を重ねる。しかしライリーは決して首を縦に振ろうとはしない。寧ろ僅かな苛立ちを表に出しながら溜息を吐いた。
「それとこれとは別の話だ、伯爵。騎士団を軽んじてるわけではない。だが、来年には“立太子の儀”も執り行う。その際に一番隊ではなく、私専属の近衛騎士が居た方が国内外に我が国の盤石さを喧伝できるだろう。たまたま時期が被っただけだ」
「しかし――!」
「くどい」
なおも反論しようとする伯爵を、ライリーはたった一言で押しとどめる。これまで片鱗は見せていても、周囲の顔を立てるような言動をして来たライリーが初めてみせる次期国王らしい顔つきに、メラーズ伯爵だけでなくスコーン侯爵やフィンチ侯爵、そして多くの貴族たちが言葉を失った。
平然とそんなライリーを見つめているのはクライドとユリシーズ・エアルドレッドくらいのものだ。そしてユリシーズの隣に腰かけているプレイステッド卿はしばらく無表情だったが、やがて堪え切れないといった風情で喉の奥で笑った。沈黙の落ちた室内に、低い笑い声は存外大きく響く。全員の視線を向けられたプレイステッド卿は一切動じず、寧ろ呆れたような気の毒がるような、複雑な表情でメラーズ伯爵に顔を向けた。
「この場合は殿下に利がありますな、メラーズ伯爵。寧ろ近衛騎士を選定することで求心力が落ちるようであれば、この国も先は長くありますまい」
「プレイステッド卿――、」
メラーズ伯爵は苦虫を嚙み潰したような表情で低く唸る。しかしそれには答えず、プレイステッド卿はライリーに視線を転じた。
「それでは殿下、近衛騎士の選定には必ず王立騎士団の者を含めるということで手打ちになされば如何ですか。そうすれば、メラーズ伯爵が気に掛けている忠義とやらも失われることはないでしょう」
言外にメラーズ伯爵の台詞を嘲っている。それが分かったのだろう、メラーズ伯爵の頬は僅かに赤らんだ。しかしプレイステッド卿に反論する術を伯爵は持たない。
そしてライリーも、プレイステッド卿の提案を拒否するつもりは毛頭なかった。元々、王立騎士団の騎士の中にも近衛騎士に任じる相手は居る。
「そうしよう」
しかしすでに計画にあることだとはおくびにも出さず、ライリーは今決めたという顔つきで重々しく頷く。
沈黙を貫くメラーズ伯爵の代わりに、クライドが「異論のある方はいらっしゃいますか」と尋ねる。ここまで来てなおも反論しようとする貴族はいない。
ライリーはこの上なく綺麗な笑みを浮かべて、椅子から立ち上がった。
「それでは本日の顧問会議はこれにて閉会とする」
貴族たちも次々と立ち上がり、ライリーが退室するのを見送る。部屋の扉を閉める瞬間、ライリーは満足気な表情の者、不服そうな顔つきの者、そして戸惑ったような風情の者たちを確認していた。