28. 黒水晶と伝説 3
ユナティアン帝国の第二皇子ローランド・ディル・ユナカイティスは、宰相補佐のドルミル・バトラーと共に自身の宮殿へと向かった。皇国では、皇子や皇女がある程度の年齢になると、それぞれ個人の邸宅を与えられる。尤もその邸宅は嘗ての皇族が使っていた屋敷で、新たに建てるわけではない。
ローランドが皇帝から与えられたのは、先々代の皇弟が住んでいたという宮殿だった。皇帝が住まう宮殿からもそれほど離れておらず、何かと便の良い場所にある。
馬車から降りて執務室に向かったローランドは、扉を閉めたバトラーに「それで」と単刀直入に切り出した。
「何か分かったか?」
「色々と面白いことが分かりましたよ」
バトラーは短く詠唱を唱えて部屋に防音の結界を張る。
それを見たローランドは、この邸宅には信頼のおける者しか置いていないというのに警戒心の高いことだと思いながらも黙っていた。たとえ思ったことを口にしたところで、念には念を入れるべきだと小言が降って来るのは分かり切っている。
執務椅子に腰かけて優秀な宰相補佐の報告を待っていると、バトラーは年季の入った立派な机を挟んで向かい側に立った。そしてあっさりと機密事項を口にする。
「第一皇子の食事に毒が盛られたようでして」
ぴくりとローランドの眉が動いた。
「兄上の食事に? いつのことだ」
「一ヶ月ほど前から、それはもう頻繁に。毒見の交代が追い付かないほど、だそうですよ。第一皇子と側近たちは秘しているようですが、どうしても情報というものは漏れ出るものです」
バトラーは何気なく言ってのける。敵対派閥が女官や侍従の中に間諜を忍び込ませていたか、もしくは下男に金を掴ませて情報を得たのだろう。
兄上と言っても、第一皇子とローランドは半分しか血は繋がっていない。第一皇子の母親は亡くなった皇妃であり、ローランドの母親はその後愛妾から皇妃に召し上げられた女だった。ローランドと同じ母を持つのはイーディス皇女のみだ。亡くなった皇妃には皇子の他に皇女も一人居る。
皇位継承者として目されているのは、その二人とローランド、そして皇帝と愛妾の間に産まれた第三皇子の四人だ。血筋で言えばイーディス皇女も皇位継承者として支持されてもおかしくはないが、貴族たちは専ら第一皇子と第一皇女、第三皇子の三人の派閥に分かれている。そこで最近頭角を現して来たのがローランドという状況だった。
第三皇子の母は公爵夫人であり皇族の縁戚であるため、他の庶子とは扱いが別格だった。最近は皇帝の寵愛がマッダレーナ・レンダーノ侯爵夫人に向けられているが、後ろ盾が段違いに違うため足場は安定していると専らの評判である。
「兄上が死んで旨味がある派閥と考えると――、第一皇女派か第三皇子派の仕業か?」
「そう疑っている者が多いでしょうね」
あっさりとバトラーは頷く。第一皇子は知に秀で商才に恵まれている。だからこそ貴族たちの間でも彼が皇帝に最もふさわしいと考える者が多い。実際、第一皇子派は最大派閥だった。
ローランドは難しい表情になった。
第一皇子派と第一皇女派、そして第三皇子派が睨み合ってくれているからこそ、ローランドもゆっくりと支持基盤を固めることが出来ていたのだ。イーディスと自分のみを守るためとはいえ、皇位継承を掛けた血肉の争いに参戦することを決めてから三年、ローランドを支持する陣営は徐々に存在感を増している。だが、あと一押しが足りない。
「今、兄上に亡くなられたら痛いな。もう少し持ってくれたら良いんだが」
「こればかりはどうしようもありませんね。いずれにせよ、第一皇子が見事毒に倒れてしまえば宮廷の勢力均衡が崩れますから、最近台頭して来た第二皇子殿下が隣国に居るという状況はどの派閥にとっても面倒事でしかないのでしょう」
バトラーはあっさりと肩を竦めた。第一皇子が暗殺されてしまえば、最大勢力である第一皇子派陣営の貴族たちは野に放たれる。一部は第一皇女派や第三皇子派に着くだろうが、第一皇子とその二人は考え方や人柄、性格が大きく違う。第一皇子派の貴族たちがその二人や陣営にすぐさま馴染めるかと問われたら、答えは否だ。可能性として、第一皇子派がこぞってローランドの支持に回る可能性もある。
そうなった時、ローランドがスリベグランディア王国に外遊していれば無事に帰国できないのではないかと危惧する者がいてもおかしくはない。国境の街道を封鎖し通行人を検問し、ローランドを何らかの罪状で捕えることもできるのだ。しかし、ローランドが国内に居れば身柄を保護することもできる。
「俺は人身御供か」
「貴方が一番の権力者でしょう」
皇帝を除けば最大権力を持つ皇子が言う台詞ではないとすげなく返され、ローランドは恨めし気な目を腹心の部下に向ける。バトラーは平然とその視線を受け止めた。ローランドが何を言いたいのか分かっていながら、その嘆きを受け入れる気はないという表情である。
ローランドは深く溜息を吐いた。
「お前が俺の派閥に与していると知られるのも時間の問題だろうな」
「他の宰相補佐はそれぞれが支持する派閥に情報を流していますからね。いつまでも私だけ中立派を気取っている訳にもいきませんでしたし、ちょうど良い頃合いですよ」
宰相補佐と言ってもバトラーだけではない。数人の補佐が宮廷で働いており、それぞれが別の派閥に与していた。尤もそれを知らぬ皇帝ではない。彼は敢えてそのような存在を放置し、実の息子や娘たちが骨肉の争いを繰り広げるのを傍観しているのだ。
飄々としているバトラーを呆れたように見やって、ローランドは苦笑を漏らした。
「お前を最初に取り込めたのは俺にとって僥倖だったな。他の派閥に行かれたと思うと面倒臭い――誘いはこれまでもあったんだろう?」
「ないわけがありません、宰相補佐の中でも私の能力は卓越していると評判ですから」
主を前にあっさりと他の派閥から勧誘があったと暴露した宰相補佐は、しかし肩を竦めて「他の殿下方に与する気はさらさらありませんでしたが」と言ってのけた。どうやら今日のバトラーは話したい気分らしいと見て取ったローランドは、この機を逃して堪るかと言わんばかりに――しかし気難しい部下の気分を削がぬように、敢えて素っ気なく片眉を上げた。
「ほう」
「他の殿下方は良くも悪くも直情的、短絡的、粗暴、横暴と来ていますから。これが皇族だと思うと嘆かわしくもなります。その中では、ローランド殿下は比較的人間らしいと思っただけですよ。“人”でなければ民は付いて来ませんからね。恐怖で支配するのであれば話は別ですが、生半可な恐怖であれば瓦解も早い」
途中まではなるほどと聞いていたローランドだったが、バトラーが口にした最後の言葉を思わず聞き咎める。
「生半可な恐怖?」
「ええ、生半可な恐怖であれば民は反抗することを思い付きます。そうなれば皇位簒奪が起きるでしょう。それも面白いことは面白いですが、今そうなっては色々と面倒ですので」
「つまり、反抗さえ思い付かないほど徹底的な恐怖で縛り上げることが出来るのであれば――お前は他の皇子や皇女を支持したということか?」
バトラーは予想外の言葉を聞いたというように目を瞬かせた。しばらくローランドを見つめていたが、やがて「そうですね」と頷く。
「可能性としては、それもあったでしょう。ですが、今は考えていませんよ。できれば隣国とも友好的な関係を築いておきたいところです」
「――なるほど、その心変わりが一体何故起こったのかも気になるが。その考え方でいくと、俺以外の派閥には与せないだろうな」
スリベグランディア王国を武力で制圧する、王族を傀儡にし操る、内部から瓦解させる――方法に違いはあるが、ローランド以外の皇位継承者は皆スリベグランディア王国をユナティアン帝国に吸収するか属国にすることを目標としている。だが、それでは決して友好的な関係は築けない。ローランドのように、互いの国を尊重し合う関係を作らねばバトラーの目標は達せない。
しかし今はバトラーの考えを深く尋ねる時間ではない。逸れた話を元に戻すべく、ローランドは声音をわずかに変えた。
「兄上に毒を盛った犯人は分かったのか」
「残念ながら、まだ分かりません。食糧庫に保管していた野菜や干し肉を取り換えたらしいのですが、それでも数日後には毒が混入していたそうです。今は第一皇子の宮殿もかなり殺気立っていますよ」
ローランドは頷いた。たとえ毒を盛った犯人が見つかったとしても、あくまでもそれは実行犯に過ぎない。実際に毒を盛るよう指示を出した人間には辿り着けないようになっているはずだ。簡単に尻尾を掴まれるような者は、当の昔に表舞台から姿を消している。
それならばと、ローランドは質問を変えた。
「キュンツェルの様子はどうだ」
「最近は機嫌が悪いようです。まあそれも当然ですが――第一皇女派の陣営に与している貴族たちの爵位を剥奪すべく、情報集めに奔走しているようですね」
キュンツェル宮廷伯は第一皇子派の筆頭である。そして皇帝に最も信頼されている男だ。彼に睨まれたら宮廷では生きていけないと囁かれるほど、彼の権力は年々肥大化していっている。それでもなお、宮廷伯の目を掻い潜って第一皇女派と第三皇子派の陣営は力をつけ始めていた。つまり、宮廷を牛耳っていると噂されているキュンツェルでさえ彼らを陥れる情報を手に入れられなかった――情報管理を徹底し弱味をみせなかった、ともいえる。第一皇女や第三皇子を支持する貴族は第一皇子派よりも少ないが、その分狡猾でしたたかな、或いは抜け目のない人物が多いということだ。
それでもなお、キュンツェル宮廷伯の権力と人脈は魅力的だ。できれば自陣営に引き込みたいと、権力闘争に参戦している者であれば誰しもが思うところだった。
「もし兄上が亡くなったら、キュンツェルは誰に着くと思う? 傍観すると思うか?」
「そうですねぇ――」
ローランドの問いにバトラーは少し考える仕草を見せる。
第一皇子の陣営に居る大半の貴族は、それほど深く考えずにローランドを支持するかもしれない。しかしキュンツェル宮廷伯は別だ。彼は何らかの思惑があり第一皇子の後ろ盾となっている。そのため、もし彼の理念に合致するのであれば、ローランドではなく第一皇女や第三皇子の陣営に与することも考えられた。
「可能性が高いのは貴方か第三皇子でしょう」
「姉上ではないのだな」
「あり得ませんね。真っ向から主義主張が対立しています」
第一皇子はスリベグランディア王国を属国としたいと考えているが、その手段に武力行使は入っていない。せめて国境で小競り合いを起こし、駆け引きを行う程度のことだ。基本的には王族を皇国の傀儡として諸貴族を皇国派に染め上げ、裏で操りたいと考えている。
一方の第一皇女は、武力でスリベグランディア王国を制圧すべきだと言って憚らない。皇女自身も若いながら武芸に秀でた女傑である。
「第三皇子は武力侵攻は反対の立場だったな」
「武力行使はしないにしろ、間諜や刺客を忍び込ませて内部から崩壊させようという魂胆ですね」
バトラーは頷いてローランドの言葉を補完する。
キュンツェル宮廷伯は武力行使には反対の立場であることは間違いない。残る問題は、彼が隣国を存続させることに重きを置いているのか、それとも皇国の支配下に置くことを見据えているのか、それが分からないということだった。もし隣国の存続を重要視しているのであればローランドに着くだろうし、皇国の支配下に置くべきだと考えているのであれば第三皇子マティアスを支持するだろう。
「どの派閥にも属さずしばらくは傍観する、という可能性もありますよ」
「――その可能性も大きそうだな。最後に大きな果実を持ち去る魂胆と言われても納得できる」
宰相補佐に指摘されてローランドは苦く頷いた。
あまり考えたくはないが、それが最後の、そして最大の可能性だった。キュンツェルが望んでいるのは皇国を影で支配する権力であり、その立場を維持するために最大派閥を見極めようとする未来だ。第一皇子派は当初から支持基盤が大きかった。そのためキュンツェルも第一皇子を支持することに躊躇いはなかったように見える。
「万が一に備えてキュンツェルを取り込めるように、情報収集だけは怠らないでくれ」
「御意」
ローランドの指示にバトラーは頷く。そして、ふと思いついたように言葉を付け加えた。
「それから、来年はライリー・ウィリアムズ・スリベグラード王太子殿下の立太子の儀がありますが」
唐突に変わった話題に付いて行けず、ローランドは不思議そうに目を瞬かせる。無言で続きを促せば、バトラーはにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「当初の予定では第一皇子が参列する予定でしたが、暗殺の危険性を鑑みれば他の皇族が行くようにと話が回ってくるかもしれませんね。まあ尤も、わざわざ皇族が出向くようなものでもありませんが」
ローランドは思わず頭を抱えそうになった。はっきりと口にはしないものの、バトラーがローランドに“行きたいのではないか”と問うていることは確実だ。分かっているだろうに敢えて口にするその意地悪さは以前から変わっていない。そしてここでローランドが恥ずかしさのあまり誤魔化せば、バトラーは何が何でもローランドが参列することのないよう手を回すだろう。
大きく溜息を吐き、ローランドは「そうか」と何気なさを装って答えた。
「俺が行くのが一番良いだろう。王国との友好関係を築きたいと考えているのは俺だけだろうからな。それに文官に行かせたところで、今度はどの派閥が自分の間諜を使節にするかで揉めるだけだ」
今回の外遊でさえ帰国できない危険性があると貴族たちから止められたのだ。来年になっても同様の理由でローランドは行くべきでないと主張される可能性もある。しかし、ローランドは今はそれを考えないことにした。
「殿下の御心のままに」
バトラーがわざとらしい口調で、芝居っ気たっぷりに一礼する。その態度に腹を立てぬよう深呼吸しながら、ローランドは目を眇めてバトラーを睨む。しかし殺気の籠った視線を物ともしないバトラーは、意地の悪い笑みを唇に浮かべたまま平然としている。そしてそのまま、バトラーは退室すると告げて部屋を出る。
その後ろ姿を見送ったローランドは体から力を抜いて椅子に沈み込んだ。
「全く――あいつは普通に話せんのか」
長らく宮廷の勢力争いから遠ざかっていたローランドにとって、バトラーの存在は非常に助かっている。彼が居なければたった三年で地盤を固めることもできなかっただろうし、イーディスを守るための人脈も広げられなかっただろう。だが、バトラーは何かにつけローランドを揶揄うような口調で話を進める。不敬だと怒りたくなることも一度や二度ではなかったが、得難い人材であることは分かっているからローランドも本気で腹を立てたりはしなかった。
「あとは――約束の件だな」
イーディスに書物を送ると約束したが、今ローランドの脳裏に過ったのはその件ではない。
皇位を狙うと決めた時、バトラーに自陣営に加わるよう命じた際交わした約束がある。バトラーは“欲しい女が居る”と言った。その約束は、未だ果たせていない。尤も相手の女性が拒否するようであればローランドも無理強いするつもりはないし、その場合は皇子としての権力を使ってバトラーを止めるつもりだ。だが、大きな問題が一つだけあった。
「そもそも誰なのか、未だに教えてくれんのは困る」
大きな溜息が無意識に出てしまう。わずかに疲労を滲ませ目を閉じたローランドは、少しだけ仮眠を取ることにした。
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