28. 黒水晶と伝説 1
ユナティアン皇国の皇都トゥテラリィにある豪華絢爛な邸宅で、その日ブロムベルク公爵夫人は目を輝かせ手紙を開いていた。
「まあ、もうそんな年齢になるのね」
少女のように頬を染めて愛おし気に目を細めるヘンリエッタ・ブロムベルクは喜々としてソファーから立ち上がると、自室を出て長い廊下を歩く。そんなヘンリエッタにも使用人たちは慣れたもので、途中彼女に気が付いた執事が落ち着いて声を掛けて来た。
「奥様、如何なされましたか」
「嬉しい知らせがあったのよ。ヨーゼフにも教えて差し上げようと思って」
「嬉しい知らせにございますか」
ヘンリエッタが手に持った手紙をひらひらとさせるのを見て、執事は重々しく頷いた。
「それは宜しゅうございました。甥御様からの書状にございましょうか」
「まあ、良く分かったわね。相変わらず抜け目のないこと」
「お褒めに預かり恐縮に存じます」
執事の返答にヘンリエッタは声を立てて笑った。楽し気に笑みを零して執事と共に夫ヨーゼフのいる執務室の扉を叩く。声がしたのを確認してから、ヘンリエッタは室内に入った。
「ヨーゼフ!」
「やあヘンリエッタ、相変わらず美しいね。今朝見た時よりも更に輝きを増しているようだ」
「まあ、貴方も相変わらず素敵よ」
朝食を共にしたばかりだというのにも関わらず、二人は互いを抱き締めて甘やかな言葉を囁き合う。しかしこれがこの二人の日常だった。執事も慣れたもので、平然と扉を閉めてから書類に手を付け始めた。
「それにしても、突然どうしたんだい? 君はあまりこの執務室に来たがらないだろう」
「そりゃあそうよ、だってここに居たら色々なものが目に入って気が休まらないんですもの」
ブロムベルク公爵は目立った功績こそ上げていない上に、政の中枢からは距離を置いている。だが、ユナティアン皇国ではそれなりに重要な人物とされていた。それは偏に公爵家が抱えている軍事力と膨大な領地、そして領民たちからの絶大な支持がある故だ。
それにも関わらず、公爵家は他の貴族たちからも皇帝からも害されてはいない。権力闘争の激しい皇国でありながらも、公爵の絶妙な駆け引きとのらりくらりとした態度が功を奏し、どの派閥からも“敵対者ではない”と見做されていた。
口の悪い者はブロムベルク公爵のことを“人畜無害”や“毒にも薬にもならない”、果ては“日陰の日時計のような奴だ”と揶揄する。皇帝に至っては公爵本人の前で堂々と“お前はまるで昼寝しているヒヨコのようだな”と言い放ったほどだ。
しかし、その実公爵家の執務室には決して外に漏れてはならない情報が山とある。のんべんだらりと平穏に皇国を生き抜くためには、ありとあらゆる情報を入手している必要があった。そうでなければ、常に入れ替わる派閥闘争の中で、どの派閥にも与さないまま無事でいられるわけがない。時勢を読み解き事前に何らかの手を打つからこそ得られる平穏だった。
「まあ確かに、君は隣国の姫だからね。余計に気を遣うだろう。でも、それなら突然来た理由はなんだい? 嫌な場所に入ってでも僕に伝えたいことがあったんだろう?」
愛する妻の腰を抱きながら問う夫に、ヘンリエッタはにこやかに「そうなのよ」と頷いてみせる。
元々スリベグランディア王国の王女だったヘンリエッタは、良くも悪くも国際情勢に通じている。もし彼女が生まれも育ちもユナティアン皇国で、それほど国政や国際情勢にも詳しくなければ、夫の執務室にある書類の束は単なる文字の羅列でしかなかっただろう。しかし悲しいかな、彼女は目を通せば一体それが何の話なのか、裏にどんな思惑があるのか、どのような利害関係が絡み合っているのか、おおよそ理解することが出来てしまう。
「甥から手紙が届いたの。正式な書簡は後で送ってくれるみたいだけど、先に知らせておきたいからって」
「ライリー殿下が?」
「そうよ。もう来年には十五歳になられるのよ、月日の流れは本当に流れ星のようだわ」
ヘンリエッタの言葉に、ヨーゼフは驚いたように目を瞠った。妻が差し出す手紙を受け取りざっと目を通す。そして納得したように頷いた。
「なるほど、立太子の儀か。それなら私たちも呼ばれるだろうな」
「そうなると思うわ」
ライリーは今上国王ホレイシオが倒れ回復の見込みがないと判断された時、まだ八歳になったばかりだった。まだ意識のあった国王の同意の元に顧問会議で王太子に指名され、立太子の儀も行われた。名実ともに王太子として扱われて来たが、まだ幼かったために諸外国にはお披露目されていない。そのため十五歳という節目の年に、改めて立太子の儀を執り行うことになった。とはいえその本旨は諸外国への喧伝と顔繫ぎである。
「婚約者のご令嬢もご紹介して頂けるそうよ、今からとても楽しみ。どんなドレスが良いかしら」
「君なら何でも似合うけど、でもできれば僕の色を入れて欲しいな」
「それは当然よ」
力強くヘンリエッタは頷いた。ヘンリエッタとヨーゼフの結婚は間違いなく政略だったが、幸いにも二人は婚約者となってから愛を育むことが出来た。子宝にも恵まれ日々充実している。しかし同時に、ここ数年はこれまでのように安穏とした日々を送ることもできない気配が忍び寄って来ていた。
「――ただ、私たちが国を離れてしまったら、皇女殿下の身辺が気に掛かるのよ」
「イーディス皇女か」
妻に耳打ちされた夫は渋い顔で頷く。
ローランド皇子が内密に夫妻に連絡を取って来たのは、今から三年前のことだった。スリベグランディア王国の外遊から戻って来た皇子は、妹姫であるイーディス皇女に家庭教師として付いて欲しいとヘンリエッタに頼み込んで来たのだ。公爵夫妻にとって、その頼みは青天の霹靂だった。
『皇室の権力闘争から上手く距離を取っていらっしゃるお二人になら、信頼してイーディスを預けられると思ったのだ』
二人が最後に見た時とは打って変わって引き締まった表情で、ローランド皇子は告げた。しかし、突然頼まれても直ぐには承諾できない。困惑を微かに交えた表情で『恐れながら』と尋ねたのはヨーゼフだった。
『皇女殿下には既に家庭教師が付けられているかと存じます。それにも関わらず妻がそのような真似事をするのは、些か皇室に対し礼を失した行いのように思えるのですが』
間違いなくヨーゼフの指摘通りだった。ヘンリエッタも全く同じ意見である。しかしローランド皇子は引かなかった。
『父上やその周囲の者に関してはこちらで黙らせる。だが、いずれにしても今のままではイーディスの先は長くない。この国で生き抜くには――イーディスはあまりにも、その……純真無垢に過ぎる』
ローランド皇子は言い澱みながらも、最後まで言い切った。そしてそれは、公爵夫妻にとっても同意する他ない内容だった。
イーディス皇女は皇帝の掌中の宝だと噂され、その美しさや愛らしさは広く知れ渡っている。だがその実、彼女はあまりにも人を疑うことを知らなかった。父である皇帝の言葉は絶対であり、周囲から吹きこまれた話は全て真実だと素直に受け取る。食事や衣服の好き嫌いはあるし感情もしっかりと持っているものの、彼女の中にしっかりとした“価値観”は存在していない。ただ反射的に好きだとか嫌いだとか判断するだけで、理性的な思考がないのだ。善悪の基準は全て他人から与えられたものである。
そして、辛うじて政局が安定している現状であればまだしも、不安定になればイーディス皇女が生き抜くことは出来ないだろう。周囲が混乱している時は、状況を冷静に見極めて自ら考え判断する能力が必要だ。そして恐らく、そのような場面でイーディス皇女に手を差し伸べる人間はそれほど多くない――否、ローランド皇子以外には居ない。だがその皇子自身が渦中にいれば、イーディス皇女を守ることも儘ならないだろう。
皇子は僅かに強張った表情のまま言葉を続けた。
『兄上や姉上たちが皇位を継げば、遅かれ早かれ隣国とは戦になる。だが、俺は隣国とは友好関係を築き対等な関係で協力していきたい。イーディスのためを思えば俺が皇位争いに加わらん方が良いことは分かっているが、だが――加わらずとも俺もイーディスも生きているだけで命を狙われる』
それならば自ら皇位を獲りに行くことにしたのだと、ローランド皇子は告げた。
今、皇位継承権を持ち皇位を狙う者は、手段に違いはあれど皆スリベグランディア王国を狙っている。ある者は武力で、またある者は内部から彼の地を支配下に置こうと画策している。しかしローランドは彼らとは一線を画すと決めた。それは間違いなく外来で得て来た成果だった。スリベグランディア王国にはユナティアン皇国にはない良さがある。ユナティアン皇国が支配してしまえばその良さは失われてしまうに違いないと、ローランド皇子は言葉少なに語った。
だが、今の皇子には後ろ盾が少ない。ブロムベルク公爵がローランド皇子の陣営に付けば、政局はまた大きく変わる。しかし、ローランド自身はともかくも、イーディス皇女にはその局面を乗り切るだけの能力がない。
『だからこそ、今のうちにイーディスには自分で考える力を付けて欲しいのだ。そのために、公爵夫人――貴方に、お願いしたい』
真摯なローランド皇子の言葉に、公爵夫妻は顔を見合わせた。
家のことだけを考えれば引き受けない方が良い。皇族に関わるということは、即ち権力闘争に巻き込まれるということだ。しかし、ヘンリエッタはヨーゼフの落ち着いた瞳を見て決意した。言葉にせずとも、互いを信頼する二人は互いの決意を悟った。
ヘンリエッタは、イーディス皇女の家庭教師になることを。
そしてヨーゼフは、たとえ結果的に苛烈な権力闘争に巻き込まれることになっても、公爵家と領地を守り抜くことを。
『――感謝する』
低く紡がれたローランド皇子の言葉には万感の思いが籠っていた。しかし二人を真っ直ぐ見つめた眼差しは炎のように熱く、覇者となり得る男の決意を示していた。
過去に思いを馳せていたヘンリエッタは小さく息を吐く。そんな妻を優しく見つめ、ヨーゼフは安心させるように妻に微笑みかけた。
「大丈夫だ、私たちの留守中は皇子殿下がどうにかなさるだろう。お前のお陰で、皇女殿下も自我が芽生えて来たというじゃないか」
「ええ、それは勿論そうよ。以前とは全く違うわ。人から聞いた話もそのまま受け取ったりはなさらずに、自分でお考えになって――それでも分からなければ、私か皇子殿下にお尋ねになるのですもの」
だが、それでもまだ足りない。イーディス皇女が“自力で考える”ことを始めたのは三年前だ。たった三年で完璧に身に付くかと言われると、若干不安が残る。元々の性格もあるのか、イーディス皇女は即断即決が苦手だ。身に危険が迫った場合は、一瞬の迷いが命取りになることもある。
「さすがに、まだそこまで時勢は混迷していないと思うのだけれど――でも、立太子の儀が隣国であるとなると、それもまた一つ貴族たちが動き出す要因となるでしょう」
ヘンリエッタは溜息混じりに懸念を口にする。ヨーゼフも同意するように頷いた。
「でも今は考えても仕方がない。まだ一年あるから、その間に何かしらの手を打てないか考えてみよう。皇子殿下にもご相談申し上げないとな」
「ええ、そうしましょう。貴方にもお手数をかけてしまうけれど」
「気にしないでくれ、僕と君は夫婦なんだから。お互い助け合うべきだろう?」
ヨーゼフの言葉にヘンリエッタは花が綻ぶような笑みを零した。互いに軽く口づけ、ヘンリエッタは執務室を出る。どうやらこれから侍女に命じて、立太子の儀に参列するためのドレスの相談をするらしい。
妻の後姿を見送ったヨーゼフは、執務室の扉を閉めた執事に声を掛けた。
「どう思う?」
執事はちらりと顔を上げて主の表情を読み取ると、淡々と起伏のない声音で答える。
「恐らく、護衛の推挙をお頼みされるのではないかと」
「――なるほど」
長く付き合いのある執事は、ヨーゼフの意図を正確に読み取った。一瞬満足気に微笑んだヨーゼフは執務椅子に腰かけ、腕を組んで考え込む。
即ち、公爵夫妻が立太子の儀に参列するためスリベグランディア王国へ旅立つと告げた時、ローランド皇子が夫妻に何を頼むだろうか、という質問に対する答えである。そして執事は、ローランド皇子はイーディス皇女の護衛に相応しい人物を推薦して欲しいと頼んで来るのではないかと言う。
その可能性は高かった。現在皇女には護衛が数名付いているが、いずれも皇室の近衛隊から無作為に選ばれた者たちである。イーディス皇女に害を為そうと考える派閥の息が掛かっていないとも限らない。
「となると、近衛隊以外から引っ張って来る必要があるな。面倒だが――そうか、一度近衛隊に入れるか」
まだ時間に猶予はある。根回しをしておくには多少心許ないが、出来ない事はない。
ヨーゼフは有能な執事に、目ぼしい者たちの一覧を作るように命じる。仮に皇子から申し出がなかったとしても、近衛隊にこちらの息が掛かったものが数名いれば今後何か起こった時も動きやすい。そう判断してのことだったが、その姿は既に、のらりくらりと権力闘争を避け続けて来た“人畜無害の公爵”とは程遠かった。
*****
同時刻、ユナティアン皇国の皇都から更に馬で数日ほど駆けた先にある町の酒屋に二つの人影があった。一人は真っ赤な瞳を持ち、苛立たし気に目の前の若者を睨み据えていた。
「――お前の暴走の尻拭いを何度したと思っている」
「さあ? でも分かってんだろ、そうでもしねぇとあんたの望みは手に入らねぇ」
「貴様でなくとも良いのだぞ。そうだ、あの男はどうだ? 隣国でお前の仲間を返り討ちにした男がいただろう。確か――どこぞの令嬢の護衛だったか」
赤い瞳の男が嘲るように言えば、飄々としていた男は一瞬だけ目を眇めた。鋭い光がその双眸に宿るが、赤い目の男は一切ひるまない。“緋色の死神”と呼ばれる男にとって、眼前に座る若者はどれほど戦闘能力に秀でていようが恐れるに足りぬ存在だった。
「ゲルルフ――もしお前がその座を他の誰にも明け渡したくないのであれば、俺の言うことを聞け」
ゲルルフと呼ばれた男は痛烈な舌打ちを漏らした。今すぐに殺してやりたいとでも言いたげな視線を向けるが、今ここで逆らったところで良い結果にならないことは目に見えていた。ついと視線を逸らして「分かってるよ」と不貞腐れた口調で答える。
「だからあの時も、敵の本陣に少し顔を出すだけで引き揚げたろうが。あんたの顔を立ててな、ヘルツベルク大公閣下」
「顔を出すだけ? 何を言っている。こちらの術者が数名敵の手に落ちただろうが。あれが“顔を出すだけ”なのであれば、お前を戦場に送り込むことは金輪際許可できん」
「死体は喋れねえよ」
ユナティアン皇国皇帝カルヴィンの甥でもあるコンラート・ヘルツベルク大公に不遜な口を叩き、ゲルルフは立ち上がった。
「あんたの言う通り、しばらくは大人しくしてるよ。それで良いんだろ? それで、あんたの許可が出ればいつでも出撃する。だが戦の内容については口出しすんな。お前ら騎士と“アルヴァルディの子孫”の戦いは違うんだ」
それだけ言い捨て、ゲルルフはヘルツベルク大公の答えは聞かずに荒々しい足音を立てて部屋を出て行く。その後ろ姿を睥睨していた大公は、大きな溜息を吐いた。
「――――牙を剥くことしか知らん狂犬が」
手綱を取るのも一苦労だという愚痴に満ちた言葉を聞く者は居なかった。
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