27. 結ばれた密約 2
驚きを薄緑色の双眸に映して見つめるリリアナに、王太子ライリーはにっこりと笑みを浮かべて見せた。ジルドもライリーの顔は認識している。不機嫌であることに変わりはないが、頬を引き攣らせて今にも逃げ出したいと言わんばかりにライリーとリリアナを交互に見ていた。しかし無情にも二人の背後で扉が閉められる。
「どうぞ、お座りください」
ヘガティ騎士団長がリリアナとジルドにソファーを示す。通常であればリリアナの護衛であるジルドは座らないが、どうやら今日はジルドに用があるため座って欲しいということのようだった。
最初の衝撃からすぐに立ち直ったリリアナは美しい所作でライリーに一礼し、ソファーに腰かける。ジルドは不機嫌を隠そうともしていなかったが、一応形だけは礼をしてリリアナの隣にドカッと座った。貴族が嫌い――というよりも権力者が嫌いだというジルドにとってはリリアナだけが例外的に“付き合っても構わないと思える”相手だ。そのためリリアナ以外の“お偉方”の隣に座るなど真っ平ご免だとでも言いたそうだった。
リリアナはいつものことで気にも留めないし、ライリーもそんなジルドが珍しいのか興味深そうに見つめている。護衛としてリリアナの背後に控える彼を見たことはあっても、実際に対面し会話をするなど初めてだった。そして最後に腰かけたヘガティ団長は、ジルドのライリーに対する態度が気に食わないのか僅かに眉根を寄せている。
それでも彼はジルドを咎めることはしなかった。ライリーが何も言わないから、というよりも、事前にライリーからジルドがどのような態度を取ろうと責めないよう言い含められている、という方が正しいだろう。ヘガティ団長は簡単に目上におもねるような態度は取らない。
「今日は突然の呼び出しにも関わらず足を運んでくれて感謝する。団長からの書状で知らせたかと思うが、今日はジルド殿に尋ねたいことがあってね」
口を開いたのはライリーだった。穏やかな笑みを浮かべているのは、リリアナと変わらない。とはいえライリーは、リリアナと二人きりの時は表情が豊かだ。ただリリアナやオースティン、クライドといった幼少時から親しくしている人以外と会っている時は、リリアナと同じように感情や内心を一切読み取らせない表情を浮かべている。今はまさにその通りの顔だ。
ライリーに顔を向けられたジルドは腕を組んだまま、顔を顰めて無言を貫く。どうやら極力口を開きたくはないらしい。しかしライリーは構わずに言葉を続けた。
「単刀直入に言おう。“北の移民”が我が国から失踪しているのだが、この件は極力秘密裏に解決したいと考えている。そのために君の協力を仰ぎたいんだ、ジルド」
貴族にありがちな腹の探り合いや迂遠な言い方を一切排した、単純明快な言葉選びだった。さすがに驚いたのか、ジルドは器用に片眉を上げて驚きを示す。しばらく沈黙がその場を支配したが、やがて口を開いたのはジルドだった。
「――どういうことだ?」
探るように目を眇め、ジルドはライリーを睥睨する。敬語すらも使わないジルドの態度は不敬そのもので、その場で罰せられても文句を言えないものだった。しかしライリーは、わずかに殺気立つヘガティ団長を片手で抑えて笑みを零す。
「そのままの意味だよ。以前から“北の移民”が失踪する事件は幾度もあった。報告が上がって来たのはケニス辺境伯領とカルヴァート辺境伯領の二つだけだが、それはその二領が彼らのことも領民として租税台帳に記帳――管理しているからだ。だから実際に失踪している“北の移民”は報告に上がっている数より遥かに多いと踏んでいる」
だが、とライリーは穏やかに続けた。
「私は“北の移民”にも、長く王国に住み続けて来た者たちと同じように生活して欲しいと考えている。勿論、裏がないとは言わない。君やケニス騎士団に所属している者たちのように、特に身体能力が高い者には騎士やそれに類する者として貢献して欲しい。だが、悪い話ではないはずだ。一般的な平民たちと同じように暮らす権利も同時に得られるし、それはつまり我が国が保護するという意味でもある」
ジルドは口を引き結びライリーの話を聞く。不機嫌であることに変わりはなかったが、しかしその双眸に浮かぶ光は最初よりも真摯なものになりつつあった。彼の思考は目まぐるしく動き回る。脳内には、ケニス辺境伯領に侵攻して来た敵兵に紛れていたアルヴァルディの子孫の存在が蘇っていた。そして同時に、リリアナが耳にしたゲルルフという男の企みも脳裏を過る。
つまりライリーは“北の移民”に権利を与える代わりに義務を負えと言っているのだ。だが、その見返りは決して少なくない。
隣国が特殊な能力を欲して、彼らの意思に反し身柄を拘束しようとしているのであれば、ただ自衛すれば良いという話でもない。そもそも自衛できていないから“北の移民”は失踪するのだ。しかし彼らが王国の民として正当な権利を得られるというのであれば、隣国の所業は国家間の問題として取り沙汰すこともできる。国王が“北の移民”を正当な領民として認めるよう各領主に通達し、土地と共に管理するよう徹底すれば、知らぬ間に誘拐されていく同胞も減るだろう。
舌打ちを漏らしたジルドは、しかし視線をリリアナに転じた。元々考えることは苦手だと豪語する彼のことである。戦闘に関することであればまだしも、政治的な駆け引きや政略は不得手だった。
「――嬢ちゃん、あんたはどう思う」
無言でライリーとジルドの会話を聞いていたヘガティ団長は、ジルドの発言を耳にして目を瞠った。この傭兵は主に対してもこの言葉遣いなのかと、愕然とした様子だ。
視界の端にその様子を捉えながらもあっさりと無視をして、リリアナはにっこりと微笑んでみせた。
「悪いお話ではないと思いますわ」
「そうかい」
ジルドはあっさりと頷くと、ぼりぼりと頭を掻く。だがリリアナは、そこで黙りはしなかった。顔をライリーの方に向ける。
今の話だけが真実だと信じるのであれば、ここにヘガティ団長が居る必要はない。その理由にリリアナは薄々勘付いていた。もしこれがジルドに関することでなければ、リリアナは何も言わず流していたかもしれない。しかしジルドはリリアナの護衛である。契約をしている内はある程度面倒を見てやる必要があるだろうと、リリアナはおっとりと口を開いた。
「ですが幾つか気に掛かることがございますの、殿下」
「ん? なんだい?」
ライリーもリリアナを見返す。その表情に僅かに緊張が走ったが、リリアナは気にしない様子で淡々と問う。
「まず秘密裏に解決したいと仰る理由をご教授いただきとうございますわ」
「ああ、そうだね」
リリアナが口にした問いはライリーにとって予想できるものだったらしい。当然のように頷くと、あっさりと答えを教えてくれた。
「最初に“北の移民”が失踪したという記録が残っているのは六年前だ。その時は単なる失踪として片づけられたが、年々失踪する人数が増えていった。そのためケニス辺境伯領では組織的な誘拐事件として捜査を開始し、次いでカルヴァート辺境伯領でも捜査が開始されたんだ」
だが、結果は芳しくなかった。ただ皮肉なことに、結果が芳しくなかったからこそ分かったことがある。即ち、想定していたよりも組織的で大規模な誘拐事件だったというわけだ。しかも間違いなく、玄人の仕業である。それほどまでに彼らは痕跡を徹底的に隠していた。
「そこで人身売買の線を考えての捜査に切り替えた。二つの辺境伯領が共同し、秘密裏に王立騎士団にも協力を仰いでいる。ただ問題は」
ライリーはそこで言葉を切る。そして、ずっと浮かべていた微笑を消して真顔になると、陰鬱な息を吐いた。
「確実に、この事件には我が国の貴族が噛んでいる。騎士団にも協力者がいる可能性があるから、ごく少数の信頼のおける者にしか調査を依頼していない。そのせいもあってなかなか捜査は進展していないんだよ」
組織的な人身売買であれば、商品である人間を見つける者、標的を極力無傷で捕える者、商品を安全に運ぶ者、国境を抜ける者、商品を売る者が必要だ。皇国に居る人間が商品を買っていると考えた場合、王国内を安全かつ確実に通れるよう街道沿いの主要な領主を抱き込むことが定石だ。だからライリーが指摘した通り、恐らく複数人の貴族が関わっていることは間違いがないだろう。
そこまで理解したリリアナは、ふと一つの可能性に思い至った。だが今その可能性を口にするつもりはない。それよりも先に、ライリーに尋ねたいことがまだ残っていた。
「理解致しましたわ。それではジルドに目を付けた理由はございますかしら」
ライリーは口角を上げると、面白いものを見るような表情でジルドに目をやった。
「一つはケニス辺境伯からの推薦があったこと。非常に優れた身体能力と戦闘能力の持ち主で、かつ人心掌握術にも長けている。戦場においては戦術が優れているということも、咄嗟の判断が的確であるということも報告があった。更には同胞思いであるということも重要な要素だ」
手放しでの誉め言葉だ。途端にジルドは顔を思い切り顰める。褒められるのは慣れていない、という以前に、気色悪さが勝る様子だった。それを見たライリーだけでなくヘガティ団長も笑いを堪えて肩を震わせる。しかしライリーは、楽し気な様子とは裏腹に淡々と言葉を続けた。
「二つ目に、どこの組織にも所属していないことだ。ジルド殿はリリアナ嬢の護衛であって、王立騎士団にもケニス騎士団を始めとした各領の騎士団にも属していない。だからこそ誰の目も気にせずに動けるだろう」
今回のように誰が人身売買組織に関わっているか分からない状況下で、柵がないというのは最大の利点である。
そして、とライリーは最後の理由を口にした。
「三つ、他ならぬリリアナ嬢の護衛であるということ――これが私にとっては最大の利点だね。情報を共有するためにこれほど自然な交流もない。リリアナ嬢は私の婚約者なのだから、その護衛が私の執務室に入ることも不自然ではない」
これまでは貴族との関わりを嫌がるジルドの代わりに、必要な場合はオルガがリリアナに随行していた。その間ジルドは王宮の外で待機していたのだ。だが、これからはオルガの代わりにジルドがリリアナに追随することになる。確かにそうすれば、誰にも不自然だと思われずに調査の進展や入手した情報を共有できる。
ライリーの意味するところを悟ったジルドは喉の奥で物騒に唸った。気に入らないと顔中で語っている。しかし同時に理に適っていることも理解したからか、文句を口にすることはなかった。
ジルドが理解したことが分かったのか、ライリーは笑みを深めた。そしてジルドに向けて真摯に言葉を紡ぐ。
「つまり私が貴殿に依頼したいことは、騎士団と協働して人身売買の関係者を突き止め捕縛すること、そして可能であれば被害者である“北の移民”たちを救出し、希望があれば我が国へ連れ帰ること。この二つだ」
王国としては出来るだけ戻って来て貰えることが望ましいが無理強いはしない、とライリーは言う。考える表情になったジルドからリリアナへと視線を移し、ライリーは僅かに苦笑を見せた。
「勿論、リリアナ嬢の護衛が本来の仕事だから、そちらに支障が出ても困る。私の大切な婚約者殿に何かあっては困るからね。だからそこは上手く調整しよう」
ジルドは問うような視線をリリアナに向けた。しかしリリアナとしても否やはない。
何よりも、以前ジルドから誘拐されたアルヴァルディの子孫を助けて欲しいと頭を下げられた時に引き受けたものの、リリアナもどのような手を打つべきか悩んでいたのだ。これまで単独で動いて来た上に成人していないこともあって、リリアナは国家が関わっている可能性の高い大規模な事件を解決する力がない。だからこそ、ライリーの提案は渡りに船だった。
「わたくしは良いお話だと思いますよ、ジルド。何より本意ではないのに連れ去られた方々のことは気に掛かります」
そう言えば、ようやくジルドも腹を括ったらしい。低く「分かった」と答えた。途端に、ライリーとヘガティ団長の体から僅かに緊張が解ける。どうやら二人ともジルドが引き受ける自信がなかったらしい。
「それでは、殿下」
リリアナはにっこりと笑みを浮かべて見せた。
「わたくしからも少々お話がございますの。宜しゅうございまして?」
「ああ、勿論だよ」
ライリーは快諾する。
それを確認してから、リリアナは先ほど脳裏に浮かんだ情報を再度思い浮かべる。それは、ジルドが同胞を助けて欲しいと頭を下げた直後に、オブシディアンが齎した情報だった。
「実はその、人身売買に手を染めている貴族に少々心当たりがありまして」
それは掛け値なしの本気だったが、ライリーとヘガティ団長、そしてジルドにとっても予想外の台詞だったらしい。三人分の愕然とした視線を受けたリリアナは、困ったように小首を傾げた。
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