27. 結ばれた密約 1
砦にまで侵入して来た敵が撤退した後は、予想外に早く事が進んだ。隣国領主が送り込んで来た騎士団の前線は全滅、歩兵の大部分は戦意喪失し戦線離脱、騎兵も騎馬を奪われた――となると、さしもの男爵も白旗を挙げる他なかったに違いない。
ケニス辺境伯は“北の移民”が再び急襲を掛けて来るかもしれないと最後まで警戒していたが、その警戒を裏切るように調印式も無事に終了した。王都には知らせをやり、スリベグランディア王国として正式にユナティアン皇国に抗議をする予定である。
「だが、恐らく男爵の首一つで終わらせるだろうな。土地の一つや二つ、金貨と共に寄越してくれたら御の字か」
副団長モーリスを前にしたケニス辺境伯がぽつりと呟く。モーリスは僅かに苦い表情を浮かべながらも頷いた。
「そうでしょうね。腹立たしいことこの上ありませんが」
「しかし収穫はあった。“北の移民”については、より正確な調査が必要そうだ」
「はい、身体能力が傑出している点にのみ着目していましたが、彼らの能力を見る限り、身体能力以外にも重宝できる能力を持っている可能性が高いでしょう」
モーリスの指摘に辺境伯も頷く。しかしその双眸には思慮深い光が浮かんでいた。
「その通りだ。だが、隣国がどの程度までそのことに気が付いているか――否、国内の貴族でも気が付く者が居るかもしれん。そうなると厄介だ」
百戦錬磨のケニス辺境伯は、本来の気質は武人だ。真っ直ぐで衒いなく隠すことをしない。しかし、辺境伯として必要であれば王宮にも出入りして来た。お陰で好きでもない貴人同士の付き合いというものにも慣れている。そうして長年過ごせば、人間という存在がどれほど自分本位で他人を傷つけることも厭わないのか、嫌でも気が付いてしまう。
「隣国の戦力が“北の移民”によって高まることも問題だが――彼らの意思を無視した扱いをする輩も出て来るだろう」
もし“北の移民”の中に特殊な能力を持つ者が居ると知れてしまえば、それを利用しようと企む者は必ず出て来る。隣国領主の男爵は知らなかったようだが、皇国が人身売買に手を染めているのであれば、必ず誰かはその“有用性”に目を付けているはずだ。実際に皇国の武装勢力に異能力を持つ“北の移民”が所属しているのだから、皇国中枢部が関知していないはずがない。
ただでさえ“北の移民”は皇国でも王国でも軽んじられているのだ。奴隷のようにこき使う者も出て来るだろう。
辺境伯は零れ出る溜息を堪えられなかった。彼にとっては“北の移民”である彼らも大切な領民だ。特に幼い頃から面倒を見ているイェオリやインニェボリは、自分の子供のように可愛らしく思える。彼らの輝く瞳を見る度、末息子のビリーと同じように、明るく後悔のない人生を送って欲しいと願わずには居られない。
だからこそ、彼らの存在を虫けらのように考え使い捨てる考えの人間を、辺境伯は虫唾が走るほど嫌悪していた。自分ような考え方の人間が珍しいことなど、辺境伯は自覚している。堂々と“北の移民”を他の領民と同じように扱うと断言して表立った非難が起こらないのは、偏に辺境伯という地位と過去に打ち立てた功績があるからだ。それがなければ、すぐに彼は周囲から嘲笑と侮蔑の目を向けられているに違いない。
「――取り敢えず、この件は殿下にはお伝えしておいた方が良いだろうな。それからヘガティにも言っておこう」
「ヘガティ殿は分かりますが、宰相ではなく殿下――ですか」
ケニス辺境伯が上げたのは王太子と王立騎士団団長の名前だった。思わずモーリスは首を傾げる。王太子ライリーは確かに優秀な人物だ。しかし現在はまだ十三歳であり、重要な政策は全て顧問会議で決定されている。たとえ会議の議題に挙げるつもりがなくとも、話を通すのであれば最初にメラーズ伯爵に当たるべきだった。しかしケニス辺境伯の考えは違うらしい。苦い表情で首を振った。
「メラーズ伯爵はフランクリン・スリベグラード大公閣下と懇意だという噂がある。あまり手の内は見せたくはない」
納得したようにモーリスは頷いた。
今は亡きエアルドレッド公爵がライリーを支持する立場を表明した際、辺境伯もまたライリーの後ろ盾になる姿勢を見せた。その考えは今も変わらない。だからこそ、ライリーの対抗馬として大公を担ぎ出す貴族とは距離を置こうと考えるのもおかしなことではなかった。
――確かに、とモーリスは肩を竦める。
「大公閣下が主君となるようでしたら、我々もケニス公国とでも名乗って独立しましょうか」
謀反と取られてもおかしくはない発言だったが、ケニス辺境伯もまた真顔で「それも良い考えだな」と肯定した。
「その際はお前に公爵の位を頂けるよう、先に殿下に交渉しておかねばならんな」
「私がですか? 冗談は止してください、柄でもない」
「言い出したのはお前だ、発言には責任を持て」
真顔で全く冗談に聞こえない口調のまま、二人は気軽な雑談を交わす。勿論、両者とも本気ではない。国王も未だ回復したとは言えないものの、最悪の状態は脱したと報告を受けている。しかし今後何かが起こって、もしライリーではなく大公が王太子もしくは国王として擁立されることになれば、冗談が冗談ではなくなってしまう。二人はそのことを良く知っていた。
*****
ジルドは非常に嫌そうな顔を隠そうともしなかった。その様子を見たリリアナは僅かに苦笑を漏らす。
ケニス辺境伯領での戦闘が終わり、リリアナの待つ王都近郊の屋敷に戻って来たジルドは通常の任務に戻ったが、一週間もしない内に王都から一通の書状がリリアナ宛に届けられた。宛先はリリアナだが、書状はジルドに対する依頼だった。
「ったく、なんで俺が」
「辺境伯の目に止まった時点で諦めた方が宜しゅうございましてよ」
「面倒くせぇ……」
苦々しい口調でぼやくジルドをリリアナは宥める。リリアナの護衛をしていなければとっととバックレるのに、と言いたげだ。しかし彼は素直にリリアナの隣を歩く。
今二人が歩いているのは、王宮に隣接した王立騎士団の敷地だった。兵舎や訓練棟等の建物が複雑に建てられているため、初めて訪れた人は迷いかねない。しかしリリアナとジルドは悩むことなく足を進めていた。
二人を招いたのは、王立騎士団長トーマス・ヘガティだった。手紙にはジルドをケニス辺境伯から紹介して貰ったこと、ぜひとも訊きたい話があることが書かれていた。そして、今回の話し合い次第ではジルドに協力を仰ぐことになる可能性があるということも、遠回しに示唆されていた。
本来であれば案内の騎士が一人付くところだが、書状にはリリアナとジルドが訪れることは極力伏せたいと書いてある。そのため、二人はあまり人の通らない通路を選んで目的地に向かっていた。
(騎士団増強に関する相談か、それとも他に何かありますかしら)
リリアナは変わらぬ穏やかな微笑の下でそんなことを考える。
隣国が侵攻して来た場合、王立騎士団だけでは戦力として若干不安があるという点については以前からライリーたちも懸念していた。隣国ではなくとも、以前起こった政変の時のように国内で反旗を翻す者が居る可能性もある。戦争となった時、領主に援軍を依頼するにしても、現状ではどの領主がライリーの命令に従うか判断が付かない。恐らくケニス辺境伯やエアルドレッド公爵、そしてクラーク公爵はライリーに力を貸すだろうが、国内の情勢によっては戦力を割けない可能性もある。
だからこそ、王立騎士団の増強は外せない一手だった。
一方で、王立騎士団の増強を良く思わない一派も居るという。王立騎士団自体が力を持つことに好意的でない貴族も居るし、騎士団の増強に否定的ではないものの平民や異民族が国防に関わることには反対だと考える者もいる。だからと言って自領の騎士団から王立騎士団に引き抜かれては困るという意見もあり、なかなか諸侯たちの意見は一つにまとまらない。
(団長権限で人事異動や組織編制の変更はできると言っても、大幅な変革には顧問会議の承認が必要になるはずですが――)
そこは一体どうするのかと、リリアナは考え込んだ。
国王が回復し御前会議が開かれるようになれば、国王権限で王立騎士団の拡充や再編成を行うことも可能だろう。しかし、最悪の状態は脱したとはいえ国王の容体はまだ回復していない。御前会議を開けるようになるにはまだ時間が必要だった。
(考えても致し方ございませんわね。実際にお話を伺うまでは何も分かりませんわ)
リリアナは小さく首を振って思考を止めた。ちらりと隣のジルドを見上げると、彼の眉間にはくっきりと深い皺が刻まれている。声を掛けるのも憚られるほど不機嫌だ。リリアナは特に話し掛ける内容も思いつかず、沈黙を保つことにした。
そうして更に歩くこと十数分、ようやく二人は騎士団長室の隣に用意されている応接室に辿り着く。ジルドが隣に立つリリアナを一瞥し、扉を二度叩く。すると中から扉が開かれた。顔を覗かせた人物こそ王立騎士団長トーマス・ヘガティだ。一見したところ厳つく隙のない男だ。か弱い貴婦人であれば一瞬にして顔色を失くすだろうが、ジルドもリリアナも平然としていた。
ヘガティは二人の顔を見つめると「クラーク公爵令嬢リリアナ様と、ジルド殿ですね」と確認を取る。ジルドは苦虫を嚙み潰したような表情で頷き、リリアナは嫋やかに微笑んで見せた。
「ええ、左様でございますわ。王立騎士団長トーマス・ヘガティ様でございますわね」
「いかにも。どうぞ中へお入りください」
どうやら人払いがしてあるらしいとリリアナは内心で呟く。書状にあった“極力リリアナたちが訪問したという事実を伏せたい”という要望は冗談でも何でもなかったようだ。
ジルドは周囲を警戒しながら、リリアナは悠然と室内に入る。余裕の表情を崩さなかったリリアナだが、部屋のソファーに腰かけたもう一人の人物を見てその薄緑色の目を瞠った。
「――殿下?」
何故、ここに。
そんな思いを込めて見つめた先には、王太子ライリー・ウィリアムズ・スリベグラードがにこやかに座っていた。