26. 国境の砦 10
国境の砦からケニス辺境伯領の屋敷へと転移したリリアナの目的は、マリアンヌの様子を確認することだった。ジルドと共に辺境伯領――実家へと戻ったマリアンヌは、この期間だけ休暇を取得しているという建前になっている。本来であれば様子を見る必要もないのだが、今は彼女の父であるケニス辺境伯が国境に張り付いてる状態だ。
三年前に暗殺者に命を狙われた辺境伯は一命を取り留めたものの、左半身が不随になるという後遺症を負った。医者も魔導士も改善は見込めないと言っていたが、驚異的な体力と精神力で、杖を突けば動ける程度には回復している。それでもなお戦場に出られるほど回復はしていない。そのため、マリアンヌは父を思って心を痛めているはずだった。
(わたくしは持っていない感傷ですわね)
小さく内心で呟き、リリアナは索敵の術を使いマリアンヌの居場所を特定する。
もし寝られていないようであれば、禁術一歩手前ではあるが“おまじない”で神経を落ち着かせることはできる。リリアナが使う術は神経に直接作用するものだが、現在の魔術書に照らし合わせれば精神干渉の術に類するものだ。精神干渉は禁術に指定されているため、大手を振っては使えない。
(いましたわ)
マリアンヌは辺境伯一家の暮らす棟の一室に身を寄せていた。どうやら部屋には彼女以外にも人がいるらしい。リリアナは少し考えた。姿を消せばマリアンヌには気が付かれないだろうが、彼女と共にいる人物が気が付くかどうかは分からない。逡巡したが、思い直せば優秀な魔導士は皆国境の砦に行っているはずである。それならばリリアナの術を見破れる人間もそうそう居ないだろう。
リリアナは辺境伯邸の廊下を歩いて周囲の様子を観察しながら目的地に向かった。
今リリアナが居る場所は辺境伯邸の本棟だ。応接間や遊戯室等、来客を持て成したり家族が一家団欒を楽しむ部屋が連なっている。魔導士を雇う余裕のない館では各部屋の裏側、使用人たちが通る専用の通路側に火を焚き込め部屋を暖める設備が整えられているが、辺境伯邸では室温管理は魔術で行っている様子だった。それだけでも辺境伯領が他領と比べてどれほど富んでいるのか推察できるものである。
そうして長い廊下を歩き、ようやくリリアナは辺境伯一家が寝起きする私室が連なる棟に到達した。勿論、各人の私室だけでなく、個人の遊戯室や談話室といった部屋も設えられている。本棟と違うのはその各部屋が僅かに小さく、そして落ち着くような色合いで統一されていることだった。
マリアンヌの部屋は今リリアナが居る棟の最奥にあるらしい。リリアナは迷いなくその部屋に向かう。途中で誰とすれ違うこともない。人の気配はあるが、使用人たちは使用人用の通路を通るし、ケニス辺境伯の家人たちは残っている者たちは皆、自室に引っ込んでいる様子だった。
(確か、辺境伯一家の中で騎士団に所属しているのはビリー・ケニス――マリアンヌの弟一人でしたわね)
他の兄弟たちはケニス騎士団には入団していない。どうやら騎士としての才覚が認められたのはビリーだけのようだった。確かに――とリリアナは、唯一その顔と為人を知る長兄のルシアンを思い描く。
ルシアンは騎士というよりも、どちらかと言えば政治的な交渉を得意とするタイプのようだ。弁舌が立ち情報戦も得意で抜け目のない人物、という印象がある。ケニス辺境伯が貴族社会には珍しく徹底した実力主義であるという証左だと、リリアナは小さく笑った。
(この部屋かしら)
暫く歩き続けたリリアナは一室の前で足を止める。そこはマリアンヌの私室に隣接した小さな談話室だった。家族や親しい友人が彼女を訪れた時に招き入れるための部屋だ。
(【探索】)
魔術探知をしているか、リリアナは先に確認することにした。【探索】の術を使っても反応はない。どうやら姿を消していればリリアナの存在に気が付かれることはなさそうだと判断して、リリアナは転移の術で室内に忍び込む。そこに居たのは、泣き腫らした目のマリアンヌと彼女を慰める一人の女性だった。
「――だって、お母様」
どうやら部屋に居たのはマリアンヌの母だったらしい。長兄のルシアンが三十歳を超えていることを考えればそれなりの年齢にはなっているはずだが、非常に若く美しい女性だった。
「心配することはないのよ、マリアンヌ。お父様はお強い方だし、ビリーだって立派に騎士になったんですもの。それに、他の騎士たちも皆、無事で帰ってくるわ。そのために貴方の同僚のジルドだって、それから魔導省からはベン・ドラコ様もミューリュライネン様もいらしたのでしょう」
「ええ、そうね。分かってるわ。分かってはいるんだけど、不安で眠れないの」
マリアンヌは頷くが、それでも心配は晴れないらしい。蒼褪めた表情は強張っている。よく見れば、二人の前にはティーカップがあった。どうやらハーブティーを飲んでいるらしい。昂った神経を落ち着けさせるためのものだろう。
「お昼は大丈夫なんだけど、寝る前になるとどうしても神経が昂って――駄目だわ。これじゃあお父様の娘だって胸を張れないって分かっているの、でもどうしても――意識の戻らないお父様の姿が頭の中にちらついて」
悄然と項垂れる娘の方を母は抱きしめる。彼女は優しく微笑みながら娘を安心させようと言葉を重ねる。どうやら心配せずとも大丈夫そうだ、とリリアナは転移の術で自身の屋敷に戻ろうと考えた。転移の術を発動しようとしたその時、辺境伯夫人の言葉を耳にしたリリアナは術の発動を直前で取りやめた。
「貴方は昔から優しい子だったもの。色々なことに気が付いて――人を喜ばせることがこの上なく好きで。そんな貴方だから、お父様は貴方が好きなことをすれば良いと、侍女になることもお許しくださったのよ」
リリアナはマリアンヌの幼少時を知らない。リリアナの方が年下だし、そもそもマリアンヌが侍女になるためクラーク公爵家の門を叩かなければ決して二人の人生が交わることもなかっただろう。だからこそ、辺境伯夫人の言葉に気を引かれた。
まさかクラーク公爵家の侍女の枠を勝ち取って来るとは思わなかったけどね、と悪戯っぽく笑う夫人にマリアンヌは照れたように笑った。
「だってお母様、お嬢様はとても可愛らしい方だったのよ。奥様と旦那様はあまりお嬢様にご興味がなかったようだけど――確かにお嬢様は滅多に笑ったりしない方だったけど、お世話させて頂いていると、少しずつ心を開いてくださるのが分かるんですもの」
マリアンヌは愛おしそうに“お嬢様”とリリアナのことを語る。
いつも変わらない作り物めいた微笑と人は言いがちだが、その微笑にも僅かに違いがあること。
貴族としての態度を貫きその義務を果たすべくいつも毅然としているけれど、その実好き嫌いがはっきりとしていて、興味がないことには目もくれないこと。
「お嬢様は本当に、不器用な方だから――分かり辛いけど、でもとても心根のお優しい方なの」
――まるで血肉の通った等身大の“お嬢様”がそこに生きているかのような、愛に満ちた言葉の数々。
無意識のうちにリリアナは一歩、下がっていた。
確かにマリアンヌはこれまでも幾度となくリリアナを褒め称えてくれた。だがリリアナにとってその言葉はどれもこれも、大して意味のあるものではなかった。常と変わらない微笑を浮かべて礼を言い、その後は言われたことさえ忘れてしまう。単なる挨拶と大して違いのない言葉だったが、今マリアンヌが口にしたそれは全く違う。リリアナ本人の前で言うならばともかく、第三者の前での誉め言葉は本心に他ならない。
(一体、誰のことを言ってますの、マリアンヌ)
リリアナの頬は僅かに引き攣る。つきりと痛んだ胸を無意識に掴んでいた。口の中が渇き始める。彼女にしては珍しい表情だったが、姿を消しているため誰も気が付かない。
自分のことを言っていると分かっていても認めたくない、というよりも違和感がありすぎた。自己認識と他者の認識は違うというが、それにしても差がありすぎではないかとリリアナは冷や汗をかく。
一つの可能性としては、マリアンヌがリリアナに対して抱いている心証が他と全く違うことだが、生憎と確認する手段はない。
「小さい時からそうだったの。馬番のミカルに長女が生まれると聞いて、ククサを贈ると仰ったり――それまで少し我が儘なところはあったけれど、それも年相応で可愛らしかったわ。きっとお寂しくていらっしゃったのね」
その場に姿を隠したリリアナが居ると気が付いていないマリアンヌは、小さな主が居心地悪そうにしていることにも気が付かず、どれほど素晴らしい令嬢であるかを母親に語っている。そうしている内にマリアンヌの顔色は良くなっていたが、リリアナの方が耐えられなかった。
自分は、マリアンヌが褒め称えるようなそんな人間ではないと知っている。優しさも親切心も全ては生存本能という原始的な欲求から生まれた手段でしかないし、好奇心や興味はあっても善悪を判断する元となる感情は非常に希薄だ。人間的な厚みは全くない。それは他の誰でもなく、リリアナ本人が分かっていた。
(――マリアンヌは辺境伯夫人に任せておけば宜しいでしょう。わたくしは帰りますわ)
これ以上ここに居てなるものか、とリリアナはあっさりと転移の術で自身の屋敷に戻る。見慣れた空間、そしてただ一人しかいないという状況に酷く安堵し深く溜息を吐く。すると、どっと疲れが体中を襲った。魔術を使って寝間着に着替えるとそのまま寝台に潜り込み、目を瞑る。夜風で冷えた体ではなかなか睡魔は襲って来ない。
ごろりと寝返りを打って、リリアナは目を閉じたまま思いを馳せた。
(“愛くるしいお嬢様”なんて、一体どこを見ればそうなるのかしら。それともわたくしの擬態が上手いという、それだけの話?)
理解が出来ないと内心で首を捻る。
昨年、父親であるクラーク公爵を殺害したリリアナは、その翌日一人で部屋に籠った。刺客のオブシディアンにも黒獅子のアジュライトにも入って来てほしくなかったから、自分にできる最高級の防御結界を張った。
父親を殺しても全く動じなかった、寧ろその瞬間もその後も頭の中は冷え切っていた。きっと――いや、間違いなく自分はおかしい。それまでも薄々と感じていた自分への違和感を眼前に突き付けられた気分だった。きっとその違和感は、前世の記憶がなければ気付かなかったに違いない。何故なら、感情が殆ど動かない――それはリリアナにとって当たり前のことだったからだ。
ゲームのリリアナのような破滅を迎えたくないという一心で動いて来た。王太子の婚約者候補から外れることもその一環だった。だが結局、現実はゲームの通りに動き始めている。王太子の婚約者という立場から逃れるだけでは解決できないのではないか――その根本的な問題は、婚約者という肩書のような外形的なものではなくもっと本質的なものではないのか。
リリアナは自分の心に芽生えた疑惑を明らかにするため、自分自身に精神干渉の禁術を使った。
――――結果は、半分成功、半分失敗。
リリアナは自分に精神干渉し、様々な場面を見せた。それは今では禁書に指定されている、古い魔術書に記載があった術で、嘗ては犯罪者の拷問に使われていたらしい。短時間で一生分の出来事――それも喜怒哀楽の感情を揺さぶるような出来事ばかりを見せるその術は、対象者を狂気に陥れる。尤もその状態を回復することも不可能ではない。ただリリアナ本人が狂ってしまえば、回復も難しい可能性がある。そのため、リリアナは念のために部屋全体に魔術陣を張り、術の終了と共に回復の術が発動するよう仕組みを作った。そして、術の最中の自分を記録できるよう魔導石を部屋中に仕掛ける。
(記録を見た時、思わず笑ってしまいましたものね)
小さな溜息を吐きながら、リリアナは苦笑する。両手に抱え込んだ枕を引き寄せて抱きしめ、そこに顔を埋めた。
記録の自分は全く動じていなかった。嬉しい瞬間も楽しいと感じる時も、腹を立てる時も悲しむべき瞬間も――リリアナの表情は常に変わらず微笑を浮かべていた。ただ一瞬だけ――エアルドレッド公爵の死を目の前に見せつけられた瞬間だけは、ほんのわずかに顔を強張らせたが、ただそれだけだ。
そして次に、リリアナは己の感情の薄さが生来のものなのか、それとも人為的なものなのかを確かめようとした。もし魔術や呪術で感情を抑えつけられているのであれば、解析すれば分かるはずだった。
だが、それは失敗した。否――失敗ではないのだろう。解析できなかった、それは即ち魔術や呪術が使われたわけではないということだった。自分自身に掛けられた術を解析することは非常に難しいし、本人の魂に根深いものであれば尚更困難だと聞くから、リリアナは僅かに残された可能性を捨てきれないでいる。
――ただ、それだけだ。
(わたくしには感情がございませんのよ、マリアンヌ)
だからこそ、ゲームのリリアナは闇に落ちたのだ。感情を持たない人形が、何らかの理由で怒りと憎悪を植え付けられた。そして最後には破滅を迎える。
死にたくないという欲求は生物の原始的なものだから、リリアナにも残っているのだろう。とはいえ、その死にたくないという思いが心の底から願っているものなのか、それすらもあやふやだ。時折、胸に空いた空洞に乾いた風が吹き抜けるような心地すらする。
父親のように、何かに執着し利己的なまでに振る舞うほうがまだ人間らしいとさえ思う。
感情のない人間は空っぽだ。人格というものは知識や経験だけでは成立しない。好悪や喜怒哀楽といった感情が結びついてこそ成り立つ。良いことか悪いことか、という判断も、知識や経験だけでは判別できない。他人を悲しませたくないとか喜ばせたいとか、そういった感情に結びつくからこそ善悪の判断もできるようになる。それが出来ないリリアナは、知識としての社会規範や規則に頼る他ない。もしそれすら心掛けなくなれば、リリアナは幾らでも非道に、そして非情になれる。他者を思いやる心を司る感情がないのだから、当然のことだ。
そして、ゲームのリリアナには大切にしたいと思える存在も居なかった。今のリリアナには、辛うじて守ってあげなければならないと思える相手がいる。だからこそ、どうにか人間としての形を保っていられるのだ。
(だからゲームのわたくしは、道を誤ったのでしょう。この世界ではまだ、貴族の義務という概念は一般的ではございませんから)
仮定に過ぎないが、もし貴族の義務の概念が一般的で、かつゲームのリリアナもその考えに親しんでいたのなら、ヒロインを害そうなどとは考えなかったに違いない。もしかしたらリリアナを唆した何者かが居た可能性も否定できないが、その誘惑に抗えなかったのも彼女の中に明確な善悪の基準がなかったからだろう。
――多少なりとも好悪はあっても感情のないリリアナは、人間として不完全だった。
だからこそ、今ここに居るリリアナは、前世の知識も総動員して誤った道を辿ってはならない。生来的に彼女は、ただの生きた傀儡だ。ゲームのリリアナのような破滅を迎えないためには、己を厳しく律する他ないのだ。
そしてそれは、割り切ってしまえばそれほど難しい話でもなかった。
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