26. 国境の砦 9
嘗ての名を口にしたジルドを前に“北の移民”たちは警戒の体勢を取っていた。イェオリとインニェボリのように若い者たちは最初こそ仲間たちの態度を呆気に取られて眺めていたが、すぐにジルドは警戒対象だと判断して身構える。だが、その緊迫した空気を崩す男がいた。
その場に居る者の中で最年長らしい男は、見た目だけで考えればジルドとそれほど大差ない年頃に見える。彼が片手を挙げると、ジルドに警戒心を剥き出しにしていた者たちが皆、不安そうな表情ながらも僅かに緊張を解いた。それでも何かあればすぐに応戦できるように体勢を整えることだけは忘れない。最年長の男はその上でジルドをまじまじと見つめ、やがて僅かに頬を緩めた。
「ここであのフローズヴィトニル様のご子息にお会いできるとは思わなかった」
その言葉はこの場にそぐわないほど丁重なものだった。騎士たちの戸惑いが大きくなる。しかし、声を掛けられたジルドは最初こそ訝し気だったものの、すぐに目を丸くした。だが信じられないとでも言わんばかりに男を凝視している。男は苦笑して肩を竦めた。
「会ったのは殆ど物心つく前だったから忘れ去られているかと思っていたが、どうやらお前も異能力は高いらしいな? ガルム」
懐かしい愛称に、ジルドは絶句する。しかし次の瞬間、彼には珍しいほど相好を崩した。
「――トシュテンか!」
「ああ、久しぶりだな、ガルム。息災そうで何よりだ」
「なんだその形は、さすがの俺でも分からなかったじゃねェか。でも目元とその霊力はそんなに変わらねェみてえだな」
「それはこっちの台詞だ。お前が以前の名を名乗るまで、私も確証を持てなかった」
二人はがっしりと握手を交わし固く抱き合った。家族や親友といったごく近しい間柄でしか行わない挨拶に、他の者たちは絶句する。しかしジルドもトシュテンも気に留めない。旧交を懐かしみ、二人は互いの近況を簡単に伝え合った。
「そうか、お前のご両親はお二人とも――」
ジルドの両親は既にこの世の人ではない。それを知ったトシュテンは悔しさに満ちた顔つきで俯いた。それを励ますようにジルドは旧友の肩を叩く。
「仕方ねえよ、あの地を追放された段階で親父は異能力を奪われたし、お袋も心労が祟って弱ってたからな。特にお袋はあの場所が好きだったから、どうしようもねえことだった」
トシュテンは旧友の不器用な優しさに苦笑を零す。そして声を低めてジルドの耳に囁いた。
「私の父は最後まで後悔していたよ。裏切り者はお前の父ではなかったというのに、突き止めることもできず、結局奴の姦計にまんまと嵌ってしまった。お前たちは同胞の守護を司る家系だったのにな」
「お前らのせいじゃねえよ、お前の親父さんにもお袋さんにもよくして貰ったからな」
気にするな、とジルドはトシュテンの肩を叩く。わずかにほっとしたような表情を見せたトシュテンだが、すぐに不思議そうに首を傾げた。故郷を追われた者たちが異国の地で苦労することは、トシュテンも身をもって知っている。トシュテンは幸いにもケニス辺境伯領に辿り着いたため、敬愛する辺境伯が団長を務める騎士団で充実した日々を過ごすことが出来ているが、そうでない者の方が圧倒的に多い。
「今はどうしているんだ? 傭兵をしているということだったが」
「命の恩人がいてな、その人の護衛として仕えてる」
「お前の!? それは――ぜひ私もお会いしてお礼を申し上げたいところだな」
驚いたように目を瞠るトシュテンには答えず、ジルドはトシュテンの背後でこちらを凝視するアルヴァルディの子孫たちに目をやった。トシュテンもそれに気が付き肩越しに仲間を振り返る。呆然とした様子の仲間たちにトシュテンが首を傾げると、一人が恐る恐る口を開いた。
「あの――トシュテン、この男は貴方のお知り合いなのですか?」
「ああ、昔馴染みだ。こいつは信用していい」
トシュテンはあっさり断言する。元々力尽くで事を進めようかと考えていたジルドは、予想外のところから差し伸べられた手に苦笑を漏らす。そしてトシュテンは瞠目する仲間たちを見て苦笑を漏らし、ジルドを眩しいものでも見るかのように目を眇めて見上げた。
「――小さい頃は、お前が俺の主であれば良いと思っていた。お前の霊力はあの頃から変わらず、覇者の風格だ。私の父も常々そう言っていた」
途端にジルドは苦々しい表情になって吐き捨てた。
「柄でもねえ、んな気色の悪ぃこと言ってんじゃねえよ、やめろ。今回は緊急処置で仕方なく、だ」
そこんところ間違えるんじゃねえぞ、とジルドに念を押されたトシュテンは肩を竦めて苦笑混じりに頷いた。
「分かった。分かったから、ここでへそを曲げてくれるなよ」
「うるせえ」
ぶっきら棒に口をへの字に曲げるジルドに笑ってみせたトシュテンは仲間を振り返って頷く。すると全員が警戒態勢を解き、むしろ好意的な視線をジルドに向けるようになった。最年長の彼の言うことであれば、皆素直に言うことを聞くらしい。ジルドは気持ちが悪いとわざとらしく身震いしてみせる。相変わらずだとトシュテンは嬉しそうに笑ったが、すぐに真面目な表情に戻った。
「ガルム。誓いの儀を」
「――分かった。準備は良いか?」
問われたアルヴァルディの子孫たちは神妙な面持ちで頷く。それを見たジルドは、今は使われていない一族の古語を紡ぐ。それは神代に使われていた、歌のような音階を持つ美しくも迫力のある調べだった。
一連の詠唱が終わった時、ジルドの体からは圧倒的な覇気が流れ出していた。その強さに、その場に居た者たちは皆、トシュテンも例外なく身震いする。しかしその中でもトシュテンだけは、頬を染め高揚した気持ちを隠しきれていなかった――夢にまで見た、この瞬間を迎えることに喜びを抑えきれない。
トシュテンは小さい頃から、ジルドがアルヴァルディの子孫の長になると信じていた。トシュテンの父もそうだった。だが、それは結局永遠に叶わぬ夢となってしまった。ジルドと彼の両親のいない故郷など、もはやトシュテンにとってはどうでも良いものだった。ただ残された同胞たちのことだけが、気がかりだった。
ジルドが低く通る声で問う。
「トネリコの鍵を持っているか?」
トシュテンが答える。
「緑の鍵が作りし神の馬は既に枯れ果てた」
イェオリとインニェボリを人身売買組織の手から救い出した時、彼は今使っているジルドという名を使った。だが今は、あの時よりも大きな力を必要とする。だからジルドは名乗らなくなって久しい名を口にした。
「我が同胞に問う、我が名はフローズヴィトニルが息子マーナガルム。汝が名は」
「我が名は、フーゴが息子トシュテン」
トシュテンは服の影で手印を切る。それはアルヴァルディの子孫に伝わる、一家毎に異なる仕草だ。門外不出とされるその印は誓いの儀の時にしか使わない。
彼を皮切りに、皆が次々と名乗る。最後の一人が名乗り終えた後、密度の濃い霊力がその場を満たす。トシュテンたちは絶句した。その気配はアルヴァルディの子孫が暮らす、北の果ての大地でしか感じられるはずのないものだった。ジルドは皆の驚きを目にしてにやりと笑う。
そして――誓いの儀を終わりに導くその言葉は全員の耳にしっかりと届いた。
「灼熱と氷河より創られし九つの世界を守護する神の大樹に願わん、我が魂に力を授けよ」
その途端、その場に居た全員の体が青く光った。その光は一瞬にして彼らの体内へと掻き消える。目を瞠る彼らは、しかしすぐに違和感を覚えて訝し気に自分たちの手や体を眺めた。最初に驚いたような顔を上げたのはトシュテンだった。
「おい、ガルム。誓いの儀っていうのは体力も回復させるのか?」
「体力回復じゃねえ。異常な状態を正常に戻すんだよ。俺たちアルヴァルディの子孫の特効薬みたいなもんだ」
ジルドは平然と答えた。目を瞬かせるトシュテンたちに、ジルドは更に言葉を重ねる。
「それから、この誓いが有効である限り俺たちは互いを裏切れねえ。誰かが危機に陥れば異能力を最大まで引き出せる。だが引き出した後は反動で寝込むから気を付けろ」
「どれくらいの間、最大限まで異能力を引き出した状態で戦えるんですか?」
尋ねたのはイェオリだった。ジルドはちらりとそちらへ視線をやって淡々と答える。
「そればかりは人による」
「分かりました」
神妙に頷いたイェオリに頷いて見せたジルドは全員の顔を見まわし「他に質問はあるか?」と尋ねた。だが手は挙がらない。ある程度は皆、誓いの儀について知っているようだった。それなら問題はないだろうとジルドは納得する。そして最後に、思い出したように付け加えた。
「ちなみに、敵がトネリコの樹皮を燃やして煙をけしかけてくれば、この状態でも多少身体能力は落ちる。心してかかれよ」
「戦闘に参加しても良いのですか?」
目を丸くした騎士が問いかける。
自分たちが狙われていると聞いた時点で、誰もが戦闘への参加は諦めていた。だがジルドの言葉を聞けばまるで参戦が決まっているかのような言い分である。問うた騎士に顔を向けたジルドは「いや」と答えた。
「一ヵ所に集まって待機だ。だが恐らく、あいつらは俺たちを狙って来る。正規の騎士じゃねえぞ、俺たちの存在を知り喉から手が出るほど欲しいと思ってる奴ら自ら来るはずだ」
「その中に、トネリコの樹皮を使う者がいるかもしれないということですね」
「そうだ。良いか、無茶はすんな。そいつの異能力は恐らく俺と張る」
静かに告げられたジルドの言葉に、騎士たちは息を飲んだ。ジルドの異能力がどの程度高いのか具体的なことは分からずとも、トシュテンの態度やジルドの体から溢れ出した覇気だけでも十分にその強さを実感できる。今この場に居るケニス騎士団所属のアルヴァルディの子孫の誰より、ジルドは強かった。トシュテンでさえアルヴァルディの子孫では強い方だとこの場に居る誰もが思っていたが、恐らくジルドはそのトシュテンを凌駕する。誓いの儀の中心がトシュテンではなくジルドであったことからも、それは明らかだった。
そのジルドが“同等”と言う相手が一体どのような異能力の持ち主で、そしてどれほど強いのか、想像することも難しい。険しい表情で黙り込んだ仲間たちを前に、ジルドは小さく笑みを零した。それを見たトシュテンは仲間を振り返る。そして明るく話し掛けた。
「誓いの儀式も終わったことだし、そろそろ戻るか」
「そうだな、それがいい。あとはたっぷり休むことだな」
ジルドの言葉にも後押しされ、皆踵を返して暗い森の中を迷わず進む。行きよりも帰りの方が足取りは軽い。ジルドの正体が分かり信用できるという結論に至ったこと、誓いの儀を執り行ったこと、体力が回復したこと――その全てが彼らの心を軽くしていた。
最後尾を歩きながら、ジルドは険しい表情のまま同胞たちの歩く背中を見つめる。
「ガルム?」
トシュテンがジルドの雰囲気に気が付いたのか、低く小さな声で名を呼んだ。どうした、と言外に尋ねられてジルドは首を振る。
「なんでもねえ」
しかしトシュテンが信じていないことは確かだ。それでもジルドが口を割らないと分かっているのか、トシュテンはそれ以上問おうとはしなかった。
ジルドは無言で歩き続ける。森から出て砦が目に入る。月が雲の狭間から姿を現わし、ジルドはそのタイミングで遥か後方――敵陣のある場所を振り返った。しばらくその場に立ち尽くし、何かを考えるように目を細める。闇夜に沈み姿の見えない敵陣を睥睨すると、ジルドは再び砦に向かって歩き出す。
一つの疑惑が、彼の胸には浮かび上がっていた。
「――まさか、な」
一体、アルヴァルディの子孫を知っている敵は何者なのか。
何故、隠されてきたはずの弱点を知っているのか。
その答えは単純だ。偏に、その敵がアルヴァルディの子孫または関係者だからに違いない。
だが、それならばもう一つの疑問が残ってしまう。同じアルヴァルディの子孫でありながら同胞を売る真似をしたのは一体誰なのか。
アルヴァルディの子孫は長い間、世俗から離れ同胞たちだけで固まり北の大地で放浪し続けてきた。ジルドの父が追放された頃合いから離脱する者が増えていき、その後も年々離反する者が増えているという。だがそれでも、アルヴァルディの子孫はそれほど人数も多くない。特に同胞の秘密は厳重に守られ限られた者しか知らないから、敵に情報を流した可能性のある者は限られる。
ジルドは幼少時しか同胞たちと暮らしていなかったから、それほど人間関係や権力関係には詳しくない。その中で“裏切り者”を探しても意味はないかもしれないが、考えずにはいられなかった。
「トシュテン」
ジルドは他の者たちが離れた隙を見計らって旧友に声を掛ける。振り向いた友に、ジルドは低く尋ねた。
「訊きたいことがある」
「――わかった」
トシュテンは頷いた。ジルドを手招き、砦の中で二人きりになれる小部屋へと案内してくれる。蝋燭に火をつけ小さな椅子に腰かけたジルドは、真っ直ぐに友を見つめて単刀直入に問うた。
「今、長老の関係者で離脱した者は誰だ?」
途端にトシュテンはジルドの本意を悟ったようだった。真剣な表情で尋ね返す。
「完全な離脱ではなく、長老の命により一時的に離脱した者も含めるか?」
ジルドは目を瞠る。ジルドの知る同胞たちは、決して同胞を“離脱”させようとはしなかった。それにも関わらず、長老が“一時的に離脱”させた――つまり、帰還をはじめから許しているという事実が俄かには信じ難い。
だが、ジルドは直ぐに立ち直った。トシュテンに頷いて「含めてくれ」と答える。トシュテンは深く長い息を吐き出して、静かに答えた。
「かなりの人数がいる。まずは自ら離脱した者たちだ――」
家名と本人の名、そしてトシュテンが知る限りにおいて離脱した理由。次々と述べられるそれに、ジルドは耳を傾ける。自ら離脱した者の中には、かつてジルドの父に冤罪を掛けた者の息子ウートも居た。
「どうやら彼は父親の姿勢に反発して離脱したらしい。若い頃に離脱したから、彼の異能力が一体何なのかは不明だ。噂では夢を操る能力だと聞いたが、真偽のほどは定かじゃない」
トシュテンの説明を受けたジルドは渋い表情になった。異能力が分からなければ対応は後手に回る。あまり有難いことではなかった。だがトシュテンの説明は更に続く。
「それから、長老の命により一時的に離脱したものは二名。一人は現在ユナティアン皇国に滞在してアルヴァルディの子孫の後ろ盾になって貰うよう交渉しようとしているらしい。もう一人は北の国で遊学中だ」
ジルドは顔を顰める。ユナティアン皇国に対して交渉するなど無謀としか思えない。特にアルヴァルディの子孫は元々国という概念を持たない集団だ。百戦錬磨の皇国と取り引きをしようとしたところで、美味い汁だけ存分に吸われ、その後は使い捨てられるだけだ。そのことを理解していないのかと頭を抱えたくなるが、今はその点を論じる時ではなかった。
ジルドはトシュテンに鋭く尋ねる。
「ユナティアン皇国に滞在している者は?」
「外交官として滞在している。オーケが息子オルヴァーだ。彼の能力は霊力と異能力の判別だな。霊力の判別は俺たちもできなくはないが、彼の場合その精度が異常に高い」
わかった、とジルドは頷く。
北の国で遊学している者に関しては一旦考えずとも良いだろうが、自ら離脱したというウート、そして外交官として皇国に滞在しているというオルヴァーの二人は疑うべきだ。ジルドは二人の名を、そっと心の中に書き留めた。
「それから、明日以降の作戦だ。そのためにはまずあいつらの異能力を把握しておく必要がある。お前もどうせ、全部は把握してないんだろ?」
ジルドに尋ねられたトシュテンは苦笑した。異能力は彼らにとっても非常に繊細な話題だ。知られても全く気にしない者も居ることには居るが、ほとんどは家族や親しい間柄にしか告げることもない。幾らケニス辺境伯に傾倒し騎士団に入団したと言っても同胞以外に異能力を打ち明けているとは思えなかったし、同胞に対しても詳細な内容については告げていないはずだった。
トシュテンは頷いたが「でも、お前になら」と言った。
「まだ信用していない奴らも居るだろうが、誓いの儀を立てた相手だ。お前が命じれば黙り続けることなどできない」
「さすがに無理強いはしたくねえよ。言っただろ、誓いの儀は今回限りだ」
苦々しい口調のジルドに微笑を浮かべたトシュテンは肩を竦めた。
「一対一でお願いしてみれば良いだろう。嫌と思えば断るはずだ。ちなみに私は断らんぞ」
「――お前の能力こそ聞きたくねえけどな」
心底嫌そうなジルドを楽し気に見やって、トシュテンは問答無用で己の異能力を口にする。うんざりと溜息を吐いたジルドに「私の能力は使えないか?」と尋ねたが、ジルドは心底面倒だという口調で首を振った。
「いーや、寧ろ便利すぎて涙が出らぁ」
「誉め言葉と受け取っておこう」
トシュテンは楽し気な笑い声を漏らしてジルドの肩を叩くと、同胞を呼ぶために部屋を出る。その後ろ姿を見送ったジルドは、乱暴に髪の毛を搔き乱した。