26. 国境の砦 5
扉を開けたベンは、リリアナとジルドを見て目を丸くした。マントを体に巻いただけのジルドをまじまじと見つめていたが、はっと我に返ると慌てて中に入るよう促す。二人の背後で扉を閉め、ベンは深い溜息を吐いた。
「――本当、こんなところで何してるの」
主語がなかったがリリアナに問い質しているのは明らかだ。リリアナは小さく笑って肩を竦めた。
「少し気に掛かることがあったので参りましたの。お久しぶりですわね」
「うん、久しぶり。元気そうでよかったけど――こんなところで会うとはね」
「ペトラも呼べますかしら?」
苦笑を浮かべたベンに尋ねると、彼は一瞬不思議そうに目を瞬かせたがすぐに頷いた。「呼べると思うよ」と言って魔導石を取り出す。リリアナも持っている通信用の魔道具だ。
ベンが言った通り、ペトラはまだ起きていたようですぐに反応があった。魔術や呪術の研究者はどうしても宵っ張りになるため、夜型の生活をするようになる人が多いと以前聞いたことがある。ベンやペトラもその例に洩れないようだった。
ベンが今から来れないかと尋ねると、ペトラは二つ返事で了承する。そして次の瞬間、彼女はベンたちの前に姿を現した。ジルドが呆れた表情を浮かべる。
「――転移の術がこんなにひょいひょい使われちゃあ、立つ瀬がねえ奴らもいるんじゃねえか」
「少なくとも魔導省の魔導士たちは面目丸つぶれだから、使えるなんて言わないよ。僕も使えるしね」
「お前もかよ」
ベンの言葉に思わずジルドが突っ込みを入れる。どうやら人外の集まりらしいと一人思うジルドだが、彼も異能力者である時点で一般人とは一線を画していることに気が付いていなかった。
転移して来たペトラはゆったりとしたローブを羽織っていて、宛がわれた部屋でゆっくり休んでいたのだろう。しかし彼女はジルドを見ると顔をわずかに顰め、隣に立つベンに視線を向けた。
「ねえ、裸にマント巻き付けてるだけなんて見てて寒いんだけど。服ないの?」
「ここの部屋にあるのは僕の服だから、多分彼が着れるほど大きなものはないんだよ」
肩を竦めるベンにペトラはわざとらしく溜息を吐く。だが仕方がないと諦めたのか、わずかにジルドから視線を外しつつ「それで?」と尋ねた。
「こんな夜中に呼び出すなんて、何があったの?」
「それを僕も知りたいんだよね。ミューリュライネンも呼んで欲しいと言ったのは彼女だ」
ベンはリリアナを示す。三人分の視線を受けたリリアナは、にっこりと笑みを浮かべてみせた。
「ええ、その通りですわ。お二方に共有したい情報がございますの。その上で戦略を練るよう、辺境伯閣下にお伝えいただけませんでしょうか」
詳細を伝える前に要望を口にする。何故ベンとペトラに伝達を頼むのか説明はしなかったが、案の定二人は直ぐに了解した。
「あんたがここに居るって内緒だもんね。マリアンヌは屋敷にはいるけど、あの大熊にバレたら自動的にあんたの侍女にもバレるだろうし」
「――大熊とは閣下のことですの?」
「似てない?」
きょとんとしたリリアナにけろりと言ってのけるペトラの顔を、ベンとジルドは凝視した。辺境伯は確かに筋骨逞しいし、体格も大きい方だ。だが大熊と言うほどではない――と思う。
「大きさじゃなくて、百戦錬磨な感じがさ。喧嘩しまくって片目が潰れた大熊みたいに見えるけど、隻眼じゃないから片目熊とか呼ぶのも変じゃん」
ペトラの説明を聞いた三人は、賢明にも口を挟むことは諦めた。沈黙が落ちかけるが、何食わぬ顔でベンがリリアナに目をやる。そして穏やかに質問を口にした。
「それで、その情報ってなにかな? 君が言うくらいだから戦略的に重要な情報なんでしょう。一体どこで何を見て来たの?」
リリアナは頷く。間違いなく重要な情報だ。そして現時点でケニス辺境伯側は誰も知らない。恐らく敵側もリリアナが知っているとは気が付いていないだろう。ゲルルフだけはリリアナがケニス辺境伯側の人間だと悟っているかもしれない。だが、国境領主である男爵とあまり上手くいっていない様子だったことからも、リリアナの存在を男爵に示唆し戦術が破られる危険性を伝える可能性は低いと考えて良いはずだ。つまりここでゲルルフの狙いと“北の移民”が無力化される可能性を伝えることで、今の拮抗した状態から抜け出し優位に立てるかもしれない。
力強い光を双眸に浮かべ、リリアナは口を開く。話が進めば徐々にベンとジルドの表情は硬く、真剣になっていった。
*****
椅子に座ったケニス辺境伯は気難しい表情を浮かべて、ベン・ドラコとペトラ・ミューリュライネン、そしてジルドと名乗る傭兵から齎された情報を聞いていた。
「なるほど。確かにその話は以前聞いた報告と辻褄が合うな。それに、不自然な人員補充と物資補給も納得できる」
最初にベンとペトラが報告したのが、城の大きさに見合わない兵士の多さと物資補給の頻度だった。どうやら敵は城内に転移陣を敷き、別の場所から兵士や物資を転移させているらしい。
「魔導士を潰せばその補給は止められるか」
「止められると思います。ですが、転移陣を扱っている魔導士は城に留まったままでしょうから――どうにかして表に引っ張って来られたらと思うのですが」
後ろに隠れている魔導士を表に引き出せたら、後は煮るなり焼くなり好きにできる。問題はどのように魔導士を表舞台に引っ張り出して来るか、ということだった。
そして、もう一つの問題は“北の移民”の中でも身体能力が高い者の体力が失われ始めている原因だった。砦に来た直後にも騎士の一人が同じことを口にしているし、気力と体力が減り怪我も増えているという報告も徐々に増えている。
そのため、既にケニス騎士団に所属している騎士の中でも“北の移民”は第一線から外すよう指示を出していた。彼らには後方支援を中心にするよう言いつけていたが、敵が彼らの誘拐を企んでいるのであれば更に対処が必要だ。
「戦に乗じて拐かすつもりか。卑劣なやり方だ、騎士の風上にも置けん」
低く吐き捨てるようにケニス辺境伯は呟く。ゲルルフのやり方が辺境伯の好みでないことは明らかだった。元々彼は卑怯を嫌う。国境を護るためには仕方がないと割り切っている部分はあるが、それでも暗殺や誘拐という手段は認めたくないというのが彼の意思だ。尤もその二つの手段が戦略的に有効であり、かつ他の手段よりも被害が小さく済むことが確実であるなら、選択肢として考慮には入れるだろう。だがこれまでケニス辺境伯は暗殺や誘拐には手を染めたことがなかった。
「良かろう、“北の移民”に関しては今回の戦闘から外し身の安全を最優先とする。上手くいけばそれに絡めて敵の魔導士も引っ張り出せるだろう。ジルド、お前は“北の移民”を守る方法に詳しいか?」
「まあ、一応」
「その方法を話せ」
ジルドは頷く。だが、出来ることはそれほど多くない。
味方陣営の誰かを守る時、通常は衛兵の他に魔導士を付け結界を張る。魔術を使った方が確実に対象を保護できるからだ。だが、アルヴァルディの子孫には魔術は効かない。特にリリアナが遭遇したゲルルフという男は、最高峰の彼女の魔術でさえ見破るほど異能力値が高い。それ故に、魔導士よりも騎士に、それも異能力者に対抗できる術を持つ異能力者たち自身が自分たちを守る必要があった。
そしてもう一つ、ジルドにはケニス辺境伯だけでなく、ベンやペトラにも打ち明けるつもりのない秘策があった。
「ここに居る“北の移民”を全て集める。それから――俺が彼らの上に、一時的に立つ許可が欲しい」
それまで無言でジルドの淡々とした説明を聞いていた辺境伯は僅かに目を瞠った。ジルドの真意を探る用に注視しながら口を開く。
「今、奴らを統括しているのは副団長のモーリスだ。彼に成り代わりたいというか?」
「いや、別に。俺も嬢ちゃんの――クラーク公爵令嬢、つーんだったか? 護衛の仕事してるしな。今回の脅威が去るだけの間で良い」
ケニス辺境伯は眉根を寄せて訝し気な声を出した。
「つまりモーリスの下に就いても構わんということかな」
「ああ、良いぜ」
ジルドが国境に来てそれほど時間は経過していないが、確かにケニス騎士団に所属しているどの騎士よりも彼の方が強いようだと報告が上がっている。あまり本調子ではないと本人はぼやいていたが、それでもなお持久力や筋力、反射速度が他の騎士たちに余裕で勝っていた。それだけでなく、背後に目でも付いているのではないかと言いたくなるほど彼は戦場全体の状況を良く把握していた。一兵卒ではなく指揮官としても能力を発揮するだろう。
部下からの報告だけでなく自分の目で確認したケニス辺境伯は、ジルドが傭兵としても優秀だった理由に納得した。そして同時に、これまでどこの騎士団からも声が掛からなかったという事実に違和感を覚えた。それほどまでに本人は集団や貴族というものが嫌いなのかと思ったほどだ。
だからこそ、今回その信念らしきものを曲げてまでジルドが協力してくれるという話が意外だった。同胞愛という言葉で結論付けて良いのかも疑問だ。
試すように尋ねながらも、辺境伯の脳は目まぐるしく回転し、ジルドをモーリスの下に配属し“北の移民”を統べさせることによる有利な点と不利な点を洗い出していく。だが、考えるまでもなかった。ケニス騎士団としては諸手を挙げて歓迎こそすれ、拒否する理由もない。
「分かった。一時的な処置にするかは追々決定する。モーリスには私から言おう。今この瞬間から、お前が“北の移民”をまとめ上げよ。ただし、同時に“北の移民”は囮にも使う。奴らが魔導士を使わねば“北の移民”を拐かせぬと思わせたい――可能か?」
ジルドは答えなかった。だが瞳の色がふっと薄くなる。纏う気配が変わったことが分かった。ジルドと辺境伯はしばらく睨み合う。そして押し負けたのはジルドだった。不機嫌な表情ながらも首を振った。
「無理だな。あいつらは結界すら物ともしねえだろうよ。魔導士を誘き出してえんだったら、前線の方が良い。それか補給路を断つなら、城に忍び込んで道をぶっ潰せば良いんじゃねえか?」
あっさりと告げられたジルドの提案に、辺境伯は僅かに呆れたような視線を向けた。
「城に忍び込むとは正気か?」
「やるのは俺たちじゃねえぞ。俺たちは別の仕事があるからな。そこに居る二人にやらせれば良いじゃねえか」
そういってジルドは視線をベン・ドラコとペトラ・ミューリュライネンに向けた。唐突に話を振られた二人は目を瞬かせる。しかし、ジルドの提案に苦言を呈したのは本人二人ではなく辺境伯自身だった。
「それは厳しいな。今、ケニス騎士団に居る戦える魔導士はそこの二人だけだ。二人には前線に居る敵の魔導士を足止めして貰わねばならん」
その上、敵陣に忍び込むことは大きな危険を伴う。ケニス騎士団に所属している騎士ならばともかく、ベンもペトラも魔導省の所属だ。最も危険な場所に追いやるわけにはいかなかった。
更に言うなれば、今回の件は“領主同士の小競り合い”に留めなければならない。ケニス辺境伯に一切の瑕疵がない形で戦を終結させるためにも、敵陣にケニス辺境伯側の人間が居ると知られては不味い。
「それならやっぱり誘き出すのが一番楽じゃねえか」
「そうか、前線か」
「後衛に出張ってる魔導士が居なくなったら、さすがに城の奴らも出て来るだろ。魔導士ってなぁそんなに人数もいねえんだ」
ケニス辺境伯は笑い出しそうになるのを辛うじて堪える。眼前に立つ傭兵が秘めている力が、これまで見て来たもの以上だと――辺境伯はジルドが纏う気配だけで悟った。辺境伯はこれまでも数多の戦士を見て来た。騎士だけではなく、傭兵や流れの騎士、魔導剣士――様々な者たちが現われては消えていった。その中でもジルドは指五本に入る実力者だ。
「それならその方向で考えよう」
重々しく頷いた辺境伯を見てジルドは鼻を鳴らす。
「――惜しいな」
ぽつりと呟いた辺境伯の声は誰にも届かなかったらしい。正確にはジルドだけ声を拾っていたのだが、彼は自分には関係のないこととして無視した。
一方の辺境伯は心の底からジルドという傭兵の力を惜しんでいた。もし彼がリリアナの護衛という仕事をしているのでなければ、ケニス騎士団に勧誘していたところだ。さすがにそれは彼をこの場に寄越してくれたリリアナに失礼だと思うから口にはしないが、もし護衛を辞するのであればいつでもケニス騎士団は迎える準備がある――くらいは言っても構わないだろうかと考える。
優秀な騎士は多いし、教育や訓練によって作ることもできる。だが優秀な指揮官はそうではない。どれだけ教育しても、身にならない者も多い。だがジルドは生まれながらに集団を率いる能力があるように見受けられる。多くの若者を見て来た辺境伯にとって、その程度を見破ることは造作ないことだった。
鷹揚に頷いた辺境伯は椅子に立て掛けていた杖を手にして立ち上がる。そしてジルドに着いて来るよう告げた。
「騎士たちには私から状況を説明する。モーリスは騎士たちと居るはずだから、まずは奴に話を通さんとならんな。その後は、ジルド、お前の番だ」
「――分かった」
ぶっきら棒で不敬とも取れる乱暴な話し方をしているジルドだったが、その目は真剣にケニス辺境伯を見つめている。それは間違いなく彼が辺境伯を認めた証だった。だが、その事に気がつくものは居なかった。