26. 国境の砦 1
ある日の昼下がり、ケニス辺境伯領から狼煙が上がった。
――――隣国から侵略有り。
その知らせを受け取った時、ハミルトン・ケニス辺境伯は屋敷の執務室で書状に目を通していた。
「来たか」
「はい、そのようです」
頷いた執事に目をやり、辺境伯は小さく溜息を吐く。ケニス騎士団副団長モーリスから不穏な情報が齎されたのが数日前のこと。どうやら隣国の領主たちは迅速な行動を旨としているらしい。だが、これまで隣国領主たちの様子を探らせていた辺境伯にとって、今回の仕掛けはあまりにも分不相応にしか見えなかった。
「裏で皇国が糸を引いているのは間違いないだろうな」
「正式に問い合わせたところで否定されるでしょう」
「それは違いない。カルヴィン皇帝もそこまで愚かな男ではない」
そして彼の側近たちも、簡単に認めるようなことはしないだろう。スリベグランディア王国から使者を立て此度の不始末を咎めたところで、皇帝は知らぬ存ぜぬを貫き通すはずだ。そして国境領主たちが勝手にしたことだと遺憾を示し、領主の首を斬ってみせれば良い。
だが間違いなく今回の戦で辺境伯領が有している武力を削ぐ狙いはあるに違いなかった。
「切り捨てられると分かっていてなお忠誠を誓うとはな。確か最近になって領主に任ぜられた男だったな」
「ええ。あくまでも正式に辺境伯が決まるまでの繋ぎですが、男爵だったように記憶しております。前領主は権力闘争に敗れたようですな。まあ、その分功績を焦っているのかもしれません」
執事でありながらも古くから辺境伯に忠誠を誓う男は口さがない。辺境伯も慣れたもので小さく笑みを零した。
「武力だけで言えば、敵勢は我がケニス騎士団の足元にも及ばん。だが、魔導士の存在だけが気がかりだ」
「御意」
モーリスが報告して来た情報は、隣国領主の手勢に魔導士が居ることを示唆するものだった。
国境沿いには大きな河が流れている。水の流れも速く普通では渡れない。勿論、都合の良い橋もない。だから彼らは試しに、大型弩砲を使って大型の矢をケニス辺境伯領に向けて飛ばした。本番では、恐らく飛ばした矢に括り付けた縄を使って即席の橋を架けるつもりだろうと推察された。だが、勿論普通に考えればそれだけで歩兵や騎馬を渡せる橋にはならない。必ず魔術での助けが必要となる。ただしそれが出来る魔導士はなかなかの腕を持っている。つまりその魔導士も戦闘に加われば、ケニス騎士団が楽勝する可能性は大幅に減るに違いなかった。
「王都に文を飛ばせるか」
「勿論にございます。派遣要請は何名に致しますか」
有能な執事は主の意向を寸分の狂いなく理解し、すかさず尋ねる。辺境伯はわずかに目を細めて少し考えたが、やがて何を思い付いたかニヤリと笑った。
「二人だ」
執事は軽く目を瞠った。
「旦那様?」
「お前の思う通りにすれば良い。だが、危険に関しては少しばかり大袈裟に書いてくれ」
「――御意に」
驚いた様子を見せた執事だったが、反論するどころか面白そうな色を双眸に浮かべて頷く。そして王都に文を飛ばすため部屋を出た。辺境伯は一人残された部屋で、読んでいた書状を脇にやる。
ほんの数日前に、ベン・ドラコとペトラ・ミューリュライネンが魔導省に復職したという情報を得たばかりだった。彼ら二人を魔導省の有力者たちが煩わしいと思っていることは知っている。だからこそ、ベン・ドラコの無期限謹慎を三年振りに解いたことがケニス辺境伯には意外だった。魔導省の中にも、何故今更と思う者はいるだろう。
「まあ、こちらにとっては僥倖だったことは確かだな。大袈裟に書けば、あの二人を出して来るだろう」
大したことがない風を装えば、ケニス辺境伯に恩を売りたいという下心があるだけの使えない魔導士が来るに違いない。だが命の危険があると思わせることが出来れば、長官ニコラス・バーグソンはベンとペトラを送り込んで来るに違いなかった。単に下心があるだけの者は、わざわざ死地に赴こうなどとは考えない。
楽し気な笑みを辺境伯は浮かべていたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「――だが、敵を侮るわけにもいかん」
国境領主たちも、勝ち目がなければ侵攻は企まないはずだ。彼らなりに勝算があるのだろうが、それが一体何なのか、辺境伯たちは掴めていない。モーリスには油断大敵と伝えているが、果たして自分も辺境へ向かうべきか――眉根を寄せた辺境伯の目が、机に立て掛けられた杖に向けられた。
*****
ベン・ドラコとペトラ・ミューリュライネンがケニス辺境伯領の屋敷に到着したのは、辺境伯が要請を出した翌々日のことだった。予想通りの人物が来たことにケニス辺境伯は満足気な笑みを浮かべる。二人を応接間で出迎えた辺境伯は、対面のソファーに座るよう促した。
「良くぞ来てくれた。久方振りだな、ベン・ドラコ殿、ミューリュライネン殿」
今回の小競り合いは国境で発生している。そのため多少離れた場所に建っている屋敷に影響はほとんどない。しかし交戦状態であることに変わりはないため、屋敷の中は緊迫感に包まれていた。衛兵や騎士が闊歩し、侍女たちも緊張した面持ちで居る。門から応接間を歩く道すがら、ベンとペトラは保存用の食糧を運ぶ下男の姿も目撃していた。
そして左半身に麻痺が残っている伯爵も戦装束に身を包んでいる。それにも関わらず、辺境伯の表情は平素と同じだった。
「ご無沙汰しております」
低く挨拶の言葉を口にした辺境伯に、ベンは首を垂れた。ペトラもその隣で頭を下げる。“北の移民”であろうと平民であろうと、優秀な者は取り立てる風土がある土地柄だからか、この領地ではペトラも差別的な目を向けられることはない。辺境伯自身もペトラを普通の客人のように迎えてくれる。その事にペトラは若干居心地の悪さを覚えながら、ベンの一歩後ろに控えていた。元々このような畏まった場はペトラよりもベンの方が向いている。
ベンは早速尋ねた。
「国境の様子はどのような状況ですか?」
「モーリスに任せている。何分、私はこれだからな」
これ、といって辺境伯が示したのは杖だ。三年ほど前に暗殺者に殺害されかけ死の淵から生還した辺境伯は、左半身が麻痺する後遺症を負った。そこから回復することはないだろうと言われていたものの、今では杖をつけば自力で動くことも出来るようになっている。奇跡的な回復を見せているものの、元の通りに生活することはまだ難しい。
ベンとペトラは神妙な顔で頷いた。だが落ち着いた雰囲気の辺境伯を見て、国境はそれほど切迫した状況ではないらしいと悟る。尤もそう見せかけているだけかもしれないが、慌てふためいて戦場に赴く必要もないのだろう。対面している辺境伯は気にした様子もなく言葉を続ける。
「だが報告は逐一上がって来ている。二人が到着したら共に辺境の砦に向かおうと思っていた」
「一緒に、ですか」
ベンが驚いたように目を瞠る。体が万全ではない辺境伯が共に向かうとは思わなかった。だが伯は平然と頷いて見せた。
「ケニス騎士団の団長の座をモーリスに譲ると言ったのだが、未だ要らんと断られてな。戦場には団長が居なければ片手落ちだというのに」
「――今回は後ろから指示を出すだけに留めてください、旦那様」
それまで黙っていた執事が口を挟む。途端に辺境伯は口をへの字に曲げた。その表情を見た執事はわざとらしく嘆息する。どうやらベンとペトラが来るまでも同じような言い合いをしていたらしいと見て取ったベンは、苦笑を浮かべた。
「後ろから采配するだけなど私の気が済まんのだがな」
「今の旦那様が先陣を切れば我が軍は敗北致します」
「分かっている」
伯は苦々しく答えた。感情はともかく、理性では納得しているのだろう。だからモーリスに団長の座を譲りたかったのにと小声で文句を漏らす伯は気難しい初老の男といった風情で、百戦錬磨の武人には見えない。ペトラは目を瞬かせていたが、ベンは変わらず淡々とした口調で尋ねた。
「それではいつ頃出立致しますか」
「転移陣は持って来たのか?」
「はい」
ケニス辺境伯領の屋敷までは、ベンもペトラも転移陣を使っている。馬も馬車もなく体と荷物だけで訪れた時点で辺境伯は二人の移動手段を悟っていたのだろう。ベンが転移陣を持っていると答えても驚いた様子はなかった。寧ろ気難しい表情で黙り込んでしまう。二人が首を傾げていると、辺境伯は感情の読めない視線を二人に向けた。質問ではなく、確認を取るような口調で尋ねる。
「魔導省は移動手段は用意しなかったのだな」
「ええ、まあ」
大したことではないとでも言いたげにベンが頷く。実際に二人にとって馬や馬車といった移動手段を用意されなかったことは問題ではなかった。寧ろ返却しなければならないことや、途中の宿の手配などを考えると面倒でしかない。しかし辺境伯は僅かに苛立った様子で溜息を吐いた。
「魔導省も碌な人間が残っておらんようだ」
低い声にはぞっとするほど冷たい。だが辺境伯は直ぐに物騒な気配を消す。そして「よし」と頷いた。
「それなら準備が整い次第出立することとしたい。休息は必要だろう?」
「お茶を一杯頂ける時間があるなら有難いですね」
素直にベンは頷く。ペトラも否やはなかった。転移陣を使って何度かに分けて飛んで来たとは言え、戦場に向かう前にできるだけ魔力と疲労を回復させておきたい。そしてもう一つ、二人には出発を遅らせたい理由があった。
「閣下、実はもう一つお伝えしなければならないことがあります」
ベンが口を開く。執事に茶の準備をするよう指示した辺境伯は、視線だけをベンに寄越した。ベンは真正面から問うような視線を受け止める。無言で促され、ベンは淡々とつい数刻前に入手した情報を口にした。
「もう一人、ぜひ閣下に助力したいという者がおりまして」
「助力、だと?」
訝し気にケニス辺境伯は眉根を寄せる。ベンは頷いた。
「同胞の危機に駆け付けたいという従者の思いに答えたいと、とある高貴な方から連絡を受け取りました」
「――なに?」
ケニス辺境伯の眉間の皺が更に深くなる。
ベンとペトラがその連絡を受けたのは、最後の跳躍をするため転移陣の準備を整えたその瞬間だった。まさか通信用の魔導石が光るとは思っていなかったため焦ったが、伝えられた内容を聞いて更に仰天した。二人にしては珍しく暫く言葉を失っていたが、確かに強力な助っ人であることは間違いない。ただそれでも意外な気持ちは拭えなかった。
――まさか、彼女が協力を申し出るとは。
一体何の気の迷いかとも思ったが、簡単に説明された理由を聞いて更に謎は深まった。確かに彼女は不親切ではない。だが聖女のように全てを慈しむ性格でもない。良くも悪くも理性的で合理的だ。年齢の割には達観したような態度だし、全てを理屈で判断しているような部分がある。だからこそ“同胞の危機に駆け付けたいという従者の気持ちを尊重して手助けをしたい”という理由は後付けなのではないかという気がしてならなかった。
寧ろ、好きにすると良いと従者を放置したと後から聞く方が自然な気すらした。
「一体どこの誰が、そんな――」
ケニス辺境伯が戸惑うのも無理はない。今回の国境侵犯はあくまでも地方領主の小競り合いであり、国同士の戦であってはならないのだ。即ち、戦力はケニス辺境伯領で補わなければならない。魔導士だけは致し方なく魔導省から派遣して貰わざるを得なかったが、念のため招聘の理由も戦ではないものにしている。勿論、ベンとペトラを派遣させるために簡単に推察できるような言い回しにはしたが、皇国から文句を言われても言い逃れできる程度の文言だ。
ベンが答えようと口を開いた時、控え目に扉を叩く音が響いた。一瞬目を細めた辺境伯が入室の許可を出すと、侍女の一人が恐る恐る顔を覗かせる。本来であれば執事が取り次ぐところだが、どうやら手が空いていなかったらしい。
「どうした」
「あの、閣下――今、宜しゅうございますでしょうか」
「なんだ」
侍女はごくりと唾を飲み込む。三人分の視線を受けて酷く恐縮しながら、彼女はゆっくりと、しかしはっきりと来訪者が居ると告げた。
「お嬢様が――マリアンヌお嬢様が、傭兵をお一人お連れになっておられます」
来た、とベンとペトラは肩から力を抜く。そして予想外の名前を聞いたケニス辺境伯は、愕然と目を見開いていた。
24-6