25. 鼎立の兆し 2
魔導省副長官ソーン・グリードは、目の前に現われた人物に戸惑いを隠せなかった。ローブを纏い、フードを被った顔には影が出来ている。それでも、相手が若いことは直ぐに分かった。しかし年齢の割には堂々と落ち着き払っていて迫力がある。
「座りたまえ」
尊大な口調で告げられ内心で反発を覚えながらも、もし高位貴族であればという思いを拭えず、彼は無言で腰を下ろした。ローブの男は静かに尋ねる。
「誰にも付けられていないだろうな?」
「問題ありません」
そうか、と男は頷く。そして彼は小さく考える素振りを見せると、被っていたフードを取り払った。現れたのは二十代と思しき青年だった。整った顔立ちだが、双眸の冷たさが際立っている。しかし社交界に顔を出す機会が殆どないソーン・グリードは、男の顔を知らなかった。その事に気が付いたのか、ソーン・グリードを呼び出した男は不快そうに眉根を寄せる。
「私を知らないのか?」
「――申し訳ございません。社交界には殆ど出る機会がなく」
そもそも父がソーンのことを重要視していないのだ。夜会への招待状は父か長男に回され、そうでなければ次男が足を運ぶ。三男でしかないソーンが参加を許される夜会は片手で数えるほどで、しかも魔導省に入省してからは殆ど機会がない。
正直に全てを告げる気にはなれず言葉を濁したソーン・グリードを見て男は鼻を鳴らした。
「まあ良い。私が必要としているのは魔導士としての腕であって、人脈や社交術ではないからな」
「――は、」
ソーン・グリードは言葉を失った。未だ男の名は聞けていないが、魔導士としての力量を認められて呼び出されたのだと思えば素直に嬉しい。しかし男は詰まらなさそうに言葉を続けた。
「副長官というほどなのだから、我が国で二番手の魔術の使い手ということだろう」
「は、魔術には自信があります」
ここで見放されては矜持が傷つく。ソーンは相手の目を見て頷いてみせた。それを見やった男は満足気な笑みを見せる。
「それでは契約書に署名して貰おうか。私との関係は他言無用だ」
どうやら詳しい話をする気はないらしい。差し出された紙を受け取ったソーンは、その内容を一読して驚愕に目を瞠った。
「これは――」
若い男は鷹揚に頷いた。
「そこに記載されている通り、我がタナー侯爵家の専属魔導士として働いて貰いたい。勿論、魔導省を辞める必要はない。魔導省で働く際に問題が生じないようこちらで手筈は整えてある。お前は魔導省の仕事をしながら、我が侯爵家の仕事もして貰いたいのだ」
「その――侯爵家の仕事、とは、例えば」
ソーン・グリードに契約書を持って来た若き侯爵ショーン・タナーは、小さく鼻を鳴らした。そのような些末事で煩わせるなとでも言いたげである。
「我が侯爵領では産業の発展に力を入れている。特に香水だ。これらの特産品は非常に高価で隣国の貴族にも高く評価され始めた。だが今のままでは生産が追い付かない。そこで魔導士の力を借りたい。他にもあるが、基本的には産業や商売、街道整備の魔術的観点からの補助だ」
なるほど、とソーン・グリードは頷いた。噂ではあるが、タナー侯爵家が街道の整備にも力を入れ始めたという話は小耳に挟んだことがある。
「無論、給金は弾む。最後のページに書いてあるから確認すると良い。それに、一定の成果を出せば社交界にも私が贔屓にしている魔導士として連れて行ってやる。どうだ?」
ソーン・グリードは目を輝かせた。これ以上美味しい話はない。
ショーン・タナー侯爵は、ソーンに金だけでなく名誉も与えてくれると約束しているのだ。父であるグリード伯爵は堅実な領地経営と人脈で手堅い生活をしているが、もしソーンがタナー侯爵と懇意になれば社交界でも噂になるだろう。そうなれば父や兄を見返すこともできるし、そしてあのドラコ一族出身のベン・ドラコより優れた魔導士として名を馳せることも可能だ。
「ぜひ、私でお力になれることがあればさせて頂きたく思います」
最早、ソーンに否やはなかった。喜々として彼は契約書に署名する。ショーン・タナーは契約書を受け取った。その瞳には、暗い光が浮かんでいた。
*****
ユナティアン皇国の皇都トゥテラリィに、皇族が住まう巨大な宮殿がある。その日一騎の馬が豪華絢爛な宮殿に慌ただしく駆け込んでいった。
馬に乗った男は汗だくだが、精悍な顔つきは隠しようもない。血色の双眸は鋭く光り険しい表情を浮かべ、男は厩舎の馬番へ馬を預けると宮廷へと足を向けた。門番は男の顔を見て敬礼する。男はそれすらも無視し、勝手知ったる様子で宮廷内を闊歩し奥へ奥へと突き進んでいく。時折すれ違う女官たちが顔を輝かせるが、男にとってはそれすら壁際に置かれた花瓶と同じ景色でしかなかった。
「皇帝陛下に拝謁申し上げたい」
「少々お待ちを」
皇帝カルヴィン・ゲイン・ユナカイティスの執務室にまで押し掛けた男は、面会の段取りすらすっ飛ばして侍従に告げる。無表情の侍従は一礼すると扉を叩き、室内に控えている使用人に言付ける。そこから更に数人を経由し、宰相を経て皇帝の意思が確認される。そこでようやく男が皇帝に面会できるかどうかが決定するが、その時間でさえ勿体ないと思うのか、男は苛立った様子を隠さなかった。
暫く待った後で、中から扉が開く。規則に則り使用人が侍従へ伝えるが、侍従が男に声を掛ける前に、男は扉へと手を触れた。ぎょっとする侍従や使用人たちを尻目に、男は中へ足を踏み入れる。
「閣下」
「拝謁は許可されたのだろう、とっとと案内しろ」
「――――承知仕りました」
急かされた使用人は僅かに顔を引き攣らせる。その目は男が腰に佩いた剣に釘付けだった。使い込まれた剣は業物で柄に施された飾りも豪奢だ。柄は黄金で蒼い宝玉が埋め込まれ、鞘は金色の打紐で巻き上げられている。だがその見目の麗しさに騙されてはならない。兵士たちは皆その剣を“緋色の死神が持つ鎌”だと呼び恐れている。無論“緋色の死神”とは真っ赤な瞳を持つ男のことに他ならない。
皇帝の元に馳せ参じた男はカルヴィンの顔を見て一礼する。皇帝が相手であるにも関わらず非礼とも受け取られかねない気安さだが、カルヴィンは全く気に留めた様子がなかった。
「久しぶりだな、コンラート」
「叔父上に置かれましてはご健勝のご様子、何よりと存じます」
コンラート・ヘルツベルク大公――それが男の名だった。現皇帝カルヴィンの甥であり、順位は低いながら皇位継承権も持っている。しかし男は皇帝の座には興味がない様子だった。皇帝になれば戦に出られない――というのが彼の言い分である。
「ヘルツベルク領は相変わらず豊作らしいな。だが怪しげな鼠が出入りしているという噂も聞く。それはどうなった?」
唐突な質問だが、コンラートは動じない。普通の臣下であれば、カルヴィンからこのような問いを投げかけられた瞬間に謀反の疑いを掛けられたのではないかと思い慌てふためく。中には跪き首を垂れ、己の無実を訴え赦しを乞う者もいるだろう。自領に間諜が出入りしていると指摘されているのか、それとも謀反を企み怪しげな人物を雇い入れているのか、そのどちらかを皇帝は疑っていると考えるのがこの国の定石だった。
だがコンラートは変わらぬ無表情でカルヴィンの視線を受け止める。淡々と言葉を続けた。
「鼠については既に我が領の猫が退治を終えています。どうやらエルマー・ハーゲンの置き土産が暇を持て余していた様子でしてね」
「なるほど。あの男も腕は良かったがな――ああ、気を悪くするな。平民にしてはという意味だ」
コンラートが眉根を寄せたことに気が付いたカルヴィンが宥めるように言葉を付け加え、からからと楽し気に笑い声を立てる。叔父の態度に眉を顰めることもなく、コンラートは無言でその場に立っていた。やがて笑いを治めたカルヴィンは「それで」と片眉を上げて甥に視線を向ける。
「今日の用向きはなんだ」
先ほどまでの態度とは打って変わって不機嫌な様子だ。それでもコンラートは一切の動揺を表には出さなかった。端的に用件を告げる。
「赤い狼煙が上がりました」
「ほう、ゲルルフが先走ったか」
「はい。動くのは辺境領主ですが」
「そうか」
カルヴィンの目が鈍い光を放つ。しばらく沈思黙考していたカルヴィンは、わずかに口角を上げた。
「分かった。良いだろう、今後の動向は逐一連絡して来るように」
「御意」
コンラートは黙礼する。そのまま踵を返して彼は退室した。その後ろ姿を見送ったカルヴィンは、楽し気な笑みを浮かべたまま呟く。
「確か、動かしているのは分家の方だったか――上手くやると良いが。ココエフキが死んだのが痛手だったな」
忠実な犬として、カルヴィンはココエフキを高く評価していた。能力の点だけで評価すればココエフキは二番手だが、忠誠心といったその他の事柄も合わせて総合的に考えればココエフキほどの手練れは居ない。
「まあ死んだものは仕方がない」
カルヴィンにとってあの一族は使い捨ての駒でしかない。単なる駒だからこそ、掃いて捨てるほど替わりは居る。次なる“ココエフキ”が出てくれば、カルヴィンは前代の男など存在すら忘れる。ユナティアン皇国皇帝にとって、一族はただそれだけの存在――使い勝手の良い道具に他ならなかった。
*****
皇帝の執務室を後にしたコンラートは、ふと足を止めた。気配を感じてそちらに視線を向けると、廊下の隅に貴婦人が立っている。豪奢なドレスは濃く明るい赤色で、光の当たり方によっては僅かに青み掛かってみえた。同じ赤色でも非常に高価なそれはクリムゾン染色だった。ユナティアン皇国では国外から買い付ける他に入手する手立てはなく、皇族や高位貴族にしか手が出ない。他にも彼女が身に付けている高価な品々は、彼女がその身に受けている栄華を物語っている。コンラートはその女性に見覚えがあった。眉根を寄せた彼は周囲に人が居ないことを確認し、無言で足早に近づいた。
「お久しぶりですわね」
貴婦人は扇で口元を隠し艶やかに微笑む。コンラートは僅かに険しい表情を保ったまま、声を低めて貴婦人の名を呼んだ。
「レンダーノ侯爵夫人。このようなところで一体何をなさっておいでだ」
「まあ、私にそのようなことをお尋ねになりますの?」
無粋ですわね、とでも言いたげな瞳を向けられる。普通の男であればこの時点で多少頬を赤らめるものだが、コンラートは平然としていた。その様子に夫人は詰まらなさそうな表情を浮かべる。
「相変わらず可愛げのない人ね」
「そのような言いざまをされては、周囲に誤解を与えかねん。お控えになるが宜しかろう」
「融通の利かない人」
溜息混じりにレンダーノ侯爵夫人は文句を言う。拗ねたような口調は、恋愛遊戯に百戦錬磨の彼女ならではだった。くどくもなく、ただ相手の関心を買おうとする可愛らしさだけが強調されている。それでもなお顔色一つ変えないコンラートを見て、侯爵夫人は小さく溜息を吐いた。
「私がここに居るのは陛下の宮闕に上がるよう、お声を賜ったからですわ。でも大公閣下がいらっしゃるとは存じませんでしたの。お顔をお見掛けしたからには少しお話をさせて頂きたいと思いましたのよ」
にこやかな口調からは好意だけが漂う。しかしコンラートは鼻先で笑った。
「その発言がどこまで本心か、武骨な粗忽者には今一つ理解しかねる。一体何を仰りたいのか」
「もっと言葉遊びを覚えられた方が宜しくてよ、大公閣下。そのような仰りようでは、皇国を束ねることなどできは致しませんわ」
挑発するような夫人の言葉に、コンラートは僅かに目を細めた。血のようだと形容される瞳が危険な光を放ち始める。しかし、皇帝の寵愛を受けている夫人は全く動じなかった。一時の愛人とはいえ、カルヴィンは目を掛けている存在を害されることを好まない。彼女が現在宮廷で強気に出られるのは、全て皇帝のお陰だった。
「私が皇帝の座を欲しているとでも?」
「まあ、違いますの?」
レンダーノ侯爵夫人は嘲弄の滲んだ目をコンラートに向ける。
「古くから、男たるもの獅子の尾ではなく犬の頭となれと申しますわ。獅子の尾に甘んじるなど男としての気概を疑いますわね」
「私を謀反人として貶めることが今の貴方の享楽か? 歌姫として場末の酒場でその美声を豚に聞かせる方が、甚だ有意義な時間潰しであろうよ」
周囲を凍り付かせるような声音でコンラートが言い放つ。あからさまな侮蔑だった。途端に夫人は顔色を変える。
レンダーノ侯爵夫人は元々、高級娼館で歌姫として働いていた。高級娼館に訪れる客は高位貴族ばかりで、時折裕福な商人が足を踏み入れる程度だ。彼女はそこで今の夫に見初められ、最初は愛妾として囲われていた。やがて夫が妻を亡くすと、後妻として侯爵家に迎え入れられたのである。その彼女が今や皇帝の愛人なのだから、由緒正しい貴婦人たちは眉を顰め、一方で高級娼婦や歌姫たちからは羨望の眼差しを向けられていた。
「――その歌姫に足を掬われぬよう、精々お気をつけくださいませ」
「そちらも、身辺に気を配られることだな」
レンダーノ侯爵夫人は苛立たし気に扇を畳みその場を立ち去る。すれ違いざまに、夫人に付き従っていた女官の一人がハンカチーフを落とす。後姿を見送ったコンラートはおもむろにハンカチーフを拾う。眉間に皺を刻んだまま再び廊下を歩き、途中で見かけた女官に声を掛けてハンカチーフを落とし物だと言って手渡した。
だがその手には、ハンカチーフに挟んであった小さな紙片が握られている。一瞥して内容を確認したコンラートは小さく嘆息した。
「全く、どいつもこいつも」
面倒ばかりだと吐き捨てた彼は、しかし次の瞬間普段の不愛想な仮面を顔に貼り付ける。彼が握り潰した紙片には、ローランド皇子がイーディス皇女を離宮に留め厳重な警備下に置いていること、そしてどうやら皇女は新たに皇子が選んだ家庭教師の元で学び直しているらしいことが書かれていた。その上、その家庭教師は皇族の教育を担っている一族の者ではない。どうやらローランド皇子が伝手を頼って独自に探して来た人物らしく、一体どのような教育を施すのか未だに分かっていないという。だが、それでも辛うじて皇子が頼った伝手が誰なのかは調べが付いたようだ。
「ヘンリエッタ・ブロムベルク、か。現段階ではまだ手を出せんな――」
コンラートは苛立たし気に呟く。ブロムベルク公爵夫人――結婚前の名を、ヘンリエッタ・スリベグラード。スリベグランディア王国国王ホレイシオの姉である。煩わしいからと簡単に処分できる相手ではない。下手を打てば隣国との関係が悪くなるだけでなく、戦の口実を相手に与えてしまうことになる。スリベグランディア王国も一般的に皇国で思われているほど弱い国ではない。戦の正当な理由は皇国にあるのだという大義名分を掲げねば、他国からも誹りを受け、そして皇国内の一部貴族からは反発されるだろう。
本格的にコンラートの邪魔をするようであれば話は別だが、現状では傍観しておく他ない。煩わしいが、激情に駆られてはならないとコンラートは己を律するため深く息を吐いた。
「全く――あの御仁が亡くなったから仕方がないとはいえ、結果的にゲルルフに頼ることになるとはな。現段階では最善なのかもしれんが、下賤に頼ると後々禍根を残すことになるというのに」
苦々しい言葉が口から洩れる。しかし彼にとっては幸運なことに、その独り言を聞く者はなかった。
そしてコンラート・ヘルツベルク大公がカルヴィン皇帝に謁見してから二日後――スリベグランディア王国とユナティアン皇国の国境で、鬨の声が上がった。皇国側の辺境領主たちが、不法侵入されたとの口実でスリベグランディア王国のケニス辺境伯に対し挙兵したのである。
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