25. 鼎立の兆し 1
その日、リリアナは王太子ライリーの執務室に招かれていた。正式に婚約者となった今、リリアナは残った王太子妃教育を受けるだけでなく、一部の執務を手伝っている。尤も未だ婚約者でしかないため携われる執務には限界があるが、それでもリリアナの能力の高さは執務にも表れていた。
「クライドからの報告書が上がって来ているよ。サーシャ、君も読む?」
「黒死病の件ですわね」
リリアナはライリーから報告書を受け取る。理路整然とした文面はクライドの性格を表すかのように端的だが非常に把握しやすい。真面目な表情で文章を読むリリアナを横目で眺めながら、ライリーは小さく笑みを零した。
「黒死病の対応としては珍しい手段を取っているよね。サーシャが提案したって聞いたけど」
「簡単にわたくしの知る内容をお伝えは致しましたが、詳細を考えて実行なさったのはお兄様ですわ」
だから自分の功績ではないとでも言うかのようなリリアナの口調に、ライリーは苦笑を漏らす。
「そんなことはない。貴方の助言がなければ黒死病はあっという間に広がり、魔物襲撃を恐れた周辺の村によってその村は火を付けられていただろうからね」
ライリーの指摘は尤もだった。黒死病は魔物襲撃の前段階で発生する瘴気が齎すものだと長らく信じられて来た。王都近辺では信じる者も減りつつあるが、地方に行けば多くの者がその説を固く信じている。そのため、黒死病が発生した村は火を付けられ、村人たちが全員火炙りにされ殺害されるという痛ましい事件も過去には何度も起こっていた。だが、それで黒死病の蔓延が抑えられたという話はあまり多くない。
だが、だからといってこれが自分の功績であると言う気はリリアナにはなかった。微笑を困ったようなものに変え、報告書をライリーに渡す。
「このまま収束に向かえば良いのだが、歴史を振り返れば黒死病を食い止めるのは至難の業だ。何か良い方法を思い付かないか?」
「――そうですわね」
リリアナは眉根を寄せて沈思黙考する。彼女が持っている前世の記憶でも黒死病は根絶できなかった。有用な治療薬が開発されたからこそ死亡者数も激減したのであって、ワクチンも結局は開発に失敗している。現状で出来ることと言えば、以前リリアナがクライドに告げた内容程度のことしかないだろう。
(魔術を使えば、或いは抗生物質のような効果を発揮することも可能かもしれませんわね)
ただそのためには、体内から除去するペスト菌の存在を認識するか、ペスト菌と同様の物質を“定義”し除去するという術式を組み立てなければならない。ペスト菌どころか菌自体の存在を知らないこの世界の人々が、体内から除去する物質の定義を正確に理解できなければ術式は効果的に発動できないだろう。
「黒死病が広がると治安も悪化するし、暴動も起こりかねない。実際に、最近では十六年前に黒死病が発生した村に火が放たれて孤児たちが多数亡くなった」
リリアナもその事件は目にしたことがあった。生まれる前の出来事ではあるが、その時も珍しく黒死病は発生した村から外には広まらなかった。恐らく、黒死病が発生したと同時に、隣接する村の農民が恐怖に駆られて火をつけたせいではないかとリリアナは考えていた。
村人たちは大勢が焼かれて死んだが、気の毒がった一部の者たちが遺体を探し出して共同墓地に埋葬してくれた。ただ修道院に身を寄せ合っていた孤児たちだけは、その大部分が見つからなかったと短く記録が残されていた。
「没落する貴族も増えますでしょう。皇国の動向が不穏になっている現段階で、国内に不和の種があることは望ましくございません」
「同感だ」
ライリーはリリアナの意見に頷く。
前世での歴史を紐解いてみても、黒死病の社会的、政治的影響は強かった。黒死病で死亡者が発生したことで労働力が減少し、その結果各地の農民たちの地位は向上した。農民たちが反乱を起こすことも多々あり、没落する領主たちも居た。一部の地域では結果的に王権が強まったものの、いずれにせよ平和とは掛け離れた状況に陥ってしまう可能性は高い。
黒死病がユナティアン皇国にまで広がれば戦争を仕掛けて来ることもないだろうが、万が一スリベグランディア王国内に留まった場合、皇国はこれ幸いと王国を支配下に置くべく働きかけて来るに違いない。
そこまで考えたリリアナはふと、沸き起こった疑問を口にした。
「現段階で黒死病の報告が上がっているのはクラーク公爵領のみでしょうか?」
「え? ああ、そうだね。それもその村だけのようだよ。歴史書に残っている黒死病は広範囲に伝播していることが多かったが、今回は対策が良かったのかもしれない」
一瞬不思議そうな表情を浮かべたライリーだったが、すぐに頷く。クライドの取った対策が上手く行ったのだろうと付け加えたが、リリアナは小さく頷くだけに留めた。それよりもリリアナには気に掛かることがある。
てっきり、リリアナは黒死病の原因であるペスト菌が輸入された毛皮等を通じて外から齎されたものだと思っていた。他国で干ばつがあれば、食料を求めた鼠が大移動して王国に流入しペスト菌を媒介した可能性もある。だが、今のところそのような報告は上がっていない。黒死病が発生した件の地域は内陸部に位置し、輸入した物品は必ず他の地域を経由する。その地域で黒死病が発生したにも関わらず、他の地域では患者が見つかっていないのであれば、ペスト菌が他の地域から齎されたものだと判断することはできない。
つまり、発生地域はクラーク公爵領だ。そのことにリリアナは強い違和感を覚えていた。
ゲームでは黒死病の描写はなかった。つまりゲーム開始以前に黒死病が発生したとしても、すぐに抑え込みに成功した可能性が高い。そうでなければ死者数は膨れ上がり、ゲーム本編にも影響があったはずだ。もしくは、ゲームで描写されていたこの世界では発生していなかった黒死病が、何らかの理由で発生してしまったのか――そこが読めない。何よりも、この世界には魔術が存在している。魔術や呪術がなければ黒死病と断定してもそれほど問題はないだろうが、幸か不幸かこの世界には魔術も呪術も存在している。黒死病ではない可能性も考慮しておかなければならないだろう。
リリアナの顔をライリーは注視していた。婚約者となった少女が一体何を考えているのか、様子を窺っているらしい。リリアナは気を取り直して微笑を浮かべた。
「ウィルの仰る通り黒死病は伝播するものでございますから、他地域に広がらないよう注視した方が宜しゅうございましょう」
「そうだね。私もそう思う。文官に命じて各地域に通達しておこう。対応策はクライドの報告書を参考にして、手順書を作って貰えば良いだろう」
ライリーの提案にリリアナは頷く。黒死病が魔物襲撃の前兆であるなどあり得ないが、ペスト菌ではなく魔術や呪術によって引き起こされた可能性はある。しかしそれを証明できない今、ペスト菌によって引き起こされたと考え対策を講じておいた方が良いには違いない。
「ウィル、一つ提案があるのですが、よろしくて?」
「なに?」
ふと思い立ったリリアナはライリーを呼ぶ。ウィルと呼んでくれと言われた日から、二人でいる時は愛称で呼ぶように努めている。最初は口にすることに慣れなかったし時折“ライリー様”と呼んでは訂正を求められていたが、二年も経てば呼び慣れてしまった。そしてライリーはリリアナが愛称を口にする度、嬉しそうにほわりと柔らかな笑みを浮かべる。サーシャと呼ばれてもそのような心境になれないリリアナにとっては戸惑うばかりだが、やはり慣れとは怖いもので、今では気に留めることなく言葉を続けるようになった。
「もし他地域でも黒死病が発生いたしましたら、詳細に状況を把握できるよう、一定の情報を集めた方が良いのではないかと思いますの」
「一定の情報?」
ライリーは目を瞬かせる。リリアナは頷いた。彼女は前世の知識があるため、黒死病に関してもほぼ正確な知識を持っている。だがこの世界の人々はそうではない。魔物襲撃の前兆だと信じている人が多数だという事実がそれを裏付けている。だが、現状では幾らリリアナが“原因は目に見えないほど小さな生物だ”と訴えたところで、人々は簡単には信じないだろう。前世でも正しい知識が広まるためには段階を踏む必要があった。
「まずは仮説を立てる必要がございますわ。わたくしは、黒死病は瘴気によって齎される魔物襲撃の前兆ではなく、鼠などの齧歯類を介して目に見えない小さな虫が体内に侵入することで引き起こされる病ではないかと仮説を立てております。患者が増えて血痰を吐くような重病者が増えれば、人から人へとその小さな虫が移るのだと思いますわ」
リリアナの説明に、ライリーは目を瞠った。クライドの報告書には“目に見えないほど小さな生物によって引き起こされる可能性を指摘した文献が他国にある”とだけ記されている。だが、鼠がその小さな生物を媒介しているということ、更には患者が増えれば人から人へと感染するものだということは、今リリアナが口にしたのが初めてだ。
「それは――どうしてそんなことを?」
驚いたせいか、珍しくライリーが口籠る。リリアナは小さく笑みを浮かべた。勿論、前世の記憶があるからこそ知っている事実だが、それを話すことはできない。
寧ろそれを証明するために、リリアナは発症者の症状や鼠と村人との接触状況といった情報を集めて分析するべきだとライリーに提言しているのだ。
リリアナの表情を見たライリーは微苦笑を浮かべる。何故そのようなことを思い付いたのか説明する気はないと気付きながらも、頭から否定する気はない様子だった。
「確かに、それで何らかの結論が導き出せたら対策も打ちやすいだろうしね。検討しよう。もし良ければ、どのような情報を集めるのか案をまとめておいてくれないかな?」
「ええ、勿論ですわ」
詳細な調査をしたいと言い出したのはリリアナだ。勿論単なる調査ではなく、前世の言葉を借りれば“疫学研究”と呼ばれるものだ。病を始めとした健康に関する実情を調査しその要因を明らかにするためには必須の調査研究であり、前世では産業革命の終焉と共に始まった医学的調査だった。リリアナが居るこの世界で広めるには多少早すぎる嫌いはあるが、少なくとも衛生環境の重要性は啓蒙できる可能性がある。自分ほどの適任者もいないだろうと、リリアナはにっこりと微笑み快諾した。
*****
リリアナがライリーと黒死病の件で話を終えた日の夜、リリアナは二通の手紙を前に眉根を寄せていた。
一通目の手紙に差出人の名はないが、誰からのものかは分かっている。オブシディアンだ。彼はリリアナの依頼を受けて、クライドの動向を注視していた。手紙にはクライドがクラーク公爵領の鍛冶場に向かったこと、リリアナと同じ疑惑――つまり設備に対して保管されている完成品の数が少ないことへ違和感を持った様子だが、森の中に隠された秘密の保管庫にまでは行きつかなかったことが書いてあった。
もう一通の差出人はペトラ・ミューリュライネンとなっている。ペトラとは、三年前に起きた史上最大規模の魔物襲撃以来会っていない。魔導省に目を付けられたペトラと会えば、リリアナにも監視が付けられる可能性があった。それは望ましくないと判断し、手紙も含めた接触は極力控えていた。
それにも関わらず、つい先日手元に届いた一通を皮切りに、ペトラはリリアナに手紙を送って来るようになった。内容は簡潔に近況を伝えるだけのもので、リリアナは既に把握している情報だ。
(魔導省に一般魔導士として戻る――ベン・ドラコ様が一般魔導士だなんて、違和感しかございませんわ)
ペトラからもらった手紙はその場で焼き捨てるようにしているため、リリアナは二通目の手紙も同じように処理する。だがリリアナの表情は晴れなかった。
恐らくペトラがこのような手紙を寄越してくる理由は、何故今になって魔導省から復職するよう連絡が来たのか、知っているのであれば教えて欲しいということだろう。だが生憎とリリアナも魔導省が何を考えてベンとペトラに復職するよう連絡したのか分からない。呪術の鼠もそれらしき情報は拾って来ていないし、オブシディアンも何も掴めていなかった。
いずれにせよ、魔導省長官ニコラス・バーグソンが噛んでいることは確かだ。
(バーグソン長官が絡んでいるのでしたら、今ですとメラーズ伯爵が何事か企んでいる可能性もございますが)
リリアナの父エイブラムとの蜜月状態が終わった後、バーグソンはメラーズ伯爵と接触したという。伯爵はそれほどベン・ドラコやペトラ・ミューリュライネンを煩わしく思ってはいないはずだ。どちらかと言えばバーグソンが二人を忌避していると言った方が適切だろう。そこまで考えて、ふとリリアナは一つの事実を思い出した。
「ソーン・グリード――」
ベンを敵視していると、以前ペトラが教えてくれた。彼はベンが副長官から降格された時、その後釜に座った人物である。もしかするとソーン・グリードの思惑である可能性もあった。
「そういえば、グリード伯爵とメラーズ伯爵は良く社交界でもお話に興じられていらしたような」
勿論まだ成人していないリリアナは社交界には出られない。だが情報は常に仕入れている。誰が誰と親しくしているのか、或いは反目しているのか、社交界では知ることができるため非常に有用だ。
「ニコラス・バーグソン、ソーン・グリード――そしてメラーズ伯爵」
いつの間にか妙な繋がりが出来ている。リリアナは端正な眉をわずかに寄せて、深く思考に潜り込んだ。
*****
魔導省副長官のソーン・グリードは、ニコラス・バーグソン長官に告げられた人事に怒り心頭だった。
「本気ですか、長官」
「すでに辞令は出されている。お前が反対しようが意味はない」
ぎり、と彼は唇を噛み締めた。血の味が口内に広がるが、それどころではなかった。
「ベン・ドラコは謀反人ですよ!? それにも関わらず魔導省に復帰させるなど正気の沙汰ではありません」
「やんごとなき方からの御指示だ、我々にはどうすることもできん」
バーグソン長官は煩わしそうに眉根を寄せる。これ以上問い詰めれば長官は自分を切り捨てるかもしれない――そう思ったソーン・グリードは怒声を辛うじて飲み込んだ。握りしめた拳が震えている。
彼は上昇志向が強い。優秀な自分が魔導省で一般魔導士に甘んじていることは勿論、魔導士として名を馳せているドラコ一族出身という理由だけでベン・ドラコが副長官に任じられていることも、ずっと腹立たしく思っていた。父は伯爵だが、跡継ぎの長男にしか興味がない。辛うじて次男は気に掛けられているが、三男でしかないソーンは昔から父にとって居ても居なくても変わらない存在だった。勿論母もソーンのことは気に掛けない。彼女が興味を持つのは社交界の噂だけだ。
だが、ソーン・グリードは幸運に見舞われた。
三年前に起こった魔物襲撃の際にベン・ドラコは転移陣に細工をした咎で副長官の座から追われた上に無期限の謹慎処分を受け、そしてソーンがその後釜に座ったのだ。
ベン・ドラコは元から気に食わない奴だった。副長官になったのも、何かしらの不正を働いたからに決まっている。だが抜け目のない男だから証拠など残しているはずもない。そして転移陣に細工をした証拠も、ベン・ドラコであれば抹消しているはずだ。
そう思ったからこそ、ソーン・グリードは魔導省長官ニコラス・バーグソンに請われるまま、証拠がベン・ドラコの屋敷から見つかったと証言した。ただ、その証拠もいつの間にか全く意味のない紙屑になっていた。そのせいで彼はバーグソン長官から叱責されたのだが、長官は約束を守って彼を副長官に昇格させてくれた。
だが、三年振りにベン・ドラコは魔導省に戻って来るという。それも“やんごとなきお方の指示だ”と言う。バーグソン長官のその発言は、ソーン・グリードの矜持を甚く傷つけた。
「あんな取るに足らぬ者など気に留めるな。どのみち奴に任せる仕事に碌なものはない。ああ、だがもしかしたら、辺境の仕事は奴に優先して振り分けるかもしれんな」
「――辺境の仕事、ですか」
「ああ。いつ戻れるとも知れぬ――いや、寧ろいつまで命が保つかも分からん仕事だ」
バーグソン長官はにやりと笑みを零した。その様子を見て、ようやくソーン・グリードは留飲を下げる。
ベン・ドラコが戻って来ても、彼は再び嘗ての栄華を取り戻すことはない。任せられる仕事は雑用ばかり、そして死ぬ可能性が高い仕事を押し付けられるのだろう。それならば多少は仕方がないかと思い直す。それでも、心の中にもやもやとした気持ちは残った。
「いつまでみっともなく生にしがみつくか、見物ですね」
ソーン・グリードは冷たく言い放った。ソーン・グリードにとって、ベン・ドラコは謀反を企てながらのうのうと生き恥を晒す見苦しい男にしか見えない。
バーグソン長官はちらりとそんな部下を一瞥したが、答えはしなかった。
「話は以上だ。魔導石の件、忘れるなよ」
「承知いたしました」
長官に念を押されてソーン・グリードは頷く。長官室に呼ばれた理由は、ベン・ドラコが戻って来るという報告を受けるためではない。魔導石を高値で買い取りたいと申し出た貴族がいるため、その準備をするように、という指示だった。どうやらその貴族は内密で魔導石を集めたいらしく、依頼を知る者は限られた人数に絞る必要があるらしい。
そんな雑用など他に任せれば良いのにと不服に思うが、依頼を隠すということは相応に身分が高い貴族に違いない。上手くいけば自分の名を覚えて貰えるかもしれないという期待で自分を慰め、ソーン・グリードは長官室を出る。
そしてそのまま副長官室に戻ったソーン・グリードは、執務室の上に見覚えのない手紙が置いてあることに気が付いた。手に取って眺めるが、差出人の名は書いていない。内容は非常に簡素だった。
「――下記の場所に、今夜来られたし――?」
一文の下には時間と場所が書かれ、更には読み終えた後手紙を燃やすようにとご丁寧にも書き添えられている。
ソーン・グリードは眉根を寄せた。あまりにも怪しい呼び出しだ。だが、彼は魔術に自信があった。一人で赴いても、自分の身は護れるだろう――そう考えて、無言のまま手紙を蝋燭の火で燃やす。そして指定の時間に間に合うよう、早目に仕事を終わらせるべく椅子に腰かけた。