5. 領地への帰還 3
『本日は、ぜひ貴女に伺いたいことがあるのです』
そう切り出したリリアナは、流行り病に罹り高熱で寝込んだ後、声を失ったことを伝えた。そして、半年経過しても治らないということも告げる。自分に治癒魔術をかけてみたが無理だった――というと、ほのかに目尻を赤く染めたペトラが呆れたような表情を浮かべる。
『――――ですから、声が出ないのはもしかしたら呪術の類ではないかと思いましたの。ただ、わたくしが調べましても呪術に関してはなかなか記述が見つからず――困ってしまって』
「そりゃあ、呪術は闇魔術の中でも禁術に近いものだからね。内容の公開は厳しく制限されてるし、まず独学では無理だ」
ペトラは酒を飲みながら目を伏せ考える。真剣な表情を浮かべると、整った浅黒い美貌が際立った。
普段の言動ゆえに気付かれにくいが、ペトラは迫力のある美人だ。しかし、ペトラの興味は恐らく己の美醜にはない――彼女が興味を持つのは唯一、魔術だけなのだろう。そうでなければ、リリアナの話に食いつくはずもなければ、リリアナの超人的な魔術の能力に対する忌避を全面に押し出すはずだ。
ペトラは淡々と呟く。
「それに呪術じゃなくても、普通なら自分に治癒魔術をかけても治る可能性は低い――って話になるんだけど」
基本的に、切り傷など小さな怪我ならば自身も治癒できるが、それ以外の怪我や病であれば、自分に治癒魔術を掛けられない。治療者が持っている魔力を対象者に流し、対象者の魔術の循環を良くすることで怪我や病気を治療する、という理屈だからだ。
平たく言えば、どうすれば治るのかわからない怪我や病気を、膨大な魔力を使って力尽くで治す方法だ。素手の相手に核ミサイルを落とすようなやり方でしかなく、非常に効率が悪い。術式を使って多少は必要な魔力量を減らしているものの、核ミサイルが改良されて必要な燃料が減った程度のものである。
だが、リリアナが行った治癒魔術は一味違った。
もし本当に高熱のせいで声を失ったのであれば、発話を司る神経と脳機能に影響が出たと考えられる。そのため、神経回路を正常に戻す、という対処を行った。魔力の循環を改善するのではなく、物質を修繕するのであれば自分の体だろうが大して問題なく術を掛けられる。それに、魔力量も必要最小限に抑えられる特典付きだ。
実際に、小さな切り傷を治す時は、誰もが元の状態をイメージして治癒魔術をかける。つまり物質の修繕と同じだ。だが、この世界では脳神経科学は勿論、生物学ですら発達していない。体を切り開かなければ分からない内臓組織を、この世界の人々は想像できない。神経細胞といった肉眼では見えない物質であれば、存在すら認識できないのだ。
『ええ、存じております』
「でもあんたは規格外みたいだからなァ。多分、あんたが無理なら他の誰も無理だろうね」
『光栄ですわ』
ペトラが本心から言っているのだと分かるから、リリアナは素直に礼を述べる。ペトラは小さく頷くと、まじまじとリリアナの顔を眺める。その紫の瞳が煌めいた。
「確かにあんたの首から口にかけて――妙な気配が残ってる」
咄嗟にリリアナは喉元を押さえる。意識していなかったが、ペトラに指摘されると妙に喉と口が重苦しい気がした。ペトラは励ますように笑う。
「安心しなよ、別に命に関わるような術じゃない。それでも、このまま声が出なければ不便だろうね」
『ええ、わたくしもそう思いますの』
リリアナは頷く。声が出ないと、他に助けを求められない。今のところ問題は感じていないし、誰かに助けを求めずとも乗り切れるように己の魔術も磨いている。だが、声が出ないよりは出るほうが何かと都合が良いはずだ。
ペトラは「まァ、あんたが自分でどうにもならない状況っていうのもあんまり想像がつかないけどね」と苦笑をこぼす。
「あたしが分かるのは、あんたには何かしらの呪術が掛けられているっていうことと、恐らくそのせいで声が出ないってことくらいだ。詳しくは解析しないと分からないけど、あいにくと解析には危険が伴う。ということで、この仕事が終わったらあんたを魔導省に招待しよう」
『魔導省に?』
それはリリアナにとって予想外の誘いだった。目を丸くするリリアナに、ペトラは「ああ」と頷く。
「魔導省にいる奴らは皆いけ好かないが、この国の中では一番安全だよ。そこでなら、その意味不明な呪いを解析しても周りに被害はないだろうさ」
ペトラの誘いは魅力的だった。呪術を解除できるだけでなく、魔導省の中もこの目で見ることができる。
見学はさすがにさせて貰えないだろうが、一般人は決して足を踏み入れられない場所に招待されたことで、リリアナの心は喜びに満ちていた。抑えきれない笑みが浮かぶ。その顔を見たペトラは、丸く見開いた目でリリアナを注視する。リリアナは堪え切れずに、半ば身を乗り出すようにして『ぜひ、お願いしとうございますわ』と頼み込む。
ペトラはしばらく言葉を失っていたが、やがて小さく首を振って「あんた、やっぱり変わってる」と呟く。意図が掴めずにリリアナが首を傾げたが、ペトラは立ち上がって部屋の隅から木箱を持ってきた。
『そちらは?』
「さっき外で買って来たんだ。良かったら食べる?」
『まあ』
木箱の中には、様々な果物が入っていた。ひんやりと冷えている。どうやら木箱は冷蔵庫のような役割を果たしていたらしい。
『ええ、ぜひ戴きますわ』
リリアナは素直に礼を言ってイチゴを手に取った。この世界のイチゴはそれほど甘くない。だが、ペトラが買って来たイチゴは甘くておいしい。ペトラは変わらず肉をつまみながら酒を飲む。
「あんた、呪術にも興味があるわけ?」
『ええ、興味深いと存じますわ。ただ、先ほど申し上げました通り、呪術に関する書物は少のうございますし――それに、呪術に興味があると知れると異端と言われ批判されそうな気がしておりまして』
「――それだけの魔術が使える時点で、他にバレたら十分異端って言われるだろうに」
リリアナの言葉にペトラは呆れを隠さない。リリアナは困ったように笑った。
『その通りですわ。ですから、わたくしが魔術を使えることは誰にも教えたことがございませんの。ペトラ様にお話したのが初めてですわ』
「ペトラで良いよ。様なんて柄じゃない――それじゃあ、呪術に関しては?」
『魔術はたくさん書物や指南書がございますから。人知れず学ぶことができますわ。でも、呪術に関しては――独学が難しくて。そうなりますと、隠れて学ぶことも難しゅうございましょう』
「確かにね」
ペトラは納得したように頷いた。呪術を学ぼうと思えば、書物では足りない。そうなると、他人に知られる可能性が高くなる。リリアナの懸念は尤もだった。
「それなら、この旅の間――あんたの時間が取れる限りは、呪術の基礎について教えてあげようか。それでどう?」
『まあ、宜しいのですか? ぜひお願いしとうございますが、教えを乞うということでしたら、この喉に掛けられた呪術の解析と合わせてお礼をさせてくださいまし』
「本気?」
ペトラは今度こそ頭を抱える。リリアナはペトラの戸惑いが分からない。首を傾げたが、ペトラは大きなため息と共に赤紫の前髪の隙間からリリアナを覗き込んだ。
「貴族の、特にあんたくらいの年頃のご令嬢だったら、お礼なんて口が裂けても言わないね」
『――そうでしょうかしら?』
さすがにペトラの指摘は偏見ではないかと思う。だがペトラは譲らなかった。
「そうだよ。大体、あんたくらいの年頃――六、七歳ってところか? それくらいの貴族の子供っていうのは、服も食事も教育も与えられるものだからね。それに金がかかるなんて、思いもしないんだよ」
それどころか与えられることが当然で、お礼をするなど論外だ。
確かにその通りかもしれない――とリリアナは口を噤む。
記憶を取り戻す前のリリアナも、意識をしたことがなかった。
自分が何かを得ればそれには対価が発生していること。屋敷にいる執事や侍女、侍従、庭師、料理人――そういった人々には給金が支払われていること。彼らも自分と同じように様々なことを考え、思い、時には反発心や敵対心を押し隠して働いていること。
前世の記憶が蘇ったからこそ、それまで意識していなかった現実を認識した。
だが、それを説明する意味もなければ必要性も感じない。だからリリアナは穏やかに告げた。
『ですが、これがわたくしですわ。他の何者にもなれませんもの。お恥ずかしながら相場を存じませんので、少ないようでしたら教えていただけますかしら』
前置いて、リリアナは金額を告げる。それは、領地へ帰還する際に同行費用として支払った金額よりわずかに少ない程度の額だった。
金額を聞いたペトラは、にやりと笑う。
「――――十分だよ。これだけ貰えるなら、魔導省でも呪術の授業をしてやれる」
『ありがとうございます』
嬉しゅうございますわ、とリリアナは頬を綻ばせる。
だいぶ話し込み時間が遅くなったため、その日は講義を受けず部屋に戻ったが、リリアナは明日からの旅程が楽しみで仕方がなかった。
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