5. 領地への帰還 2
途中で馬車に乗り込んできた魔導士は、二十代前半に見える年若い女性だった。
「ハァイ、あなたがリリアナ・アレクサンドラ・クラーク公爵令嬢? あたし、魔導士のペトラ・ミューリュライネンっていうの。ペトラって呼んでね」
ローブで全身を覆っているものの、豊満な体つきは見て取れる。半分ほど隠れた瞳は紫色で、赤紫の髪が僅かに見えていた。そして何よりも、公爵令嬢を前にして全く臆さず――そして礼儀を尽くさない態度は不敬だと罵られても仕方のないほどだ。
マリアンヌが顔を強張らせたが、リリアナは気にせずにっこりと笑って紙を差し出した。声が出ないことを詫び、そして往復路と滞在中世話になる礼をあらかじめ書いておいたのだ。
ペトラは紙を一瞥すると、「ふぅん」と面白そうににんまり笑った。その紙を懐に入れて、楽し気にリリアナの口元を眺める。
「あんた、変わってるね」
いつの間にか、「あなた」が「あんた」になっている。ますますマリアンヌの顔が険しくなったが、ペトラは気にする様子がない。リリアナは苦笑を辛うじて微笑に変えた。
(――きっと、ゲームのリリアナだったら激怒したでしょうね)
ゲームにペトラは出て来なかったが、そんな感想を抱く。
リリアナは非常に気位が高かった。公爵という地位は貴族の中でも王族に次いで高い。自分と比べて下位貴族であるヒロインが、婚約者の王太子に礼を失し色目を使ったと激怒したのだ。貴族としての義務を意識しながらも、彼女は身分社会に身を置く高位貴族としての規範意識が高かった。当然、自分に対して失礼な物言いをしたと、ペトラのことも激しく糾弾しただろう。
尤も――とリリアナは目の前の女性を慎重に見定める。
(いくら権力に飽かせて断罪しようとしても、この方は全く頓着しなさそうですけれど)
ミューリュライネンという名前からして、ペトラはスリベグランディア王国の出身ではない。他国の人間が魔導省に入省することは困難を極める。つまり、ペトラは小うるさい役人たちを黙らせるほどの実力の持ち主だ――しかも、男尊女卑の傾向が強い魔導省で、女だてらにその地位を確立している。生半可な人物ではない。
リリアナとマリアンヌ、ペトラ、そして護衛二人を乗せた馬車は再び街道を走り出す。
マリアンヌはリリアナに対し礼を尽くさないペトラに話し掛ける気がないようだった。リリアナも言葉を話せないため、ペトラと会話ができない。ペトラは沈黙が苦にならないタイプらしく、楽し気に車窓から流れる景色を眺めていた。
*****
リリアナがフォティア領に向かう途中、最初の一晩を明かす町はそれほど大きくはない。関所を兼ねた町で、宿と飲食店が建ち並んでいる。簡単な土産物屋はあるが、観光する場所はあまりない。ただし、複数の街道が交わる場所なだけあって活気があった。教会を中心とした町並みは、かつて要塞都市だった。周囲を大きな濠が囲み、高い塀が町の周囲に聳え立っている。
リリアナたちは泊る宿は、関所を通過したところにあった。最高級の宿で、宿泊客は高位貴族ばかりだ。リリアナの身の回りの世話をするマリアンヌは勿論、護衛二人と魔導士のペトラも同じ宿に泊まる。リリアナを守るために雇われている彼らが、別の宿に泊れば緊急事態に対応できない。
ペトラたちの部屋は従者や付き人用の客室であるため、リリアナの泊まる部屋と比べてランクが落ちる。それでも立派であることに変わりはなかった。
夕食を摂ったリリアナは、湯あみを済ませて寝る準備を整える。マリアンヌは扉で通じた隣室で休むことになっているため、何かあればすぐに気が付く。
しかし、リリアナは気に留めなかった。マリアンヌがすぐに眠れるよう、安眠の術を掛け、自室とマリアンヌの部屋に結界を張る。マリアンヌの部屋は防御、自室は防音だ。そしてしばらく――マリアンヌの鼾が聞こえてきたところで、リリアナは転移の術を使った――――
「――――ホントに来た」
リリアナを見て、その人は楽し気に眉を上げる。
「へえ、その年で転移の術かァ。すごいじゃないの。あたし以外で初めて見たわ」
どうやら外で買い込んできたらしい酒瓶を豪快に空けながら串焼きを齧りつつ、部屋の主――ペトラ・ミューリュライネンは上機嫌だ。
リリアナは思わず本気の微笑を漏らす。そして、にっこりと笑ってペトラに告げた。
『ごきげんよう。突然のことなのに、受け入れてくださって感謝いたしますわ』
今度こそ、ペトラは目をみはる。愕然と、信じられないものを見る表情でリリアナを凝視した。
『わたくしが何をしたか、貴女には申し上げる必要もないかと存じますけれど』
「――――――――え、」
嘘だろ、という表情。リリアナの顔を凝視するペトラの瞳の中で、リリアナは変わらず笑みを浮かべている――口は、全く動かしていない。
「――念、話……?」
ペトラが掠れた声で呟く。リリアナは嫣然と微笑んだまま頷いた。
念話――直接相手の精神に働きかけ、言葉を伝える術である。魔術では不可能な領域とされてきた。書物には、念話を使うのは人間以外――即ち魔物や精霊だけだと記されている。その念話をリリアナが平然と行ったことに、ペトラは――彼女にしては珍しく――言葉を失った。
だが、ペトラはリリアナが見込んだ通りの女性だった。
二の句が継げないでいたものの、やがて苦笑をこぼし向かい側のソファーを勧めた。更には臆することなく、「あんた、ホントに人間?」と尋ねる。
『ええ、間違いなく人間ですわ。ただこの念話も――できると知れたら、わたくしの身が危険ですもの。このことをご存知なのは、貴女だけですわ』
本来なら使うべきではないのだろうが、それではなかなか話が進まない。今夜リリアナがペトラの部屋を訪れたのには、重要な訳があった。
「へえ、それは光栄ね」
大きく息を吐いたペトラは立ち直った様子で、グイっと酒を飲む。精神的な衝撃から抜け出た彼女は、どうやら方法が気になったらしい。興味津々に身を乗り出した。
「ちなみのその念話、どういう術式使ってるの?」
『術式、と申しますか――話すと長くなるのですけれど』
「うん?」
『魔術の基本は“想像”でございましょう? 術式はあくまでも、“現象”と“想像”の間を繋ぐ魔術を、誰でも使えるよう分かりやすく体系化しただけのものですわ』
リリアナの言葉に、ペトラは目を丸くする。次の瞬間、彼女は高らかに笑い出した。
「そ、それ! 魔導省の連中に言ってやりなよ、あいつら絶対、火ィ噴いて怒り出すよ!」
『――――申し訳ございません』
魔導省の仕事の一つに、術式の体系化と開発がある。リリアナの言い草では、術式は無意味であると断言したようなものだった。さすがに謝罪したリリアナに、ペトラは未だ笑いの発作を堪えられないまま手を振った。
「別に良いよ、あたしは奴らと違って“異端”だからね。あんたの意見には賛成。術式に頼りすぎると、魔術が固定化して進歩しない」
リリアナはほっと安堵の息を吐く。自分から尋ねたいことがあるとペトラの元を訪れたのに、用件の前に激怒させては無駄足になってしまう。そして、「それで?」と続きを促すペトラに、リリアナは説明を続ける――ただ、前世の知識を分かりやすく噛み砕いて説明するのは至難の業だ。
『イメージとして聞いていただきたいのですけれど。人の話を聞く時、聞き手は耳で相手の声を受け取ります。その受け取った声は、非常に細い管を通って、言葉を理解できる部分まで運ばれていきます。わたくしが念話で行っている方法は、わたくしの頭の中で作った言葉を直接、貴女の体にある細い管に送り込むというものですわ』
ペトラは顔を顰めた。全く分からない――と、その表情が告げている。
それはそうだろう、とリリアナは内心で嘆息する。量子エンタングルメントによる脳波の同調という仮説を実践に落とし込んでみたら、できてしまった――というのが本当のところだ。量子や脳波という概念どころか脳神経の認識すらないこの世界では、説明を噛み下すことすら難しい。
(そもそも、量子エンタングルメントの解説ですら本になると言いますのに――前提知識が存在しない人に説明などできるはずがございませんわね……)
困った表情のリリアナをまじまじと見つめていたが、ペトラはあっさりと理解を諦めた。代わりに、大きく息を吐いて背もたれに体を預ける。
「あんた、精霊か魔族と契約でもしたワケ?」
恐らく、そうでも思わなければ納得できないのだろう。それほどに、念話ができるというのは非現実的だ。だが、精霊との契約もあり得ない。伝承としての精霊は広く知られているものの、実際に精霊の存在は認められていない。既に潰えたか、もしくは人との関わりを絶っているというのが通説だ。そして、魔族との契約も無意味である。彼らは決して人に力を与えない。協力はするが、念話などの能力は魔族と契約した人間の間だけで成り立つ、とされている。
リリアナは首を振って、ペトラの様子を窺う。醒めた目でリリアナを眺めていたペトラは、やがて諦めたのか、苦笑と共に溜息を吐き出した。
「まァ、嘘は吐いてないみたいだね。やってみたら出来ちゃった――ってところか」
『ええ――まぁ、そのようなものです』
ご期待に沿えず申し訳ございませんが、と頭を下げるリリアナに首を振り、ペトラはテーブルの上の紙を指先で摘まんだ。
「これも――見た時にビックリしたよ。最後の一文、これ魔術でしょ?」
『ええ。魔導士の方がいらっしゃると聞いて、お話をしたかったのですけれど――直接お会いしないと、信用に値する方かどうか分かりませんもの』
リリアナはにっこりと笑う。
手紙の最後の一文――それは、〈今宵、貴女様のお部屋に伺います〉というものだった。魔術で記載されているため、リリアナが【解除】すればその一文は綺麗に消える。しかし、リリアナはペトラに渡す直前、その文章を【固定】した。勿論、ペトラはその一連の流れに気が付いている。
それだけで、リリアナはペトラを信用できる魔導士だと判断した。
『本日は、ぜひ貴女に伺いたいことがあるのです』
リリアナは、にこやかな笑みを浮かべたまま、単刀直入に話を切り出す。衝撃から早々に立ち直ったペトラは、にやりと不敵に言い放った。
「話が早い奴は、好きだよ」
あんたのために用意しておいたんだ、とペトラが差し出したレモネードを、リリアナは有難く受け取る。それを一口飲んで、リリアナは話し始めた。