23. 双璧の後始末 5
おっとりとした微笑の中にもどこか戸惑うような感情を見せて、リリアナは少しの間を空けて言葉を紡ぐ。
「具体的にいつから――とは、わたくしも分かりませんの。気が付いたら出ておりましたわ」
「最近のことかな?」
「いいえ、一年ほど前――でしょうか」
いずれにせよ隣国のローランド皇子とイーディス皇女がご帰国なさった後でしたわ、とリリアナは告げた。クライドは頷く。確かに隣国の皇子と皇女が外遊のため訪れてから、リリアナとは会わなかった。次に顔を合わせたのが、父エイブラムの命日だ。
もし外遊以前かその最中に声を取り戻していたのであれば、イーディス皇女をライリーの婚約者にするという話は出て来なかっただろうし、リリアナも常に無言を貫くこともなかったはずだ――そうクライドは納得する。
「それじゃあ魔術の訓練はこの一年間にしたのか」
「ええ、そうですわね」
「――リリーには才能があったんだね」
たった一年で兄であるクライドよりも遥かに優れた魔術を操り、父に拮抗する戦闘能力を見せつけたのだ。クライドは苦笑して嘆息する。自身も決して魔術が下手ではない――むしろ同年代と比べると優れている部類だと認識しているが、妹の才能を前にすれば自信を喪失してしまいそうだった。
そしてリリアナは、クライドの言葉には答えずに無言で紅茶を一口飲む。クライドも自分の前に用意された紅茶を飲んで、渇きかけていた口内を潤した。
「魔術は誰に師事したの?」
「――ベン・ドラコ様にご相談申し上げましたの。そう致しましたら、お名前はお伺いしていないのですが、お一方ご紹介頂きまして、最初の数回はその方に師事しておりましたわ。ですが、残念ながらご都合が悪くなったとのことでしたので、その後は独学に切り替えました。幸いにもここにはたくさん書物がございますから」
クライドは納得した。確かにベン・ドラコであればそのような人物にも心当たりがあるだろう。名前を聞いていないというのが不穏だが、ドラコ家長男直々の紹介だというのであれば信頼が置ける。
「他に誰か、お前の声が出るということを知っている者は?」
「どなたにも、わたくしからは申し上げておりませんわ」
「そうか。それじゃあご存知なのはベン・ドラコ殿だけなんだね。良く連絡先を知っていたね」
「何度か、王宮でお会いしておりましたから」
感心したようなクライドの言葉ににっこりと笑ったリリアナは再び紅茶に口を付ける。クライドは少し考えていたが、やおら口を開いた。
「何故、僕や父上じゃなくてベン・ドラコ殿に相談したんだ?」
「――わたくしの声が出るという事実は、極力伏せた方が良いのではないかと思いましたの」
「それは何故?」
たとえ妹といえども、クライドは追及の手を緩めない。良く考えれば、具体的な案件――例えば視察の行程に関する意見を求めるのではなく、リリアナ自身の考えを訊くのは初めてだった。ただ可愛らしく不憫だが頭は良いというだけの認識だった。だが、話をしていくうちに山道で霧に巻き込まれ、道標を失った時のような不安を覚える。心の内から沸き起こりはじめた動揺に無理矢理蓋をして、クライドは目の前の妹に視線を向けた。
「お父様が、わたくしとライリー様の婚約に反対なさっていたことはご存知でしょう?」
「――ああ」
十歳になってもリリアナの声が出なければ王太子の婚約者候補から外すという密約が、クラーク前公爵と国王の間で交わされていたことはクライドも知っている。勿論、ライリーも承知していた。広く貴族たちに知られていたわけではないが、その密約の存在を考えれば、顧問会議での発言を考慮せずとも父エイブラムの意向は自明だった。
「わたくしは十歳の誕生日を迎える前に声を取り戻しました。それが父に知れたら、密約の条件に合わなくなりますもの。そうなりますと、お父様が次にどのような手段を取られるのか――不安に思いましたの」
何よりもその時既にライリーはリリアナと婚約するつもりで居た。エアルドレッド公爵は既に亡くなっていたが、彼を信奉するアルカシア派やそれ以外の貴族たちも多くがリリアナを王太子妃とすることに否やはなかった。そのような状況でリリアナを婚約者候補から外すために取れる手段はそれほど多くない。ましてや相手は父であるエイブラム・クラークだ。その手段が過激なものでない可能性は否定できないし、周囲を巻き込まないという保証もない。
クライドは慎重に言葉を選びながら、妹に尋ねた。これまでは幼く守るべき存在として扱っていたが、さすがにそこまで気を遣う必要もないのだと――妹は母とは違うのだと、ここに来てクライドはようやく納得した。
「その時には、父上がエアルドレッド前公爵に手を掛けた可能性について予測していたの?」
「――ええ」
ほんのわずかな逡巡をリリアナは見せたが、すぐに頷く。普通であれば気付かないだろう僅かな間に、クライドは気が付いた。
「何故予測できたのかな? あの時、前公爵は病を得たと報告されたはずだ」
途端にリリアナの微笑は苦さを滲ませる。ほんの一瞬の表情の変化はすぐに掻き消え、彼女は淡々と事実を答えた。
「わたくしがその知らせを聞いたのは、王太子殿下と視察から戻った時でしたわ。その時、ご親切に教えてくださる方がいらっしゃいましたの」
その言葉だけで、クライドはおおよそを悟る。エアルドレッド前公爵の死はリリアナの父の陰謀だと、彼女を責め立てたのだろう。苦虫を嚙み潰したような顔になって喉の奥で低く唸った。その場に居なかった己の不運を恨みながらも、クライドは激情を殺して「その時殿下は?」と尋ねた。
リリアナが浮かべている微笑に、ほんのわずかに温かみが加わる。しかしその変化も目の錯覚かと思うほど早く消えた。
「わたくしのせいではないと仰ってくださいましたわ。あの方も非常に衝撃を受けていらっしゃいましたのに」
「――そうか」
想像できるよ、とクライドは情けなく眉を下げて苦笑を覗かせる。ほっとしたと同時に、身の内に巣食っていた激情はどこかへ消えた。同時に、ライリーであれば妹のことも任せられると心の中で呟く。
リリアナを責め立てた貴族が誰なのか気にはなったが、問い質す必要性もない。
「でも確証はなかった。だから父上と対峙した時にエアルドレッド前公爵の名前を出して、父上の反応を見たんだね」
「仰るとおりですわ」
気になっていたことはほぼ確認できた。だが、あともう一つだけクライドには疑問があった。
正直なところ、これまでに尋ねた内容はそこまで問題ではない。何となく想像はできたし、実際に確認した内容もクライドが事前に想定した内容と大きく乖離していない。だが、同年代と比べても優秀と評される彼の頭脳でも納得のいく理屈を見つけられない謎が残っていた。
「それじゃあ、リリー。何故、君はあの時王都の邸宅に転移した?」
理由もなく転移陣を行使することはあり得ない。そうする理由が必ずあるはずだ。だが、あの時リリアナは王都近郊の屋敷に居たと言っていた。普通に考えれば、転移しようと思う切っ掛けはどこにも転がっていないはずだ。
クライドの視線はリリアナの顔を正面から射貫く。しかし、彼よりも五歳幼い妹は変わらぬ微笑みを湛えたまま落ち着き払っていた。クライドとしては、完全ではないものの不意を突いたつもりだった。だが実際には、エイブラムが死んだ日から随分と時間が経っている。リリアナが偽証を用意するには十分すぎるほどだった。
「元々、エアルドレッド前公爵様からご警告を頂いておりましたの」
「――閣下から?」
その名はクライドにとって予想外だったらしく、わずかに目を見開いている。リリアナは穏やかに「ええ」と頷いた。
実際はライリーの暗殺について示唆されただけだが、具体的な内容について知る者は前公爵とリリアナ、そして前公爵の執事だけだ。九割の嘘であっても、事実を一割混ぜれば信憑性は高くなる。そして何より、リリアナの回答の肝は“死人に口なし”だった。たとえクライドがリリアナの答えを疑ったとしても、直接エアルドレッド前公爵に確認することはできない。
「お父様が何かを企んでいるようだと、閣下はお考えになっていらっしゃるようでしたわ。お兄様のこともわたくしのことも、とても気に掛けていらっしゃいました。何かあれば使うようにと、魔道具一式をくださったのも閣下ですの」
嘘ではないが、本当のことでもない言葉をリリアナは紡ぐ。
自らの死を覚悟していたエアルドレッド前公爵がプレイステッド卿に宛てた手紙の存在を明らかにするつもりは、リリアナにはない。だがその手紙の内容から、彼が以前からクラーク公爵に疑いを抱いていたことは確かだった。更に彼から受け取った魔道具はライリーの暗殺を防ぐためのもので、父エイブラムがこれから犯すであろう罪を事前に知るためのものではない。
リリアナが決して正確に喋らず恣意的な言葉を選んでいることに、クライドは気が付いていなかった。難しい表情で考えこみながら妹に問う。
「その魔道具で、母上の危機を感知したということ?」
「正確には、異常が発生したことを感知したというべきですわね」
しれっとリリアナは答える。そしてついでのように、その魔道具が一度で使い切る型のものであり、術が発動した後は消滅するよう仕組まれていたことも付け加える。
クライドは深く溜息を吐いてくしゃりと前髪を掴んだ。
「つまり、その魔道具を今確認することはできないということだね」
「残念ですが、その通りですわ」
その上、魔道具の製作者が誰かも分からない。リリアナの言葉を聞いたクライドは「分かった」と頷く。一切、物証はない。だがクライドの中に、妹の言葉を疑うという選択肢は存在していなかった。心の片隅に浮かび上がったリリアナに対する疑念と不信感を無理矢理、罪悪感で抑えつける。
祖父も父も既にこの世にはいない。厳格な祖母は孫に興味を持たない貴婦人然とした人で、母はリリアナを毛嫌いを通り越して嫌悪している。クライドにとって母ベリンダは護らなければならない親だったが決して頼れる相手ではなく、そして妹への態度を見るにつけ距離を取りたいと思う相手だった。
そのような中で、リリアナは唯一の肉親と思える相手だ。リリアナにとっても頼れる家族はクライド以外に居ない。父を殺し心に傷を負っているはずの妹を追い詰めるような真似もしたくない。そして何よりも、家族の中で冷遇されていた妹を疑うこと自体に罪悪感が湧き起こる。
「分かった。でも正直――僕には話して欲しかったよ、リリー」
「――ごめんなさい」
だから、クライドは自分の気持ちを伝えるに留めた。リリアナが悄然と項垂れたのを見て、クライドは苦笑を浮かべる。
「父上も居なくなり、母上は領地で療養。お祖母様もああいう方だ。だから誤解を恐れずに言うと、僕らは二人きりの家族だと思っている」
クライドの告白にリリアナは目を瞬かせた。きょとんとした表情が年相応に見えて、クライドは微笑ましそうに目を細めた。
「だから僕らの間ではできるだけ隠し事はなしだ。これまでの性格があるから無理にとは言わないけど、僕は王都の公爵邸と領地を行き来する生活になる。その間にここにも来るから、これまで以上に会話をしよう」
戸惑う様子を見せるリリアナだが、一方のクライドは楽しそうだ。
「僕も家族で会話するという発想はなかったんだけど、オースティンが教えてくれたんだ。エアルドレッド公爵家では、できるだけ家族一緒に食事をしてその日にあったことを話す。そんな風に、意識して一家団欒の時間を設けていたそうだ」
「そうでしたの」
クラーク公爵家で共に食事をした記憶はほとんどない。鮮明なものは祖父ロドニーの葬式の時だが、結果は悲惨の一言だった。父エイブラムは中座して仕事に戻り、母ベリンダは癇癪を起こし、祖母バーバラはそんなベリンダに呆れて席を立った。団欒という言葉とは真逆に、ただ神経をすり減らすだけの席だった。だがクライドとリリアナ二人だけであれば、そのような事態にも陥らないだろう。尤も、それをリリアナが楽しいと思えるかは別問題だ。
「無理にとは言わないけど、付き合ってくれると嬉しい。せっかくリリーも話せるようになったしね」
「――ええ」
リリアナは曖昧に答える。
クライドは、前世で嗜んだゲームではリリアナを破滅させる攻略対象者の一人だった。兄妹としての関わりは完全には絶てないとはいえ、必要最小限にしたい彼女にとっては快諾できない。しかし断る理由もない。
その時になって考えようと内心でリリアナが考えているとも露知らず、クライドは妹の曖昧な返事を承諾と受け取った。嬉しそうに頬を緩める。
しかしすぐに真剣な表情になると、話題を切り替えた。
「それからこれからのことを話そう。このまま殿下の婚約者に収まるのであれば、遅かれ早かれ声が出るようになったことは公表しなければならない。問題はその時期だ」
すぐに主だった貴族たちに知らせるべきか、それとも婚約発表に合わせるか。他に適した時期があるのか。
父エイブラムが亡くなっている今、国王との間に結ばれた密約の存在は無視して良い。国王は元からリリアナをライリーの婚約者にしたいと考えていたから、密約が理由でリリアナや周囲に危害が加えられることにはならないだろう。
リリアナはしばらく沈思黙考する。やおら顔を上げると僅かに小首を傾げた。
「お兄様。実はわたくし、大々的に知らせずとも良いのではないかと考えているのです」
「というと?」
「殿下にはお伝えすべきでしょう。ですが、顧問会議含めて敢えて伝える必要もないのではないかと。勿論、声が出るようになったことを秘す必要もございませんが、現状どちらであろうとわたくしが婚約者になることは確実ですもの」
「まあ、それはそうだね」
声が出なくともライリーの婚約者となるのであれば、一々騒ぎ立てる必要もない。その指摘は尤もだとクライドも頷くが、彼は気遣わし気な表情を浮かべて可憐な容姿の妹を見やった。
「ただ、声が出ないと思われたままで婚約者になれば、足を引っ張ろうとする者たちも出て来るはずだ。弱味になることは極力排した方が良い」
「まあ、お兄様」
思わずといったようにリリアナは小さく笑った。その反応が意外で、クライドは目を瞬かせる。
「以前から、わたくしのことを色々と仰る方はいらっしゃいましたわ。声が出ないと振る舞うわけでもございませんし、社交をするに従い事実は広まるでしょう」
それに、とリリアナはにっこりと笑ってみせた。
「そのような方を炙り出すには絶好の機会ですわ」
今度こそクライドは目を見開く。予想外の言葉だった。
リリアナが婚約者として発表される時、それでもなお彼女の陰口を叩く者は三種類。一つはリリアナ本人に敵愾心を持つ者、もう一つはクラーク公爵家に悪い心証を抱く者。そして最後に、王太子の婚約者という立場を手に入れてライリーを傀儡としようと企む者だ。
一つ目の場合であればそれほど実害もない。二つ目の場合、クラーク公爵家を護るためにリリアナとクライドが対応する必要がある。三つ目の場合であれば、その者を取っ掛かりとして関係者を洗い出し、叛意有りとして裁かねばならない。
クライドはにこやかな妹をしばらく凝視していたが、やがて息を吐いて肩から力を抜いた。
「いつの間にか、王太子妃らしくなったね」
「まあ」
そうでしょうか、とリリアナは首を傾げる。思った以上に強かになっている妹を前に、クライドは押し殺したはずの違和感が再び沸き起こるのを感じていた。
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