23. 双璧の後始末 4
王都のとある屋敷の一室は、険悪な雰囲気に満ちていた。タナー侯爵家当主になったばかりのショーン・タナーは二十代半ばで男振りもそれほど悪くはないが、切れ長の目は小賢しい光を浮かべていた。
「全く――お前が上手くやらないからこういうことになるんだ」
「お兄様、私のせいだと仰るの? お兄様が顧問会議に出て発言できるように、根回しをできないからこうなっているのではなくて?」
つんと気の強い目を怒らせて言い返すのはショーンより遥かに年下のマルヴィナ・タナーだ。彼女はライリーの婚約者候補に名を連ねているが、もはや婚約者になることはないだろうと見込まれている。ショーンはずっと妹が王太子妃になることを期待していたが、ユナティアン皇国からローランド皇子とイーディス皇女が外遊に訪れた際の妹と王太子の会話を見て、無駄だと諦めた。どれほど彼が根回しを頑張ろうが、顧問会議はクラーク公爵令嬢のリリアナか隣国のイーディス皇女をライリーの婚約者とする方向で話が固まっている。イーディス皇女を推す代表格であるクラーク公爵が死亡したことで、リリアナが王太子妃になる未来はほぼ確定したと言って良い。彼女の唯一の瑕疵であった“喋ることができない”という問題ですら、王太子は気に留めていないのだ。懸念を示す者はいるだろうが、亡きエアルドレッド公爵の遺志を継ぐものたちは反対しないだろう。
口を挟みたくとも、タナー前侯爵――つまりショーンとマルヴィナの父が権力にも政治にも一切興味がなかったせいで、顧問会議にタナー侯爵の席はない。本人の能力に関係なく顧問会議の席が用意されているのは王族と公爵家のみで、他の爵位を持つ者は何らかの功績を認められて初めて席が用意される。先代や先々代の当主が顧問会議に出席する権利を得ていればその権利も承継できるが、そもそも歴代のタナー侯爵の中で権利欲があるのはショーンとマルヴィナだけだった。
「俺のせいだと言いたいのか? お前が殿下の御心を掴めなかったことが全ての原因だろうが。どれだけの金と時間をお前に注いだと思っている。全く、クラーク公爵令嬢は四年間も喋られないままだったのだぞ。それにも関わらず寵愛を得られないとは、一体何をしていたんだ。王太子妃となることを夢見るばかりで遊び呆けていたのではあるまいな」
「なんですって!?」
マルヴィナが熱り立ち、兄を睨みつけた。
「それこそ私の台詞だわ! 侯爵という地位でありながら宰相にもなれないお兄様に言われたくはなくてよ。伯爵程度の者に掠め取られるなんて、嘆かわしいったらないわ!!」
妹の言葉に神経を逆撫でられたショーンは眉間に皺を刻む。現在、宰相代理を務めているメラーズ伯爵が次期宰相になるだろうことは予想が付いていた。他に適切な者もいない。だが、顧問会議に席のないショーンは自らが宰相となることで足場を固めたいと考えていた。勿論、宰相という立場が重いものであることは理解している。経歴だけでなく、これまでに打ち立てて来た成果が認められなければ宰相にはなれない。
それでもショーンには自信があった。侯爵という地位にある彼は領地を盛り返し、特産品の開発にも力を入れた。実際に先だっての品評会では、領地の香水が最終選考にも残った。その香水は付加価値が付き、更に高値で国外へも輸出する目途が付いている。富んだ領地でぬくぬくと先祖からの遺産を食い潰すだけの貴族たちとは比べものにならないほどだと自負しているが、顧問会議の面々はショーンの功績を認めようとはしなかった。その程度の事は誰でもしていると言うのである。
――どこまでも舐めやがって、俺は侯爵だぞ。
憎悪を押し殺そうとして失敗する。苛立ちを隠し切れずに舌打ちを漏らした。
正直なところ、ショーンはマルヴィナが品評会で見せた傲岸不遜な態度が、自身が宰相になるどころか顧問会議にも参加できない最大の原因ではないかと考えていた。顧問会議の面々はマルヴィナをライリーの婚約者として認めていない。だからショーンが宰相となり、強固に妹を王太子妃として推薦する可能性を懸念したに違いない。そう思えば、目の前で綺麗に着飾っている妹には腹が立って仕方がなかった。
「それもお前が王太子の婚約者になれるのであれば容易かった。お前がしていることは俺の足を引っ張ることばかりだ。そんなことすらも分からんのか?」
「なっ――!」
マルヴィナが絶句する。怒りのあまり顔を紅潮させるが、もはやショーンは妹とこれ以上話す気にはなれなかった。
「もう良い、出て行け。お前の婚約者は早々に探す。それまで精々大人しくしていることだな」
「――っ!」
何を言っても無駄だと思ったのか、マルヴィナは乱暴に扉を閉めて部屋を出て行った。廊下で侍女に「お菓子をさっさと持って来なさいよ、使えないわねこの鈍間!」と金切声を上げている。耳障りな声に思い切り顔を顰め、ショーンは壁際に立っていた執事を「おい」と呼んだ。
「手紙」
端的に告げれば執事は届いたばかりの手紙を数通、ショーンに手渡す。封筒はすぐに中を確認できるよう、既に開封されていた。ショーンは興味なさそうに差出人を確認していたが、その内の一通に手を止める。他の手紙をテーブルの上に放り投げ、中から便箋を取り出した。それほど長い手紙ではないからすぐに読み終える。そして最後まで読み終えたショーンは、先ほどまでの不機嫌さはどこへやら、一転して楽し気な笑みを浮かべていた。
「――なるほど、これは確かに良い話だ」
すぐに返信を書かなければならない。ショーンは執事に命じて返事をしたためる。早々に送るよう言いつけた彼は、上機嫌で一人呟いた。
「もしかしたら、あの馬鹿も殿下の婚約者にならずに済んで良かったかもしれんな。目先の利益に捉われて大損するところだったぞ」
執務室で兄が次なる策略を張り巡らせていることも知らず、自室でお菓子を食べるマルヴィナは癇癪を起こして侍女にナイフを投げつけたところだった。幸いにもナイフは侍女に当たらなかったが、扉横の壁を傷つけている。
「もう本当に、何もかもが腹立たしいわ!」
新しくナイフを持って来た侍女を睨みつけたマルヴィナは、ぶつくさと文句を言いながら菓子を食べる。
「でも一番はリリアナよ、あの女、ライリー様の婚約者にのうのうと収まって! 公爵が死んだっていうのも怪しいわ、きっとライリー様の婚約者になりたかったから父親を殺したのよ。ああ恐ろしい、ライリー様がお労しくて堪らないわ。私が癒して差し上げたい」
ライリーの婚約者がほぼ確定したため、リリアナ以外の婚約者候補たちの王太子妃教育は中止されている。それに従い、マルヴィナを含めた婚約者候補たちは王宮へ上がることもなくなった。勿論何か理由があれば入ることできるが、門番に訪問先と滞在理由、滞在時間を告げなければならない。当然、ライリーに会うためには事前に面会申請を出さねば会うことは出来ない。そして面会の申請をしたところで、必要と認められなければ会うことすら出来ないのが王太子という相手である。
マルヴィナはその制度を知ってはいるが、使ったことはなかった。王太子妃教育で定期的に王宮へは行っていたし、ライリーは定期的に婚約者候補たちと茶会の時間も取っていた――その回数は多少、候補者間で差があったがライリー以外は知らない。そしてライリーから呼ばれるのであれば、自分から面会申請を出す必要はなかった。
その事実がすっかり頭から抜けているマルヴィナはお菓子を食べながら、いつライリーに会いに行こうか、そしてどのように癒そうか、思いを巡らせる。段々と機嫌が上向いて来た彼女は、その後侍女に当たることもなくお菓子を食べ終えた。
*****
エイブラム・クラーク前公爵の葬儀を終え、母ベリンダを療養のため領地の別荘へ送り、その他一通りの後始末を終えたクライドは、無事に公爵位を継いだ。領地の仕事は大量にあって慣れないが、執事のフィリップに頼りながらどうにかこなしている。その中でクライドはようやく妹と二人きりで会う時間を確保できた。
「お兄様、いらっしゃいませ。お疲れは出ていらっしゃいませんこと?」
「リリー、出迎え有難う。大丈夫だよ、ようやく時間が取れたんだ」
いつの間にか声が出るようになっていた妹が穏やかに微笑みながら出迎えてくれる。その隣には、声が出るようになったリリアナを感極まった様子で見つめている侍女マリアンヌが立っていた。葬式を上げた際、声が出るようになったことを知った使用人たちが涙ながらに喜んでくれて戸惑ったと、リリアナは教えてくれた。普通に話すようになってからだいぶ時間も経ったはずだが、未だに妹の使用人たちは小さな主の回復に喜びを感じているらしい。
妹が住む王都近郊の屋敷をクライドが訪れたのは、今回で数度目だった。彼はもっと頻繁に訪れたいとは常々思っていたものの、他でもない母によって阻止されていた。これまで訪れた時も、心のどこかで父母のことが気に掛かり、落ち着いて滞在したことがない。妹の声が出るようになってからは初めての訪問だ。早々に様子を見に来たいと思っていたが、葬儀の準備や執務等で忙殺されて余裕がなかった。
改めて周囲を見回すと、何度か見たことがあるはずの屋敷の中には物が少ないことに気が付いた。飾りつけは必要最小限で質素だが、寂しい感じはない。庭に咲いていたらしい花々が至る所に飾られており、王都の公爵邸やフォティア領の屋敷とは違い美術品はほとんど見られない。恐らく亡くなった叔父が飾っていたのだろう一族の肖像画と風景画が一部に飾られている程度である。
応接間に通されたクライドは、自分の向かい側に座った妹に目をやった。これまで、妹と会う時は殆どが外出時だった。当然、飾り立てた姿ばかりを見ている。視察の時もライリーが居たため正装に近い姿だった。そのため来客用に整えているとはいえ、普段纏う簡素な衣装のリリアナを目にするのは久しぶりだ。
「屋敷はリリーが飾り付けを考えているの?」
「わたくしが許可を出しておりますが、基本的には使用人たちが考えて飾り付けてくれておりますわ」
「――なるほど」
だから質素かつ素朴な感じなのだとクライドは納得した。使用人たちは好きに飾り付けて良いと言われても困るに違いない。マリアンヌは辺境伯の娘だからある程度は豪奢な装飾に慣れているだろうが、そもそも彼女の生家であるケニス辺境伯家も質実剛健の気風である。豪華絢爛には程遠い。
そこまで考えて、ふとクライドは妹がそれほど宝飾品やドレスを好んで買っている様子が見られないことに思い至った。実際に今着ている服装も、リリアナの魅力を引き立ててはいるが地味なものだ。宝飾品も必要最低限で、その内いくつかは魔道具にも見える。
「もしかしてリリーは、飾り立てることが好きじゃないのかな?」
クライドの問いに、リリアナはきょとんと首を傾げる。クライドの質問の意図が分からなかったらしい。クライドは、妹の年相応の表情を目にして小さく笑った。
「今もそうだけど、基本的に宝飾品も必要最小限しか身に付けていないと思ったんだ」
そのブレスレットも魔道具だろう、と問われてリリアナは自分の腕に目を落とす。
「そうですわね。マリアンヌたちがわたくしに似合っているものを良く分かっておりますから」
自分で選ぶ必要もあまりないのだと言う。クライドは反応に困って僅かに眉根を寄せたが、それも一瞬だった。ただ「そうか」と頷く。リリアナはクライドの問いに僅かに戸惑いを見せたが、すぐに元通りの微笑を浮かべて話題を変えた。
「それで、お兄様。お忙しい中足をお運びくださったのですから、わたくしに何か御用があったのではございませんか?」
「え? ああ、うん。そうなんだ」
クライドは頷く。
リリアナが十歳の誕生日を迎えた日――その日、二人の父は死んだ。公には夫婦喧嘩の後、精神的に不安定になった妻ベリンダの魔力暴走を止められずに父が亡くなったということになっている。だが実際には、ベリンダを殺そうとし、更にリリアナに隷属の呪いを掛けようとしたエイブラムを、リリアナが殺害した。その時は時間も余裕もなかったから不問にしたが、妹はクライドに声が出ることを伏せていた。一体いつから声が出るようになっていたのかも、クライドは知らない。他にも幾つか不可解な点があった。疑問を明らかにするために、クライドはリリアナと二人きりの時間を持つため屋敷を訪れた。
「色々訊きたいことがあってね。リリー」
クライドが尋ねようとしている内容を予測しているのか、それとも大したことではないと思っているのか、リリアナは表情が動かない。そういえば妹の微笑以外の表情を見たことがないと、クライドは今更ながらに気が付いた。
「なんでございましょう」
そして年齢の割には大人びたこの言葉遣いも、数年前からずっと変わらない。自分の感情を抑えつけるような、そんな口調。王太子妃教育の成果と言えば納得できるが、生粋の王族であるライリー以上にリリアナは王太子妃らしい振る舞いを身に付けている。ふと湧いた違和感には蓋をして、クライドは口を開いた。
「声のことだよ。一体いつから、声が出るようになっていたの?」
六歳の時は喋れなかったよね、と尋ねるクライドにリリアナは頷く。そして心の内を曝け出さない微笑を浮かべたまま、リリアナはおっとりと口を開いた。
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