22. 雪辱と反攻 4
※グロテスクな表現を含みます。
エイブラムが禁呪を唱え始める。徐々にリリアナの体からは力が抜けていく。魔力も吸い取られ、意識が朦朧とし始める。隷属の呪いなど、掛けられてやる義理もない――そしてエアルドレッド公爵を、リリアナを初めて認めてくれた人の命を奪った父親に、掛けてやる温情もない。そしてそれは、彼女の中に僅かに残されていた“捕縛”という選択肢が完全に消えた瞬間でもあった。
禁呪に魔力を注ぐ父は、わずかな空気の揺らぎに気が付かない。エイブラムが呪文を唱え終わるより前に、脂汗を流しながらにっこりと笑んだリリアナは掠れる声で囁きかけた。
「――――さようなら、お父様」
気付かれないように組んでいた術式が、完成する。
呪文を紡ぎ続けていたエイブラムは違和感を覚えたのか、異様に光る瞳をリリアナに向けた。その瞬間不自然に声を途切らせる。彼は口を開閉させ目を見開いた。
彼の体を金色に光る魔術の蔦が拘束し、魔力を吸収する。そして彼が立つ床と真上の天井に、緑色の魔術陣が現れた。
エイブラムは体を痙攣させた。堪え切れないように震える手で口を抑える。指の隙間からごぶりと血が零れ出た。
「ッ、ぅ――――――ぁあ、」
声にならない呻きが喉の奥から血と共に吐き出される。
「【鎌風】」
巻き起こった風は刃となり、公爵の胸から腹にかけてざっくり傷つけた。滲み出る血は仕立ての良い服を真っ赤に染め上げる。公爵の見開いた両眼から赤い筋が伝い、彼は膝をついた。そのまま前のめりになって絨毯に倒れ込む。リリアナは何の感情も浮かべず、黙って父親が物言わぬ骸になるのを眺めていた。やがてエイブラムはぴくりとも動かなくなる。死んだことを確認して、リリアナは死者を弔うための動作を行った。
「【浄化】」
念のために、軽くエイブラムの遺体を浄化する。何の反応もなく、リリアナはほっと安堵の息を吐いた。どうやら父の体は普通の人間だったらしい。無詠唱で高位の火魔術を使っていた為、何らかの禁術を己の体に施していたのではないかと疑ったのだが、杞憂だったようだ。
もしかしたら、リリアナの魔術に対する適性の高さは父親から遺伝していたのだろうか。
そんなことを考えていたリリアナは、自分の名前を呼ぶクライドの声に顔を上げた。
「リリー、何でここに――? それに、声」
リリアナは王都の公爵邸に居るはずがない。クライドは妹の居場所を把握している。リリアナは困ったように眉根を寄せた。
突然のことで、誤魔化すための根回しはすっかり頭から消え去っていた。オブシディアンに話を聞いた途端沸き起こった嫌な予感に突き動かされたのは事実だ。まさか転移の術を転移陣なしで使えるとはさすがに明かせない。転移陣を無くしたと言えば、今度は帰宅のために馬車を出さねばならず面倒だ。とはいえ、乗って来た馬車もない。
どうしようかと考えていると、ずっと床に座り込んで茫然自失の体だったベリンダがようやく我に返った。震えながらも、ぎょろりと目が動く。クライドとリリアナは同時にベリンダへと視線を移した。だが、ベリンダの顔は恐怖に引き攣っている。
彼女は口の端から泡を零しながらリリアナを見て金切声を上げた。
「化け物!」
リリアナは一瞬固まる。これまでも幾度となく母には化け物と罵られて来た。今回はベリンダの命を守ったはずだが、彼女にとってはリリアナの為すこと全てが恐怖の対象なのだろう。
「この人殺し、人殺し! お前のせいで、お前のせいであたくしのお父様とお母様は――ッ!!」
「母上、お止めください!」
髪を振り乱し狂ったように叫ぶベリンダをクライドが制止する。必死で抑えつけるが、ベリンダの目にクライドは映っていなかった。
リリアナは憐れみの目をベリンダに向ける。母はもう正気を保ってはいなかった。長年の心労に加え、死の恐怖に直面した。あの父に対峙するには、彼女の神経は細すぎたのだろう。
綺麗に結い上げていた髪は解れ、頬はこけている。ぎょろついた目は恐怖を移し、身じろぐ体はできるだけリリアナから距離を取ろうと足掻く。小さく嘆息して、リリアナはベリンダに魔術を掛ける。途端にベリンダはすとんと眠った。クライドは慌てて腕の中の母を確かめる。穏やかな寝息を確認したクライドは安堵の息を漏らした。
「リリー、母上を眠らせたの?」
「――ええ、お兄様。ただのおまじないですけれど」
精神に干渉する魔術や呪術の類ではないと付け加える。単に副交感神経を優位にしただけだが、昂ったベリンダには効果的だった。
クライドはリリアナを見上げる。妹が自分と母の命を護ってくれたと彼は理解している。それも戦った相手は実の父だ。どれほど冷遇されていようが、親子の会話がなかろうが、血の繋がった人をその手で殺した。その恐怖と悲哀、そして絶望を、クライドは察していた。しかも護った相手から悪しざまに罵られた衝撃は計り知れない。リリアナはそういった感情を乗り越えて、自分の手を汚してまで自分たちを守ることを選んだ。そう思うからこそクライドはリリアナを責められなかった。
「ごめん、本当は僕がするべきだった」
忸怩たる気持ちでクライドは謝罪する。母を護ることも妹を庇うことも、兄である自分の役割だと思っていた。だが実際には、ただ部屋の隅で為す術もなく立ち尽くしていただけ。最初にベリンダを護るため放った渾身の魔術が消滅させられた瞬間に、クライドは父に勝てないと悟っていた。
勿論、彼も自分が知らない内に魔術を使えるようになった妹に、それも想像以上の強さを身に付けていた妹に思うところがないわけではない。それでも、母のように妹を糾弾する気にはどうしてもなれなかった。その双眸には、小刻みに震える妹の小さな手が映っている。
「お気になさらないでくださいな。お父様の魔術は並大抵ではございませんでした。お兄様がいらっしゃると思えばこそ、わたくしも安心してお父様に対峙することができたのですから」
一方のリリアナは、悲しみと謝罪に揺らぐ兄の瞳を静かに見返し微笑を浮かべた。その表情が一層儚さを演出していることに、本人だけが気が付いていない。
「お母様はどこか穏やかなところで療養なさった方が宜しいでしょう。ここは――そしてフォティア領の屋敷は、お父様の気配が濃すぎます」
「――うん、そうだね」
無意識に震える体とは裏腹に、リリアナは落ち着いた声音で淡々と告げる。堪え切れずに唇を引き結び、クライドは頷いた。
「リリー、ごめん」
「お兄様のせいではございませんわ」
タイミングが悪かった。ベリンダが激昂し父に詰め寄った為に、彼女は夫に殺されかけた。だが一番悪いのは間違いなくクラーク公爵だ。彼は必要に迫られたと嘯いたが、他に方法はあったはずだ。
少なくとも五人、彼は人を殺している。ベリンダの父母とエイブラムの父に関しては証拠を探る必要があるが、父の反応を見る限り間違いないだろうと思えた。
「わたくしこそ、申し訳ありません、お兄様」
「何で謝るの、リリー」
「実の父に手を下すことは大罪ですわ。本当でしたら、神殿に裁きを仰ぎ公明正大に罪を問うべきでございました」
リリアナは謝罪するが、クライドは苦笑を漏らすだけだった。
だが、リリアナの心にあった申し訳なさはそれだけではない。ゲームの中で二人の母は早くに死んだが、父は成人後もしばらくは生きていた。そのためクライドはある程度経験を経てから家督を継ぐことができたのだ。だが今生では、早々にリリアナが父の命を終わらせた。クライドは成人を間近に控えているから公爵位を継ぐことも問題はない。ただ若き当主にとって、三大公爵家の一つであるクラーク公爵領を治めることは負担が大きいに違いない。
「リリーは悪いことはしていないよ。ただ母上と僕を護ってくれただけだ。それに、最後のあれは――隷属の呪いだっただろう。正当防衛だよ」
それに全てを公にすることが必ずしも正しいとは限らないしね、とクライドはわずかに目を伏せて呟いた。禁術である隷属の呪いにクライドが気が付いたのは、三大公爵家の家督を継ぐ者として教育を受けて来たからだろう。もしくは王太子の未来の側近として身に付けた知識に含まれていたのかもしれない。
クライドはベリンダをソファーに寝かせて骸となった父に近づく。
「父は――何をなさっていたのかその全てを僕は知らない。エアルドレッド公爵の暗殺は――リリー、君の様子だったら確証があるんだね?」
「ええ」
「そう。それなら後は、母方の祖父母とロドニーお祖父様の死因を再調査かな。何かを企んでいたことは確かだから、もし公にしてしまえば重要な情報が協力者によって握り潰されるかもしれない」
リリアナは頷く。その可能性は確かに存在していた。最悪のシナリオは、父親を捕縛した上で彼が無罪放免となり、そして父がリリアナとクライドの監視を強めることだった。躊躇いなく娘に隷属の呪文を使おうとする男だ。もしかしたら、ゲームのリリアナが破滅の道を辿った原因の一つはエイブラムだったのかもしれない。
クライドは執務室を見回すと再びしゃがみ込んでエイブラムの体を注意深く見つめる。そして深く考えながら、ぽつりぽつりと一つの筋書きを立て始めた。
「父上は――精神的に参った母と争いになった。母が魔力暴走を起こして止めようとしたが、運悪く亡くなった」
遺体の様子を確認したクライドの言葉に、リリアナは瞠目する。クライドの発言はリリアナの犯した罪を隠蔽するものだ。これまでの妹に対するクライドの態度を見れば、リリアナを庇ってくれるかもしれないとは思っていた。だが最終的にリリアナを断罪したゲームのクライドの姿が脳裏にちらつき、捕縛される可能性も僅かに考えていた。勿論その場合は遁走する気ではあったが、事故で片付けてくれるのならばその方がはるかに良い。
無言で自分を見つめるリリアナに視線をやり、クライドは困ったように頬を掻く。
「リリーと母上は風魔術が得意だろう。親子だから魔力の質も似ている。父上から感じ取られる魔力の残滓も風魔術のものだ。万が一捜査の手が入っても、誤魔化せるはずだよ」
「お任せ致しますわ」
上手く取り計らってくれるのであれば、リリアナに拒否する道理はない。素直に頷いた妹を見てクライドは「これくらいはね」と苦笑した。
「身を挺して護ってくれた妹を断罪するような兄にはなりたくないし」
何と言って良いのか分からずリリアナは黙り込む。クライドも返答を求めていたわけではないらしく、淡々と執務室の惨状を確認した。そして報告する内容と辻褄が合うことを確認したところでリリアナに顔を向ける。
「リリー、君がこの屋敷に来たことを知る者は?」
「お父様とお母様、そしてお兄様だけですわ」
「屋敷の方は? まさかとは思うけど、使用人にも言わずに出て来たの?」
屋敷の方、とは王都近郊にあるリリアナが普段暮らしている屋敷のことだ。すぐに察したリリアナは首を振った。
「ええ、おりません」
「――それなら、誤魔化せるかな」
一瞬複雑な表情をしたクライドだったが、すぐに頷いた。ベリンダは精神の病を患ったということにするため、リリアナを見たと訴えても病の症状だと周囲を納得させられる。そして正気のクライドはリリアナは居なかったと証言する。
ベリンダが部屋に乱入してから随分と時間が経っているから、大丈夫だろうかと侍従たちも心配していることだろう。クライドはリリアナが公爵邸に来た手段を不思議に思いながらも、それについて問い質すのは今ではないと判断した。
「本当は送りたいんだけど――帰れる?」
「ええ、大丈夫ですわ。転移陣を持っておりますから」
クライドの思惑を理解したリリアナは、見せろと言われないことを見越して何気なく嘘を吐く。案の定、クライドは「良かった」とだけ言って微笑んだ。
「それなら、リリー。君はずっと屋敷に居てここには来なかった。もし誰かに何か訊かれても、そう答えて欲しい」
「ええ、分かりましたわ」
「それじゃあね。また、後日話をしよう」
クライドの言葉にリリアナは微笑を返す。恐らくクライドの頭の中は疑問で一杯になっているはずだった。今後の面倒を考えれば、いっそクライドの記憶を奪ってしまいたいとすら思う。だが他人の記憶を奪う術は禁術でありおいそれとは使えない。クライドの体に悪影響を及ぼす危険性もある。だが、幸いにもこの場では追及されないらしい。それならば対策を練る時間はあるだろうと、リリアナは内心で安堵した。
リリアナは部屋の隅に寄って隠しポケットから転移陣を取り出す振りをする。体の影に隠れてクライドの死角に転移陣を置き、作動させたように見せかけた。勿論、実際に使うのは転移陣ではなく転移の術だ。すぐにリリアナの姿は掻き消える。
一方、執務室に残されたクライドは妹が姿を消したのを見送って、深々と溜息を吐いた。
とんでもない夜になった――そう、思う。父が妹の手で命を落としたこともショックだったし、その前に父が母を殺そうとしたことも衝撃が大きかった。父がエアルドレッド公爵を暗殺し、そして恐らく母方の祖父母とロドニーを殺害したらしいことも未だに本当のことだとは思えない。その一方で、父にはまだ余罪があるのだろうという予感がする。
未だに夢を見ているのではないかという心境のまま、クライドは次に自分が取るべき手段をもう一度なぞった。頭が麻痺していて自分の感情を整理する余裕はないが、これから一世一代の大芝居を披露しなければならない。観客は公爵家の侍従たちと医師、そして魔導士だ。
気鬱な溜息を堪えてクライドは己を叱咤する。自分の顔が蒼白であることを祈りながら、彼は部屋の扉を開け放ち――そして彼に出来る精一杯の悲痛な声で、侍従の名を呼んだ。
「誰か、誰か来てくれ! 父上が――ッ!」
「クライド様!?」
公爵家は一気に慌ただしくなる。使用人たちは、あらゆるところから血を垂れ流し事切れている主人を前に、愕然と立ち尽くした。
本年も相変わりませずご厚誼のほど宜しくお願い致します。









